第7話 迷いと異変

― たすけて・・・だれか・・。 ―


誰かが助けを求める声がする。


― 消えてしまいたい・・。 ―


声が聴こえた方向を目をこらして見ると、髪の長い少女が暗闇の中でうつむき、泣いている。

少女の着ている真っ白なワンピースが、ぼんやりと闇に浮かび上がる。


柊は少女に懸命に呼びかける。行くな、行ってはいけない、と。

注げる限りの自身のエネルギーをを光に変えて、少女を包み込み、少女を取り巻き飲み込もうとする暗闇を晴らす。

その闇の向こうには、一度行ってしまえば二度と戻れないのだと、この身に染みて知っているから。


けれど、だんだんと少女の輪郭は闇ににじんで薄れてゆく。反比例するように、闇が濃さを増し、重さを持ち始める。

柊の発する光も、濃度を増す闇に呑まれ、少女に届かなくなってゆく。


― このまま消えてしまえたら・・・きっと幸せかもしれない・・。 ―


少女の心の声だけが、柊の耳に届く。


― だめだ!消えるな! ―


少女が少しだけ、こちらを向いた気がした。


― どうして・・・? ―


少女の声が、柊に問いかける。


― どうして・・誰も・・親も、友達も、私がいなくなっても困らないわ・・。 ―


― そんなことあるものか!この世に生まれてきた以上、いなくなれば傷つく人は絶対にいるんだ!それが近くにいるかいないかなだけで、ただおまえが気づいてないだけでっ・・・!!! ―


少女は少し考え、ゆっくりと首をふり、悲しそうに笑った。

それと同時に、体の輪郭がよりいっそう心もとなくなってゆく。


― そんな人が、本当にいてくれたら・・よかったなぁ・・・。 ―


涙でにじんだ声が、漆黒の世界にこだました。


― やめろっ、行くな!     水城!!!! ―


柊は、ベッドの上に飛び起きた。

「っ・・・・。」

息が荒い。どうやらうなされていたらしく、パジャマ代わりのTシャツと短パンが汗でぐっしょりとぬれていた。

「・・・・はぁ~・・。」

はらり、と落ちてくる前髪を無造作にかきあげ、頭をがしがしとかいて時計に目をやる。長年使っている目覚まし時計の針は、夜中の二時をさしていた。

ここ数日、水城雪乃が倒れる回数が増えていた。その度に、自分のエネルギーを可能な限り注いでいたからだろうか、少し無理がたたっているのかもしれなかった。こんなに手こずったのは、初めてではないだろうか。柊は、頭を抱えた。水城雪乃は確かに小春に似ている。今の世界への未練やこだわりと言ったものが全くないのだ。彼女を人の世に縛れるものは、何もなかった。だがそれ以上に難しいのは、他人の感情を聴けてしまうところだろう。胸の内に秘めた想いを、自身の意思にかかわらず、聴いてしまう彼女は、知らずに生きるほうがスムーズにいくはずのことまで知ってしまうから、誰よりも繊細に育ちあがってしまっている。まるで・・・。


― まるで、昔の、俺のように・・・。 ―


あの頃の自分は、闇に呑まれるなといったところで、果たして聞き入れただろうか・・。


― 俺が水城にやっていることは・・・ただの・・・自己満足の押し付けではないと言えるのだろうか・・・。 ―


やさしさとは、なんなのだろう。幸せとは、なんなのだろう。


何百年生きてきても、答えの出ない問い。何度も、何度も、闇に呑まれそうな人々を、闇から救い上げるたびに考える。水城には、水城を心から惜しんでくれる人はいないように思う。聴こえるだけでも胸が痛むような家庭環境で育ちながら、あんなに心根が綺麗に育ったのに、いや綺麗すぎて、人間味がないのだろうか・・小春のように。誰も水城のことを特別に気にかけてはいない。あまりにいなかったから、人の好い西川と牧原が水城を気にかけるようになるようそれとなく誘導し、そばにつけたが・・・。

いっそ・・・いっそ人の理から外れたほうが、そのほうが、水城は幸せに生きられるのではないだろうか。

いつになく弱気な顔が窓ガラスに映って、はっとする。

守らなければならない身がこんなことではいけないと思う。しっかりしなければ、と柊はベッドから立ち上がった。汗だくになった服を脱いで、無造作に洗濯機に放り込む。ふたを閉めてボタンを押すと、もこもことした泡が洋服をつつみ、呑み込んだ。

それを見ながら柊は、時代の流れを感じていた。


― 昔は、よく川まで水を汲みに行かされたものだったな・・。 ―


それはまだ、柊が、人のことわりから、足を踏み外す前の日々。


― 冬は手がちぎれるほど冷たくて、氷を金づちで割って水を汲んだっけ。 ―


あのころの皆に、今の様子を見せたらなんと言っただろう。


「じいさん共なんかきっと、魔法じゃ!魔法にちげえねえ!って大騒ぎだな。」


くつくつと笑った後、少し苦しげな笑顔が浮かんだ。

人の理をはずれて、永い永い時間を生きると決めたのはあの日の自分だ。

後悔など、してはいない。

柊は考えを断ち切るかのようにお風呂場のドアを勢いよく開け、熱いシャワーを頭から浴びた。水城雪乃は今まで以上の速さで、無自覚のまま人の理から外れようとしている。家庭の問題、偽りの友達の存在、どれが原因となっている核なのか見極めるために、しばらく様子見に徹していたものの、そんな悠長なことも言ってられなくなってきている。もう、本人に何も悟らせずに全てを治め、何も気づかないまま人として生きてゆかせようとしていた当初の計画は、不可能に等しい。今のままでは、間違いなく現実世界の水城雪乃本人の体になんらかの異変がおきるだろう。以前、指の輪郭がぼやけ、手が透きとおったことがあったから、水城の場合は、名前からしてもおそらく・・・。


突然、柊の思考をさえぎるように、むせかえるほどの花の香りが、お風呂場に流れ込んできた。

「小春?どうした!」

バスタオルをひっつかみ、急いで腰に巻いて小春のもとに駆け寄る。

小春は小刻みに震えていた。

「まさか、もう?」

乾いたフローリングに、息をのむ柊の濡れた体から落ちるしずくがはじける。白い花びらが、柊の願いに反して、肯定するように縦に揺れた。柊の顔に明確に焦りが浮かぶ。

― いくらなんでも早すぎる。何がそんなにおまえを人ならぬものへと急がせるんだっ、 水城!!! ―

柊は、壁にかけてあったスーツをつかんだ。異変が起きてから一時間が、異変の進行を食い止められる限度だ。それを過ぎて助けられた試しは、長い年月のなかでも、よほどのことがない限りなかった。だが、水城雪乃の場合、今までの例よりも、いろんな進行が早すぎる。一時間では遅すぎるかもしれない。

「小春っ、道案内を頼む!」

答えるように花びらが光る。中から小さな光の球が、ふぃっと飛び出し、上着を羽織りながら走る柊の後を追った。


― 間に合ってくれっ! ―


しいんと静まり返る、月の蒼い夜の闇に、柊と光の球が呑まれ消えていった。








手が、見えない。

雪乃は思わずバルコニーの床に崩れ落ちた。目の錯覚ではないのかと、何度も、何度も、月の光に透かしてみる。だが、月の光はなんの淀みもなく、ただいつものように、蒼く蒼く、やさしく照らすだけだった。おそるおそる指先に、そっとふれてみると、意外にも確かな感触が伝わってきた。

だが・・・。


「凍ってる・・・?」


立ち上がろうと手をおいた(見えないが)バルコニーの手すりが、一瞬にして霜が降りたように白くなり、きらきらと、月の光をうけて蒼く光っている。目の前で起きたことが信じられず、確かめるようにあちこちに触れてみた結果、バルコニーのいたるところに氷の彫刻が出来上がった。ふと足元を見ると、雪乃の立っているところを中心に、床がスケートリンクのように凍っている。夏の夜には決してありえない異様な光景を前に、雪乃の息が荒くなってゆく。

― どうしよう・・・どうしようどうしようどうしようっ! ―

今までですら心の声が聴こえたせいで、それを隠してここまでやってきたとはいえ、親や友達や教師から避けられ疎まれてきたのだ。誰にも相談などできなくて、必死に隠してきたのだ。

― それなのにっ・・・! ―

いつものように手足が先端からしびれて動きがにぶくなってゆく。呼吸が胸の動悸に追い付かない。開いた瞳孔から、ペンダントの水晶にはね返された月の光が、濁流のように流れ込む。

これ以上普通じゃなくなったら、今度こそ本当に嫌われてしまう。しかも、だ。

― 今度は隠せない!こんなの隠し通せないよっ! ―

雪乃はだんだんと輪郭を失くしてゆく体を、こわばった見えない腕で抱きしめ、懸命にさすった。焦りのせいだろうか、口からこぼれる吐息さえ、白く冷たくなってゆくようだ。

今まで何も知らずに笑っていてくれていた人たちの、雪乃に向けていた目が、一瞬にして冷たく、怯え忌み嫌う目へと変わっていくであろうことは想像に難くなかった。

― こんなんじゃ・・もぅ・・。 ―

目に浮かぶのは、西川や牧原、柊のあたたかな笑顔。共に過ごした、やさしい時間。いとおしすぎて、両の手で包んだ、大切な大切な初めてのプレゼントのカップ。

― でももぅ・・・あえないよ・・・。 ―

こんな雪乃の姿を見れば、さすがの西川や牧原、柊も、もう笑いかけてはくれないだろう。気遣って、言葉には出さなくても、心の声が聴こえる雪乃にとっては、聴くのも聞くのも、大差なかった。あのあたたかな場所には、もう戻れない。虫が良すぎるのかもしれないが、自分のこんな姿を見た時の、二人の(柊の声は聴こえないため)声を聴くのは、やっぱり怖いのだ。失ってしまったのだと、眼前にはっきりと突きつけられるのを想像しただけで、雪乃の胸は刃物でえぐられたように痛んだ。

母親に信じてもらえなくなった日も、父親に殴られ罵られた日も、教師に嘘つき呼ばわりされた日も、友達だと思ってたのは自分だけだったと知った日も・・・。


「こんなに・・・こんなに苦しくは・・なかったなぁ・・・。」


こぼれおちた想いは弱弱しくふるえて、湿気を帯びた風にいともたやすくかき消された。

雪乃の顔が、苦しそうにゆがんだ。

やっと出逢えた場所だった。生まれてこの方、黒木と過ごした時以来の、心穏やかに過ごさせてくれるあたたかな場所。すごくうれしかった。このまま幸せの中で消えてしまいたいと思うほどに、うれしかった。

― まだ、ちゃんとお礼を言えてないのに・・・。 ―

こんな自分に笑いかけてくれた。こんな自分を気遣ってくれた。こんな自分のことを、まるで自分のことのように喜んで、祝ってくれた。いてもいいよと、いてほしいと、言ってくれたのだ。

こんなことになるのなら、こんな日が、本当に訪れてしまうのなら・・・。

「もっとはやく・・ちゃんと言っておけばよかった・・。ありがとうって・・・ちゃんと言っておけばよかった・・。消えちゃうなら、本当にこの身が消えてしまえるなら・・・。」

最後のほうは、言葉にならなかった。

体の輪郭がおぼろげになり、透きとおった体が月の光で満ちてゆく。視界がぼやけて平衡を保っていられない。

雪乃は支えきれなくなった、もう見えなくなった体を、バルコニーの凍った床に横たえた。不思議と床が冷たくなかったのが不幸中の幸いなのだろうか、などと考えている自分に気づき、あまりに冷淡な自分を自嘲気味に笑う。

― 私は・・・消えちゃうのかな・・・。 ―

それも悪くないかな・・・と思い始めている自分は、もしかしたら、人間に向いてなかったのかもしれない。

― どうして・・生まれてきてしまったのかな・・。 -

結局、最期まで人と何事もなく、無難に、穏やかに共生することができなかった。親も、友達も、誰とも・・。

― 挙句の果てに、体が透明になって死ぬなんて・・。死に方まで、異様なんて・・・。 ―

雪乃はあきらめたように、しっとりと広がる夜空を見上げた。まっすぐと光る星は、一等星だろうか。あんなふうに生きられたら、もっと違った人生もあったのだろうか。

― おかあさんにも、頭をなでてもらえたかなぁ・・・。 ―

幼いころから、雪乃を強く強く育てようとした母。雪乃の繊細さを、案じ、案じすぎて忌み嫌っていた母。雪乃が泣いても、雪乃が笑っても、ともに感情の揺れを共有しようとはしてくれなかった。それでも、それでも・・・。


― きらいになんて・・・なれなかったよぅ・・・。 ―


どんなに冷たくされても、どんなに信じてもらえなくても、どんなに・・わかってもらえなくても。


― おかあさん・・・おかあさん・・・。 ―


それは雪乃をこの世に生み落としてくれた、この世でただ一つの存在。


― たった一度でいいから・・・ぎゅうってしてほしかったなぁ・・。 ―


今はもう、叶わぬ想い。

自分がいなくなった後、皆はどんな顔をするのだろうか。


― 仁美とお父さんは・・・よろこぶかな・・。 ―


― 牧原先生と西川先生は、泣いてくれるかな・・。 ―


― 柊先生は・・・・・。 ―


あたたかなまなざしがよみがえる。

あふれるような、おひさまのような、あのまなざし。


雪乃の瞳から、あたたかなものがこぼれおちた。おどろいて、おそるおそるふれてみると、あふれるしずくが指先を静かに濡らす。


「・・・・・っ・・!」


涙は堰を切ったようにあとからあとからこぼれて、雪乃の長い髪を濡らした。


「柊せんせぇ・・・・。」


雪乃は知っていた。

柊が、柊だけが、いつもいつも雪乃のことを誰よりも気にかけて、見守っていたことを。決して表立ったことはしなかったし、雪乃に対してもなぜか自分から近づいてくるようなことはなかったけれど、牧原や西川が雪乃を気にかけるように仕向けたり、雪乃が保健室で授業が受けられるように配慮してくれたり、浦口にかけあってくれたり、いつもあのあたたかなまなざしに心配げな色を帯びさせて、自分を見守っていてくれたことを。度々聴いたいろんな人の感情から、ぼんやりと浮かび上がった、それはまるで、春霞のような、やさしい真実。


心の声が聴こえなくても、交わした言葉や過ごした時間が誰より少なくても。


その想いの深さは、きっと・・・。


「・・あいたいよぅ・・・・・・」


最期に、この身が消えてしまう前に・・・。

たとえ柊の目にうつらなくてもいい、一目でいい・・・。


「・・あいたぃ・・・。」


まぶたが、すこしずつ、すこしずつ、重みを増してゆく。


― 今度生まれ変わるときは・・ひとひらの雪か、桜の花びらになりたいなぁ・・・。 ―


ぼんやりとうつろになってゆく意識の中で、そっと願う。


― そうしたら今度は・・・愛して・・・もらえ・・るか・・なぁ・・・。 ―


まだ見ぬ次の世への望みを蒼く蒼くふり注ぐ月の光にゆだね、雪乃は静かに、そぅっと目を閉じた。ほおをつたってこぼれ落ちた涙が、きらりと光って凍り付いた床をかすかに濡らし、そして、音を立てずに凍った。







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