第3話 やさしいうそ

月曜日の朝、西川の言ったとおりに保健室に登校すると、西川の椅子に担任の牧原が座ってコーヒーをすすっていた。

「おはようございます、牧原先生。」

軽く会釈をする雪乃に、牧原は片手をあげて答える。牧原尚文まきはらなおふみは一年のころからの担任なので、気心は知れている。担当教科は日本史、身長175センチ、爽やかで誰とでも仲良くする事ができ、目が大きく愛くるしい顔をしたイケメンだが、よく三枚目のような役を買って出ている。そのため皆に好かれているが、本当は人一倍周りに気を遣っているのを、雪乃は幾度となく聴いた牧原の感情で知っていた。

「保健室への直接登校許可及びHRの出席が免除されていても、朝7時45分の登校は変わらないんだな。たまには寝坊したっていいんだぞー、って、これは教師としてまずいか。」

― 律儀な奴だなぁ。水城への連絡のために早く来なきゃいけなかったのに、俺のほうが危うく遅刻しそうだったぜ。ギリギリのとこで水城より早く来れたけど、おかげで朝食を食べ損ねちまって、保健室でコーヒーすする羽目になったなんて、生徒には言えねえよ。けど、腹減ったなあ。昼までもたないだろうから後でなんか買いに出るかなー。 ―

雪乃は思わず漏れそうになる笑いを必死で隠しながら、学生カバンを机に置いた。

「それはそうと、水城はいいのか?いくら内申を上乗せするとは言っても、教室でみんなで授業受けられないのは味気なかったりするだろう。友達と過ごす時間も、保健室だと減るだろうし。好きな男子にも会えなくなっちまうからな、青春の甘酸っぱいときめきを逃すかもしれないだろ~。」

― 水城は頼まれると断れないとこがあるからな。今一度本人の気持ちを聞いて、もし嫌なら俺が何とか西川先生に掛けあってやらないと。 ―

頭の後ろで手を組みながら、雪乃に気を遣わせないようあえて軽い口ぶりで言ってくる牧原に、雪乃は心の中で頭を下げた。去年倒れた時、駆けつけてくれた牧原から聴こえた感情は、雪乃の体調の悪いことに気づかなかったことを後悔しているものだった。その後も何度も聴いた牧原の感情はいつも自分のことより人のことを優先して考えるものだった。そんな牧原がどこか自分と重なって見えて、雪乃はなるべく牧原に迷惑や心配をかけたくなかった。毎回のテストで得意教科の国語以外の教科は平均80点以上をキープしているが、決して得意教科というわけではないにも関わらず日本史だけは国語と同じくほぼ満点を取るのもそういう理由だった。

「大丈夫ですよ。私、こう見えて結構慕われてるんで。」

いたずらっぽい笑顔で明るく答えると、牧原は安堵したような表情を浮かべた。

「まぁ、水城なら友達多いしな。よく相談受けてるだろ、おまえ。」

心に針が刺さったようにちくりと痛む。友達と思っているのは自分だけだったのだと、先週思い知ったばかりだった。あの時聴こえた仁美の、淡々とした感情が甦る。思い出しただけなのに、指先とつま先から少しずつ冷気が体を這い登りはじめる。

「そうでもないですよ。相談だけって子もいますし、普通ですよ。」

― どうか、どうか平気そうな、なんでもなさそうな表情を装えていますように。 ―

優しい人の、優しい心に、不安の影を落とさずにいたかった。雪乃自身、自分の特異な体質や成績、両親や友達との関係のことで、心はすでにいっぱいいっぱいのはずなのに、それでも、牧原の負担が少しでも減ってほしくて、雪乃は強く願う。

いつだったか、自分を犠牲にして相手を守ることは、自分を思ってくれる相手を傷付けることになると言っていた人がいた。それは、きっと、正しいことと思う。決して間違ってはいない。今だって、牧原から伝わってくる感情は雪乃を気遣うものばかりだ。きっと雪乃が胸の内を相談すれば、人の良い牧原は親身になって何とかしようと奮闘してくれるだろう。たとえそれが、人智を越えたことであったとしても。けれど、だからこそ、牧原には言えなかった。解決策の見つからない問題を前に、無駄に奮闘させた挙句、解決できなかったことに対する罪悪感を、負わせたくなかった。雪乃はさりげなく、カバンからカロリーメイトを取り出し牧原に差し出した。

「先生、顔に腹ペコだぁーって書いてますよ。朝ごはん、食べてないんじゃないですか?」

「えっ?いや、そんなことはっ」

― どうしてバレたんだ?水城は勘がいいのは知ってるが、俺そんな物欲しそうな顔してたのか??? ―

さらに、盛大に腹の虫が鳴り、それをごまかそうと牧原がじたばたする。

慌てふためく牧原が可笑しくて、つい笑ってしまう。そんな雪乃を見て、カロリーメイトを受け取った牧原の顔が少し和んだ。

「そうそう、そうやって笑ってるほうが、高校生らしくていいぞ。あんま肩に力入れすぎんなよ。水城は俺から見たら少し頑張りすぎだ。まぁ俺は学生のころ水城ほど優等生じゃなかったから、参考にはならないかもしれないが。でも、大人になったら、嫌でも肩ひじ張らなきゃいけないことが増えるんだからな、今のうちに子どもを満喫しておけよ。」

伝わるあたたかな感情に、体を這い上がってきていた冷気が緩んでゆく。

「寝坊しそうになった先生が言うと、説得力に欠けますけどね。」

「おまえっ、なんでそれを」

「後ろ頭に寝癖がついてますよ。あと、ほっぺたに枕のあとがついてます。」

「・・・ほんとだっ!」

鏡を見ながら慌てて寝癖を直す牧原の背中に、雪乃は小さな声でそっと謝った。これだけ気遣ってくれている人に嘘をつくのは、いくら相手を想った末の決断とはいえ、やはり心苦しかった。やさしいうそであろうと、嘘は嘘。心が痛まないわけではなかった。雪乃の嘘を知った時に牧原が感じるであろうものを想像すると、こちらまでつらくなる。

だから・・・。

雪乃は、今日も何事もないような顔をして牧原に笑って見せる。決して彼氏でも親でもないけれど、ただの担任だけれど、雪乃にとっては、雪乃のことを実の親より気にかけて見守っていてくれる、数少ない、大切な存在だから。それが親であったなら、どれだけ、うれしかったことだろう。思っても詮無いことが脳裏をよぎって、雪乃は諦めたように笑った。ないものはないのだ。ないものを欲してやまぬより、目の前にあるものひとつひとつを大切に、感謝して生きていかなくてはいけない。やさしさは、決して当たり前のものではないから。

連絡事項を告げて去っていく牧原の背中に向かってそっと頭を下げる。決して口には出せない、ごめんなさいと、ありがとうの、想いをこめて。


オンデマンド授業にも、保健室への登校にも少しずつ慣れてくると、雪乃の心には以前より少し余裕ができるようになった。まず、聴こえる感情が圧倒的に少ないのが大きく負荷を減らしていた。毎日必ず聴く感情といえば、牧原と西川のもので、一日の中で保健室に訪れる者はそんなに多くはなく、また訪れたとしてもみな長居せずに用事が済めば帰ってゆく。画面の向こう側の教師の感情も聴こえはするものの、やはり画面を通しているせいか、直接の授業よりはずっと楽だった。加えて、欠課の心配をしなくてよくなったことも大きかった。一週間の間に予定されている授業カリキュラムの受講をこなせれば、通知表に欠課がつくことはないのだ。休み時間に雪乃を訪ねてくるクラスメイトの相談に乗って、よくない感情に中てられて気分が悪くなっても、心配なく休むことができるようになった。牧原はクラスメイト達に雪乃の事を、学校が新しく導入しようとしているカリキュラムの実験に協力してもらっているのだ、と話したらしい。そのせいだろう、雪乃の特別扱いが気に入らない仁美はいつしか全く姿を見せないようになっていた。最初は反対しようとしていた母親も、家に電話をかけてきた牧原が、雪乃の内申が上乗せしてもらえることと、雪乃に用意されたものが教室の授業より難易度の高めなものであることを説明すると、快諾してくれた。各授業には前の授業の確認をするミニテストがついており、毎回重点を確認してくれたため、雪乃が苦手な数学や浦口のせいでまともに授業が聞けなかった化学の理解度は飛躍的に伸びた。その結果、中間テストの成績はなんと、雪乃が学年トップだった。

順位が個人個人に配布された次の日、保健室のドアに手をかけようとした雪乃に、わくわくしている西川と牧原の感情が聴こえてきた。

― もうすぐ来るな、あいつはいつもだいたい来る時間が決まっているから。クラッカーの準備はオッケーだな、ケーキもだいじょぶ! ―

― でも、ゆきのんよく頑張ったわよね!浦口の歯痒そうな顔ったら(笑)ケーキ見て喜んでくれたらいいな。なんてったって、学年トップですからね、思わず青山まで買いに行っちゃった♡ ―

雪乃はドアの前でしゃがみこんでしまった。思いもしなかった優しさに、不意をつかれて胸がいっぱいになる。学年トップを取ったからといって親が褒めてくれたことなんて一度もなかった。父は苦々しげな顔をして、陰でいい気になるなと雪乃を殴ったし、母は当然と言わんばかりの顔で淡々と次のテストに向けて勉強しろというだけだった。けれど点数が悪いとひどく怒られる。御褒美はないけれど、罰はある、そんな両親の対応に雪乃はいつしか慣れていたのかもしれない。学年トップを取ったことが父親に伝わるのも時間の問題だから、ほとぼりがさめるまで一人きりにならないようにしなければ・・それしか考えていなかった。テストのことを自分の評価が上がることよりも先に、雪乃が頑張ったからだと、自分の事のように喜んでくれる人に、雪乃は初めて出会った。

うれしくて、うれしくて、死ぬほどありがたくて、このまま時が止まればいいとすら思う。この日のことはきっと一生忘れないだろう。

深呼吸して、ドアノブに手をかけた。いよいよだと、わくわくしている二人の感情が聴こえてくる。頑張って普段通りの顔をしてドアを開けると、パーンという破裂音とともに視界がクラッカーの紙吹雪とリボンで一瞬埋め尽くされた。

ひらりはらりと舞う紙吹雪の向こう側に、牧原と西川と・・・


― えっ・・・ ―


雪乃の目が驚きで見開かれる。ドアの向こうから聴いた感情は二人分、保健室は大して広くはないため、中にいる人の感情は全て聴こえるのが常だった。だから、中にいる人数は雪乃以外に二人だけ。三人いるはずがないのだ。

「水城、学年トップおめでとう!」

「ゆきのんっ、よく頑張ったわねっ♡んもう、ほっぺにちゅーしちゃう♡♡♡」

牧原によくやったと背中をぽんぽんと叩かれながら、西川にほっぺにちゅーをされながら茫然としている雪乃に、その男は笑顔も浮かべず、けれど、どこかあたたかな、低音の耳障りのいい声で、

「おめでとう。よく、頑張ったな。」

と言った。


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