第5話 あたたかな場所
あたたかな気持ちが体にまだ満ちている。
結局保健室を出るまでお祝いは続いてしまい、生徒が来るたびに何でもないふりをしなくてはならず、生徒が帰っていくとみんなで顔を見合わせて笑い、おいしいケーキに心も舌もとろかされれて、お祝いを続けて気づけば夕方になっていた。靴箱を出たところで、ふと校舎のすみで植木鉢に植えられ揺れている名前も知らない白い花が目に留まり、雪乃はふっと微笑んだ。前から花は好きだったが、その白い花は、なぜだろうか雪乃に手招きしている気がしたのだ。普段ならそんなことを感じる余裕もなかったかもしれないが、心が通う気持ちよさを初めて知った雪乃はこの気持ちを誰かに話したくてたまらなかった。
「お母さんは・・きっと興味ないだろうしな。お父さんは私が幸せそうだと、なんだかイライラしちゃうみたいだし・・。」
花びらが風に揺れて、ふわりと香りを運んでくる。まるで、私が聞いてあげるよと言っている気がして、雪乃は思わず笑った。
「じゃあ、お言葉に甘えて。」
花は答えるように揺れた。雪乃は花の隣にハンカチを敷き、その上にそっと座った。
「あのね、今日ね、みんなが祝ってくれたんだよ。」
あたたかな時間が胸に甦って、ほっこりした想いに体がつつまれてゆく。西川と牧原の笑い声がまだ耳に残っている。体に添えられた西川の手から伝わるあたたかさが、まだ残っている。見守るような柊の視線も、残っていた。
「全部がね、あたたかかったんだよ。」
花は静かに風に揺れている。
「笑ってくれて、うれしかったんだよ。」
いい成績をとっても、学校で賞状をもらっても、両親が笑いかけてくれることなんてなかった雪乃にとって、それは初めての経験だった。友達から聞いたことはあっても、自分には決して叶うことはないと諦めていたことの一つだった。
「いっぱいいっぱい褒めてくれたんだよ。」
差し出されたカップは、初めてもらったご褒美で、雪乃の事を一生懸命考えながら選んでくれたのが伝わってくる一品で。底には西川愛用のマニキュアで名前まで書いてくれて。
「おまけにご褒美までくれたんだよ。きれいなきれいなカップ。」
風が吹いて、花の香りがふわりと広がる。
「あぁ、いい香り。ふふ、あなたも祝ってくれるの?ありがとう。」
ふと見上げた夕暮れの空は、薄紫色に染まった雲がゆるゆると風に流されながら、少しずつ薄まってゆく茜色を帯びた空に浮かんで、悲しいほどに綺麗だった。ずっと眺めていると、なぜか胸の奥が締め付けられる。一刻一刻と色が変わってゆく空は、どの一瞬であっても全く同じであることはなくて。まるで、まるで人の心のようだと思う。
「ずっと・・・」
― ずっと変わらないでいられたらいいのに・・・ ―
今日の笑顔がよみがえる。隣で心から笑ってくれる人がいることがこんなにもあたたかいのだと知ってしまった。思わず、表情を取り繕うのを忘れて一緒にわらってしまった自分を見て、それだけでまた、喜んでくれて。
― ずっと・・・ずっとこのまま・・先生たちの隣で笑っていたいよ・・。 ―
声に出してしまいそうになって思わず口をつぐんだ。それはきっと、時間の流れるこの世界では・・一番難しいこと。
「今日は、少し贅沢になりすぎちゃいましたね。」
へらり、と笑って花を見ると少し花を閉じかけていた。
「あぁ、疲れさせちゃいましたね。長く喋りすぎましたか。」
初夏の風がなまあたたかく髪を揺らしてゆく。
「けど・・」
家の空気を思い出すと、あたたかかった部屋に冷たい冷たい隙間風が吹き込んでくるような感覚に陥る。この地球上で自分が帰るべき場所の存在が、こんなにも足を重くさせるのは今日に限ったことではなかった。
「世の中には帰れる場所がない人もいるんだもの、贅沢言っちゃいけませんよね。」
口に出したその言葉の嘘っぽさに、思わず花から目を逸らした。小さなころから、休校や家に早く帰れることになった時の友達の喜ぶ顔が不思議でならなかった。雪乃は家に帰りたいと思ったことはなかったから。息の詰まるあの重たく冷たい空気。どんなにうれしいことがあっても、家の玄関に入るとそれは一瞬で消えてしまった。雪乃がはしゃいでいても母親はするりとそれをかわし、すぐに現実的な厳しく無機質な会話を投げてきた。口をひらけば受験や将来の就職、社会の厳しさ、父親の出来の悪さの話ばかりで、雪乃の喜怒哀楽を共感してもらえたことはなかった。お小遣いも、みんなが持ってる色ペンも、かわいい消しゴムも、髪を結わえるキラキラのシュシュも、勉強に必要ないと何一つ与えてもらったことがなかった。まるで、勉強の事から目を逸らして少しでも楽しいとか嬉しいといった感情を抱くことは悪いことなのだと言われ、そうでないように見張られている気がしてきて、たとえ自分の部屋にいても少しも気が休まらなかった。
「・・帰りたく・・・ないなぁ・・。」
思わず出た本音に、はっとして口をおさえる。周りを見回して、誰もいないのを確認すると安堵のため息がこぼれた。今日は少し、正直な気持ちが出すぎるようだ。いつのまにかほっこりとしたあたたかな気持ちはどこかへ消えてしまっていた。花も完全に閉じてしまっている。空がはかなげな茜色から、ひんやりとした青紫色に移り変わろうとしていた。
「・・かえらなきゃ・・・。」
帰りがあまりに遅いと、母親が怒るだろう。いつも雪乃を殴る機会を虎視眈々と狙っている父親が、その怒りに便乗して雪乃をここぞとばかりに殴るかもしれない。そうすればきっと痣ができてしまう。これから夏に向かうにつれ、着るものが薄くなっていく。痣を隠すのは難しくなるから、できるだけ殴られるのは避けたかった。
「・・はぁ・・・。」
大きなため息を一つ、抑えめにこぼして立ち上がった。ハンカチをはたいて折り畳み、ポケットにしまう。まるで心配しているかのように花が揺れるのを見て、雪乃は困ったように微笑んだ。
「ありがとう。大丈夫だよ、大丈夫。」
日中の優しい笑顔を思い出す。あのあたたかな笑顔が、場所が、壊れてほしくなかった。今の雪乃の様子を見たらきっと、みんな本気で心配するだろう。牧原は気づかなかったことを心底気に病むだろうし、西川なんかは、怒って両親に猛抗議するかもしれない。柊は・・・
「本気で怒らせたら怖そうだなぁ・・。」
けれど、あのあたたかな目に怒りや陰りが生じるのは見ているこっちがつらい、と雪乃は思う。あたたかな、心安らぐ場所を壊したくない。みんなに心配かけたくない。迷惑を、かけたくない。雪乃の両親が、雪乃を心配した教師を「子供の一生に責任を持たなきゃならないのは親だけなんです!教師は卒業すれば他人ですけどね!」の一言でぐうの音が出ないように言い負かしてきたのは一度や二度のことではなかった。そう言われた教師は、次の日から雪乃の目を見なくなり、態度もよそよそしくなった。教師たちの雪乃に対してすまないと思っていながらも、関わり合いたくないという感情が聴こえてきて、悲しいけれど、どこかで仕方ないと思ってしまう雪乃がいた。裏切られたとは思わなかった。思えなかったといったほうが正解かもしれなかった。なぜなら、聴こえた感情には、雪乃の両親からの言葉で、教師になりたいと思った動機の根幹すら揺るがされそうになったことに必死で抵抗する心の葛藤が、痛みが、たくさん含まれていたからだった。あんまりに痛そうで、苦しそうで、雪乃はのばしかけた手をそっとひっこめて、自分は大丈夫だからと微笑むしかなかった。せめてこれ以上、苦しめずにすむように。何度も、何度もそれは起こり、その度に、目を逸らす教師の背中を追う事が出来なかった。人生の意味そのものを揺るがし思い悩ませてしまう痛みを毎日味わっている雪乃は、誰よりきっと、その苦しさがわかるから。自分といれば、自分が頼れば、自分が毎日しているのと同じ思いをさせてしまうのなら、誰にも頼るのをやめようと心に決めるまでそんなにはかからなかった。どんなに苦しい時も、どれだけ悲しい時も、嘘でも笑っていようと思った。目を逸らした教師たちの心の中は、雪乃を見捨てたという罪悪感と、教師は実は無力で何もできないんじゃないのかという恐怖でいっぱいだった。そんな思いを、あの人の好い人たちの、優しい時間に持ち込ませたくなかった。自分がちゃんとうまくやれれば、あの時間は壊れないのだ。卒業するまで隠し通せれば、少なくとも、あの三人の笑顔は守る事が出来る。こんな自分にも守れるものがあるのだということに気づいて、雪乃の目に今までにない光が宿る。
「・・・よしっ。」
深呼吸する。胸いっぱいに吸い込んだ空気は、日に焼けた草の香りがした。
「じゃあ、またね。」
答えるように揺れる花に、どこか吹っ切れたような微笑みを投げかけ、雪乃は家への道を急いで帰っていった。
雪乃の足音が遠ざかってしばらくして、花の植わっている植木鉢の置いてある前の部屋の窓がカラカラと開いた。窓から顔を出したのは柊だった。この部屋は国語研究室で国語に関する教材やら資料やらが置いてあるが、柊しか使っていないため、ほぼ柊のプライベートルームと化していた。柊は雪乃がいないことを確認すると胸ポケットから取り出した煙草に火をつけた。
「ふぅーー。」
煙草の煙を口から吐きながら、夕闇に消えてしまいそうな雪乃の後ろ姿を横目で見送る。
「・・・無理をするなって、言ってるそばから・・・。」
― 今まで以上に気を付けて見といてやらねぇと・・・今日の保健室でもそうだったが、不自然なほどに早く進んでいて、今のままではバランスが危うすぎる・・。このままじゃあ、そう遠くない未来・・。 ―
暮れなずむ薄紫の空に、紫煙がゆるゆるとたちのぼり溶けてゆく。しばらく物思いにふけった後、辺りを見回し、誰もいないことを確認して、柊は先ほどまで雪乃が話しかけていた花に声をかけた。
「よぅ、元気か?」
閉じた花は、柊に話しかけられると返事をするかのようにゆらゆらと揺れた。
開け放った窓に軽く身をもたせかけ、煙草をくゆらせながらしばし考えた後、柊は花にぽつりと聞いた。
「今・・幸せか?」
花は、風もないのにまるで頷くように揺れた。
「そうか・・・。」
柊の目が切なさそうに陰った。
「幸せ・・・なのか・・・。」
遠い昔に置いてきたはずの記憶が、まるで昨日のことのように甦る。柊は顔をしかめた。この学校に赴任してきてから、思い出す頻度が以前にも増して多くなっていた。もうその日の事を記憶している人は自分しかいないだろうに、当人も幸せだと言っているのに、どうして、なぜこんなに苦い思いを未だに噛みしめているのだろう。ふと、「恭也さん。」とやわらかく呼んだ、かつての笑顔が鮮やかに目の裏に浮かぶ。
「あぁ・・・そうか・・。」
煙を吐いて、一人つぶやいた。水城雪乃はよく似ているのだ。いつも心配をかけまいと、華奢なその背で何もかも一人で背負い込んで、自分の事で小さな胸はもういっぱいいっぱいであふれそうなのに、そのくせ他人のことまで心配して、諦めたように笑っていたあいつに。
山の向こうに見える空はもぅすっかり夜の色だ。残された淡い薄紫が少しずつ闇に呑まれて消えてゆく。きらり、と光っているのは一番星だろうか。何の迷いもなくまっすぐ光る姿は、まるであの日の自分を見ているようだ。
痛みをこらえたような表情で空を見上げる柊の鼻を、花の香りがくすぐった。見ると、先ほどまで閉じていた花が花びらを全開に開いている。
「・・お前に元気づけられてちゃ、しょうがねぇよな。」
花がふるふると首をふるように揺れた。
「なぐさめてくれんのか?・・・ありがとよ。」
窓枠に足をかけて、ストンっと地面に飛び降りると、花が心配げに揺れた。
「大丈夫だよ、これくらいでケガするほど年くっちゃいねぇし、そもそも俺は年取らねぇし。おまえは本当に、昔から心配性なんだよ。」
そっと植木鉢を抱えると、花は安心したようにいい香りを漂わせたあと、静かに花びらを閉じた。
「悪い、もう眠る時間だったんだな。」
微かに揺れる花に、柊はそっと笑いかけた。
「ありがとな・・。おやすみ・・
答えるように微かに揺れた後、花は完全に動かなくなった。
― ・・・おまえは気づいていたんだな。水城が、あいつが、自分によく似ていること。だから、わざわざ水城を呼んで話を聞いてやったんだな。そしてそれを俺にも聴かせたんだな。気づかせるために。 ―
― あいつがもうすぐ・・自分と同じ、人の身でいられなくなるかもしれないことを・・。 ―
柊は雪乃が走って帰っていった道に目をやった。街灯もついていない夜の闇に呑まれた道の先は、柊の細い目をより細めて見ても、もう何も見えなかった。植木鉢を持つ手に思わず力が入る。その時が来たら、あいつは、水城は、どう選ぶのだろう。いや、その選択に気づかせないまま、何事もなく人のまま生きてゆけるようにサポートするのが一番なんじゃないだろうか、今まで何百年も、ずっとやってきたように。
けれど、今回ばかりはなぜか迷いが生じるのだ。水城の、痛みをこらえたような、諦めたような笑顔が、あの日の小春とだぶって見えるからなのだろうか。
「生き続けるよりもね、幸せの真ん中で、死ぬほうがきっと、ずっと、幸せだと思うの。」
諦めたようなやわらかな悲しい瞳で、夜桜を見ていた小春の姿を思い出す。
「だから、きっと、わたしは幸せ者だわ。」
あの時の自分は泣いていたのだろうか。小春が死んでゆくのがただ悲しかったのだろうか、それともそんな風に自分の命を簡単に諦めてしまえるような小春が憐れでならなかったのだろうか。
花を抱えて部屋に戻る柊の横顔は、初夏のしっとりとした夜闇に溶けて、誰にも見えなかった。
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