第四話
「リュース!」
アイザの目の前を、一人の少女が走り抜けていく。
その少女が口にした名前に、アイザはすぐにこれは夢なのだろうと思った。リュースという名の人物がアイザの知る人と同じなら、その人はもはやこの世の人ではない。
金の髪がふわりと揺れる。
少女はまっすぐに濃い灰色の髪のくたびれた男のもとへと駆け寄る。
「かあさん」
意識して口に出たわけではなかった。
けれど、それは驚くほど自然に声になっていて、少女はまるでアイザの声に呼び止められるように振り返る。
少女の瞳の色は、青だった。
何も言わず、少女はアイザを見てただ微笑んだ。
目を覚ましたアイザの目に飛び込んできたのは、窓から零れる明るい陽の光だった。
瞼が重い。これはきっと、見るも無惨に腫れているのだろう。
眠りながら、夢だとわかっていた。
だから目が覚めても驚きはしなかった。
「……そうか」
ぽつりと、アイザは小さく声を落とす。
死を悲しむことも哀れむことも、遺された者の権利ではあるが、同時に生者の勝手でもある。死者にとってそれが不幸であるとは限らない。
夢の中で振り返った少女が、満足そうに微笑んでいたように。
目を瞑り、ベッドの上で膝を抱えて丸くなった。王城のベッドは広すぎてこういうときに落ち着かない。
膝に頭を埋め、何度か呼吸を繰り返すと頭が冴えてくる。
「……ルー?」
傍にいるはずの精霊の名を呼ぶ。
「どうした」
思った通り、ルーはすぐにベッドまで寄ってきた。ふわふわの毛並みを撫でながらアイザはほっと息を吐く。
「今、何時かな……わたしはどれくらい寝てた?」
「昼前といったところか。明け方にようやく寝たのだから寝坊でもないだろう」
いや起きたのが昼近くなら、アイザの感覚としては見事に寝坊だ。不規則な生活をしていては侍女たちにも迷惑をかけてしまう。
しかしアイザが起きたことにまだ気づいていないのか、侍女は誰も姿を見せない。
だからふと、アイザは思った。
「……もう、みんな知ってるのかな」
「まだのようだが、察している者はいるようだ。城内がひっそりとしているのに慌ただしい」
ひっそりと慌ただしいはどうにも相容れない単語だと思うが、現状を表現するには適切なのだろう。
アイザもなんとなく空気を感じ取って「なるほど」と呟いた。
(……あれ?)
侍女たちよりも先に、真っ先にやって来る少年を思い出して首を傾げた。
「ガルは?」
ガルならたとえ部屋の外で待たされているとしても、アイザの声を聞き取っているはずだ。だとすればアイザが起きたことに気がついているだろう。
「来ていないが」
「……そっか」
ルーの返答に、アイザは違和感を覚えながらも小さく頷く。瞼が腫れて、視界は狭まっていた。大泣きしたことが一目でわかってしまう顔だ。
(……そうだな。できれば、会いたくないな……)
ガルの前で弱さを見せたくない。アイザが泣けばガルは絶対に慰めようとするだろう。
それは、対等ではない。アイザばかりがガルに寄りかかることになる。友人というものは一方的に寄りかかるものじゃないだろう。
とはいえ、今日まったくガルに会わないわけにもいかないだろう。むしろガルだけでなくてもこの顔では他の人にも会いたくない。
泣いた理由を聞かれても、アイザは何も言えないから。
「……ルー。魔法でこの顔どうにかできないかな……」
瞼が腫れるほど泣いたことがないので、どれくらい待てば元通りになるのかアイザにはわからない。
「治すことはできないが、他人の目にはいつも通りに見えるようにはできる」
「じゃあ、それでお願い」
この顔を見られるのでないならなんでもいい。
「しかし侍女は何かがあったと悟っていると思うが」
昨夜部屋から出たときも戻ったときも侍女はいなかったが、アイザが眠っている間におそらくタシアンあたりが寝かせておくようにと言付けているはずだ。
「……タシアンと何かあったと思われていそうだなぁ」
「それは否定できない」
そもそも何やら訳ありの上、タシアンの計らいで王城に滞在している身だ。ガルとの仲を生暖かく見守るような素振りも見せるが、侍女たちにとってはアイザとタシアンの関係の方が気になるだろう。
後見人だ、という言い訳はおそらく噂話が好きそうな年頃には通用しない。それでも口のかたそうな侍女を選んで配置してもらっているのはなんとなく察していた。
ぱちん、とシャボン玉が割れるようなかすかな音がする。ルーによる魔法だ。鏡を見てみると、鏡面に映し出された姿はいつも通りの自分だった。
視界の悪さはそのままだが、贅沢は言えないだろう。
昨日から着たままだった服を脱いで、新しいワンピースに着替える。気分的に明るい色は袖を通す気にすらなれなくて、紺のワンピースを選んだ。
ぼさぼさになっていた髪を梳けば、ようやく人前に出られる姿になった。
寝室を出ると、ちょうど一人の侍女が入ってきたところだった。
「具合はいかがですか? 何かお食事をお持ちしましょうか?」
「あ……いや、食事はいいです。少し出てきます」
昨夜から何も食べていないが、食欲はあまりない。
「お戻りは?」
「そう遅くならないかと」
「かしこまりました」
綺麗なお辞儀に見送られてアイザは部屋を出る。
会えるかどうかは別として、騎士団まで行ってみることにした。タシアンはいなくても、ガルかレーリはいるだろう。
騎士団長室へ顔を出すと、レーリがすっかり疲れた顔をしていた。きっと彼も朝からあれこれと忙しくしているのだろう。まだ公になっていないのなら、タシアンのもとには通常業務もやってくるはずだ。しかし処理するはずのタシアンはいない。
「アイザ」
驚いたように目を丸くする彼に、アイザは苦笑で返した。
「……タシアンは、やっぱり忙しいよな」
「……ええ。明け方から休む暇がないようです」
アイザの部屋を去ったあと、きっとタシアンは一睡もしていないのだろう。申し訳ないことをしたな、とアイザは目を伏せた。
「ガルは?」
「彼ならあちこちに挨拶に行っているはずです。明日にはここを発ちますから」
「あ」
すっかり忘れていた。
ここ数日、日付の感覚が狂っていたのかもしれない。明日がここを発つ日だと記憶からすっぱり抜け落ちていた。
「……あなたはまだ少し残れるはずです。朝早くに団長が学園へ手紙を送っていましたから」
レーリの説明に、今度はアイザが驚く番だった。忙しいだろうにタシアンはそんなことまでもう根回しをすませたのか。
(たぶん、すぐに国葬が行われる)
そこに参列することはできるのだろうか。参列させるためにタシアンはアイザをルテティアに残そうとしているのだろうか。
「……でも、その……いいのかな」
アイザは、ただの魔法使い見習いで。本来は戴冠式にだって参列できるような身分ではなかった。
それに、彼女の葬儀にアイザが立ち合えば、おそらくあらぬ憶測が飛び交うだろう。
「今の状態で勉強に集中できますか?」
「……できないけど」
「でしたら素直に甘えたらいいでしょう。……別れはきちんとすませておくべきですよ」
勉強ができる状態でないのなら学園に戻っても無駄だと言いたげなレーリに、アイザも否定できずに唇を尖らせた。
「あれ? でもガルは帰るんだ?」
首を傾げるアイザを、レーリが呆れたような目で見た。他人でも思ったことだが、どうやら本人もワンセットで考えてしまうところがあるらしい。
自分が残るのにガルは帰る。そのことに疑問を抱く程度には。
「彼には残る理由がないでしょう。国境までは騎士団に付き添わせますし、ノルダインに入ってからも手配は済んでます」
「相変わらず過保護だな……」
「あなたが帰る時はもっと過保護ですよ」
「う……」
タシアンとイアランの過保護っぷりを想像してアイザは苦い顔をする。行きはタシアンがわざわざ迎えに来たが、帰りはどうなるか。
(この忙しさからすれば、またタシアンってことはなさそうだけど……)
そうなればレーリになるのだろうか。なんとなく、他の団員には任せないような気がする。
「ルーもいるし、一人でも平気なのに」
「そうはいかないとわかっているでしょう。……思ったより元気そうですね」
後半のやさしさが滲む言葉に、アイザは笑った。レーリにも心配をかけてしまったらしい。腫れた瞼を誤魔化して来て良かった。
「うん、まぁ……気持ちとしてはもう平気、かな」
「なら良かった」
微笑むレーリに、アイザも不器用ながら微笑み返した。
レーリはアイザが泣いたことをタシアンから聞いたのだろうか。彼がそう言いふらすとも思えないから、ただ訃報を知ってアイザのことを思い出したのだろう。
それなら。
(……ガルにも、心配かけてるのかな……)
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。