第二話


 わたくしの、いとしい、子どもたち。


 最期の言葉は、まるでその残りわずかな命の全てを燃やし尽くすかのように、ようやくといった体で吐き出された。吐息のように小さな声は、静まり返った室内のなかではっきりと音となる。

 ウィアの青い瞳は、確かにアイザだけではなく、タシアンとイアランも見つめて。いとしいという言葉が偽りでないことを伝えるように、一筋の涙を流して。

 懺悔するように、それでいて、ただただ歓喜を表すように、乾いた唇が愛を言祝ぐ。


 アイザは力をなくした手を握りしめて、声もなく泣いていた。ほとりほとりと静かに涙が頬をつたう。

 奇跡というべきなのかもしれない。もうウィアには目を開ける力も残っていなかった。もうとっくに、声を出すこともできなかった。彼女は既に死の旅へと歩み始めていたはずだった。

 最期。

 呪いのように、祝福のように、ただ愛する子どもたちへ、これまでの人生でただの一度も伝えることのできなかった愛を一方的に送るだけの刹那が、彼女の人生の、最後の矜恃だったのかもしれない。


 当然ながら、子どもたちが知る彼女は常に女王であった。女王であることを最優先にし、女であることも母であることも捨てていた。ゆえに、後継争いを避け長子を廃嫡し。ゆえに、ただ一人の後継を厳しく育て。ゆえに、愛する男との間に生まれた子すら手放した。

 ただの女であったのなら。

 ただの母親になれたものを。

 女王という重荷を下ろしてようやく、彼女はなんの憂いもなく、なんの障害もなく、子どもたちの母親になれるはずだった。

 泡沫のままごとのような時間は、何より彼女自身が描いた絵空事。今にも壊れそうな心と身体を空想で繋ぎとめて、夢を見ていることを自覚しながら過ごした最初で最後の家族としての時間だったのだ。




 タシアンは困惑していた。

 彼女の死に、ではない。それは、もうとうに覚悟していたことだった。

 子どもたち、なんて。

 そんな言葉が、ウィアの口から紡がれたことに驚き戸惑っていた。

 彼女にとっての子どもは、アイザだけだったはずなのに。タシアンはもうとっくの昔に捨てられた、血の繋がりのあるだけの赤の他人のはずだったのに。

 どうして、今更。

「……タシアン」

 イアランが沈黙を破る。その声に、タシアンは困惑を振り払う。

 ウィアが息を引き取った今、この場にアイザがいるわけにはいかない。アイザのためにもこの場にいたと知られるわけにはいかないのだ。

 急ぎ医師を呼び、死亡確認をし、そのあとは国葬のため慌ただしくなる。姿を決しているとはいえ、万が一魔法の効果が切れて姿を見られでもしたら、彼女の秘密は容易に明るみに出る。

「アイザ」

 名前を呼ぶ。

 青い瞳は静かに涙で濡れ、迷子のように頼りない表情でタシアンを見上げてきた。

 ぐ、とタシアンは奥歯を噛み締める。

 このままアイザが納得できるまでここで泣かせてやれたらよかった。父を亡くして一年も経っていないというのに、続けて母を亡くした少女が、その死を受け入れるだけの時間も与えてやれない。

 タシアンはもう何も言わずにアイザを抱き上げた。細い身体は軽すぎるくらいで、アイザはなされるがまま、タシアンに体重を預ける。そんな仕草一つにしても、アイザが弱っていることを教えてきた。なんでも一人でどうにかしようとする彼女は、タシアンはおろかあの少年にすら素直に甘えないのに。

 イアランは微苦笑するだけで、言葉で指示は出さない。それで十分に伝わる。

 アイザを部屋まで送り届け、タシアンはいかにも知らせを聞いて駆けつけたという風を装って再びこの部屋に戻ることになるだろう。


「……子どもたち、なんて。そんな言葉を、貴女から聞かされるなんて思ってもみませんでしたよ」


 部屋を出る直前、苦笑いのような、そんな声がした。母上、と小さく呟くイアランの声は幻聴ではなかったはずだ。

 一瞬だけタシアンは振り返る。枕元に立つ青年は、ただただ静かに死者を見下ろしていた。その表情はタシアンからは見えない。

 けれどおそらく、今の自分も同じような顔をしているのだろうと、タシアンは思った。


 タシアンが今日、あの場に居合わせたのただ付き添いのためだ。アイザのように、最期になるかもしれないから会っておかなければなんて考えは欠片もなかった。

 ウィアにとって、タシアンは子どもではなかったから。タシアンにとってもまた、彼女は母親ではなかった。

 魔法によって姿を消したまま、タシアンはアイザを抱えて東の離宮へ向かう。わずかに夜明け前の城内が慌ただしくなってきた。一部の人間にウィアの死が伝えるために動く者、既にその死を聞かされて動き始める者、なんらかの異変を感じ取って戸惑う者、そんなところだろうか。

「……言ってたんだ、みんなって。男の人って」

 アイザがタシアンの肩に額を押しつけ、涙で掠れた声で呟いた。

 わずかな足音にさえ掻き消されそうな小さな声だった。しかし耳元で発せられるその声を、タシアンが聞き逃すはずがない。

 きっと、とアイザが続ける。

「……あの人にとって、みんなが揃うことが、しあわせだったんだ」

 だから、ままごとを続けていたのだ。

 子どもたちと、愛する人。彼女が彼女個人として愛を傾ける人々と共に過ごすという、現実ではありえなかった日々を夢に描いた。

 タシアンは口を開いた。しかし言葉は何も出てこない。以前の彼ならば即答しただろう。アイザの言葉を容赦なく否定しただろう。

 そんなことない、と。そんなはずはないと。彼女にとって子どもといえるのはアイザだけだと。

 しかしタシアンにはもう、言えなかった。


 アイザの部屋に戻る。時間が時間だ。まだ侍女はおらず、しんと静まり返っている。

 ベッドに座らせると、アイザの目は赤くなっていた。ぎゅっと唇を噛み締めて、ぽろぽろと零れる涙を堪えようとしている。

 泣くなというのは酷だろう。

 タシアンはアイザの頭を抱き寄せて、先ほど抱きかかえていたときと同じく自分の肩に寄せる。アイザはことりと素直にタシアンに寄りかかった。

「……もっとはやく、わたしがきづいていたらよかった」

 そうしたら、きっと。

 こんな最期の最期ではなく、こんな一瞬ではなく、彼女は愛した子どもたちと過ごすことができたかもしれない。

 自分を責めるアイザに、タシアンはそんなわけがないとやさしく答えた。

「おまえは悪くない」

 ぽんぽん、と頭を撫でる。

「……おまえは、がんばったよ」

 ふるふるとアイザは頑なに首を横に振る。

 それでもタシアンはアイザの頭や背中を撫で続けた。

 こんなことになるなら会わせるべきではなかった。いっそアイザにとっても他人のまま最期を迎えるべきだった。薄情だろうが、タシアンはそう思う。


『アイザは、誰かが傷つくことは嫌がるくせに自分が傷つくことは気にしないから』

『……そうだとしても、それがアイザが選んだ道なら他人がどうこう口出すのはおかしいだろ』


 ああ、と数日前の会話を思い出す。

 あの少年はこうなることを予感していたのだろうか。あの時は大人ぶって理解を示したくせに、いざこうして泣く姿を目の当たりにすると心が痛む。

 ぽんぽん、とタシアンが無言のまま背を撫で続ける。小さな嗚咽が徐々に大きくなって、アイザはタシアンに縋り付くように泣いていた。明けていく空が部屋を光に包んでも、アイザはただ泣き続けた。




 泣き疲れたアイザは、やがて力尽きたかのように眠りに落ちた。昨晩もタシアンたちが訪ねるまで眠っていなかったようだから限界だったのだろう。

 涙のあとが残る頬をそっと撫でて、タシアンは細く息を吐き出した。精神的な疲労のせいか、身体がどっと重くなる。

 母親ではない。家族ではない。

 そんなものはとうの昔に、タシアンが物心つく前に消え去ったものだ。

「……今更母親になんて、なってくれるなよ……」

 吐き出した言葉は誰かの耳に届くわけでもなく、虚しく響いて消えた。


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