第4話 生まれてはじめて
― どうして・・・この距離で聴こえないなんてこと、今までなかった・・・ ―
目の前に立っている男の感情は全く聴こえない。一瞬、自分の力が急に消えたのかと思ったがその考えは、聴こえてくる牧原と西川の感情にすぐに打ち消される。
「見てみろ水城、このチョコケーキ!昨日帰りに、三人で雪乃の学年トップのお祝いをしようって相談して、西川先生が買ってきてくれたんだぞ。うまそうだろ。」
「ゆきのんのおかげで、オンデマンドの導入もいい印象を与えられたのよ。これで、保健室に登校する生徒も学力に差が出ずに済むようになるの。でも、そんなことより本当に本当によく頑張ったわ。ささやかながらお礼もかねて選んだのよ、お金は牧原先生と柊先生が出してくれたけど。さあさあ、ろうそくたてて♡ほら、柊先生もそんなとこにいないで、ろうそくに火をつけるからライター貸してくださいな。」
名を呼ばれた柊は無表情のままスーツのポケットからジッポを取り出して渡した。
「あっつ、よし火が付いたぞ!」
「わぁ、きれーい!ゆきのん、おめでとうっ」
となりで笑ってくれる西川や牧原から流れ込むぬくもりに、
― わすれじの ゆくすえまでは かたければ けふをかぎりの いのちともがな ―
大好きな一首を思い出して、ろうそくのゆらめく明かりに照らされた雪乃の顔に喜びと切なさが入り混じった表情が浮かんだ。
儀同三司母が詠んだ歌。「いつまでも忘れない」というあなたの言葉が、遠い将来まで変わらないというのは難しいでしょう。だから、その言葉を聞いた今日を限
りに命が尽きてしまえばいいのに、という歌。
初めてその歌の訳を知った時、雪乃は痛いほどに共感した。
幸せな時は、もろく儚いものだ。まるで春霞のように不確かで幻のように消えてゆく。ならば、せめてその幸せな時間が消えないうちに、たとえそれが夢幻であったとしても、その夢から覚めないうちに、消えてしまえたらきっと、きっとどんなにか幸せなことだろう。辛くて苦しい時、雪乃は何度もこの歌の書いてあるページをなぞりながら、その夢に想いをはせた。将来に希望の光なんて見えない雪乃がたったひとつ大切に抱く夢は、この歌にすべて詰まっていた。
― 今この瞬間、ろうそくの灯が消えるように私も消えてしまえたら・・。 ―
「火、消していいぞ、水城。」
雪乃の思考を、ぶっきらぼうでありながら、あたたかな声がさえぎる。はっとして顔をあげると、自分を見ている柊の顔があった。目が合う。けれど柊は目をそらさなかった。目の奥をまっすぐに覗きこまれ、消えたいという想いを見透かされた気がして、雪乃のほうが思わず目を逸らす。
「あぁ・・はい。」
相変わらず、何も感情は聴こえない。授業を受けていた時から感情の聴こえづらい人だとは思っていたが、それは雪乃の席が教卓から一番離れているからという理由だけではないようだった。ふっ、とろうそくの灯を消すと、牧原と西川が拍手をしてくれた。こんなに喜んでくれるなら、もっと早く取れればよかったかなと思う。まぁ、授業が聞けてなかった以上、それは難しい話だったのだが。他人の幸せを、まるで自分の事のように喜んでくれる二人に、雪乃の胸は熱くなる。涙の流し方を忘れてしまっていなければ、きっとぼろぼろと泣いていただろう。
「あり・・がとうございます。本当に・・ありがとうございます。」
偽りのない本心からの言葉が思いがけずこぼれて、はっとなる。途切れ途切れの言葉に二人がいぶかしがってないか、急いで確認した雪乃の目に映ったのは、包み込むようなまなざしで見つめる、二人の笑顔だった。
― やっと、本心からの言葉らしき言葉が聞けたかな。いつも、何かをこらえているかのように必死で無理して心配かけまいとしてる姿がけなげで痛々しくて、教室でもそんな感じで、友達は多そうだけど本音は誰にも言えてない感じだったし。入学した時から心配だったんだが、気づかれまいとしている姿を見ると、触れることもできなくてただ見守ってることしかできなかったけど。やっぱり柊先生が言った通り、思い切ってオンデマンドにさせてみてよかったのかもしれない。こんなに子どもらしい顔を初めて見られた。 ―
― ゆきのん、いい具合にほぐれてきてて本当によかった。初めて保健室で眠ってるのを見た時は、子どもなのになんていまにも張り裂けそうな空気をまとった子だろうと思って心配だったんだけど。本当に、いろいろ、よく頑張ったわね。笑ってくれて、本当に、よかった。 ―
「・・・っ」
聴こえる雪乃への想いがあたたかくて、ただただあたたかくて。赤の他人で、ただの生徒のうちの一人でしかない自分をこんなにも心配してくれる人が、この世界にいたことにびっくりしていた。自分なんかがこんなに幸せでいいんだろうか、そう思って柊の顔を見ると、まるで雪乃の考えていることがわかるかのように、柊は雪乃の目をまっすぐ見据えたまま、微かにそっと頷いた。
「さぁ、ケーキを切るわよ~、コーヒーあるわよ。今日の一限目は全校集会だし、具合悪い生徒もいないから、ゆっくり食べましょ♡」
「うまそー!」
コーヒーの香りが保健室に広がり、ケーキの甘い香りが鼻をくすぐる。
「はい、ゆきのんの分のカップ♡」
半分の面に桜の花びらが、もう半分の面に雪の結晶の模様があしらわれた可愛らしいマグカップを差し出され、雪乃の目が丸くなる。
「これ・・すごくかわいい・・。」
「それ、ゆきのんのカップだから♡」
「え?」
西川はにっこり笑って、カップを白くてすらっとした指で指した。
「カップの底。」
落とさないように、そぅっと覗き込む。
「!!」
カップの底には、西川がいつも塗っているマニキュアで、Yukinon♡と書いてあった。そのマニキュアは、雪乃がいつもきれいだなと見とれていたものだったし、雪の結晶と桜の花びらは、雪乃が大好きな模様だった。いつだったか、好きなものを聞かれたときにダークチョコレートと桜と雪の結晶と答えた覚えがあった。
あれを、覚えていてくれたのか。あんな、たわいのない、世間話のような会話の中に散りばめられた、雪乃の好きなものを、この人は覚えててくれたのか。
「これは個人的なプレゼント。ゆきのんが保健室に来てくれるようになってから、あたしも毎日結構楽しいから。幸せ分けてくれてありがとうって気持ちと、これからも、もし、ゆきのんさえよかったらよろしくって気持ちをこめて!」
西川の感情は言葉のままだったので、自分さえよかったら~の下りの意味が分からず、牧原と柊のほうを見ると、牧原が言いにくそうに口を開いた。
「実は、今回のテストまでが一応、一つの区切りみたいな感じなんだ。水城の成績は十分すぎるくらい参考になったし。だから、今後も引き続き水城がモデルケースとしてやってくれたら、俺らはうれしいんだけど、この授業形態を続けるかどうかは水城に決める権利があるってことなんだ。」
決して驚きはしなかった。こういう形態は特殊なのだ。終わりが来ないほうがおかしい。ふと、次もこの特殊な環境に身を置くのが自分でいいのだろうか、と思う。学校側からすれば、なるべく多くのデータが欲しいところだろう。自分ばかり欠課の心配もなく内申をあげてもらうのはなんだかずるい気もする。西川と牧原は、雪乃が引き続き来てくれることを望んでくれているが、きっと雪乃を心配しているからこそだと思う。
- 雪乃はいつも特別扱いさせちゃってずるいよね。 -
― 好きで勝手にやっといてなに被害者ぶってんだよ。虫が良すぎるんじゃないのか。―
仁美や父親の声が雪乃の中に響き始める。つまさきと指先に、しばらく感じていなかった冷たさを感じて、思わずうつむいた。今は倒れたくなかった。こんな自分を祝う席をわざわざ設けてくれたのだ、もうこんな幸せには一生巡り合えないかもしれない。16年生きてきて初めてだったのだ。幸せな時間がもろく儚いものだとは痛いほどわかってる、けど、せめて、あともう少しだけでいいから、このままでいさせてください。雪乃はどこにいるともわからない神様に、いつもは信じていない神様に、この時だけは必死で祈った。机の下で、手のひらに爪が食い込むほどに手を握りしめる。心配を、かけたくない。このやさしい時間を、もう少しだけ味わっていたい。なんとしても抑えなければ。顔をあげると、目の前で心配そうに二人がこちらを見つめていた。爪が食い込んだ部分から、赤いしずくが床にぽたり、と落ちた時、雪乃の手足に胸がざわめくような言い知れぬ感覚が走った。机の下の手をそろりそろり見てみる。
指先の輪郭が消えかけていた。
何が起きたかわからず、もう片方の手で消えかけている指先をこすろうとするも、重ねた手から、スカートが透けて見える。
「どうかした?ごめんなさい、急な話だったから・・ゆきのんを困らせちゃったかしら?」
はっとして見上げると、西川がきれいな瞳に不安の色を浮かべている。牧原は心配そうにこちらを見ている。
「そっ、そんなことないですよ。なんとなく、そんな気はしてましたし。」
慌てて言うと、二人は顔を見合わせて、それから雪乃のほうを向いて肩に手を置いた。
「いいんだぞ、教室帰りたいなら無理に続けなくたって!」
「いいのよ、このままこれからもここにいたって!」
あまりの二人の剣幕に、雪乃は目が丸くなる。と同時に、二人のあたたかな、同じ想いが流れ込んでくる。
― 水城が(ゆきのんが)、どうしたいかが、一番だ(一番よ) ―
体から力が抜けてゆく。雪乃の口元にふっ、と笑みがこぼれた。
― わたしは・・・ ―
「このまま、続けさせてください。」
雪乃の言葉に、西川が抱きついてきた。聴こえる感情が口からもダダ漏れなので、二倍、喜びが伝わってくる。ちらっと見ると指先はちゃんと輪郭を取り戻していた。見間違いだったのかもしれないと思い、牧原を見ると、牧原も心から喜んでいるようだった。西川の腕の中から、ふと、柊と目が合う。やはり感情はよめないものの、柊の目は優しく雪乃を見つめ、口元に笑みを浮かべていた。
「それじゃあ、改めて!」
「いっただっきまーす!」
雪乃はコーヒーの入ったマグカップを、そっと手のひらでつつみこんだ。コーヒーの熱が傷口にしみたが、今はその痛みさえも心地よく思えた。
ほんの小一時間で、こんなにも人のやさしさに触れたのは初めてだった。ただもううれしくて、ありがたくて、なのになぜか、せつなくてさみしくて。
窓の外からうっすら先生の誰かがマイクで話している声がする。初夏の日差しが新緑をきらきらと輝かせてまぶしい。
心が読めて良かったと、雪乃は生まれて初めて、そう思った。
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