予選開始までの日々

 特別なことはしなくて良い、辛そうなら話を聞けば良い。

 そんなアドバイスをもらった後の練習で会ったヒロさんは、少し機嫌が良くなっているように見えた。到着してスパイクに履き替えているときは鼻歌なんか歌ってたし、心なしか笑顔も漏れているみたいだった。

 練習時間より少し早く着いたヒロさんと僕は、雑談をしながらアップとしてグラウンドの外周を走っている。

「カズ、相変わらず調子良いよな。次の試合、ゴール狙っていけよ」

「いやー、いつも狙ってるんですけど、結果がですね……」

 伴わないんだよなぁ。シュートを打っても、良いコースにそれが向かっても、なぜかキーパーのファインプレーに阻まれたり、ポストに当たって外に弾かれたりしてしまう。

「それより、何かヒロさんご機嫌じゃないですか? 何か良いことでもあったんすか?」

 その問いかけに、ヒロさんは嬉しそうに返してくれた。

「この間の合コンで仲良くなった子がさ、今度の試合を見に来てくれるってさっきメールが届いてたんだ。だから、勝っていいとこ見せないとな」

うわっ、もう次を見つけてるんだ。さすがヒロさん。

 長い付き合いの彼女と別れて1ヶ月経つか経たないかというくらいなのに、もう新しい彼女を作ろうというのにはさすがに驚いた。試合中の攻守だけでなく、恋愛でも切替は早いらしい。

「確かにそれは、絶対勝たないとっすね。やってやりましょうよ、良いパスお願いしますよ。っていうか、ヒロさんもゴール狙って下さいよ」

 そんな軽口を返すと、「当然だろ、俺が決めるのはもう前提なの」と笑い飛ばされ、僕もその笑顔に安心しながら笑い返した。

 うん、シンヤの件は分からないけど、二つあった苦しみのうち片方が解決するなら、ヒロさんも少しは気が楽になるかもしれない。

 これは、次の試合は是が非でも勝って良いところを見させてあげないといけないな。

 そんな不純かもしれない動機で、僕は試合へのモチベーションを高めていった。

 ヒロさんの機嫌が回復しつつあるのを見たからなのか、僕も今日の練習では気分よくプレーができた。

 イメージ通りのボールコントロールであったり、シュートであったり。不調気味だった得点感覚も戻りつつあって、練習の最後に開かれたミニゲームでは何ゴールか決められて、何となくの手ごたえは感じられた。

 最後に、選手兼任監督のヤマさんが来週末の試合までの予定を僕たちに説明して解散となった。天皇杯予選ということで、県リーグの僕たちより上のカテゴリーのチームとの試合も行われる。もちろんそれだけ厳しい試合も増えるけど、強い相手と試合をするのは嫌いじゃない。

 負けたいって訳じゃないんだけどね。何だろう、強い相手に勝つことが楽しいのかな。勝つから楽しいっていうのも、何かちょっと違う気がするけど。

 初戦の相手は同じ県リーグ一部のチームということなので、そこで勝たないと上のカテゴリーのチームとは試合ができない。

 ヒロさんのためにも、自分の楽しみのためにも、絶対に負けられない。

 そう思うと気合いが入ってくるのと、やっぱり試合は楽しみだからって、自然と笑いが漏れてくる。

「カズくん、気持ち悪いよ」

 そんな僕を見ていたのか、ミユが近づいてきてボソッと呟いた。

「良いじゃん。楽しみなんだよ、試合」

「好きだねぇ、本当に」

 ベンチに腰かけてスパイクの紐を緩めていると、彼女も僕の隣に座ってきた。

「今、汗くさいから近寄らない方が良いよ」

「みんな汗くさいからどこにいても一緒だよ。それならカズくんが一番マシだから」

 そんなことを彼女がいうものだから、耳ざとくそれを聞きつけたヤマさんが「おいおい若者たち! 練習場でいちゃついてんじゃない! カズ、お前はグラウンド10周だ!」なんてふざけて言い始めた。それを聞いたチームメイトもみんな笑ってるし、ヒロさんも「カズが弟か……いや、妹をお前にはやらんぞ!」なんて言っている。

「いやいやいや……」

 何なんですか皆さんそのテンションは。

「えっ、カズくん、私じゃ嫌だ?」

 いや、そんなことを言ってる訳じゃないし。いやでも良いって言ってるわけでもないし……って、何を考えてるんだ僕は。

「ほら、トレパン脱ぐから後ろ向いて」

 そんな下手な誤魔化しが僕には精一杯だった。ミユからは「つまんないなぁ」、外野からは「カズー、意気地ねぇなぁ! 空気読めよー」なんてクレームが聞こえてくるけど、それを適当に流して僕は下を着替えた。

 他の人たちも着替え終わって、車所持組は各自車で帰宅。僕も普段は帰りはヒロさんに車で送ってもらってるんだけど、今日はヒロさんが噂の女性と会う予定があるらしく、急いで帰ってシャワーを浴びるということで、自分で帰ることになった。

 ヒロさんの妹であるミユも一緒に普段は三人で帰ってるんだけど、今日はヒロさんだけ車で僕とミユは歩いて駅まで向かうことになっている。ミユなんか、一緒の家に帰るんだから車に乗れば良いのに。

 ヒロさんは車に向かう前に「さっきはあんなこと言ったけど、お前が義弟になるのは全然オッケーだから!」なんてニヤニヤしながら言ってきた。まだそのネタを引っ張りますか。

 とはいえ、ミユもどうしてわざわざ僕と一緒に帰るんだろう。他のチームメイトにも冷やかされながら二人で帰り始めると、ミユが口を開いた。

「カズくんさぁ、明日早い? 今晩、時間ある?」

「大丈夫だけど……」

 どうしたんだろう、珍しいな。

 今までにもミユとご飯に行ったこととか、うちに遊びに来たことはあるんだけど、そういう時はいつもヒロさんも一緒だった。二人でそういうことになるのは何だか新鮮で、変に緊張してしまう。

「ごめんね、急に。ちょっと話したいことがあるの。ご飯行こ?」

 そう言って彼女は俯き調子で歩く速度を速めた。何となく、暗い空気だ。

 いつもバカみたいなやり取りをしているからかな、こんな雰囲気は何だか気まずい。僕、何か悪いことしたかな。

 グラウンドから駅に向かう道中にある、落ち着いた雰囲気のレストランに僕たちは入った。

 店内で一番奥の席に案内され、適当にオーダーをすると彼女は口を開いた。

「あのね、カズくん。私ね、浮気されたの」

「はっ?」

 つい口から変な声が漏れちゃったよ。何を言いだすんだ、こいつは。

「浮気って……誰に?」

「彼氏に……っていうか、他にある?」

「ミユに彼氏いるとか知らなかったし……」

「言ってなかったしねぇ」

 言ってなかったしねぇ、じゃないよ。急にそんな話をされても僕はどんな反応をすればいいのか分からない。


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 私の彼氏って大学の先輩なんだけどね、カズくんと同い年で一歳上なの。

 ユウヤっていうんだけど、結構かっこよくて人気だったのね。でも、浮気されたからって言うわけじゃないけど、女癖も悪いって有名で。

 そんな彼氏だってヒロ兄とか親にバレたら色々めんどくさいから、秘密にしてたんだけどね。

 付き合うようになったきっかけは、私が受けてる授業を彼も一緒に受けてたっていうことだったんだ。彼、朝が弱いらしくてさ。一限の必修授業の単位を二年生の時に取れなくて、三年生になった今取ってるらしいのね。

 それで、少人数の授業だから仲良くなって、一緒にご飯食べたり遊んだりしてたら告白されたのね。

 さすがに知り合って日も浅いし、女癖悪いらしいって友達に教えてもらってたからさ、私もちょっとどうかなって思ったの。でも、かっこいい先輩の彼氏がいるっていう状況に憧れてたのかな、オッケーしちゃったのね。クズだよね、私って。

 最初は彼も優しかったの。デートに連れて行ってくれたり、プレゼントをくれたりさ。

 でもね、だんだんそれが減ってきて、こう……言いづらいんだけど、ヤルだけやって帰るみたいなことも増えてきて。

 なんだかなぁって思ってたら、この間ホテルから女の人と出てくるところを見ちゃったのね。


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 そこまで話したところで、オーダーしていた料理をウェイトレスが運んできた。

 ミユはオムライス、僕はハンバーグのセット。両方にかけられているデミグラスソースの香りが広がって、ついお腹が鳴りそうになる。

「わー、美味しそ」

 彼女はそう呟くと、「食べていい?」と確認しながらも既にスプーンを手にしていた。そして、確認なんかしなくて良いと返すより先に既に頬張っている。

 僕も両手を合わせて小さく「いただきます」と呟いた。

「礼儀正しいね」

「いや、普通のことだから」

 ていうかさ、みんなやってなさすぎるんだよね、いただきますって。ご馳走さまもだけどさ。

 別に感謝の気持ちがー、とまでは考えてないけど、子供の頃からそれはクセになっていて、しないと食べる時に落ち着かないんだよね。

 箸で割って口に入れてみると、肉汁とデミグラスソースの味が広がってついつい頬が落ちてしまう。

 ミユも無心でオムライスを口に運んでいて、どうやら話は一旦置いておくつもりらしい。

 さっきまであんな話をしていたのに、無言になっても気まずい沈黙と感じないのはきっと料理が美味しいからなんだろうな。

 サッカーのトップ選手のプレーを見てる時と同じかもしれない。素晴らしいものは、僕たちを嫌な気持ちから遠ざけてくれる。

 二人して黙々と食べていると、あっという間にお皿は空っぽになった。

「で、ミユはどうしたいの?」

 食事で中断されてしまった話に戻ろうと、僕は口を開いた。

「どうしたいって?」

「いや、その彼氏と今後……」

 別れたい、とか。言及したい、とか。

「んー、特に何も」

「何も?」

 そんなので良いの?

「だって女癖悪いって有名だったから私が注意したところで変わらないだろうしさ。嫌われたくないし」

「じゃあ何で僕にその話を……」

 何か意見でも求められるのかと思ってたのに、そういうわけではないのかな。

「誰かに聞いてほしかったの。彼氏がいるってことは幸せだから秘密にできても、愚痴って話してどうにかなることじゃなくても、聞いてもらいたいじゃない?」

 なるほど。最近似たようなことを言われた気がするし、僕は割と聞き手としては優秀なのかもしれない。

「惚れた弱味なのかな、浮気とかしないでほしいんだけど、それを言って別れるよりは辛くても彼と繋がっていたいの」

 そう言って、ミユは笑った。どこかで見覚えがある、寂しそうな笑顔だった。

 レストランを出ると、彼女は「私もカズくんと二人でご飯に行ったって秘密を彼に作ったから、これでおあいこだね」と小さく呟いた。

 秘密のなかにも大小はあると思うんだけど、ミユが納得するならそれはそれで良いのかな。

「彼のこと、初めて話したんだよね。大学の友達にも、まだ付き合ってるって報告はしてないし」

「それはそれは光栄です」

「うん、誇りにして良いよ」

 そんな軽口を話せるようになったから、ミユも少しは気が紛れたのかな。根本的な解決はできてないけど、嫌な気持ちが少しでも減ったなら僕も付き合った甲斐があるというものだ。

「そういえば、この間はヒロ兄とも二人でご飯に行ってたよね。何の話してたの?」

「えーっと……」

 困った。彼女に心配をかけないためにヒロさんは僕と二人だけの状況を作ったのに、そんな聞かれ方をされるとは。

「いいよ、隠さなくて。知ってるから」

「えっ」

「彼女にフラレたって愚痴でしょ?」

 あ、そっちか。

「今朝ね、ヒロ兄に教えてもらったの。あれでも繊細だからね。すぐに新しくいい人に会えて良かった。試合を見に来てくれるってウキウキだったし、来週末は絶対に勝ってよね」

「もちろん!」

 その返事を耳にして、彼女はまた笑った。今度はさっきの寂しさを感じさせない、明るい表情で。

 試合に勝つ。そんなシンプルなことが、僕たちにしてみると何より大事なことなんだ。

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