月の光と桜の花びら

咲水 雪妖

第1話 知らないほうがいいこと

月に向かって、手をのばす。

蒼白い光につつまれた世界はしんと静まり返り、この世界にはまるで自分一人しかいないのではないかという錯覚を起こさせる。それはとても甘美な、けれど、ちょっぴり心もとない不思議な感情を抱かせる。

辺りの灯がひとつ残らず消え、昼間は感じられていた息遣いがひっそりと寝静まった中、雪乃の長い黒髪が、さらさらと夜風にゆれた。やわらかく広がる春の夜空にふわりと香る桜の香りが鼻をくすぐる。甘やかな感傷にひたりながら月の光につつまれ蒼く染まった雪乃の顔に浮かんだのは、すべてを諦めるようなさみしげな笑顔だった。


世の中には知らないほうがいいことはたくさんある。

常日頃から、水城雪乃みずきゆきのは心底そう思っている。

幸せに笑っていられるのは、知らない、からだ。真実を知ってそれでもなお笑っているのには、とても力を消費する。心の弱い人々には、真実は時に劇薬となる。だから、ほとんどの人間は本当のことをなんでも見通せるようにはできていない。人の感情が、頼みも望みもしていないのに、自分の中に流れ込んでくるようには、できてはいない。


― それならどうして・・・どうして私にはすべて流れ込んでくるの・・・? ―


「雪乃、ちょっとぉ、聞いてる?」

険しい声色に我に返ると、パンをほおばる仁美の心配そうな顔が目に入った。水井仁美みずいひとみは高2になってから雪乃と同じクラスになった、少し気の強い女の子だ。雪乃とは、出席番号順に座った時に席が前後で話すようになり、席替えをした後も、一緒にお弁当を食べたりしていた。

「あ・・・あぁ、ごめんね、ちょっとぼぅっとしちゃって・・」

「大丈夫?疲れ気味?」

― めんどくさっ。こっちが気ぃ遣ってほしい時に疲れたアピールとか、マジやめてよね ―

望まなくとも流れ込んでくる仁美の感情と、目の前の仁美の心配そうな表情や素振りの差に、雪乃の心は少しだけ、冷たく暗い所へ落ちてゆく。感じまいとしてなるべく受け流そうとしながらも、流れ込んでくる寒々しさに心が凍えてゆく。

― 仁美はきっと、余裕がないだけだよ。ちょっとイライラしてるだけだよ。 ―

雪乃はいつものように、仁美の感情に気づいてることを悟られないように柔らかないたずらっぽい、なにもわかっていないような笑顔を浮かべた。

「ううん、大丈夫。あはは、昨日ちょっと遅くまで本読んじゃって、寝不足気味なだけだよ~。それより、どうしたの?仁美、今日ちょっと元気なかったもんね。話聞くよ。」

「ほんと~?雪乃大好き~。聞いてよ、いますっごい大変なの、彼氏が冷たくてさぁー・・」

話を一通り聞いて、慰め、励まし、自分なりのアドバイスもほんの少しだけ加え、仁美がやっと、、すっきりして立ち去ったころには、昼休みは残すところ10分ほどになっていた。沈み込んだ心を少しでもリフレッシュさせようと、トイレに立った雪乃を待ち構えていたかのように別のクラスメイトが話を聞いてほしいと寄ってきて、気づけば、昼休みの終わりを告げる鐘が鳴り響いていた。


トイレのドアを出ようとした時、視界がぐにゃりと歪んだ。雪乃は思わずその場にしゃがみこんだ。どうやら相談を受けた際に、あまり良くない感情にてられてしまったようで、体が鉛のように重く、心がドライアイスのような冷気を発しはじめていた。胸を抑える指先が氷のように冷たい。心なしか吐き気までしてきている。

このまま授業に出るのは正直かなりきつかった。

だが、授業を欠席すれば学期末の通知表に欠課として表記されてしまい、内申に影響がでる。そうなることは何としても避けたかった。

雪乃が推薦で医学部に行くことを、何より望んでいる母親の期待に背き、母親の怒りと失望に触れることは考えただけで怖気が走る。雪乃の母親の感情は裏表はないものの、自身が鉄の意志と鋼のメンタルを持ち、また他人も自分と同じだと信じ込んでいるため、自分の言動が相手を振り回したり傷つけている意識が全くない。おまけに自分が絶対的に正しいと心の底から信じているため、自分と同じように振る舞えない雪乃に対して苛立ちを隠さずぶつけてきていた。発する言葉の厳しさと流れ込んでくる感情の強さの二重攻撃に、雪乃は母親と接するたび耐えがたいほどのダメージを受けた。


― 授業・・・出るしかないか・・・ ―


重い足取りで教室に向かう雪乃の顔に、一瞬だけ浮かんだ、諦めたような笑顔と痛みを必死でこらえているような表情を、窓の外で風に揺れる葉桜だけが見ていた。


午後一番の授業は化学だった。

雪乃は教科書とノートの準備をしながら、心の中で顔をしかめた。化学教師の浦口正樹うらぐちまさきは、雪乃の苦手とするタイプだ。普通の人は、心の中に抱くどろどろとした感情を表面だけでも隠そうと取り繕ったりするものなのだが、浦口の場合、自分のどろどろとしたものを隠す気がないのか、隠しきれていないのか、あえて出しているのか、感情が流れ込んでこない段階でも行動、言動、表情、すべてから嫌な感じが伝わってくるのだ。おまけに感情が流れ込んでくるとその何十倍もの嫌なものが伝わってくる。

去年、あまり体調が優れなかった時に問題に答えるよう当てられ、浦口が近くに来た瞬間、流れ込んできたもののおぞましさに耐えきれず、気づくと保健室に寝かされていたことがあった。それ以来、雪乃はなるべく浦口との接触を避けるようになった。


― 今日は当てられませんように・・・ ―


浦口は生徒を当てるとき、威圧するように当てた生徒の近くに寄ってくる癖があった。雪乃の中に流れ込んでくる感情は、距離に比例して相手の感情そのものに近づくため、浦口が自分に向けた感情を抱くことや、それがほぼそのまま流れ込んでくることは、今日のような日は特に避けたかった。


始業の鐘が鳴り、浦口が入ってくる。

その瞬間、雪乃の体に怖気が走った。入ってきただけでこの怖気だ。雪乃は浦口の方を見なくとも、彼が相当に機嫌が悪いのがわかった。雪乃の席は教室の一番うしろの窓際だ。教卓からは最も離れている。にもかかわらず、これだけの怖気を感じるのは浦口の感情がそれだけ強いことを表していた。雪乃が感じた通り、浦口は大層機嫌が悪く、生徒を次々と当て、答えられない生徒には容赦のない罵声を浴びせかけた。教室の空気がぴりぴりと張りつめ、雪乃に周囲の生徒の怯えや緊張が流れ込んでくる。


― はやく、はやく終わりますように。 ―


こういう時は、教室内から意識をそらさなければ、ほんの数分もしないうちに体に影響が出てしまうことを過去の経験から学んでいた。浦口の声と感情から注意を意図的に逸らし、時が過ぎるのを待つ。

流れ込むものから身を守るすべは、今のところそれしかなかった。

窓から差し込む午後の日差しが体に温かくふりそそぐのを全身で感じる。少しずつ、意識が日差しのぬくもりの方に移ってゆく。ほっこりとした沁みるようなあたたかさが心を暗く寒い場所から掬い上げてゆく。窓の外では、風が残りわずかとなった桜の花びらを散らしていた。風に枝を揺らされて、ひらりひらりと舞う花びらを見つめながら深めに息を吐くと、胸にたまった重たいものが体の外へ流れ出てゆく気がして、少しだけ体が軽くなってゆく。


「じゃあ次、問6、水城、答えろ。」


はっとして前を見ると、雪乃の方を見ている浦口と目が合った。

途端に浦口の感情が雪崩のように流れ込んでくる。

「答えられるよなぁ、この間教えたばかりだもんなぁ。」

― 俺の授業でよそ見するとはいい度胸だなぁ。答えは無水カルボン酸だが、そこに行きつくまでがなかなか難しいんだ。へへっ。答えるなよ、答えられなかったら、思う存分罵声を浴びせられる。―

「あ・・えっと・・無水カルボン酸です。」

「ちっ・・はい、そうですねぇ、まぁこれくらい出来てくれないと、医学部は無理だけどなぁ。」

浦口が近づいてくる。流れ込んでくる感情が、雪乃の心に射した僅かばかりの光をどす黒く塗りつぶし、冷たく暗い所へ引き戻す。

― ちっ、まぐれ当たりで答えやがって。水城雪乃か、ちょっと成績いいからって、調子に乗ってるんじゃねーのか。去年までだったら、おまえの内申なんて俺のさじ加減でどうにでもなってたんだけどな、命拾いしやがったな。おかげで余計ストレスたまってんだよ。今年の学年長は普段何にも言わねえくせに、生徒の不利益になりそうだって時だけ目ざとく見つけて言いやがる。大体、なんで俺がこんな屑どもに真摯に丁寧に教えなきゃなんねえんだ。教頭も学年長も俺の評価低く見積もりすぎなんだよ、俺みたいな優秀な教師がこんな田舎の進学校で教えてるだけでも奇跡みたいなもんだぞ。あんな緩い学年長の下に入ってやってるだけでも虫唾が走るってのに、そのうえ俺のやり方にケチつけやがって。俺の価値のわからん奴らはみんな死ねばいいんだよ死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね ―

どす黒い感情が雪乃の中に濁流のごとく流れ込んでくる。午後の日差しの温かさが消え、冷凍庫の中に入ったような冷気が心から沁み出して、体まで凍えさせはじめる。指先とつま先から、氷水につっこんだ時のようなしびれが広がって、体が動かなくなってゆく。


― まずい・・このままじゃここで倒れてしまう・・・。―


授業中に倒れると、教室中が大騒ぎになり、乱れた生徒たちの感情が流れ込んでくる。加えて、今は化学の授業中だ。去年倒れた時は運よく授業が入っていなかった担任が駆けつけてくれたため、浦口に触れずに済んだが、今は担任は他のクラスで授業をしている。そのため倒れればほぼ間違いなく浦口が雪乃を保健室まで連れて行くことになる。浦口の体に触れることは、自殺行為に近かった。授業は残り15分、退席しても欠課の扱いにはならない。


― なんとか・・・腕だけでも・・動いて・・。 ―


表情まで完璧に取り繕うのは無理そうだ。顔から血の気が引いていることは、鏡を見なくてもわかった。雪乃は全身の力を腕に集中させ、手を挙げた。ほかの生徒にねちねちと嫌味を言っていた浦口が、雪乃の挙げた手に気付くのには少しかかった。

「どうした、水城」

― なんだよ、いいところだったのにさえぎりやがって。めんどくせえ生徒だな。よそ見していた上に俺の授業を遮るとは、本気で調子に乗ってんな。内容によってはただじゃおかねえ。学年長のお達しがなんだ、俺はそんなの怖くねえ。俺は・・。 ―

「ちょっと気分が悪くて・・・保健室、行って薬もらってきてもいいですか・・?」

「おぉ、大丈夫か?いいぞ、行ってこい。」

― ・・・なんだ、具合悪いのか。へっ、ざまあみろ。俺のストレス解消の機会を減らしたからだ。まぁ前みたいに倒れられたり面倒なことはごめんだからな、教室にいられるより、とっとと保健室でもなんでも行ってくれ。 ―

「すみません・・。」


流れ込んでくる浦口の感情を流すだけの力はなかった。ダメージをまともに受けていびつに歪んだ視界が少しずつ霞んでゆく。弱れば弱るほど、雪乃の心に周りの感情が堰を切ったように流れ込んでくる。

― いいよなぁ、浦口の授業抜けられて。俺も具合悪くなりてぇよ。 ―

― 大丈夫かなあ、水城さん。顔色悪そう。 ―

― 前も浦口の授業の時具合悪くなったよな、あの時は確か授業中に突然倒れたんだっけ。 ―

いろんな感情が教室を出ようとする雪乃の周りに渦巻く。教室のドアを開けようとしたところで、一応浦口に軽く会釈をしておこうと顔を上げたとき、聴こえてきた感情に雪乃の体が凍りついた。


― 仮病なんじゃないの?昼休み元気だったじゃん。 ―


はっとして感情の主の方へ目をやると、そこには席から心配そうに雪乃を見る仁美の姿があった。雪乃と目が合うと、仁美は口パクで、だいじょうぶ?、と聞いてきた。


― 私もあんな風にか弱いアピールできたらいいのに。雪乃って出会った当初からそういうとこすごい上手で、みんなから気を遣ってもらって。今だって一人だけ得しちゃってさ。ずるいよね。―


息が止まる。こわばった笑顔で、うんと頷くのが精いっぱいだった。

ドアを開けて廊下に出た。教室内のこもった空気とはうって変わって、開け放された窓から吹き込んでくる、春から夏に変わろうとしている季節の風が雪乃の体を包む。流れ込んでくる感情の数も一気に減りだし、雪乃の体も少しだけ軽くなった。


― ま、後でお見舞い行ってやるか。なんだかんだでいつも相談乗ってもらってるし、なんか本当に具合悪そうだったし。 ―


ドアの向こうから新たに聴こえてきた仁美の気持ちに、雪乃の顔に苦笑いが浮かぶ。これだから、理不尽なことがあってもついつい仁美の相談を聞いてしまうのだ。苦笑しながら保健室に向かおうと一歩踏み出した、そのときだった。


― 友達にしとけば何かと便利だもんね、雪乃は。 ―


不意をつかれて、動悸が激しくなる。先ほど感じたわずかなぬくもりはまたもやもろく消し飛び、心が芯から凍えてゆく。心から染み出す冷気が頭のてっぺんまで上ってきて、体の自由が利かなくなる。もう自分の力だけでは立っていられなくなって、壁に体をもたせかけながら動かない足で必死に教室から離れた。


友の、友と思っていた相手の心の声を、これ以上、聞かないように。これ以上、知らないように。


それぞれの教室から、授業をする教師の声が廊下に響く。大半の人には、ただそれだけしか聞こえない。教師や生徒の感情まで、聴こえはしない。知らなくていいことまで、知りたくなかったことまで、聴こえはしない。

感情より先に痛みが走る。もう何度目かわからない痛み、けれど決して慣れることのできない痛みに、視界が闇に覆われてゆく。この状態では、保健室までは到底もちそうにはない。あと10分もすれば授業が終わってしまう。その時、人が通るところで倒れていては、きっと大騒ぎになるだろう。担任にも迷惑がかかる。残った体力で、どこか人の来ないところに行かなくては。そこまで考えて、こんなときでも冷静に考え涙の一つも流せずに誰の目も届かない場所を探している自分に気づき、雪乃の顔に皮肉めいた笑みがこぼれた。


雪乃が選んだのは、使われていない空き教室だった。倒れこむように教室に入り、ドアを閉める。一人になったと同時に無理をした分のつけはすぐにまわってきた。体中がこれ以上ないほどに痺れ、全身から血の気がさぁぁっとひいてゆく。手足の感覚は無くなり、まるでただの棒切れがくっついているかのようだ。息をしているはずなのに、酸素が肺に入ってこない。

雪乃はドアに背をあずけ、そのままずるずると崩れ落ちた。


― どうして・・・どうして普通に生まれてこれなかったのかなぁ・・・ ―


教室の窓から見える空は、ただ穏やかに青くやわらかく広がっている。誰も来ない、誰にも見つからない、という確信が得られてはじめて、苦しいよぅ・・たすけて・・・、と浮かぶ自分の心の声に苦笑した。

その言葉のあとに呼べる名前を、自分はひとつも持ってはいないことをまざまざと思い知らされた気がしたのだ。

ついに座っていることもままならなくなり、雪乃は埃っぽい床に倒れこんだ。床の冷たさも、今の雪乃の心と体の冷たさに比べれば、ずっと優しかった。

視界に広がっていた青空が、少しずつぼやけて暗くなってゆく。

意識を手放し、冷たい闇に沈んでいった雪乃の耳には、教室のドアが開いた音は、聞こえはしなかった。



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