第三話

 まだ太陽が昇りきらない、早朝だった。


 王都に来てから日課にしていた一人きりの朝稽古のために目を覚ましたガルは、いつもよりピリピリとした空気を感じ取る。本来、城の朝はひっそりと静かで、朝早くから仕事を始める料理人や一部の女官たちがてきぱきと無駄なく動いているものだ。

 ピリピリと肌を刺激するこの空気は、今までなかった。

 練習用の木刀を置いて、ガルは足音を立てずに騎士団の宿舎を出る。

「……ちょうは……?……が……」

 遠くから聞こえてきた会話に意識を集中させた。常人なら耳に捕えることすらできない会話であったはずだ。獣人である彼は、いつも意識的に鈍感でいる。そうでなければ、この世界は音も香りも溢れるほど多く、日々の刺激が強すぎて疲れてしまうからだ。

 だからガルが意図して耳を澄ませば、より遠くの内緒話も聞くことができる。それこそ、アイザがやるように魔法による妨害がなければ。

 そうして、聞こえてきた内容にガルは息を呑んだ。

 アイザ、と唇が一人の少女の名を紡ぐ。




 ガルの知るアイザ・ルイスは、真面目で頑固で意地っ張りだ。

 幾度となく、それこそ口癖のように問いかけても、彼女は必ず「大丈夫だ」と笑った。笑っているつもりなのだとガルは知っている。それはとても笑顔とは呼べない顔で、お世辞にも大丈夫だなんて言葉を信じられない表情をしていたけれど。

 出会った時からそうだった。一人で何もかも抱え込んで涙も悲鳴も飲み込んで唇を噛み締めている。そういう少女だった。

 泣く姿は見たくない。けれど、泣くのを堪えている姿の方が見たくない。


『アイザは今、ひとりじゃないだろ』


 ヤムスの森で、どうして追いかけてくるんだ、どうしてやさしくできるんだと叫ぶ彼女にそう言うと、アイザは頬に触れるガルの手をおそるおそるといった風に触れて、そして静かにグラスから水が零れるように泣き始めた。

 そんな風にしかアイザは泣けない。

 一人きりでは自分の中の器が溢れ返っていることにも気づかずに耐えてしまうから、誰かが傍にいてやらないと駄目なのだろう。

「……」

 けれどガルは。




 アイザの部屋の前までやってくると、ガルは部屋の中からすすり泣く声と、それを慰める声を耳にした。

 タシアンだ。そのことに、ガルはほっと息を吐いた。

 そしてそのまま、部屋の扉の横でしゃがみこむ。空は次第に明るくなり、あたりは朝特有の澄んだ空気に満ちていた。


「ガル?」


 それからどれほど経っただろうか。扉が開いたかと思うと、何してんだ、という顔のタシアンが驚きながらガルを見下ろしていた。

 ゆっくりと立ち上がり、ガルはタシアンを見る。アイザと同じ青い瞳には涙の気配はなく、ほんと似た者兄妹だなとガルは内心で苦笑した。

「……その、亡くなったって話が、ちょっと聞こえたからさ」

 女王が。

 アイザとタシアンの、母親が。

 ガルが耳にしたのは、おそらくタシアンを探して駆けつけてきた伝令だったのだろう。城内にはまだ知れ渡っていないのか、水面下でピリピリとしながらもごくごく普通の一日として表面は既に動き出していた。

「アイザ、大丈夫かなって」

 タシアンは扉の向こうを見つめるように振り返る。泣き声は少し前から聞こえなくなったから、眠ったのだろう。

「今は泣き疲れて寝てる。……傍についてやってくれ」

 タシアンの言葉に、ガルは笑う。

 いつもならどんな理由があっても、タシアンはアイザの眠る部屋にガル一人で入れようとは考えないだろう。

 それだけ消耗しているということなのかもしれない。アイザも、タシアンも。

「……ん、それはやめとく」

 しかしガルは、タシアンの頼みを断った。

 タシアンが驚いて目を見開く。そんなに驚くことだろうか、とガルは思いながら、まぁ驚くだろうな、と自己完結する。

 周囲の自分への評価には気づいているつもりだ。どんなときでもアイザにべったりで、離れない。彼女に害があるものを許さない。彼女のためならどんなことでもする。そんなところだろうか。

 すべて事実だし、ガルは否定しない。クリスにはなんで理由もわからずそんなことができるんだと変な顔をされたけれど、ガルには理由なんていらない。

 ただそうすべきだと本能が告げる。身体が勝手に動く。それで良かった。

「どうして」

 遅れて呟かれたタシアンの問いに、ガルはどうして、と心の中で繰り返す。普段は本能で動くガルだが、これには明確に理由があった。

「……アイザは、大丈夫って言って無理して笑って、俺の前では素直に泣いてくれなくなったから」

 だからタシアンがいて良かった、とガルは笑った。

 いつからだろう。アイザが自分の前で弱さを見せないようにしているのだと、ガルは気づいたのは。他ならぬアイザのことには、ガルは驚くほど敏感だった。

 ガルには理由がわからない。わからないけれど、アイザが泣くのを我慢している時に、自分以外の誰かの前でなら泣けるというのなら、それでもいい。

 タシアンは妙な顔をしたあとで、しばし沈黙すると「そうか」とだけ告げた。それ以上何も言ってこないことがなんとなくガルには救いだった。

「……アイザ、これからどうするんだ?」

 当初の予定通りなら彼女はもうマギヴィルへの帰路についているはずだった。しかし滞在期間をギリギリまで延ばして、明日、ルテティアを去る予定になっている。

 しかし。

「……あの状態のアイザを帰すわけにもいかないだろう。学園長に俺から連絡しておく」

 学園長はアイザの事情も承知済みだ。そうでなくても、親族の葬儀となれば理由としては十分だ。

「だよな。……俺もまだ残っていようかな」

 ガルは頷いたあとで、少し冗談めかすように笑った。

「馬鹿言え。なんて理由で休むつもりだ」

「……アイザが心配だから?」

「それ、通用すると思ってんのか」

 ガルは「無理だよなぁ」と残念そうに目を落とした。無理だとわかっていて言ってみただけだ。

 足元を見て、頬を掻きながら「……だよなぁ」ともう一度呟いた。ガルには、対面的な理由がない。そもそも彼が王城の片隅に滞在している理由も、アイザのおまけとしてタシアンが手配したからだ。

「国境までは騎士団の誰かに付き添わせる。ノルダインに入ったら知り合いの商隊に同行させてもらえるようにしておく」

 まるで決定事項のように告げられたガルは、アイザがいつも言っているタシアンの過保護さってこういうことだよな、と思った。ガルはアイザと違って女の子でもないし、気を遣われるような生まれでもないのに。

「俺は男だし、そんなに気ぃ遣わなくていいけど?」

「男でもまだガキだろ」

 タシアンはぐしゃぐしゃと乱暴にガルの頭を撫でて、金の目を見下ろす。意志の強い光を宿して、その瞳はタシアンをまっすぐに見つめ返した。

「頼れるものは頼れ。使えるものはなんでも使え。それが許されるのは子どものうちだけだ」

 タシアンの言葉に、ガルはきょとんと目を丸くした。その顔に、タシアンはため息を吐き出す。

「……おまえらはもう少し、大人を頼れ」

 自立した子どもと言えば聞こえはいい。

 しかしタシアンの目には、アイザもガルも、いざという時に自分ひとりでどうにかしようとしているように見える。

 タシアン自身にも覚えがあった。あの頃の自分の周囲の大人たちも、今のタシアンのような気持ちを味わったのだろうか。

 子どもに頼られない大人というのは、虚しいものなのだと同じ立場になってからようやく知る。

「俺もアイザも、わりとタシアンには頼っていると思うけどな?」

 ガルは扉を見つめた。その扉の向こうでアイザは眠っている。

「……アイザのこと、よろしくな」

 その言葉の重みを受け止めながら、それでもタシアンは顔に出さなかった。

 頼れと言われて頼んでくるのが、自分ではなくてアイザのことなのだからやはりガルは少し変わっている。

「おまえに言われなくても」

「なら良かった」

 満足げに笑う少年の頭をもう一度撫でると、タシアンはその場を去った。睡眠を取れるのはいつになるだろうと苦笑して、おそらくタシアンの帰りを待つ部下のもとへと急ぐのだった。

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