第七章 ウーマン・ミーツ・ボーイ

「……来ますかね」

 そわそわと事務所のドアを見つめながら龍一が呟いた。

「来るわよ、約束したんでしょ」

 円が何の迷いもなくそう言い切る。煙草に火をつけた。

「あの子は、約束を破ることだけはしないのよ」

 右手で持った煙草を見つめながら、円が微笑んだ。彼女の右手とそこに握られたものが指し示す意味を考えて、龍一は頷いた。

 円の隣に座った直純は憮然とした表情で、

「龍一君」

 龍一の名前を呼んだ。

「……はいっ?」

 直純に名前を呼ばれたことを、ゆっくり時間をかけて認識すると、龍一は少しばかりすっとんきょうな声を上げて彼を見た。

 直純は龍一には視線を合わさずに、目の前の清澄を見ながら言う。怒ったような視線を向けられて、清澄は困惑した表情を浮かべ、肩をすくめた。

「ありがとう」

 告げる。

「……どういう風の吹き回しですか?」 

 悩んだ末に龍一はそう問いかけた。

「龍一君?」

 ぴくり、と眉を引き攣らせて直純が呟く。

「だ、だって、直純さんが俺の名前を呼ぶのだってありえないのに、お礼を言うなんて……」

 龍一の台詞に、まぁそうだよなぁと清澄は呟き、円は爆笑した。

「……君は人が素直にお礼を言ったら言ったで、まったく」

 ひくひく、とこめかみを引き攣らせながら直純は言い放った。

「沙耶のことだよ。無事に連れて帰って来たこと」

 龍一は直純の横顔をじっと見る。不愉快そうに唇をかみながらも、直純は彼にお礼の言葉を告げていた。

「……呪い殺されたくないんで」

 龍一は直純から視線を逸らし、窓の方を見ながらシニカルに笑う。

「その前に憤死するから心配はいらないんじゃなかったか?」

 直純が口元を皮肉っぽくゆがめ、言った。

 その言葉に龍一は、くっくと笑い、視線を直純へ向ける。

一拍置いたあと、同じように笑いながら、直純も龍一へ視線を向ける。

初めて、二人の視線と視線がぶつかりあい、にやりと、お互いに笑いあった。

「なんか二人の間に芽生えたっぽいんですけど」

 清澄がずれた眼鏡を直しながら呟いた。

「男ってわっけわかんないわねー」

 どうでもよさそうに、煙草をくわえたまま円が、それに呟き返した。


 こつ、こつ、

 階段を上るかすかな足音。それを聞きつけ、龍一は扉を見つめた。

 こつ、こつ、

 少し軋む古びた階段の音。事務所にいる全員が黙って扉を見つめた。

 ぎゅ、と円は灰皿に煙草を押し付ける。

 こつ、

 足音は事務所の前で止まった。

 ぎぃ、っと音を立ててドアがゆっくりと開く。

「おはよ」

 円が何の感慨も込めずに告げる。

「おはよう」

 直純は微笑む。

「おはよう。仕事、溜まってるんだけど」

 ひらひらと書類を動かしながら清澄が告げた。

「おはようございます」

 悪戯が成功した子どもが、共犯者に向けるような笑みを浮かべて、龍一は告げた。

小さくドアをあけ、少しだけ顔をのぞかせていた沙耶は彼らの顔を順番に見回し、視線を一度自分の足元に落とす。彼らは黙って視線を受け止めた。

一度息を大きく吸い込み、少しだけあけたドアを大きく開いた。そこから室内へ足を一歩、大きく踏み込み、顔をあげて告げた。

眉を下げて、少し照れくさそうにはにかみながらも。

「おはようございます」

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