第6話 幼き日の出会い
カタン・・・という音が、夜の静けさの中に響く。
一階の部屋で眠っている両親を起こさないように、雪乃はそぅっと、そぅっと、天井まである窓を開け、続いていた雨が途切れ、久しぶりに蒼く照らされたバルコニーへと一歩踏み出した。途端、生あたたかい風が雪乃の体を包み込む。胸いっぱいに吸い込んだ夜風は、まだ少し雨の香りがした。
「・・・っ・・はぁ~・・・。」
首にかけた水晶のペンダントをにぎり、吸い込んだ息を思い切り吐き出す。胸の中にたまった冷たく重たいものが、月の光に照らされて、昇華され体がすぅっと軽くなる気がした。
お祝いをしてもらってから、一か月が経とうとしていた。雪乃が学年トップをとってしばらくして、それまで一度も来なかった仁美が急に保健室に姿を見せるようになった。仁美は保健室に来るたび、西川と楽しげに話して盛り上がっていたり、雪乃を気遣うような言葉をかけたり、クラスの近況報告をしに来た。けれど聴こえてくる仁美の心の中は、雪乃への激しい嫉妬と、どうにかして学年トップになった方法を暴いてやろうといったどす黒くどろどろとしたものが、際限なく湧き出すようになっていた。できれば接触をとりたくはなかったが、西川や牧原は、仁美が雪乃を想ってくれているのだと純粋に心底喜んでいるので、雪乃もなかなか仁美から逃げることができず、まさか聴こえることを二人に話すわけにもいかないため、ただ笑顔を作って耐えているしかなかった。そのため雪乃の心は毎日、冷たく暗い場所とあたたかな場所のはざまで、危ういバランスで揺れることとなり、今週は梅雨の時期のどんよりとした空気も手伝って、もうすでに四回、オンデマンド授業の最中に倒れてしまっていた。
意識を無くすたび、雪乃はあのときの、まるで太陽のようなぬくもりを感じさせる声を聴いた。
その声はいつも雪乃に「行くな。」と告げた。行ってはならないと、その身を・・・と化してしまうほどに無理をするな、と。一体、どこに行くなと言っているのか、雪乃には見当もつかなかった。身を・・・と化す、とはどういう意味なのだろう。
けれど、二週間前に倒れたとき、聴こえる声がだんだんと聴こえづらくなっていることに気がついた。あたたかかった光も少しずつ薄れていっているようだ。
それに反比例するように、闇の中での雪乃の体の輪郭が初めてぼやけた時よりもはっきりと、闇に溶け始めた。最初はこわかったが、最近ではそれにも慣れてきて、闇に溶けるのが心地よくなってきてさえいた。
だが、あたたかな光がささなくなってからも、あの声だけは、聴こえ続けた。聴き流してもいいはずなのに、雪乃はその声を聴き流せなかった。その声は、本当に雪乃を心配しているように感じるからだ。どうして聴こえるのか、誰の声なのか、何を伝えようとしているのか、考える雪乃の顔色はここ数日、西川が心配しすぎてブランド物のブラウスに盛大にコーヒーをこぼすくらいにとても青白かった。
雪乃の家は、お屋敷というのが正しい家だ。三階建ての古い洋館で、門から入り口まではざっと五分ほど歩くだろうか。途中の庭園は、庭師のおじいさんがよく手入れをしてくれているおかげで、季節ごとに花が咲き乱れとてもきれいだった。雪乃の部屋は三階の真ん中で、広い部屋には幼いころから使っているキングサイズの天蓋付きベッドとアンティークの鏡台やドレッサーが置かれている。部屋は白を基調とした隙のないエレガントな雰囲気で、ベッドには細かな刺繍が施されたカバーがかけられたクッションがいくつも置いてあった。調度品やカーテンや絨毯、どれも良い物ではあるのだろう。きっと贅沢なことなのだろうと思うけれど、部屋のすべては母親の趣味で、雪乃の好きなぬいぐるみやふわふわもこもこの、あたたかみのあるものは、ひとつたりとも置かせてもらえたことがなかったため、雪乃はあまりこの部屋が好きではなかった。部屋の外には広いバルコニーがついており、バルコニーにはテーブルセット一式が置かれていて、雪乃は部屋で過ごすよりもバルコニーで過ごすほうが好きだった。
今日も月は蒼く、ただそこに光っている。雪乃は夜が好きだった。周りが寝静まってしまえば、流れ込む感情も減り、静かな、自分の心の声だけが聴こえる空間となる。そしてその空間は、どんな悲しみも、どんな痛みも、夜のとばりがきれいに隠してくれる空間だからだ。どれほど苦しみで歪んだ顔をしても、闇に隠された中では、誰にも心配もかけなければ、殴られも咎められもしない。体の痛みも、心の痛みも、月はそのすべてを、やさしく、やわらかく、ただ見守っているだけだ。そのやさしさが心地よかった。悲しいほどにやさしい、その光が照らすバルコニーでの時間、それが雪乃の唯一心休まる時間だった。
雪乃は月の光の下で長い髪をとかしながら、ふと、幼い頃に出会った人の事を思い出した。
雪乃がまだ幼稚園生だったころ、雪乃が一人幼稚園のクローバー畑でシロツメクサのかんむりを作っていた時の事だった。ふと目を上げると、見知らぬ男の人が立っていた。
「だあれ?」
と幼い雪乃が尋ねると、男は
「今日からこの幼稚園にきたんだよ。
と答えた。
黒木はことあるごとに雪乃に声をかけてきた。あの頃は、まだ小さくてなんとも思っていなかったが、今思えば、他の園児たちに交じらずに一人で遊んでばかりの雪乃の事を心配していたのかもしれないと思う。聞こえる声と聴こえる声の聴き分けがつかなかった雪乃は、なかなか園児達にも、幼稚園の先生達にもなじめていなかった。
いつしか、そんな雪乃の隣に黒木がいるのが日常となった。他の先生も、まるで新参者に厄介者を押し付けるかのように、雪乃の事は全て黒木に任せるようになっていた。
ある日、雪乃は父親に殴られた際にできた痕を隠すために目に眼帯をしていた。幼稚園のほうには、ものもらいができた、という説明を母親がしていたのを覚えている。その日、いつものように黒木が雪乃のほうに歩み寄ってきて雪乃の顔をのぞきこんだ、その時の顔は、今でも忘れられない。黒木は、一瞬目を見開いて、そして、痛みを一生懸命我慢しているかのような、悲しい切なげな笑顔を浮かべていた。
幼いながら、なんだか苦しそうな黒木の表情に、雪乃は
「せんせー、どこかいたい?だれかにたたかれたの?いたいのいたいのとんでけー。せんせーのいたいの、雪乃にうつれー。雪乃がせんせーのいたいのもらってあげるから、だいじょうぶだよー。」
と言って黒木の頭を、あざの残る小さな手でなでた。
黒木は、はっとした表情をした後、顔を苦しそうにゆがめて幼い雪乃をぎゅぅっときつく抱きしめた。雪乃は後にも先にも、黒木以外の誰かからぎゅっと抱きしめてもらったことはないからだろう、そのころの記憶だけはとても鮮明だ。
翌年の三月、黒木は桜の花びらが春の風にひらりはらり舞い散るころ、別の幼稚園に移っていった。離任式の日、雪乃が、せんせいのおへや、と書かれた部屋のドアを開けてそぅっと中を覗き込むと、気づいた黒木はすぐに部屋から出てきた。
雪乃の目線に合わせてしゃがみ込む黒木に、雪乃は白いかんむりを差し出した。雪乃が黒木と初めて出会ったときに、黒木が、黒木だけが、いっしょに作ってくれた、思い出のかんむり。まだ幼稚園には咲いていなくて、でもどうしてもあげたくて、あちこちでしろつめくさを探して集めて作ったそれは、少し、しおれていびつな形になっていた。
あまりきれいにできなかったから喜んでくれるかわからなくて、うつむきながら差しだした雪乃の頭に、あたたかなものがさわった。顔を上げると、黒木が、雪乃の頭をなでながら、あの痛みをこらえたような顔で笑っていた。いたいの?と問いかける前に、雪乃の小さな体は黒木にぎゅぅぅっと抱きしめられた。黒木は、しばらく雪乃を抱きしめた後、首から小さな水晶のペンダントをはずし、雪乃の手のひらにおいた。
「雪乃ちゃん、かんむりのお返しに雪乃ちゃんにこれをあげる。」
雪乃は、首をかしげた。
「でも、お母さんとお父さんに怒られちゃう。それに、せんせーのだいじなものじゃないの?」
黒木は困ったように笑った。
「うん、すごくだいじなものだよ。」
「じゃぁやっぱ・・」
でもね。そういって黒木は雪乃の、新しい痣ができている、ちいさな手をそっと包み込んだ。
「先生は代わりにこのかんむりがあるから大丈夫。」
そういってにっこり笑う黒木に、雪乃は困ったように首をかしげた。
黒木は、ペンダントを小さな布の袋に入れて、雪乃のポケットにいれた。
「いいかい、このペンダントをもらったことは誰にもないしょだよ。」
「ないしょ?」
「そう。」
黒木はいたずらっぽく笑った。
「このペンダントはおまもりだよ。雪乃ちゃんのつらいこととか、かなしいこととか、いたいこととか、ぜんぶ、このペンダントがとってくれるんだ。」
雪乃は目をまん丸く見開いた。
「まほー?」
雪乃の無邪気な顔に、黒木はどこかほっとしたように笑った。
「そぅ。魔法のペンダント。辛いことがあった時はそれを持って、月の光を体いっぱいに浴びるんだ。」
「おつきさま?」
「うん。」
黒木は人差し指を口に当ててやさしく、まるで月のようにやさしく微笑んだ。
「そうしたら、きっと、お月様が雪乃ちゃんの痛いのを治してくれる。そしていつか、雪乃ちゃんを痛いことからバイバイさせてくれるよ。」
「ほんと?」
じゃあ、これをお母さんに貸してあげたら、お母さんは笑ってくれるかな、と考えた雪乃の心を読むかのように黒木はこう続けた。
「でも、それは雪乃ちゃんにしか効かないお守りだから、他の人に渡しちゃだめだよ。」
がっかりした顔をする雪乃に、黒木は困ったような笑顔で笑いかけた。
「そのペンダントは、僕は雪乃ちゃんに持っていてほしいんだ。雪乃ちゃんが持っていてくれないと、僕悲しいよぅ。」
そう言って泣きまねをする黒木に、幼い雪乃は本気で慌てて
「わかった、雪乃誰にも言わないし、誰にも貸さない。」
と約束したのだった。
髪の毛をとかし終わり、ふと我に返る。今考えると、その約束が、雪乃が毎日月の光を浴びるようになったきっかけだったように思う。小学校に入ってしばらくして、魔法はこの世に存在しないものだと知ってからも、黒木のあの日の目を思い出すとなぜか約束を破る気になれなくて、雪乃は両親の寝静まったあと、こっそりペンダントをつけて、月の光を浴びた。小学校を卒業して中学に上がり、辛いことや痛いことは日増しに増えていって、月の光を浴びる回数も増えて、今では月の出た夜はいつも、バルコニーに出て月光を全身にたっぷり浴びるのが習慣になっている。
雪乃は夜空を仰いだ。梅雨の終わりの夜に光る星は、どこかうるんだような光を放っている。まるで、あの日の黒木の目のようだ。懐かしい気持ちになって、黒木先生は元気にしているだろうかと考えた雪乃はふと首をかしげた。
― そういえば・・黒木先生の心の声は一度も聴いたことなかったな・・・。 ―
柊といい、黒木先生といい、どうして心の声が聴こえないのだろうか。
― ・・・ふたりとも・・おんなじ目をしてる気がする・・・。 ―
考え込む雪乃のペンダントの水晶に、月の光があたって、はねかえり、闇に慣れた雪乃の目を刺した。
「まぶしっ・・」
反射的に手で目をかばう。
「・・・?」
まぶしさが一向に収まらない。
不思議に思い、おそるおそる目を開けた雪乃の目の前には、本来手でさえぎられて見えるはずがない、夜の街の景色がはっきりと、広がっていた。
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