天皇杯予選初戦

 良い天気だ。

 前日の雨で作られた水たまりが、太陽の熱で水蒸気となって浮かんでくる。これこそ日本の夏というような蒸し暑さ。芝の上って、こういう日はサウナみたいにムシムシする。

 ウォーミングアップを終えた僕たちは、監督の指示を受ける。今日は都合で不参加のメンバーもいないから、ベストメンバーで試合に挑める。

 僕は右のサイドバックでスタメンだった。うちのチームのフォーメーションは基本的に4-4-2、ディフェンダー四人に、中盤がダイヤモンド型になってる四人、そしてフォワードが二人という、少し古いタイプのシステムを採用している。ちなみに、ヒロさんは中盤の前、いわゆるトップ下というポジションでスタメン。

「今、もう来てるんですか?」

「バカ、そんなこと今聞くな」

 ピッチに入場する前、ヒロさんに彼女候補の話をふるとそんな風にあしらわれた。そうだよな、今は試合に集中しないと。

 審判による装飾品やスパイクのチェックが終わると、僕たちはピッチに向かって歩みを進める。

 さぁ、熱い時間を始めよう。

 白線を跨いでピッチに入った瞬間、熱が一層強くなったのと同時に、僕の中でスイッチが入った。

 たまにあるんだよね、負ける気がしないって日。サッカーは個人スポーツじゃないから僕一人がどんなに良いプレーをしても勝てない日はあるし、その逆もある。それでも、今日は何だかいけそうな気がする。

 キックオフの笛が鳴るのが待ち遠しくて、円陣を終えた後も小走りでポジションについた。

 チラッとヒロさんを見ると、試合に集中した顔になっていた。僕も負けていられない。改めて気合を入れなおす。

 両チームがポジションに着いたのを確認すると、主審が笛を強く吹いた。


 序盤にゲームを支配したのは僕たちだった。同じ県リーグの順位もうちの方が高いし、実力通りって言えば実力通りなのかな。

 守備機会はあまりなかったけど、僕もタイミングを見てオーバーラップを仕掛けてクロスをあげたりして。 その中でもヒロさんの出来は出色で、フォワードにスルーパスを通しまくり、シュートも放ってポストに当てたり。

 ……とは言ってるけど、まだゴールが入っていないんだけどね。

 前半30分が過ぎた。焦るような時間じゃないけど、これだけ支配していて点が取れないのはもどかしい。 右サイドバックというポジションながらも、ほぼ右ウイングフォワードのポジションについてる僕は中央にいるヒロさんからパスを受けた。

「カズー! 焦んな!」

 相手は既に守備のブロックを固めていて、焦って攻めてもそれを壊すことは難しい。そして、それを壊せるドリブラーは僕じゃない。

 攻め急ぎたい気持ちをグッと堪えて、僕は受けたパスを一度ヒロさんに預けて、パスを蹴った足でそのまま前線に走り出す。対面していた相手ディフェンダーは、ヒロさんにプレッシャーをかけずそのまま僕を追いかけてくる。

 しかし、ヒロさんに付いていたディフェンダーも、僕を警戒して右サイドへのパスコースを消そうとプレッシャーをかけていった。それをヒロさんは見逃さない。

 パスをそのまま流してトラップして相手をいなすと、中央に張っていたフォワードにスルーパス。

 ピッチを裂くように蹴られたボールの先に走り込んだフォワードは、ボールを丁寧にコントロールする。オフサイドはない。

 そのままキーパーしか残ってないゴールに向かってドリブルをして、キーパーの位置を確認して流し込むようにシュートを放った。見事にキーパーの逆をついたボールはそのままゴールに吸い込まれ……ポストに当たって跳ね返り、慌ててカバーに入ったディフェンダーがクリアした。

 こんなチャンスを作ってもまだ決められないのか……ヤバイな。

 時間が経つにつれて焦りが増して、それは解消されることなく前半終了の笛が響いた。


 「崩せてるんだけどなぁ」

 ベンチに引き上げると、監督が困ったように呟いた。そう、決定機は作れているのに得点が入らないから問題なんだよね。

 惜しいシュートが何本も続くのは、外から見ると押してるように見えて、やってる側からすると実にフラストレーションが溜まるものだ。事実、僕も攻め急ぎたい気持ちを堪えてプレーしている。

 全く攻撃の形が作れていなくて決められないのはチームとして解決できても、最後の決定力は個人の能力で、練習することでしか向上させられない。つまり、この試合においては下手な鉄砲数打ちゃ当たるというか、『とにかく決まるまで打ち続ける』ということが最善策。

 それしかないよなぁ、という雰囲気が蔓延してきたときに、ヒロさんが話し始めた。

「カズのポジションを上げましょうよ。右のフォワードに入れて、もっとゴール前に顔を出させましょう。こいつは最近調子良いし、ゴール前に置いたら何かしてくれそうな気がするんですよね」

「えっ、僕、フォワードなんか遊びでしかしたことないんですけど……」

 オーバーラップしたり、ゴール前に顔を出すのは好きだけど、あくまでそれは試合中の流れでの話だ。戦術として、ディフェンダーではなくて中盤の右に入ることはあっても、フォワードまでいったことはない。

 監督もどうしたものかと思案した顔で僕とヒロさんを交互に見ている。

 負けたら終わりのトーナメントで、ぶっつけ本番のフォワードをやる度胸なんか、ネガティブな僕にはない。これで僕が決定機を外したらと思うと、試合中とはとは違う汗をかいてしまいそうだ。

「カズ、いけるか?」

 とはいえ、試合には出たくても出られないメンバーもいる。お気楽な学生の僕とは違って、仕事をしているチームメイトは、貴重な休日を使ってこの会場に来ていて、試合に出られなくても声を出したり応援をしてくれたりしている。

 ここでできませんなんて言うことも、僕にはできない。

「とりあえずやってみます」

 いけます! とは返事は出来ずとも、肯定のニュアンスで僕は返答した。

 そんな僕を見て、監督は不安そうにヒロさんの提案を受け入れることにした。

 ただし、条件が一つ。後半15分までに得点が動かなければ、僕は交代して本職がフォワードの選手を投入するというものだ。

 つまり、僕に与えられたフォワードとしての残り時間は15分。

 ミーティングを終えてピッチに向かっていると、ヒロさんに声をかけられた。

「良いか、俺がボールを持ったらお前はとにかく前に行け、相手ディフェンダーの裏を狙え」

「でも僕、タイミングとか分かんないっすよ。オフサイド抜ける練習とかしてないし……」

「良いから。お前のところに俺が絶対届けてやるから。カズはただ、前を向け。走り出せ 」

 ヒロさんのあまりに自信ありげな口調に、つい僕は「了解っす」と返事をしてしまった。 パスを受けられたところで、僕が決められるかどうかは僕次第なんだけどね。とりあえずヒロさんの指示通りに動いて、そこからはなるようにするしかない。

 キックオフの時、こんなハーフウェーライン付近のポジションにいるのは新鮮だけど、何だか違和感がある。

 審判が笛を響かせ、15分の戦いが始まった。


 相手の持つボールが中盤の選手に下げられた瞬間、僕はそれを追いかけてチェイシングをする。後方から組み立てようとする相手ディフェンスラインに、前線から僕がプレスをかけるとロングボールで逃げられた。

 僕の代わりに右サイドバックに入った選手がそのボールを拾い、パスを回し始めると、前半と同じように後半も支配権を握ったのはうちだった。

 ゴール前まではいけても、そこから決めきれない。

 僕もシュートは打ててるんだけど、キーパーに阻まれたり、ゴールから逸れてしまったり。それに、フォワードとしての守備なんて慣れてないから、どこまでプレッシャーをかけに行けばいいかも分からず、とにかく走り続けていた。15分も経つ前に、限界が訪れそうなくらいガムシャラに走る。

 正確な試合時間を刻むデジタル時計なんかこの小さな競技場にはなくて、申し訳程度にスタンドに設置されているアナログ時計を見てみると、残り時間は2分ほど。僕と交代予定のフォワードもアップを終えて、ユニホーム姿になる準備をしていた。

 ここまで、僕はまだ何もできていない。いくらシュートを打とうが、プレッシャーをかけ続けようが、ゴールを決められない限りは与えられた役目は果たせていない。 走り続けて体は限界に近いんだけど、根性とか意地とかそういうものなのかな。何か分からないんだけど、それでもとにかく走る。

 いよいよ交代が近づいて、第四の審判が交代予定の選手のスパイクや装具品チェックをしているのが目に入った。

 くそっ、まだだ。まだ僕は何もできていない。このまま交代することなんて、僕にはできない。

 苦し紛れに相手チームが蹴ったボールはうちのキーパーまで届いた。気にするなと言い聞かせてはいるけれど、交代選手の動向が気になってそちらに目を向けると、腹心と並んでピッチサイドに立っていた。おそらくこれが、僕のラストプレー。

 キーパーはボールをディフェンダーに預け、更に中盤の底の選手、いわゆるボランチの選手に渡っていく。

 相手チームもしっかりと守備陣形を作っていて、雑な攻撃では壊せそうにない。中盤で横パスを回して揺さぶってみても、相手チームの選手はしっかりと陣形を整えたままスライドして修正してくる。

 どうやって崩すべきか、頭を振ってピッチ上の情報を更新していく。瞬間、ヒロさんが少し下がり気味のポジションを取った。その対応が遅れ、相手のマークが少し薄くなったのを察知したボランチは、ヒロさんにボールを預ける。これが僕のスイッチだ。

 ヒロさんが前を向いてボールを触った瞬間、僕は一気呵成に走り出した。

「ヒロ!」

 ボールを要求する声よりも早く、ヒロさんからのロングパスは蹴り出されていた。

 少し低めの弾道で、弾丸のようなそのパスは玉足が速い。

 全力で走る僕の少し上を、そのボールは通過していく。中央からやや右サイドへの角度があるパスは、そのままタッチラインへ向かって転がっていく。 相手チームのディフェンダーは追いかけるのを止めている。間に合わないと思っている。

 僕だって、普段ならここまで必死に追いかけたりはしないかもしれない。それでもこれは、僕にとってのラストプレーだ。ここでプレーが止まると、僕は交代してしまう。

 最後の燃料を使い果たすかのように、僕は足を運ぶ。前へ進む。

 勢いが死に、ゆっくり進むボールがタッチラインを越えそうになった瞬間、僕は滑り込む。届いてくれと願いながら、確信はないままに足を延ばしてスライディング。

 副審の旗を確認する余裕なんかない。ただ、笛はならなかった。この際どいプレーに主審の笛が鳴らないということは、まだボールは生きている。プレーができる!

 立ち上がってドリブルを開始すると、相手ディフェンダーが慌てて戻ってくるのが目に入った。でも、もう遅い。

 ヒロさんからのパスを追いかけるのをやめていた相手では、もう僕を止めることはできない。

 ゴールへ向かって斜めに進路をとる。ペナルティエリアに入ったところでキーパーが飛び出してきた。ただでさえ角度がない場所なのに、更にコースが狭まる。

 あ、無理だ。

 直感的にそう感じた。前半もこういう場面でシュートを打ち、枠を外したり止められたりというシーンがあった。時間的にもこれが最後のプレーで、これを外すと今日の僕の試合は終わってしまう。

 コースを丁寧に狙ってシュートを打つしかないのか。

 せめて丁寧にと意識して、インサイドで流し込むイメージで右足を振ろうとしたところだった。

「カズ!」

 僕にパスを出した人のその声はペナルティアークのあたりから聞こえてきた。顔をあげて確認すると、シュートのために振り上げた右足で優しくパスを出した。

 シュートコースを消しに来ていたキーパーはそのパスに反応できるわけもなく、パスを受けたヒロさんはそのパスをインサイドで丁寧に流し込む。

 何も邪魔をする者がいなくなったゴールにそのボールは転がっていき、そして小さな白い波が起きた。

 ヒロさんはゴールを決めるとそのままに僕に駆け寄ってくる。

「やったな! カズ!」

 頭をめちゃくちゃに撫でられながら、僕もヒロさんの背中を叩く。

「ナイパス、ナイッシューっす!」

 二人で歓喜を爆発させていると、遅れてきたチームメイトも混ざってきて小さな輪ができた。 みんな、「やったな!」「よく走った!」と僕を叩きながら言ってくれる。

 その輪が一段落したところで、主審が僕たちに早くプレーを再会するよう笛を鳴らして促した。

「君、交代だから」

 主審にそう言われたところで思い出すと、交代選手が立っていた。そっか、交代か。

 得点が決まるまではいられたとはいえ、最後までプレーしたかったな。残念さもあるけど、慣れないポジションでのプレーに疲れていたのも事実で、交代選手とハイタッチをしながら僕は白線の外に出ていった。ピッチに一礼も忘れずに。

 ベンチにいたチームメイトからもミユからも「大活躍じゃん」と声をかけられた。

 自分のゴールという結果を出せなかった後悔、最後までプレーできなかった悔しさなんかはあるけれど、とりあえず今はチームの応援だ。


 失点した相手チームはその後、攻勢に出てきた。危ないシーンも何度かあったけど、逆に前がかりになってきた分守備が甘くなっていた。

 僕の代わりに入ったフォワードの選手がキーパーとの一対一を制して二点目を決め、そのまま試合終了を告げるホイッスルが響いた。

 どうにか勝利はできたけど、課題の多い試合だ。

 ベンチを空けて、スパイクからトレーニングシューズに履き替えると、僕はヒロさんと一緒に競技場の外でクールダウンのジョギングを始めた。

「ナイッシューっした」

 一点目のシーンを振り返ってそう話しかけると、ヒロさんは僕の背中をバシッと叩いた。何か今日、叩かれすぎじゃない?

「何言ってるんだよ、あんなのお前がパスに追いついた時点でお前のゴールだよ。よく追いついたよ」

 そんな風に誉められると、何だかむず痒い。嬉しいような、止めてほしいような。

「お前に届けるとかいいながら、お前が届かせてくれたしな」

 キョトンとした顔でヒロさんを見返すと、「後半開始前に言っただろ、お前にパスを届けるって」と、恥ずかしそうに言った。

「いやいや、あの厳しいパスだから相手も追いかけなかったわけですし……」

「でももっと楽に、ていうかお前に決めさせられるようなパスを出したかったんだよなー、くそっ」

「そんな良いパスもらっても、僕が決められるかは……本職じゃないですし?」

「何だよー、待ってますって言えよー! またお前が前でプレーするなら、その時待ってろよ」

 そう言うと、ヒロさんは照れ隠しか少し走るペースを上げた。それが何だかおかしくて、少しニヤけながら僕もついていく。

「ヒロくん!」

 後ろから、どこか聞き覚えのある声でヒロさんを呼ぶ声がした。

「あっ、サキちゃん」

 サキちゃん……?

 まさかと思って振り返った先には、はっきりと覚えてる顔があった。二ヶ月ほど前、僕に対して「今は誰とも付き合う気はない」と話した元彼女が、そこには立っていた。

「あっ……」

 驚きと共に漏れた呟きに、ヒロさんが「どうした?」と問いかけてくる。

「……初めまして」

 少しためて、彼女から聞こえてきた言葉はそれだった。

 初めまして、か。

「どーも、初めまして」

 その言葉を返すのが精一杯で、「ヒロさん、お邪魔そうだから先に失礼しますね」と薄ら笑いを残して、返事も待たずに僕は走り出した。

 後ろから呼び止めるヒロさんの声が聞こえたけど、それも無視して僕は逃げる。

 ヒロさんたちが見えなくなるくらい走って止まると、そこはスタンドに繋がる階段だった。僕たちの試合が今日の最終試合だったからか、歩く人は誰もいない。

 階段を数段上って、僕は膝を抱えて座り込んだ。

 なんだよ、くそっ。

 言葉にならない感情は、子供じみた文句に変換される。

 そりゃ、ヒロさんはいい人だよ。僕だって憧れて、ああいう風になりたいなって思う。

 でも、サキは「誰とも」と言った。誰とも付き合いたくない。その言葉は、僕に向かった言葉であっても僕に対してだけではないと思っていた。

 違うのかよ、僕が嫌になっただけじゃないか。

 それならそうと言ってくれたら、ヒロさんの恋路を素直に応援できたのかもしれない。でも、現実は違う。

 モヤモヤではなくて、ドロドロした汚い感情が僕に浮かんでくる。ハッキリ言うなら、憎悪が近いかもしれない。

 あんな女が幸せになるなんて許せない。そして、あんな女に惹かれるヒロさんもヒロさんだよ。

 そんな、自分のことを棚にあげたガキくさい心。

 その汚い心を認めたくない自分と、どうしても恨んでしまう自分。

 二つの感情のぶつかりは目から雫を、口からは息を押し出した。

 まだ好きとか、うまくいきそうなのがショックとか、そんなのじゃない。

 ヒロさんには幸せになってほしいし、文句をつけたい訳じゃない。フラれたことだって仕方ないしと思うし、新しい恋を見つけるのだってサキの自由だ。

 でもこんなのって、こんなのってあるかよ。

 膝を抱えて頭を埋め、僕は嗚咽する。誰かに救いを求めて。

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