最弱の変革者 ~ダメオがちっとはましになろうとする話~
猪飼御然
プロローグ ダメオのダメな日々
廊下を鳴らす革靴の音。あるリズムが聞こえてきたところで島田佑輔は時計に目をやった。
6時少し過ぎ、いつもより少し早い時間だ。足音が近づいてくるのを感じて目的の書類を準備する。
書類は会社が扱っているデータをまとめたものだ。
「島田ぁ! お前朝いってた奴ちゃんと出来てんだろうな」
騒々しく扉を開けた田淵岩男は営業周りから戻って早々いつものように佑輔をどなりつけた。
でっぷりとした腹と少し薄い頭髪。この事務所で一番偉く、そして佑輔の一番の敵だ。
ここで不機嫌そうな顔をしたら小一時間は小言を聞き続けるのは今までの経験でわかりきっているので笑顔を張り付けたまま書類を持って田淵のデスクに向かう。
「どうぞ、いわれてたものは一通りまとめておきましたので」
人の話を聞いてるのかいないのか、おそらく聞いてないのだろうが田淵は書類のチェックを始める。
荒探しは田淵の得意技だ。しかしそうはいかない、佑輔もこの会社に勤めてからもうすぐ一年、入念なチェックはしている……はずだ。
書類をめくる音だけが事務所に響く時間が続く。巻き込まれるのが嫌な人たちは、定時も過ぎているし留まる理由もないとばかりにこっそりと帰宅を始めていた。
同じように帰れたらどれだけいいことか、そんなことを佑輔が考えていると腹を叩かれるような形で書類を突き返された。
他の考え事に没頭していたことを咎められるかと一瞬、どきりとするがどうやら今回はそうではないらしい。
返された書類のぺージでちらりと見えたのは表の一覧の空白。ひやりとする、毎度毎度この間抜けさに祐輔はほとほとあきれてしまう。
「これで完成っていうのかねえ。なあ島田さぁ、毎回こんなこというのもどうだと思うけどね」
「はあ……すいません」
「1年近くたってこれはないと思うよ。 まったく俺だったらこんな使えない奴は絶対取らないな」
そのことばかりは下っ端の身分である佑輔はなんともいうことができなかった。
今回のミスといい、余り自分が優秀でないことは佑輔自身が身をもって知っている。
わかってはいるがいっていいことと悪いことがあると思いながら言葉を飲み込み話を聞いた。
「すいません。気をつけます」
「おいなんだ、その目は。まったく目つきだけは一人前だな。私だったらすぐクビだな。ほら、とっとと書類を作り直せ今日中だからな」
いいたいことをいって満足したのだろう。あっちいけとばかりに手を振るので祐輔は自分の席に戻る。
そしてパソコンを開き目的のファイルを開いた。幸いながら表の抜けているところはある程度まとめたデータがあるからそれほど時間もかからずに完成して帰れるだろう。
「あーすまん。ちょっといい忘れてことがあったわ」
田淵がネクタイをゆるめながら笑みを浮かべ、なにげないようにいう。
祐輔はその時点でなんとなく嫌な予感がしていた。こういうとき毎回この男はさりげなくとんでもないことをいってのけるからだ。
「俺さ、今日なんと二件も契約とってたんだよね。それで明日の朝一発までにちょっと書類作んなきゃいけないんだけどさ。どうせ暇だろ、お前に仕事回してやるよ」
「え? 明日までですか。さすがにいまからそれはちょっと」
いまから始めたのではさすがに帰りがいつになるかわかったものではない。
というかそんな大事なものを平然と他の人にやらせることが祐輔には信じられなかった。
「お前上司の命令に逆らうのか。島田、お前、今月の目標半分もいってないくせにいうことだけは一人前だな。自分の給料分稼いでからいってみろ。仕事を回してやるだけありがたいと思うんだな」
腹に響く怒声が事務所に響く。
その声によって残業のためわずかに残っていた職員も巻き込まれるのはごめんだといわんばかりに、こっそりと帰宅していった。
――わかっている、どうせ味方なんていないのだから。
佑輔はゆっくりとうなだれることしかできなかった。
「……はい」
「それじゃ俺は帰るからよろしく。おい、池田まだ仕事してんのか。どうだ一杯」
事務所の隅、ほかの職員が帰ったなか田淵の怒声にもぴくりともせずに一人パソコンに向かっていた男――池田翔に田淵は声をかける。
営業の成績も常に会社の上位に食い込むやり手でスーツを着こなし、若くして出来る男の風格を持つさわやか系男子。
出来の悪い祐輔にもよく目をかけてくれて人も出来ており、誰からでも好かれる素晴らしい人物だ。
何年も経験を積んでいる池田翔とは年季が違うとはいえ、いつもミスをして怒られている祐輔とは対岸の存在といえるだろう。
当然のことだが田淵のお気に入りだ。
「すいません。明日までにどうしても終わさないといけないものがあるので、また次の機会でいいですか?」
「そうか、あんまり根を入れすぎるなよ。じゃあお疲れ」
上機嫌で、来た時と同じように足音をうるさく立てながら田淵は出て行った。
こっちに労わりの言葉はなしか、まったくいい身分だと佑輔はうんざりしながら田淵に渡された書類に目を通す。
どう見積もっても一時間や二時間で終わる内容には見えなかった。
あのくそオヤジ絶対ぶっ飛ばすと祐輔は心の中で毒づき、缶コーヒーを片手に作業を始めたのだった。
事務所には二人のキーを叩く音だけが響く。
田淵のせいで祐輔の帰りが遅くなるのはよくあることだが今回はあんまりだと思った。
ミスしたのは佑輔のせいだが、さすがにこの仕打ちはひどいだろう。
怒鳴られて精神的に疲れた体と、ミスをしたやり場のない苛立ちで悶々としながら仕事の続きを始めるがなかなか進まない。
使えない奴、いわれたことが頭の中で繰り返してどうも集中できない。
うまく言葉にできないもやもやとした気持ちが手の動きを鈍らせる。
心に刺さった棘はなかなか抜けず、悪戦苦闘して祐輔がようやく書類を完成させたのは10時を回ったところだった。
「やっと終わった…… 池田さんはいつのまにか帰っちゃったか……」
腕を伸ばし、凝り固まった体を伸ばす。
作業に集中している間に帰ったのかいつの間にか池田はいなくなっていた。
それもそうかと祐輔は思う。面倒な奴には誰も関わりたがらないのは当然だ。
バックを手に取り、帰るために電気を消して廊下にでる。
「ちょっと待って。悪い、俺まだいるからさ」
若干慌てた声、男性にしては少し高めで誰だか祐輔はすぐわかった、池田の声だ。
少し息を切らしながら出てきたのは事務所すぐ脇の休憩所からだった。
「悪い悪い、息抜きがてら一服してたらうっかりね」
「お疲れ様です、大変ですね毎日。俺と――いえなんでもないです」
祐輔はふと、口から出そうになった言葉を飲み込む。
――いかんいかん、疲れるとどうもネガティブになっていかん。俺と違ってさ、なんて口が裂けてもいうわけにはいかない。
「俺……となんだって? 飲みのお誘いかな。来週だったらいいよ。島田とも一回飲んでみたかったしね。いやでも俺からしたら島田のほうがよっぽど大変なように見えるけど」
「……そんなことないですよ、池田さんのほうがよっぽど忙しそうに見えます」
唐突な台詞に祐輔は思わず口すぼみになってしまう。
佑輔もあまり考えないようにしていたことだった。正直心労が募るばかりで嫌になっていただけだともいえるが。
「こういうのもなんだけどさ、仕事ってさ。楽しいものでさ、いろんなものがあるんだよ、ここだけじゃない」
佑輔はなんとなくわかってしまった。おそらくこの人はわざわざ祐輔が仕事を終わるまで待ってくれていたんだろう。
別段、仲がいいわけではないがこんな所にまで気をかけてくれるとはさすが出来る男は違う。
あまりの出来の差に祐輔が思わずうんざりしてしまうくらい優秀だ。
「俺がいいたかったのはそれだけ。島田、最近特に元気ない顔をしてたからさ。営業は笑顔が基本だぞ」
そこから会社を出るまでの僅かな間、二人は他愛のない話をした。
職場の愚痴や下にある別の部署からはいつも耳が痛くなるような音(何の音なのかは知らない)がして嫌になるだとか。田淵の悪口だとか。
まるできらきらと擬音がつくかのような眩しげな笑みを浮かべながら池田は話を聞いてくれる。
これが女性社員に人気の営業スマイルというものなのだろう。
「それじゃあお疲れ様。あんな奴に負けんなよ」
肩をぽんと叩いて颯爽と去っていく。
大先輩からのありがたい言葉をもらった佑輔だがなんとなくもやもやして心は晴れなかった。
一人夜道で車で走らせる。途中コンビニで買ったパンで空腹を紛らわせた。
気持ちいつもよりアクセルを吹かす。九月も半ばの今、夜風は冷たくて変に熱を持った体に心地よかった。
――わかってる、わかってるんだ。俺が優秀ではないということも。むしろ出来が悪いということも。
暗い気持ちが吹き出る。
「出来ない奴はどこにもいちゃいけないんだろうか」
もやもやとした気持ちを言葉にしてしまったことにまた一つ後悔した。
どこまでもダメな佑輔がある出来事に巻き込まれる一週間前のことだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます