第一章 ボーイ・ミーツ・ウーマン

 夕暮れ時の教室。女子高生四人が机を囲んで座っている。他には誰もいない。

 小声で声を揃え、唱える。

「こっくりさん、こっくりさん、鳥居を潜ってお越しください」

 こっくりさんだって占いの一種。四人で結託してなんとなくやってみることになった。半信半疑で指先の十円玉を見つめる。

 遠くの方、グラウンドで野球部が練習している声がする。


 こつこつと、静かな廊下に足音が響く。廊下を歩いていた男子生徒は、二の四とプレートがある教室の前で足を止めた。課題があるというのにノートを忘れた自分のうかつさを悔やみ、半ば呪いながら、いつも通り扉を開ける。

 八つの瞳がいっせいに彼に向けられた。

「えっと? ごめん、もしかして、……入っちゃダメだった?」

 扉を開けた男子生徒は困惑を顔に浮かべ、ドアをあけた体勢のまま、女子四人をみる。

「榊原君……。そういうわけではないけど」

 一人の子がそういって、やはり困ったように笑おうとして、

「え?」

 男子生徒から視線を手元の十円玉に移す。

「うごいて、る?」

 かたかた、と音を立てて十円玉が揺れている。

 押さえていた人差し指に軽い圧力を感じて、彼女は思わず手を離した。同じようにして、他の三人も手を離し、怖いものを見るかのように十円玉を見つめる。

 ゆっくりと、それは宙に浮かび始めた。

「もしもーし」

 廊下のほうからでは、窓際にいる彼女達の様子がよく見えず、男子生徒は幾分砕けた調子で声をかける。

「忘れ物とりに来ただけだから、すぐ帰るから」

 そういって、一歩教室に足を踏み入れたとき、その十円玉は狙いたがわず彼にめがけて飛んでいった。

「榊原君っ!」

「っ!」

 事態が理解できないながらも、反射的に彼は両腕を顔の前で庇うように組み、

 そして……。


「被害者、榊原龍一。性別、男」

 片手に持ったバインダーに挟んだ資料の内容を口の中だけで呟きながら、一人の女性が病院の廊下を歩いていた。

時々、看護士や入院患者とすれ違うが、白衣を着込んだ彼女を誰も気にはかけない。白衣の上で長い黒い髪が揺れた。

「十七歳、都立瀧沢高等学校二年。クラスメイトがこっくりさんをやっている現場に入り込み、」

 一つの部屋の前で立ち止まり、ちらりと部屋の番号を確認するとノックもせずにドアを開けて、中へ入り込んだ。後ろ手でにドアを閉める、

「現在、意識不明」

 資料に書かれていた言葉を思い出しながら、腕を組みベッドの上の少年、榊原龍一をみる。

彼は本当に、ただ眠っているようだった。

 短い黒髪に、長めのまつげ。少しだけ開いた口元。あどけない、幼いともいえる寝顔。

 かわいそうに、と彼女は思う。こっくりさんに憑かれるなんていう経験、今日日そうそうないんじゃないの? そりゃぁ、医者もさじを投げるわよね。突然倒れて意識不明、外傷もなしじゃ。

 そこまで考えて彼女は軽く瞳を閉じた。


「お願いします!」

 廊下で中年の女性が叫ぶ。

 すがりつくようにして、医者に向かって

「お願いします、龍一を助けてください、お願いします」

 医者も困った様子でそんな女性を見ていた。


 先ほど見た光景を思い出し、彼女は軽く、どこか皮肉っぽく唇をゆがめた。。

 ベッドの脇まで歩いていくと、龍一の髪を軽く撫でる。

「貴方は、倖せ者ね。母親に愛されて」

 唇の角度を、少しだけ優しげに緩める。

「もう少し、待っていてくださいね」

 そういってもう一度微笑むと、そのまま病室を後にした。


 草木も眠りにつくという、深夜。都立瀧沢高等学校、と書かれた門を彼女は見つめる。またここに来るなんて思わなかった、と小さくため息をついた。

「沙耶、そんなにいや?」

 隣に立った青年・佐野清澄の言葉に、彼女・大道寺沙耶は皮肉っぽく唇を歪めた。

「もし、巫女姫様なんて言う変な渾名をつけられて三年間、畏怖と嫌悪の視線で見つめられて、おまけに恋人がバスケ部のエースなんて言っちゃって下手にもてたからってそのファンからの嫌がらせを受けて、もう散々な高校生活だったのに、その母校へ足を踏み入れたいなんて思う人がいたら、是非お友達になりたいわ」

吐き捨てる様に告げる。

風が吹き、先ほどの白衣の変わりに着ている、白いロングコートの裾を揺らした。

「う、……ごめん」

 高校時代からの知り合いの彼はその状況を良く知っている。だからって彼はそれに関与していたわけではないから謝られても困る、と何回も言ったはずなのに。すぐに謝るのは彼の悪い癖だ。

「別に、いいんだけどね。もう過去の話だし」

 借りてきた門のかぎをあけながら言う。

「悪いことばかりじゃなかったし……」

 そういって軽く目を閉じる。

「さーや」

 へらへらと、だけどどこか安心できる笑顔で笑う、かつての恋人の顔が浮かんだ。

「それに」

 門をあけると、足を進めながら言った。

「あんなふうに取り乱した母親を見たら、榊原龍一君だっけ? 彼を救わないわけにはいかないでしょう。他にも被害者が出ないとは限らないし」

 先刻の映像が頭から離れない。「助けてください」何度も言っていた。あんな母親がいるなんて、本当に彼は倖せものだ。そう、思った。

「まあ、息子が原因不明で倒れて意識戻らなかったら、取り乱しもするよね」

 足音が響く、誰もいない夜の学校を気味悪そうに歩きながら清澄が言う。

「それは、そうなんだけど……」

 そこまで沙耶は言って、後ろを振り向き、

「清澄、避けたほうが……」

 言った瞬間に、派手に清澄は前にこけた。

「……ごめん、遅かった」

 一応謝罪してから、後ろからやってきて清澄に蹴りをいれた人物、いや幽霊を見る。

『よぉ! 沙耶の姉ちゃん! 久しぶりだなぁぁ!』

 外見は小学生ぐらいで、でもこの学校の指定の制服を来た幽霊は片手をあげると陽気に挨拶した。

「久しぶり、ちぃちゃん」

 沙耶も彼女にしては珍しく口元に軽い笑みを浮かべて答えた。

「ちぃちゃんっ!?」

 清澄はがばっと起き上がると、辺りを見回す。

「どこっ!? どこにいるのっ!」

 そう叫ぶ清澄の後ろで、ちぃちゃんはにやにや笑っている。

『なんだ、相変わらず清は見えないのか、つまらないなぁ』

 なんていいながら楽しそうに、おろおろする清澄の頭に指を立てて『鬼』なんて言って遊んでいる。

 沙耶達が高校生だったときには、もうすでに学校にいついていた、このちぃという幽霊は、悪戯が大好きな悪ガキで、この学校にある怪談の類の九割は彼の仕業だったりする。今回は残りの一割だったが。

『ところで、沙耶の姉ちゃんはあれを片づけにきてくれたんだろ?』

 清澄の後ろから片手をいれて、顔面に指先をだすという芸当をやってみせながらちいは尋ねる。

「ええ、それがこっくりさんのことならば」

『ああ、あれこっくりさんをやろうとしたんだ。へぇ。とにかく、あれがいると邪魔だからはやくどうにかしてくれよ。二年四組な』

「はいはい」

 頷くと、一人置いてきぼりを食っていた清澄をみる。

 なんかもう、ちぃの足が頭から生えていたりしてすごい状況になっているが教えてあげないほうがいいだろう。見えないことはいいことだ。

「清澄はここにいて」

「えっ!」

 ぐわっ、と音がつきそうな勢いで清澄は沙耶を見る。

「危ないから。ちぃちゃん、よろしく」

『了解~』

「ちょ! 沙耶!」

 大きな声で清澄は言うが、沙耶は気にもとめないで廊下を歩いていく。

「まてよ、頼むからこんな悪戯好きの幽霊なんかと二人っきりで残さないでくれっ!」

 彼の声は廊下に響き渡り、その声に彼は気味悪そうに辺りを見回した。

『まぁ、取って喰ったりしないからさ。安心しろよ』

 元気付けるためにちぃがそう言っても、清澄にはもちろん、聞こえもしなかった。


 響くのは自分の靴音だけ。ああ、ここは本当に変わっていない。廊下を歩きながら沙耶は思う。

 藁半紙の掲示物が貼られた薄汚れた廊下と、人がいることをあらわすロッカーとそれでいて無機質な教室と。

 ああ、もう、本当に変わっていない。

 大嫌いな思い出のはずなのに、やっぱり脳はきちんと覚えていて、足はしっかりと二年四組へ向かっている。

 二の四。プレートのついた教室の前で足を止める。

 一年間過ごした、強いて言えば三年間の中で楽しかった部類に入る日々を過ごした教室。

でも、楽しかった思い出なんて過ぎ去ってしまえば苦痛以外の何者でもない。

 一つ息を吸い込んで、勢いよくドアを開け放った。

 がらり、

「こんにちは」

 小首を傾げて、無表情に告げる。

 ソレは教室の真中で蹲っていた。

「聞いていないかもしれないけど、一応自己紹介をしておきましょう。それがうちの事務所のスタンスだから」

 後ろ手でドアを閉めながら、早口で告げる。

「あたしの名前は大道寺沙耶。調律事務所の事務員で、一海の実質、養子ね。だから、もしあなたがこのままここから立ち去ってくれるならばあなたに危害は加えないけど、まぁ無理か」

 そういいながら、飛びかかってきたソレから避けるためにしゃがみこむ。

「本体はこの教室に残しておいて、一部分を被害者に憑かせるなんてことできるからてっきり高度な知能でも持っているものだと思ってたけど、やっぱりこっくりさんはただの狐なのかしら?」

 この教室という空間が不愉快すぎてしょうがない。だからこんなに、やけに饒舌なのだ。自分でわかっていてもどうしようもないけれども。

 たっと駆け出して、とりだしたお札をソレ相手に伸ばす。ばちっと、まるで静電気のような音がして、慌てて戻る。

「お札だけでいけるかと思ったけど、やっぱり無理か」

 肩をすくめ、口の中で祝詞を唱える。

 もう一度駆け出し、

「っ!」

 足を止めた。

 目の前にある机の表面に「巫女姫様」と彫ってある。それはどうみても、自分の渾名だったもので……。吐き気さえして、机を思いっきり蹴飛ばした。がんっ、と思ったより大きい音がした。

 気が散ってしょうがない。

 その言葉の横にある二文字なんて最初から無かったことにした。いくら彫り方が浅いからって、暴言が彫ってある机なんてさっさと破棄しなさいよと、心の中で悪態をつく。

 そうしている間にも間合いをとりなおし、お札を握りなおす。

 どうってことない相手なのにこんなに手間取るのはやっぱりこの環境がいけない。

 強いて言えば楽しかった思い出のある教室は、だからこそ、失ったものを実感させてとても、つらい。集中しなければならないのに、目に映るもの一つ一つに付随する記憶がよみがえる。

 一瞬、眩暈さえしたような気がした。

 ふらついて、慌てて片手を机の上につくと、体勢を立て直し走り出そうとして、目の前にこっくりさんのいないことに気づいた。

「っ!」

 慌てて振り返り、持っていた札を前に出しても、目の前にはソレがいて、

「いやぁっ!」

 思わずぎゅっと目を瞑った。


「沙耶?」

『! 沙耶の姉ちゃん』

 顔を上げたのは清澄もちぃも同時だった。

 かすかに聞こえた悲鳴のようなもの。それが何を意味するのか考える前に清澄は走り出していた。

『あ、清! ちょっと待て、ここで待ってろって言われたじゃないかってああもう声が聞こえないってすっげぇ不便』

 わーわー怒鳴りながらちぃもその後を追う。


「沙耶っ!」

 二の四のプレートのある教室の扉を開けようとして、

 がらっ、と先に扉が開いた。

「……来るなって行ったでしょ。ちぃちゃんも何してるのよ」

 扉を開けて、どこか青ざめた顔をした沙耶が出てきた。

「沙耶、大丈夫なのかっ!」

『そうそう! 悲鳴が聞こえたけど』

「別に、平気」

 扉に寄りかかるようにして立ち、沙耶は言う。

「アレはあたしに憑こうとして……、そして結果的には喰われてしまったわ」

 言われたことの意味を理解して、清澄は押し黙る。なんて声をかければいいのか、わからない。

「……沙耶、それじゃぁ」

 かろうじて口を開いても、自分が何を言いたいのかわからなくて、また黙る。

「つまり、龍が活性化してしまったということ。ああ、これでまた一つあたしは忘れるのね」

 自嘲気味で投げやりにそういうと、沙耶は歩き出す。足取りはふらついていておぼつかない。

「沙耶」

『姉ちゃん』

 慌てて駆け寄った清澄が支えるようにして横に立ち、ちいは正面から顔を覗き込んだ。

『少し休んでけよ。全部終わったなら無理に今帰らなくても』

「いいの、帰るの」

『だけど、いっつもそうやって無理して倒れていたじゃないか』

「あれは昔の話でしょう? あたしはもう子どもじゃないわ」

 ちぃの声が聞こえない清澄にも二人が何を言い合っているのか、大体の想像は出来た。

「沙耶、せめて円姉に迎えにきてもらうとかした方が」

「いいってば」

「でも」

『お前、意地張りすぎだぞ。そんなんだから賢治だって』

「黙りなさいっ!!」

 大声で怒鳴る。ちぃも清澄もぎょっとしたように押し黙り、声の主を見る。

「何で今ここで賢が出てくるの? 関係ないでしょ、あんなやつ、もう」

 吐き捨てるようにそういうと、清澄の手を振り払って歩き出した。

「……堂本の話なんか、したのかよ」

 見えないちぃに向かって非難がましく清澄は呟く。

 ちぃはそんな非難の声なんて無視した。向こうが聞こえないのに、こちらだけがそれに従うなんて不公平だ。

『関係ないっておまえなぁ、あれほどお前を心配してくれる奴、この学校には他にいなかっただろう? 仮にもお前の恋人だったのにその言い草はないだろうがっ!』

「あたしに指図しないでっ!」

 先ほどよりも大きな声で怒鳴る。

 そのまま早口で続けた。

「賢はあたしから離れていった、もう関係ないじゃないっ。嫌いになったわけじゃないけど、だってしょうがないんだもの、あいつがあたしを……」

 そこまで言って、口元に手をやる。自分でもなにが言いたいのかわからなくなってしまった。

「……帰る」

 不機嫌そうに呟くと、すたすた歩き出す。

「ちょ、沙耶」

 慌てて清澄が追いかけ、

『……また来いよ』

 後ろでちぃがぼそりと呟いた。

「嫌よ、あたしは学校なんて大嫌いなの」

 それを聞いて沙耶は即答し、

「でも」

 振り返って、かすかに微笑みながら続けた。

「ちぃちゃんに会いに来るだけなら考えてもいいかもね」

 そう言うとちぃは、本当に嬉しそうに笑う。

 ああ、だって忘れられないのだ。初めてあった時、自分のことが見えるのかと驚いた顔で笑った、この幽霊の顔が。

 例え、本人にその意図がなかったとしても無視されるという苦痛は理解できるつもりで、心置きなく話せる相手というのがどんなに大切なのかもわかっているつもりだ。ちぃのことが見える人間は他にもいるだろうけれども、やっぱりそれでも少しは自分を特別に感じてくれていたのだろうかと思うと、素直に嬉しい。それだけは確かなこと。

 そんなことを思いながら、もう一度前を向き直ろうとして、

「あ……」

 くらりと視界が歪んだ。

「っ、沙耶!」

『沙耶の姉ちゃん!』

 叫ぶ声さえどこか遠くに聞こえて、回る視界に目を閉じて蹲った。



「別れましょう」

 そういって微笑んだ。

 目の前の少年は、困惑と悲しみの中にどこか安堵を織り交ぜた顔をして立っていた。

 ああ、これは夢なのだと理解できた。でも、理解できたところで何が変わるわけでもなくて、

「その方がお互いのためにいいわ」

 自分は本当のときと同じ言葉を言った。

「ごめんなさいね」

 そういって微笑むと、彼はあの時と同じ顔をした。泣きそうな顔を。そんな顔をこれ以上させたくなくて別れ話を切り出したのに。

 同じ夢を見るたびに、彼のことを思い出すたびに思うのだ。どうしたら、彼にあの顔をさせなくてすんだのだろうかと。

「賢……」

 名前を呼ぶと

「……うん?」

 いつものように彼は返事をした

「今まで、ありがとう」

「……こちらこそ」

「倖せに」

「沙耶も」

「ごめんなさい」

「俺の方こそ……」

「さよなら」

 そういってもう一度微笑む。

 彼は、

「ばいばい」

 そう呟いて鞄を持つと、教室を出て行く。

 自分は頬杖をついて窓の外を眺める。

「沙耶」

 ドアから一歩外にでたところで彼は名前を呼び、

「            」

 何を言ったのだろう? 消えてしまった記憶は夢の中でも空白のまま。彼が最後に何を言ったのか、思い出すことはもう、ない。

 夕焼け空で、飛行機雲が消えそうで、それがなんだかにじんで見えた。

それはまだ、鮮烈に覚えている。


 目を開けると、ぼやけた視界にとびこんできたのは見慣れた自室の天井だった。

「おそよう」

 不機嫌そうに呟かれた声に視線を動かすと、不機嫌そうな顔をした女性がベッドの脇に腰掛けていた。

「……円姉?」

 名前を呼ぶ声が掠れた。

「気分は?」

 一海円は視線をこちらに向けると、左手で煙草を持ちながら問いかけてくる。

「最低」

 簡潔に沙耶は答え、それから

「その原因の一つに煙草の煙があげられるわ」

 そう続けた。

 円はふんっと鼻を鳴らすと携帯用灰皿に煙草を押し込む。

「せっかく看病してたあげたのに随分な言い草ね。誰があんたをここまで運んだと思っているの?」

 立ち上がりながらそう言い、沙耶の顔を覗き込む。そのままごつんっと額と額を合わる。円の茶色い髪が沙耶の頬に当った。

それを少しくすぐったく感じるのは、その毛先なのか、それとも子どものころと同じように額をつける動作をする円を見たからなのかはわからない。

「熱はもうないみたいね」

 そう言うと、額を離す。そのときに小さく、

「あんまり、心配させないで頂戴」

 そう呟いたのを沙耶は聞き逃さなかった。

「……ごめんなさい」

 どんなに不機嫌そうで怒っているようにみえても、この人が本当はとても優しい人のことを知っている。多分、あたしが一番良く知っているんじゃないだろうか。

 沙耶の謝罪には直接答えないで、円は椅子にかけてあったベージュのトレンチコートと鞄をとりながら続ける。

「午前中は休んでいいから、午後になったら被害者のところに行ってアフターケアしておいて頂戴。報告書は明日でいいから。くれぐれも無理はしないように」

 早口でそう言うと、円はコートを羽織り、沙耶の返事を待たずに部屋から出て行った。

 がちゃり、ドアにカギがかかる音が部屋に響く。

「……ごめんなさい」

 閉まったドアに向かってもう一度謝ると、右手で左肩を強く握った。



「ご機嫌いかがですか?」

 そういってノックもせずに部屋に入ってきた白衣の女性を、榊原龍一は見つめた。

 昨日の深夜、龍一は意識不明の状態から突然回復した。

 母親が泣いて縋ってきて、医者は複雑そうな顔をしていた。自分は学校で突然倒れたのだと教えてもらった。まったく状況が理解できない。

 とりあえず一週間ほど様子を見るために入院となって、ぼうっとしてたところにその女性は入ってきた。

 彼女は白衣をなびかせながら、勧めてもいないのにベッド脇の椅子に腰をおろした。

 なかなか整った顔立ちをしている人だけれども、無表情で損をしているよなぁと思う。

「榊原龍一さん?」

 そんなことを思っていたときに名前を呼ばれたので、慌てて、

「はいっ!」

 元気よく返事をしてしまった。

「その様子ならば平気そうですね」

 彼女はにこりともせずにそういうと、白衣のポケットから桜色の皮製の名刺ケースを出し、名刺を一枚渡した。

「初めまして。あたしは調律事務所の調律師、大道寺沙耶です」

 その名刺を受け取り、

「調律事務所?」

 ぼそりと呟く。なんだかものすごく胡散臭い。

 調律師といえばピアノを連想するけれども、そんな人が龍一の見舞いに来る理由も、白衣を着ている理由もわからない。

「簡潔にお尋ねします。貴方は真実が知りたいですか?」

 にこりともしないまま、沙耶は淡々と話を進めて行く。

「真実?」

「ええ、貴方がどうして倒れて、どうして急に意識を回復したのかについて。もっとも、世の中には知らないほうがいいこともあります。あたしとしては聞かないことを推奨しますが」

「原因不明、じゃないんですか?」

 医師から言われた言葉を思い出しながらそう尋ねると、彼女はふんっと鼻で笑った。

 それは沙耶がこの部屋に入ってきて初めてみる感情の変化ではあったが、すぐに消えてしまい、そしてまた、あまり好ましいとは言えなかった。

「世の中に原因不明なんてことはないんですよ。原因不明ということは、原因を知りたくないからわからないまま隠してしまおう、世間一般ではあまり誉められたことではないから無いことにしてしまおうという臭いものにふたをする思考のことです。もっとも、一般論ではなく、あくまであたし個人の意見ですが」

 そういってじっと龍一を見る。どこか冷たい目に見つめられて、居心地が悪く、彼は視線をそらした。

「……それはつまり、今回のことの原因はなかったことにした方がいいことなんですか」

 蒲団を見つめたまま尋ねる。

「そういうことになりますね。少なくとも、貴方の価値観が百八十度変わってしまうと思いますよ」

 そう言い切られて、龍一は少しばかり途方にくれた。

じっとそこに答えが書いてあるわけでもないのに蒲団を見つめ、

「……俺……、僕は」

 一つ、深呼吸。息を吐き出すようにして

「やっぱり、真実が知りたいです」

 そういって顔をあげて、沙耶を見つめ返した。


 正直、沙耶は落胆していた。

 表面上はまったくそんなそぶりを見せず、まっすぐな瞳でこちらをみつめてくる榊原龍一という少年を見つめ返していたが、内心では舌打ちしたいぐらいだった。

 説明など面倒なこと本当はしたくなかったし、全てを説明し終わったあと、このまっすぐな瞳が自分にずっと向けられていることはないだろうと思うと、少し残念で悲しい気がした。

「では、説明させていただきます」

 でも、言葉は感情に邪魔されることなく淡々と事務的に、説明する言葉を紡いでいく。

「三月十日の放課後、それが貴方が倒れた日です。その日の放課後、都立瀧沢高等学校二年四組の教室で、女子生徒四人がこっくりさんを行っていました。……こっくりさんってわかりますか?」

「……鳥居を潜ってお越しくださいっていうやつですか?」

「それです。そのような顔をなさるのも無理はありません。まさか今日日こっくりさんをやる女子高生がいるなんて誰も思いませんよ」

 あまりにも龍一が、渋い顔をしているので皮肉っぽく付け加えた。

「そこへ貴方が入っていった。そして、……まぁ、有り体に申し上げますと、とり憑かれました」

 そこまで言うと沙耶は手元の資料から顔をあげる。

「ええっと、聞き間違いだったらすみません。今、とり憑かれたっておっしゃいましたか?」

 恐る恐る問いかけられた言葉に、

「はい」

 簡潔に一言だけ返す。彼は頭痛をこらえるように、片手を額にあてた。

「ですから、価値観が変わると申し上げたんです」

 龍一のその動作に、ああやっぱり彼も信じないんだなとどこか物悲しさを覚えながら沙耶は言った。

「信じるも信じないもご自由です。ですが、確かに世の中には、いわゆる超常現象というものがあって、それが少なからず日常生活に影響しているんです。つまり、それこそ臭いものですね」

 人は自分が見たこと無いものは信じない。だからいつもそれをなかったことにしてしまう。そんなこと骨身にしみてわかっていた。

 そうして、こちらに向けられる視線は、畏怖と嫌悪の混じったものになるだろう。

 自然と早口になる。榊原龍一が理解できようが、できまいがそんなこと関係なかった。ただ事務的に、沙耶は話を進めて行く。

「あたしたち事務所はそういうものを相手に活動しています。こんな格好をしていますが」

 そういって自分の白衣をつまんで見せる。

「あたしは医師免許なんてもっていませんし、この病院の人間でもない。あたしたちが依頼を受けたことを知っているのは、この病院内でもごく僅かの限られた人間だけです。ですから貴方は、世間的には原因不明の病ということにしておけますし、もっともらしい病名が必要ならば医師が考えてくれるでしょう。まぁ、そんな浅はかなことはならさらないとは思いますが、こっくりさんに憑かれたなんて口がさけても言わないほうがいいですよ」

 そこまで言って、少し黙る。目の前の少年は眉根を寄せて、口元に手を当てて何かを考え込んでいる。それから、ゆっくりこちらをみて尋ねてきた。

「聞いてもいいですか?」

「どうぞ」

「こっくりさんに憑かれた場合の対処方法って何なんですか?」

 意外とこの少年は肝が据わっているなと、沙耶は思い、心の中で笑った。

沙耶の話を聞いてこちらを変人扱いしてあざ笑う人間もいるのに、そこまで聞ける人間は肝が据わっていると思えた。

「いわゆるお祓いです。貴方の場合は本体は学校に残っていて、一部だけ貴方に憑いていたという珍しい状態でしたから少し時間がかかってしまいました。そのことに関してはお詫び申し上げます」

 そういって一度頭を下げる。

「そんなお詫びだなんて……。お祓いって貴女がやってくれたんですか?」

「ええ」

 ちょっと失敗しましたがなんて思ったが、これは心の中だけに留めておく。わざわざ自分の失敗を言って笑いをとるほどのサービス精神など持ち合わせていない。

 龍一はそうですか、と呟いて黙ってしまった。

「……ご質問は以上でよろしいですか? 正直申し上げて、真剣に考えても答えが出るようなことでは在りません。一応説明はしましたが、それこそ狐に化かされたと思って忘れることをお勧めします」

 彼女にしては珍しく、軽い冗句のつもりだったが龍一は何も答えなかった。それをいいことにそのまま早口で続ける。

「一応、体に害は残らないと思いますが、しばらくこのまま医師の言う通り入院しておいてくださいね。あ、それからこっくりさんをやっていた女の子に関してはこっくりさんと貴方のことは無関係だと言っておきました。信じているかはわかりませんが、それは今後の貴方の行動次第でも変わってきますので。もし万が一、体調不良や学校で変な噂が流れているなど何かありましたら、ここに連絡してください」

 そういって、先ほど渡した名刺に書かれた事務所の番号を指差す。

「それでは、失礼します」

 そのまま立ち上がり、ドアに向かって歩き出す。

 龍一はそれを黙って見つめ、視線を一度下に落とし、それから、

「あのっ!」

 大きな声で呼び止める。

 訝しげに沙耶は振り向き、

「何か?」

「いえ、あの……」

 一度口篭もって、けれども意を決したかのように早口で、


「ありがとうございましたっ!」


 予想もしなかった言葉に、一度大きく目を見開く。丸くて黒い瞳が、更に丸く大きくなった。

 お礼を言われたことなど、今までにありはしなかった。みんな、自分と違う人間は怖いものだから。

 それなのに、唇を少しかんでこちらを見つめてくる少年に、そんな嫌悪の感情はまったく見て取ることが出来ない。嫌味でも、危険を回避するためでもなくて、ただ純粋なお礼の言葉。

 一度瞳を閉じて、開くと、

「どういたしまして」

 そう、答えた。

「それじゃぁ、お大事に」

 もう一度会釈をして、沙耶は出て行った。


 ぱたん、と音がしてドアが閉まっても龍一はしばらくそれを見ていた。

 笑っていた。

 確かにあのとき、あの女性は笑っていた。

 最初からずっと無表情だったあの女性が笑った。

「……やっぱり、笑ったほうがいいじゃないか」

 自分の顔に血が集まった気がする。脈拍もなんだか速い気がする。

 どういたしまして。そう言って笑った女性の顔を思い出して、龍一は額に手をあてて、熱を逃がすように軽く息を吐いた。

 もらった名刺をきちんとしまうと、もう一度閉まったドアを見つめた。

 でも、彼女の手でドアが開けられることはもうなかった。

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