第1話  選択


職場の空気の変化に祐輔が薄々ながらきづいたのは一週間ほど前からだった。

まず一番におかしいと思ったのは田淵が怒鳴らなくなった。

少し前までは一日最低一回は祐輔を何かにつけて怒鳴りつけていたのにそれがない。

一日目はラッキーだと思っていたが、それが一週間もつづけばこれはなにかあると思うのは当然だろう。

祐輔はそれがなんだか怖くて昨晩、夕飯を作っているときにうっかり指を切ってしまった。

しかもこの一週間、田淵の機嫌は非常にいい。何があったのかは知らないがそこが怪しい。

二つ目が事務のおばちゃんたちが話している時やたらと祐輔を見て話している。

噂話が好きなおばちゃんたちが話すことといったらテレビで流行りのイケメンたちの話か、社内の人間の噂話だろう。おそらく今回は後者にあたるのではないのか。

その二つを結びつければある仮説を立てるのは簡単だった。


「すまん。島田ちょっと会議室に来てくれないか。ちょっと話したいことがある」


田淵からの呼び出し。田淵はこちらの返事も聞く前にすぐ会議室に引っ込んでしまった。

いますぐこの場から消えてなくなりたい。そんな誘惑を祐輔はなんとか振り払いながら腰を上げ、腹を決めて会議室に入る。


「来たな。まず座ってくれ」

「はい、それで何のお話ですか」

「実はだな。君に辞令が来てるんだよ、異動だな。いまからだ」

「ずいぶん急ですねえ」

「いやあ悪い悪い。いろいろと連絡が遅れてな。こっちも随分と肩の荷が下りたよ。まあクビじゃなくてよかったじゃないか。あそこでいつまでもつか知らないがな」


わざとらしい田淵の態度に祐輔は怒りを覚える。

なぜこの男はなんの悪びれた様子もなくここまで人の悪口をいえるのだろうか。それが不思議でならなかった。

仕事が出来ないのは祐輔自身のせいであることは否定できないが、それでもこれはひどいと思わざるを得ない。


「商品研究課だそうだ。向こうはもう待ってるらしいからさっさといきな」


よく話しに聞く場所だ。配属されたものは誰でも一ヶ月と経たないうちにすぐ辞めていくというクビ切り用の部署。

あそこに所属しているのは一人しかいない。


「ぼーっとしてねえでさっさといけ。いつまでも俺の手を煩わせるんじゃねえよ」


田淵のはやしたてる声、有無をいわさず会議室から追い出される。

こうして祐輔は声に促されるまま、ろくに説明もされず職場を追い出されることになった。





「突然だが君には二つの選択肢がある」



祐輔が先ほどまで勤めていた営業部は三階にある。そこから階段を降りて二階のフロアの隅っこに目的とする場所はあった。

ここはなぜだかわからないが通るたびに頭が痛くなるような音がするからこの場所は祐輔はあまり好きではない。

恐る恐るなかに入って早々、彼女はこんなことを言い出した。

名前を高堂恵美。この会社で誰が仕事を出来るかと聞かれればあのイケメンで将来有望な池田翔と並ぶくらいかそれ以上ともいってもいい優秀な女性だ。

短めの髪と心の内を見透かすような鋭利な刃物を思わせるような眼光、見事に着こなしているスーツが合わさって鋭く、冷たい印象を与えてくる。

その雰囲気も合わさってか、高瀬の花を思わせるような凛とした美貌を彼女はもっていた。

実際彼女は美人である。社内で噂になることは多い。彼女に言い寄ろうとして一言で切り捨てられたという話もよく聞く。

高堂恵美は不敵に笑いながらいった。


「一つ目はこの会社を辞めてまた就職活動をすること。そしてもうひとつが私たちと一緒に商品研究課で働くことだ。君にはその資格がある」


あの不愉快な音の発生源は事務机に置いてあった黒くて四角い箱からだった。蓋が開いている。どうやらオルゴールのようなものらしい。

体のどこかに響いてくるようななんともいえない不思議な音色だ。近くで聞くと心のどこか奥底に眠っていた何かをざわめかせるようなそんな気がしてくる。


「君にも聞こえるんだろう、この音が」

「ええ、それがどうしたんですか? ただの耳障りな音にしか聞こえませんが」

「重要さ、この音こそが商品研究課の成果でもあるんだからね。ここまではっきり聞きとってくれる人は日本で5人目だよ」

「それがなにかになるんですか。正直耳がいいというだけだと思いますか?」

「重要だとも、その音が聞こえる人はね。不思議な力が使えるようになるんだ。魔法とでもいえば想像しやすいかな。魔力、霊力、超能力、チャクラなど様々な呼ばれ方はされているが便宜上『能力』と私は読んでいるけどね」


なにかタチの悪い詐欺にでも引っかかっているのだろうか。正直いって祐輔はそんな気持ちを隠すことができなかった。

職場を追い出さたと思ったらこれだ。正直わけがわからない。


「わかっている。いきなりそんなことをいわれても困るだろうと思って説明の準備をしておいた」


目の前に出される書類の束。どれも持ち出し厳禁の印が押してある。


「さて、君はいままでこう思ったことはあるだろう。ここは商品開発課のくせにどんな仕事もしているか伝わってこないし、しかもこの事務所に人は私一人しかいない。非常に胡散臭いなあ、とかね」

「いえ、そんなことはないですけど、何をしているのかは気になっていましたけど」

「そう、ここは何をしているか。非常にいい質問ね」


祐輔はちらりと渡された書類に目をやる。書類の束から内容を察することはできないが、表紙にはこう書いてあった。

『能力開発についての考察と実験結果』

書いてある言葉はわかるがいまいち意味が理解できない。


「私は、いや私たちは全人類が更なる先に進むために誰でも能力が使えるようになる物を開発している。それには君の力が必要だ、ぜひ協力してほしい」


恵美がなにかブツブツというと手のひらから光の玉が現れた。

彼女が指先を振るそれは霧散して消える。

突然のことすぎてわけがわからなかった。

でも祐輔はどこか無性に嬉しかった。

どこまでもダメな自分でも自分だけが出来ることがひとつでもあるのだと思えたのだから。

頷かない理由はどこにもなかった。







そのあと祐輔は実験施設に連れて行かれた。目隠しをされていたので場所はよくわからない。

ただ5分と立たずに到着はしたので思ったより近い場所にそれはあるようだ。

そこは医者でレントゲンを撮るときに入れられるような狭い部屋で、椅子が一つだけ寂しく置いてある。

入って来たドア側の壁はガラス張りとなっていてそこから恵美の姿が見えた。

その隣には恵美とよく似た少女がいた。姉妹なのだろう、学生服を着ていることから高校生であることがわかる。

無表情に祐輔を見ているその目から彼女がなにを思っているかはいまいち想像できない。ただ言えるのは二人揃って美人であること。

そもそもなぜこの場にいるのだろうか。

そんな疑問を浮かべながら祐輔はあらかじめ椅子に座るようにいわれていたのでそこへと座る。


「準備はいいかね島ちゃん」

「いつでもいいですけど、ちゃんはやめてもらっていいですか。俺も一応二十代なので」


どうやら質問をする暇はないらしい。


「仕方ないな。気をつけろよ島田君。能力覚醒時は精神的、または物理的ショックを受けて大なり小なり怪我を負う例が多いからな」

「今回はその腕につけた装置をこちらで起動させる。無事能力の発動が確認されればひとまずはそれで終了だ」


チラリとスーツをまくり隠れた腕時計のようなものを目をやる。

ここに入る前につけられたそれが一般人が能力を得るために必要なものらしい。

話によれば祐輔は椅子に座って待っているだけでいいらしいが、いったい何をするのだろうか。


「……わかりました。発動はどうするといいんですか」

「何も気にしなくていいリラックスしておけ。装置が動けば勝手に何か起こる。ではカウント入るぞ」


高鳴る心拍を祐輔は抑えられずにいた。

自然と体に力が入ってしまうのも仕方がない。

なにせ魔法使い?になるのだ。自分がそんなことになると知って冷静にいられる者がいるだろうか。


「3、2、1」


ただ一つ不安に思うことがあるならば。


「0!」


祐輔もいままでの人生で最初からうまくいった経験などまったくなく、


「装置起動、衝撃に備えてください」


むしろ、なにかしらひどい目にあうのが常日頃から起きてきたことだから、嫌な予感は常にぬぐえていなかった。

腕の装置から音がする。会社で聞いたのよりも大きく、装置から伝わって来る振動がなんだか体の奥を引っ掻き回されているような感じがした。

耳障りな音が一瞬高くなったあと、頭の芯が痺れるような感じがして装置から音が聞こえなくなった。

なんともいえない言い方だが左腕の内側がぞわぞわ動いているようなそんな感じがした。

だけどすぐにその感触は収まる。なにか起こるのだろうと5分ほどそのまま過ごしたが何もおこらなかった。


「すいません。何も起こらないんですけど」

「おかしいな、念のためもう少し様子見ておいてくれる?」

「はい、ちなみにその前回の人はどんなことが起きたんですか」

「あのときは大変だったな。物が燃えたり、吹き飛んだりしてもう部屋がめちゃくちゃだった」

「それは大変ですね。痛っ」


そのとき左手の人差し指に鋭い痛みが走った。

指は昨晩の調理中に切ってしまったため、絆創膏を貼っている。

恐る恐る絆創膏をはがすと、その傷口から何かが勢いよく出てきた。

それは一本の茨だった。無数に棘が生えている。


――刺々しく、痛そうだ。


のんきにそんな感想を抱いていたとき、茨は勢いよく動き出し、腕に絡みついた。

そして引き締まり、その棘を佑輔の腕に次々と食い込ませる。

棘が食い込んでできた傷口からまた新たな茨が生えてくるのが見えた。

その余りの激痛に情けない声をあげて転がりこむことしか、佑輔は出来なかった。

だからいったのだ。なにごともなく終わるなんてこと自分にはありえないんだって。


「まず……早……装置を…止………」


何かいっているのが聞こえた気がするがそれを気にする余裕は祐輔にはない。

茨が、ものすごいスピードで数を増していき、左手から上にあがって体を侵食していく。

外側だけではない。感じる刺さった棘が伸びて体の内側も蹂躙していっているのが感じられた。

茨は一瞬で左腕を覆いつくすまで成長し、一拍遅れて体の内側から襲いかかる衝撃と激痛が襲いかかる。

体の内と外の両面から来る余りの痛みに祐輔は叫び声をあげる。

そこから先の記憶はない。









古い木の香り、一歩踏み出せば軋む床の音。電気をつけても薄暗い廊下。

そのどこか落ち着く風景に祐輔はすぐに理解した。ここは祐輔の実家だ。

帰ってくるのは一体何年ぶりだろうか。

いったいなんの用事で帰ってきたのだろうか。しばらく悩むが思いだせない。

思いだせないということはたいしたことではないのだろう。


「茶の間でくつろごうかな」


思わず独り言が出てしまう。実家だと不思議と独り言が増えてしまうのはなぜだろうか。

廊下の突き当たりにあるのが我が家の茶の間だ。

襖を開こうと手をかけたとき聞き慣れた声が聞こえた。誰の声かはすぐにわかった、祐輔のオヤジの声だ。


「だからお前はだめなんだよ」


鳥肌がたった。心の奥底が痛む。祐輔はこの光景を知っている。


「そんなこともできないの。誰だってできるのよ、そんなこと」


母の声も聞こえる。

勉強もいまいち、運動神経も悪かった祐輔は幼いころよく叱られていた。

そして怒られるたびに家を飛び出していた。

襖が開いて飛び出してきたのは瞳を潤ませた子供。

一目でわかった。あれは小さいときの自分だ。

家にいたくなくて、どこかにいたくて、でもどこにも場所なんてなくて。

嫌だ、こんなこと思い出したくない。余りの痛みにこの場から離れたくて全力で走りだす。

わき目も振らず遠くへ、息の切れるまで全力で遠くへ。

家にいたかった。でも家にはいたくなかった。

居場所がほしかった。

体が熱くて苦しくて荒くなった息を整えながら、祐輔はその場へへたり込む。

周りは暖かな光が埋め尽くされていた。

否、光以外何も存在していなかった。

世界は真っ白だった。どこか優しくて暖かい光。

家はどこにいったのだろうか。そもそもどうやってここまできたのだろうか。

どこかにいることさえ、自分には許されないのだろうか。








左手がやけに暖かかった。あったかいような、冷たいような、心地よいぬくもり。

それが人肌のものであると気づくのに佑輔は数秒を要した。

むしろ数秒感、固まったともいっていい。

なぜなら見知らぬ少女が自分の手を握っていたからだ。

突然の展開に頭がついてこないのも無理はないだろう。

そして、驚きによって反射的に彼女から距離をとろうとして、失敗した。

体が動かないのである。そして同時に気づく、左腕がまるごと包帯で覆われていることに。


「起きた?」


幼く、そして静かに響く声。

透き通るような白い肌、さらりと流れる黒髪。

別の何かを見ているような無機質な冷たい目つきがやけに印象に残る。

一目でわかった。あのとき、高堂恵美と一緒にいた少女だ。

あのときと同じ白を基調としたセーラー服を着ている。

茨が腕を内と外の両側から侵食されたときの激痛の記憶がよみがえる。


「俺はあのあとどうなったんだ」


問いに対し少女は冷静に答えた。


「倒れた。左腕はハチの巣状態、でも大丈夫私が直したから」


手を離して、少女が椅子からゆっくりと立ち上がる。

病室のドアに手をかけながら、こっちを見た。


「いま、姉さんを呼んでくるからちょっと待ってて。すぐ来れると思う」


するりと彼女で出ていくと同時にドアが閉まり、静寂が訪れる。

祐輔は納得した。予想通り二人は姉妹だったようだ、道理で二人とも美人なわけである。

顔立ちが似ていることもあるが、二人が纏う雰囲気が似ているのもそう思わせた理由のひとつだろう。


――直したということは彼女も能力者なんだろうか。


包帯だらけの左腕のなかで唯一素肌が見える部分。左手を試しに恐る恐る動かしてみる。

腕が動かないせいでなんとなく動かしずらかったが、指は問題なく動かすことができた。痛みはない。

切った指先に何かなった様子もない。

夢で見たような暖かな光のような少女のぬくもりがまだ残っているような、そんな気がした。

廊下をどたばたと走る音がする。思った以上に早い。


「やっと目を覚ましたか、島田君」


息を切らせて来たのは高堂恵美だ。前回見たときと同じスーツ姿だが、どこか疲れている雰囲気を出していた。

事態の収集のための奔走してくれたのだろう。


「すまん。こんな事態になってしまったのは私の責任だ」

「いえ、正直今の状況が掴めていないのでなんといったらいいのかわからないのですが、腕に茨が巻きついたまでは覚えているんですよ」

「ああ、そうだったな。わかりやすくいえば君の能力が暴走したんだ。いや厳密にいえば暴走とはいえないのだろうが、今の段階ではなんともいえないがね」


確かに覚えている、茨が腕にめり込んでいく感触。

体内で蠢く茨、棘が内側から体を蹂躙し、手から上へと登っていった。

あのとき茨は祐介の脳まで登ろうとしてるんだと本能で理解した。

そして――


「大丈夫か。島田君、真っ青な顔してるぞ」

「すっすいません。ちょっとぼーっとしてしまって」

「五日間寝たきりだったから無理もないさ。そうだな、起きたばかりでこんな話ばかりするのも悪いし話はまただな。今日はゆっくり休んでくれ」


あまりの驚きに一瞬、祐輔の思考が停止する。起きてから一番の驚きかもしれない。

祐輔の体感では一日ぐらいしかたっていないと思っていたことに加え、起きた出来事が余りにも現実感がなくなるようなことばかりだったのでなおさらそっちのほうが驚きだった。

そこでふとあることに祐輔は気づく。恵美のスーツの裾から包帯が見えたのだ。


「腕、怪我したんですか。もしかしてあの時の?」

「ああ、気にすることはないよ、ちょっと切っただけだ。あれはただの事故で運がなかっただけさ、君のせいじゃない」


ずきりと、左腕がいまさらながら祐輔に痛みを訴える。


――いえ、自業自得なんです。自分が選ばれた存在だなんて、自惚れたせいできっとこうなったんですよ。


なにひとつまともにできないクズ野郎だということを祐輔自身が一番よく知っているくせに。

結局自分は運が良かっただけで能力を得れただけなのだ。


「さて、私はそろそろいくよ。なにか聞きたいことはあるか?」

「えーーと」


正直に言えば、しょっぱなから大失敗に終わってしまった祐輔の今後について聞きたかったのだが、祐輔にそんな勇気があるはずもなく。


「さっきいた。高校生くらいの女の人って誰なんですか?」


こんなことをいって誤魔化すくらいしかできなかった。


「ああ、志弦のことかな。私の妹だよ、私の仕事にも協力してくれている自慢の妹さ、多分また近いうちに会うことになるんじゃないかな」

「姉妹だったんですか。道理で二人共美人だと思いましたよ」

「それくらい冗談をいえるようだったら大丈夫そうだな。あとこれは詳しい資料だ。なにぶんおおっぴらにできないことだから大したものは持ち出せないんだが、軽く頭に入れておいてくれ。それではまたな」


机の書類の束を置き、恵美は微笑みを浮かべて帰っていった。

そのあとのことを祐輔はあまり覚えていない。

医者からあのあと検査を受けて、退院の許可が出たので退院の手続きをしたようなきがする。

気がついたら自宅の前に立っていたというのが祐輔の正直な感想だ。

いろいろありすぎて思考停止のまま活動してしまったのだろう。祐輔の悪い癖だ。

扉を開ける。約一週間ぶりの帰宅でようやく一息つけたような気がして祐輔はゆっくりと腰を下ろした。

このまま布団に倒れこんで眠りこけたい衝動を抑えながら忘れないうちに書類に目を通す。

そこにはこんなことが書いてあった。



研修のお知らせ。一ヶ月程の期間を泊まり込みで予定している。荷物を忘れないように。



ちゃんと口頭でいってほしいと祐輔は切に思う。

いまさらながら選択を迫られたときちゃんと断っておけばよかったのかもしれない。

若干後悔の念に襲われながらひとまず眠りにつくのであった。

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