第2話 ぬくもり

― そんなに弱くてどうするのかしらこの子。世の中は甘くないのにそれくらいでへこたれていたら、社会でまともに生きていけないわ。親ですらこんなに面倒だと感じるんだもの。間違いなくみんなに面倒がられてるわ。 ―

― 風邪をひいたですって?今日の分の勉強はどうするのかしら。今日も明日もこなさなきゃならないことはいっぱいあるっていうのに熱なんて出して早退してくるなんて。推薦に響いたら将来大変なのは自分なんだ、ってわかってないんだわ。 ―

― どうして言ったようにできないのかしら、ちっとも言うとおりにやらない。きっと父親に似たんだわ。私はこんなに親を困らせたりしなかったもの。こんな子、産まなきゃよかった。この子さえできなければ、私はあんな人となんて結婚してなかっただろうに。 ―


暗闇に母親の感情が響く。雪乃は膝を抱えた。

― おかあさん、おかあさん、ごめんなさい。おかあさんの期待に添うようにできなくてごめんなさい。がんばるから、一生懸命がんばってるから、わたしのこと嫌わないで。おねがい、がんばるから、わたしをすてないで。おかあさん、おかあさん ―


― 友達のふりをしとけば、雪乃って便利だもんね。 ―

― あんたなんかを本当に友達なんて思ってるはずないじゃん。 ―


仁美の感情も響いてくる。膝を抱える雪乃の体が小刻みにふるふると震えた。

― でも、でも、私は友達だと思ってたよ。今までの笑顔は、聞こえた優しい気持ちは・・・嘘だったの・・?確かに聞こえたもん。・・・私が・・・私がこんなだから、普通じゃないから、仁美の気持ちをそんな風に変えてしまったのかなぁ・・・ごめんね仁美・・ごめんなさい・・・。 ―


― そうだ、おまえがいるから母さんは俺に目を向けてくれないんだ。 ―

― おまえさえいなければ、母さんを独占できるのに、おまえが生まれてから母さんはずっとおまえにかかりっきりで・・それなのに!それなのにだ!おまえは母さんの言うことを聞かない!俺が望んでも手に入れられない母さんの愛情や関心を一身に受けておきながら何の不満があるっていうんだ!なんでおまえが泣くんだ!被害者ぶりやがって、なんて贅沢なやつなんだ! ―


響き渡る父親の感情が、さらに追い打ちをかけた。雪乃の膝を抱く手が、腕にぎゅっと食い込む。

― おとうさん、ちがうよ、そんな風になんか思ってないよ。ごめんなさい、私はおかあさんを盗ったりしないから、だから、ゆるして、おとうさん。 ―


― 誰にも望まれないのに生まれてきてしまって、その上普通じゃなくて、みんなに迷惑をかけてばかりで・・・ごめんなさい・・生まれてきてしまって・・ごめんなさい。 ―


体の震えが止まらない。ごめんなさい、という言葉をつぶやく度、体がすこしずつ、闇に溶けて消えてゆく。それがまた、自分の弱さのなによりの証な気がして、力づくで止めようとすればするほど、震えはひどくなってゆく。息がひゅうひゅうと音を立てて、口からぬけてゆく。酸素を取り込むことを肺が放棄してしまったようだ。頭の芯が、凍えてじんじんと痛い。


― 消えてしまいたい・・・。 ―


言葉にならない思いが、暗い視界をにじませてゆく。いつから願うようになったのか、何度願ったのか、もぅわからない願い。にじんだ世界の端っこが、ほろっ、と揺れて、あぁ、これは夢なのだと気付く。

雪乃はもう何年も、涙をこぼしてはいないからだ。泣き方を忘れてしまったのかもしれない、と本気で思うほどに。


雪乃の母は、若いころ大変モテたらしく、何人もの医学部生に結婚を申し込まれていたそうだ。母自身も、そのうちの一人と結婚するつもりだったらしい。しかし、とんとん拍子に進んだいたはずの流れをを狂わせたのが、雪乃の父親だった。一介のサラリーマンだった父は一目見た時から母を気に入り、他に類を見ない強引さと狡猾さで、母に迫った。次から次へと贈り物を贈り、アポなしで母の実家に現れ、毎晩のように母に電話をかけた。母が好むような服を着こなし、母が好むような男性を演じ、外車に乗り、時には出来もしないサッカーをプロ級の腕前だなどと嘘までついて自分を売り込んだ。それでも母が自分のほうを向いてくれないとわかると、母の両親のうち、自分を気に入ってくれそうなほうに、取り入り、媚びを売った。母が親の言うことには逆らわないと知ってのことだった。

計略はめでたく実を結び、母は、不本意ながら親の言うまま、父と結婚した。

そんな形ではじまった結婚生活が、うまくいくはずなどなかった。父のメッキはどんどんはがれていき、母の怒りと失望はそれに比例して大きくなっていった。母は何度も父から逃げようとし、その度に父につかまって、それでもあきらめず逃げようとする母に、父は、母の責任感を逆手に取った最終手段を使った。子どもを作ったのだ。母の家庭は父親がほとんど帰ってこなく、お父さんっ子だった母は小さな頃からさみしい思いをしてきた。自分の子供には同じ思いはさせたくないと、母が強く思っているのを、父は知っていた。

父の計算はまたもや当たり、妊娠したとわかった途端、母は父の元から逃げるのをやめた。ただ一つ計算が狂ったのは、母が生まれた雪乃しか見なくなったことだった。父に対して目を向けるのは、雪乃の父親として、な時だけだった。欲していた、母からの愛情は、全て雪乃に向いてしまっていた。わが子でありながら、生まれながらに父が欲していたものを何の努力もせず、ただ生きているだけで、持って行ってしまった子どもを、まして、その子どもが時折、父の心の内に隠してあるはずのどろどろした感情を、透視したかのように言い当ててしまうのでは尚更、父が子どもを、愛すはずもなかった。父は雪乃が自分の本心を、何の悪気もなく言い当ててしまう度、雪乃を嘘つき呼ばわりして罵り殴った。これ以上母の愛情が自分に向かなくなることは何としても回避すべき最優先事項だ!と父の張り裂けそうな感情が伝わってきていた。持ち前の狡猾さで、父は、自分がいかに雪乃を愛してやまないかを語り、雪乃は自分たちの気をひきたいために嘘をついているのだ、そんな雪乃のことが心配でならないから、つい殴ったりもしてしまうのだ、と涙ながらに訴え、母に信じさせた。

母はだんだんと、雪乃の言葉に耳を貸さなくなっていった。父に加えて、学校でのいじめや問題、教師にあるまじき本音の露呈を恐れた担任たちまでが、口々に雪乃を嘘つき呼ばわりしたからだった。元来母は他人の言うことを疑いもせず、すぐに信じてしまう質だったため、雪乃が中学を卒業するころには母の中で、雪乃はすぐに嘘をつく子という印象になっていた。母の心が自分から離れていくのがわかっても、雪乃は流れ込む感情を母に伝えた。母に嘘をつきたくなかった。父の狡猾さから、母を解放してあげたかった。学校で起きていることも、大人がきちんと動いてくれれば、解決するはずだと、そうすれば苦しい思いをしている子達も救われるはずだと、本気で思っていた。けれど、まだ子どもの雪乃には、大人の本気の狡猾さには、勝つすべなどどこにもありはしなかった。

雪乃は泣きたくなると、一人になれる場所を探して泣くようになった。声を押し殺すために、唇を血がにじむほど噛みしめることも多かった。けれど、そんな雪乃の文字通り血のにじむような努力をして手に入れた、本当の感情を吐き出せる瞬間も、父親は奪っていった。雪乃が一人になれる場所を見つけるたび、そこまで雪乃を追いかけてきて、その目が気に入らないのだと殴り、ひどい言葉を、雪乃の顔から表情が消え、雪乃の目から光が消えるまで、際限なく投げつけた。最後に、母親に言いつければ死ぬほど殴ってやるからなという脅しを毎度吐き捨て、茫然としている雪乃を置き去りにして、悠々と立ち去ってゆく父親の感情は、その時だけは奇妙な高揚感で満ち満ちていた。


「隠れて泣いて、なに被害者ぶってんだよ。好きで嘘ついて回ってるくせに、虫が良すぎるんじゃないのか?それでも養ってやってんだ、少しくらい俺から殴られたからって、おまえみたいな屑に泣く権利なんてないだろう。」


今でも脳裏に焼き付いて離れない、父親のあざ笑うかのような言葉とその時の勝ち誇ったような表情。いくつもの父親の暴言や暴力が、声とともに体にまとわりついて、雪乃を縛っていった。


いつからか、どんなに苦しくても、自分のための涙は出なくなっていた。高校に入るころには、雪乃は、人前で本心を言葉や表情に出すことまでをも一切やめてしまった。私の声は、誰にも、届きはしない。私が言うことも、私が聴こえていることも、信じてもらえはしない。どんなに声を嗄らして叫んでも、母にすら信じてもらえない自分なんて、誰も・・・誰にも、助けてもらえはしない。

そう、勝手に悟ってしまった。


― 苦しいよぉ・・・たすけて・・・―


それでも、悟ってしまっていても、死ぬほど苦しい時には、誰かに助けてほしいと思ってしまう。涙と一緒に、いつも自制している想いが、今度は確かな輪郭をもって浮かび上がる。そのあとに呼べる名前が無いとわかっていても、自分には呼ぶ資格がないとわかっていても、なかなか、消えてくれない想い。

雪乃だって、好きでこんな風に生まれたわけではなかった。

特別なことなどなにも願ってはいない。ただ、ただ普通に親や友達と笑って過ごしたいだけだった。大好きな人が、苦しむのを見てられないだけだった。助けたかっただけだった。母にも、父にだって、ただ、頭をなでてほしいだけだった。ただ、抱きしめてほしいだけだった。無邪気に、自分は親や友人に愛されていると、思っていたいだけだった。


けれど、人の感情が流れ込んでくる雪乃には、その普通が、一番難しいようだった。


こみあげ、あふれそうになる想いの強さに、雪乃はぎゅうっっと自分の体を強く抱きしめた。こんな時は自分で自分を労わってやるしかなかった。小さなころから、ずっと、そうだった。

ふと、自分の手に目をやった雪乃の顔がいぶかしげにゆがむ。

気のせいか、指先の輪郭がすこしぼやけている。首をかしげながら両の手をひらいてみると、確かに指の向こうが透けて見えた。

これ以上普通じゃなくなったら、もっと嫌われてしまうかもしれない。そう思いついた瞬間に総身が震えた。

「大丈夫。大丈夫だよ、雪乃。これは夢だから。大丈夫。きっと大丈夫。」

懸命につぶやく言葉に反して、暗闇にこぼれる小さな声は涙でにじんで今にも溶けて消えてしまいそうだった。



― 行くな、水城。 ―



突然暗闇にあたたかな声が響いた。背後から流れ込んでくる初めての温もりに、雪乃の顔に困惑した表情が浮かぶ。どこかで何回かだけ聞いた声だ。でもどこだろう。思い出そうとする雪乃の体をあたたかくて力強い光が包み込む。雪乃の周りの暗闇が、一瞬にして霧散する。冷え切った体が、背中からじんわりと体温を取り戻してゆくのを感じる。沈み込んでいた体がふわっと浮いて、輪郭を取り戻す。


― これ以上一人で抱え込むな、水城。その身一つで抱えきれないほどの想いを、その身を・・・と化してしまうほどの想いを・・・ ―


声がだんだん遠ざかってゆく。


― 待って・・・行かないで・・。 ―


雪乃の願いも空しく、声はすぐに聴こえなくなった。

「待って!」

自分の声で目が覚めた。はっとして自分の手を見てみたが、手はいつも通り、透けたり輪郭がぼやけたりはしていなかった。ほっとして周りを見ると、空き教室の床に横たえていたはずの体が、ベットの上で布団につつまれている。四方を囲むやわらかなクリーム色のカーテンが揺れて、養護教諭の西川が顔を出した。

「随分大きな寝言だったわね。」

― おかげで新調したブラウスにコーヒーがとんじゃったわ。 ―

西川恭子にしかわきょうこは赴任してきたばかりの養護教諭で、教員のわりに服装が派手なところがあった。ストレートロングの黒髪を無頓着にシュシュで結わえてはいるものの、スカート丈は短く、ブラウスの胸元はいつも一つボタンをあけている。そんな服装も、似合ってしまうのだから仕方がない。彼女の切れ長の瞳とすっと通った鼻筋、そして官能的な唇を前にして、文句を言うものなど一人もいなかった。生徒の制服の着こなしに厳しいオールドミスの伊東ですら、西川が通り過ぎると、うっとり見とれているほどだった。着ている服はすべてブランド物だと前に仁美が言っていたのを思い出して彼女の胸元に目をやると、たしかに、コーヒーのシミが出来ていた。

「ごめんなさい。ちょっと怖い夢を見ちゃって。そのシミ、もしかして、私が大声出しておどかしちゃったからですか?」

少し声がかすれながらも、雪乃が申し訳なさそうに聞くと、西川は目を丸くした。

「どうしてそう思うの?」

― どうしてそう思うの? ―

口から出る言葉と、流れ込んでくる感情が同じなのにほっとして、けれど、まさか心が読めるんです、なんて言えるはずもなく、雪乃は慌てて言い訳をした。

「まだ、シミが乾ききっていなさそうだし、コーヒーの香りがしたから、もしかしたらそうかなって・・。」

窺うように西川を見ると、西川はキラキラした目をして雪乃の手を握った。

「すっごーい!こんな一瞬でわかるなんてまるで探偵みたい!」

- すっごーい!こんな一瞬でわかるなんてまるで探偵みたい! -

感情と言葉が全く同じである人は結構珍しい。西川は、どうも思ったり感じたりしたことがそのまま口から出るタイプのようだった。こういう人は、言葉がきつくなる時もあるだろうけれど、雪乃の母とは違い心が柔軟なのが伝わってくる。決して悪い人ではないとわかって雪乃は肩の力を抜いた。何より、雪乃の勘の良さを気持ち悪がらずにいてくれただけで、雪乃にとってはとてもありがたかった。

「あの、クリーニング代、いくらですか?」

雪乃の言葉に、きゃあきゃあ騒いでいた西川は首を傾げた。

「ブラウスの?払えるの?学生には高いわよ?」

「えぇっと・・がんばります・・。」

「ん~、そうねぇ・・・。」

西川は雪乃をじぃっと見つめてしばらく考え、ぽんっと手を打った。

「今、実は学校でオンデマンド授業の導入を検討しているのよね、ほら保健室登校の子達や、学校の授業じゃ対応しきれない難易度の高い大学を目指す子のために。」

「・・はい。」

「それで、実はモデルケースになってくれる子を探していたんだけど、保健室登校の子ってなかなか毎日学校に来るのは難しいし、難易度の高い大学受ける子みんな塾に力点を置いていて、学校で本気で授業受けたりしないし。」

「確かに・・・そうかもしれないですね。」

「その点、推薦を狙うあなたならぁ~♡」

言葉より先に感情を読んでしまった雪乃は驚きが表情に出るのを隠すために布団に顔をうずめる羽目になった。そろそろと目だけを出すと、苦笑いする西川と目が合った。

「毎日学校にも来るし、遅刻欠席もないし、成績も悪くないし、モデルケースとしてはぴったりだと思うのよね。この話が出た当初から、学年長も直々にあなたをご指名だったし。」

「でも、授業に出なきゃ内申が・・・」

西川は官能的な唇をおもしろそうにゆがめた。

「もちろん、学校のためにしてほしいと、こちらから、するわけだから、内申は通常よりも上乗せされるわ。だから、例えば今の時刻は16時15分で、午後一つ目の授業以外は全部欠課になってるわけだけれども、それもにできるわよ?」

「!!」

断る理由など、どこにも見当たらなかった。教室に帰ったところで、仁美の心を知ってしまった以上、雪乃の居場所など、ありはしなかった。授業を受けなくて済むのなら、浦口に怯えることも、もう無くなる。同じ、感情が流れ込んでくるなら、教室よりも人の少ない保健室のほうが、仁美や浦口よりも西川のほうが、ずっと楽だった。

「えと・・私でよければ、よろしく・・おねがいします。」

「じゃあ、決まり、ね。来週から教室じゃなくて保健室に登校してちょうだい。テキストはこっちで用意しとくから。担任には私から話を通しておくから、何も心配しなくていいわ。もちろん、クリーニング代のことも、これでチャラよ。」

これからは毎日会うんだもの、なにかかわいいあだ名を考えなくちゃ、とウキウキしながらウインクを投げかけカーテンの向こうへ消えてゆこうとする西川に、雪乃は目が覚めてからずっと疑問に思っていたことを口にした。

「あの、私、最初からここに眠っていましたか?」

振り向いた西川はきょとんとした顔をして、そのあと笑い出した。

「まだ寝ぼけちゃってるの?私が席に戻ってきたときにはもうそこに眠っていたわよ。」

やあねえ、夢遊病?なんて言いながらカーテンの向こう側へと消えていった西川の声と感情を聴いて、西川が本当のことを言っているとわかった。雪乃の体には、夢の中で感じたぬくもりが、夢でなかったことを示すかのように、まだ確かに残っていた。まるで、日の光をたっぷりとあびてお日さまの熱と香りが奥までしみ込んだ、ふっくらとしたお布団のような優しいぬくもりだった。けれどあの声は、行くな、と言っていた。どこに行くなというのだろう、と雪乃は苦笑する。この身一つ思うようにならない自分には、行くところなどどこにも無いというのに。

一体、雪乃があの教室にいるのを見つけ出し保健室に寝かせたのは誰だったのか、あの温もりは誰の感情だったのか、どこへ行ってはいけないのか、様々に考えをめぐらせながら、雪乃はもう一度、今度はとろりとしたやわらかな眠りに落ちていった。












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