第五話 中間テスト始まる。光洋蒼白、五郎次爺ちゃん大歓喜!?

 迎えた金曜日、中間テスト初日。淳甲台高校一年二組の教室。

「梶之助殿ぉ、昨日は勉強したか?」

「まあ、一応ね」

 朝八時十五分頃に登校して来た梶之助は、出席番号通りの席に着くなり光洋から話しかけられた。光洋は中学の頃から、テスト期間中だけはいつもより早めに登校して来ているのだ。

「やるなあ。おいら、昨日は全然勉強出来んかったぜ。帰ってからファ○通とチャン○オン読んで、深夜アニメの録画見て、深夜は深夜でリアルタイムで2ちゃんねるのアニ関実況スレと併せて見て。木曜深夜は多いからなぁ」

 光洋はにこにこ笑いながら報告する。

「やっぱ誘惑に負けたのか」

 梶之助は呆れ返った。

「それはボクも同じでございます。昨日の帰りに購入してしまったG○文庫の新刊三冊、ついつい読み漁ってしまいましたよん」

 秀平は登校してくると、苦笑いを浮かべながらこう伝える。

「とか言って、どうせまた学年トップ取るんだろ」

 光洋は笑いながら問う。

「微妙ですねー。この高校、周りの学力水準がすこぶる高いですしぃ」

秀平は表情変えぬままこう答えて、自分の席へと向かっていく。

同じ頃、利佳子、麗、秋穂の三人も近くに寄り添っていた。

「麗さんは、昨日帰ってからはちゃんと勉強しましたか?」

「いやぁ、それが、数Ⅰの問題解いてたつもりが、いつの間にかバラエティ番組に浸ってたよ」

「やっぱり。中学の頃と全く変わってないわね」

 利佳子は呆れ顔。

「ワタシも、そんなにはしてないよ。いつの間にかマンガに手が伸びてたー」

 秋穂はにこやかな表情で打ち明ける。

「秋穂さんまで」

 利佳子はさらに呆れてしまう。

 けれども麗も秋穂も口ではああ言いながらも、数学Ⅰは思ったよりは手ごたえがあったようなのだ。

初日の日程が終わると、例の四人は南中宅へ集い数学Aと英語、そして来週月曜に行われる古文と現代社会に向けて勉強稽古。

梶之助、麗、秋穂の三人は土日も南中宅に集い、利佳子と一緒に勉強稽古を行ったのであった。

「利佳子ちゃん、そろそろ十両の取組が始まるから私もう帰るね」

「待ちなさい! 麗さん。今日のスケジュールまだまだ残ってるでしょ」

 午後一時頃から夕方六時半頃まで。


       ※

 

次の火曜日。中間テスト三日目終了解散後、光洋、梶之助、秀平の三人は近くに寄り添う。

「今日は二〇日だよな。梶之助殿、ドラ○ンマガジンとファ○タジア文庫の新刊、今日発売だから駅前の本屋まで一緒に買いに行こうぜ」

「光洋、あと一日だけなんだし、終わってからにしたらどうだ。今日買うと、絶対内容が気になってテスト勉強に集中出来なくなるぞ」

 光洋の誘いに、梶之助は眉を顰めた。

「おいらは明日の英語と数A完璧に捨ててるし。おいら目当てのやつは人気作だから明日には売り切れるかもしれないぜ」

 けれども効果なし。光洋の意思は全く変わらず。

「そういうのはたくさん入荷されるから、むしろいつでも手に入れ易いだろ」

 ほとほと呆れ果てる梶之助に、

「あの、鬼柳君。ボクも、いち早く読みたいですしぃ。一緒に買いに行きましょう」

 秀平も申し訳無さそうにお願いしてきた。

「……秀平まで。それじゃあ、行くか」

 梶之助は五秒ほど悩んだのち、こう意志を固めた。

 その時、

「コラーッ! 梶之助くん、遊びの誘いに乗っちゃダメでしょ!」

 背後からこんな声。

「!!」

梶之助はビクッと反応する。

 声の主は麗であった。

「遊んでても余裕な秀平さんはともかく、光洋さんは、赤点取っても知らないよ」

「コウちゃん、シュウちゃん、テスト期間中に遊んじゃダメだよ」

 利佳子と秋穂から注意されると、

「分かりました。明日、テスト終わってからにします」

「申し訳ないでありますぅ」

 光洋と秀平は俯き加減になり、素直に従う返事を返した。

「梶之助くん、こんな悪い子達は放っておいて、私達と勉強稽古だよ。梶之助くんが今やろうとしてたことは、お相撲さんが本場所中に稽古をサボることと同じことなんだよ」

「わっ、分かってるって」

 こうして梶之助は今日も南中宅へ。

 今日は三人、英語と数学Aの利佳子自作予想問題を解いていった。

 利佳子によって採点された結果、英語は秋穂八四点、麗五七点、梶之助八一点。数学Aは秋穂八六点、麗五四点、梶之助八九点を取得。

 この三人はおウチへ帰った後も、利佳子に忠告されたように英語と数学の予想問題をもう一度自力で解き直し、明日に備える。

 もちろん利佳子自身も、夜遅くまでしっかりテスト勉強に励んだのであった。


      ☆  ☆  ☆


 中間テスト最終日。

「やっとテスト終わったぁ! 土日挟んでたからめちゃくちゃ長かったよな。これで思う存分遊べるぜ。梶之助殿、このあとテスト終了祝いにポンバシ行こうぜ」

 最後の科目、数学Aのテストが終わり回収された後、光洋は梶之助の席を振り向き、陽気な声で話しかけてくる。

「おーい光洋、またすぐに期末がやって来るぞ」

 梶之助は呆れ顔で突っ込んでおいた。

「麗さん、秋穂さん、数Aのテストはどうでしたか?」

「思ったよりは、出来たかな? でも問い5と6は白紙。横綱級の難しさだったよ。まあ、五〇点以上は取れると思う」

「ワタシは、数Aは八〇くらいは取れそうだよ」

 利佳子、麗、秋穂も近くに寄り添いおしゃべりし合っていた。

今日から部活動も再開。帰りのホームルームが終わり放課後、この三人は嬉しそうに文芸部の部室へと向かっていく。

「そういえば、利佳子ちゃんが応募しようとしてるラノベの新人賞の〆切って、今月末だったよね? 原稿は進んでる?」

「いやぁ、あれからまだほとんど書いてないよ、ストーリーが思い浮かばなくて」

 麗の問いかけに、利佳子は苦い表情を浮かべながら答えた。

「三百枚も書くのは気が遠くなるよね」

 秋穂は同情した。

「うん。あの賞には今回は見送るつもり」

「文章を書く能力、利佳子ちゃんはまだ応募以前の三段目レベルだね。私は序ノ口だけど」

 麗はにこにこ笑いながら言って、絵本作りに取り掛かる。

 梶之助は、光洋と秀平に誘われ仕方なくポンバシ巡りに付き合ってあげたのであった。


      ☆


「ただいまー。ん?」

 その日の午後五時頃に梶之助が帰宅すると、玄関先に見慣れない革靴があった。

(このでかさは……)

 サイズは、三〇センチ以上はあった。

梶之助はわくわくしながら茶の間へと向かう。

「よう、梶之助君。久し振りじゃな」

「やっぱり慶一爺ちゃんか。どうしたの? 急に」

「五郎次の孫の顔が急に見たくなってのう。梶之助君は、高校生になったんじゃな?」

「うん」

「今、身長はどれくらいなんかのう?」

「一五四センチ、だけど」

「そうか、そうか。まだまだ相撲を取るにはちっちゃ過ぎるが十数年前、若貴ブームが去ってからは新弟子検査の基準が緩うなって、一六七センチあれば入門出来るようになったからのう。どうじゃ梶之助君、頭にシリコーンを埋めてみんか? 昔、大受や舞の海が新弟子検査を受ける時にやっておったろう。十五センチくらいはかさ上げ出来るぞ」

 慶一爺ちゃんは豪快に笑いながら、おっとりとした口調で勧めてくる。

「誰がやるか。ていうかもう禁止されてるだろ」

 梶之助は呆れ気味に言った。

慶一爺ちゃんはとにかく大柄なのだ。背丈は二メートル近くある。加えて恰幅も良く、体重は一五〇キロくらいはあるものと思われた。ただ、光洋のようなぶよんぶよんした体つきとは異なり、かなり引き締まって筋肉質だ。さらにとても九九歳とは思えない若々しさを保っており、五郎次爺ちゃんよりもずっと若手に見える。

「梶之助も僕に似てしもうて、十五を過ぎてもこの有様なのじゃよ。僕の作った特製ドリンクで大きくしてやろうと思っとるんじゃが、梶之助は全然飲んでくれなくて困っておるのじゃ」

 五郎次爺ちゃんは苦々しい表情で慶一爺ちゃんに相談する。

「そりゃぁそうじゃろう。あんなワシの玄孫娘が大好きなド○えもんに出てくるジャイアンシチューみたいな物、飲めるはずはないべ。飲んだら背が伸びるどころか、腹を下す。体重減る」

 慶一爺ちゃんはきりっとした表情で意見した。

「さすが慶一爺ちゃん、常識人だな」

 梶之助は感心する。

「僕、カルシウムがいっぱい摂れるように一生懸命考えておるのじゃがのう」

 五郎次爺ちゃんは納得いかない様子だった。

「五郎次よ、カルシウムをようさん取ったら背が伸びるというのは、とっくの昔に嘘だということが分かっておるのだぞ。ちゃんと日頃から雑学文庫を読め。梶之助君の背が低いのは五郎次の遺伝子を受け継いでいるからなのじゃからもう諦めろ」

 慶一爺ちゃんはにこにこ快活に笑いながら忠告する。

「やはり梶之助も、慶一兄さんみたいなたいそう大柄な人間には育たんのか」

 五郎次爺ちゃんはため息混じりに言った。

「五郎次よ、気にするな。ワシですら、江戸時代生まれのご先祖様に比べれば小兵扱いなのじゃ。江戸時代生まれの鬼柳家男子は皆、七尺をも超えておったそうじゃからのう。ワシの若い頃は、鯖折り文ちゃんのあだ名で親しまれておった、出羽ヶ嶽文治郎というワシよりもでかい二メートル六センチの幕内力士もおったぞ。昭和二十年代に活躍した不動岩三男はもっとでかかったな、二メートル十四センチあったべ。三段目止まりで終わったが、昭和の初め頃にはさらにでかい二メートル十七センチの白頭山福童というのもおったなぁ。話は変わるが梶之助君には、麗ちゃんという相撲の強ぉい女の子がおったな。また会ってみたいのう」

「それじゃ、呼んでみるね」

 慶一爺ちゃんに懐かしむような声でお願いされると、梶之助はさっそく麗のスマホに連絡する。

『慶一お爺様が来てるの! すぐに行くよっ!』

 麗はかなり興奮気味な様子だった。

 電話を切ってから、二〇秒くらいで鬼柳宅茶の間にやって来た。

「慶一お爺様ぁ! お久し振りです。お正月の時以来ですね」

 麗は甘えるような声を出し、慶一爺ちゃんにガバッと抱きつく。

「おう、女子高生になった麗ちゃん。前に会うた時と比べてあんまり大きくはなっておらんが、この間の女相撲大会で準優勝して、相撲は一段と強くなったようじゃのう。麗ちゃんが鬼柳家の男子でないことは非常ぉに惜しまれるべ」

 慶一爺ちゃんは麗の尻の辺りをさすりながら褒める。そのスキンシップのやり方は五郎次爺ちゃんにそっくりだ。

「もう、慶一お爺様ったら。五郎次お爺様なら投げ飛ばすところですが、慶一お爺様は無理ですね。全く動きません」

 麗は幸せそうににっこり微笑む。六時頃まで三人と一緒に大相撲夏場所観戦を楽しんだ後、自宅へ帰っていった。

六時半頃、寿美さんが帰ってくると夕食の準備が始まる。

権太左衛門は、今日は職員会議で遅くなるから夕飯はいらないということであった。

七時頃から慶一爺ちゃんを交えての賑やかな夕食会が始まる。

その最中に、ピンポーンと玄関チャイム音。

「梶之助殿ぉー」

 それと共に、光洋の声が聞えて来た。

「俺が出るよ」

 梶之助が玄関先へ。

「これ、おいらの父ちゃんから」

 光洋は枇杷を届けに訪れて来たのだ。

「もうそんな季節か、サンキュ。ありがたく頂くよ。それよりどうした光洋、今にも死にそうな声を出して、顔色も悪いぞ」

 梶之助は心配そうに問いかけた。

「おいら、中間で一科目でも赤点があったら、相撲部屋に強制入門させられるんだ。おいら、母ちゃんと父ちゃんからそれ聞かされた瞬間、顔が真っ青になりそうになってんって」

「……そうなのか。そりゃ災難だな。高校辞めさせられて相撲界に入れられるって可哀想過ぎる。いまどき力士になるにしたって大卒だろ」

 光洋からされた突然の報告に、梶之助はかなり同情出来た。

じつは光洋は、中学を出たら角界に入ることを両親から強く薦められていた。彼が今、淳甲台高校に通えているのは中三の時の担任が高校には絶対進学させた方がいいと両親を説得した経緯があったからなのだ。光洋の父は、今は果物屋さんの店主だがかつては大相撲の力士だった。現役時代の最高位は三段目とあまりパッとしなかったこともあり、息子の光洋には自分よりも上の番付まで上がって欲しいと願っているそうである。

「おいら、力士なんて全くなる気ないって」

「ようするに、赤点が一つも無けりゃ大丈夫ってことだろ」

 梶之助は慰めの言葉を掛けてあげた。

「そうやけど、おいら、化学と古典と数学と英語がかなりやばそうやねん」

「まあ、悲観的にならずに結果が出てから考えろ」

 梶之助は優しくこうアドバイスしていると、

「光洋君が角界入りするだとっ!」

 五郎次爺ちゃんが茶の間から廊下に出て、すごい勢いで玄関先へ駆け寄って来た。

「きみが光洋君か。話は五郎次と梶之助君から聞いておったぞ。本当に立派な体格だなぁ。これは良い逸材だ。声も力士っぽいしのう。テストで赤点取ったらご両親の意向で角界へ放り込まれるんだってな。そんなの関係なく入門しろ。このまま平凡な高校生にしておくのは非常ぉに勿体無いぞ。きみは第六七代横綱武蔵丸と同じ名なのだから、きっと横綱になれる! さっそくワシの知り合いの親方を紹介してやろう」

 慶一爺ちゃんものっしのっしと歩み寄ってくる。

「うわぁぁぁっ、でけえええええぇぇっ!」

 光洋は思わず仰け反った。大柄な光洋ですら見上げるほどなのだ。

「こちらは、体格が全然違うけど五郎次爺ちゃんのお兄さんなんだ。慶一爺ちゃん」

 梶之助は慌てて紹介する。

「ワシは光洋君の角界入りを全力で応援するぞ!」

「待て、慶一爺ちゃん。どう考えたって光洋が角界でやっていけるわけないだろ。光洋は遊園地のお化け屋敷にも入れないほど臆病なやつなんだ」

「いやいやー、角界に入れば光洋君の臆病な性格も絶対直るはずじゃ」

 梶之助の必死の訴えを、慶一爺ちゃんはほんわかとした表情で反論する。

「僕も同意じゃ。さっそく今からテストの点に関係なく光洋君を入門させるよう、ご両親を説得しに行かねば」

 五郎次爺ちゃんは強く賛同した。

「おいおい、味方になってやれよ」

「梶之助よ、僕に意見するのは僕に相撲で勝ってからじゃな。今から僕と相撲を取ろう。それで僕が勝ったら即、光洋君のご両親を説得しに行く!」

 五郎次爺ちゃんは機嫌良さそうに言う。

「さすが五郎次、ナイス提案じゃ! いざこざは相撲で決着をつけるのが鬼柳家流の解決方法じゃからのう」

 慶一爺ちゃんはパチパチと拍手し、褒め称えた。

「かっ、梶之助殿ぉぉぉぉぉ。お願いだぁぁぁ。絶対、勝ってくれぇぇぇー」

 光洋に青ざめた表情で頼まれる。

「大丈夫だよ光洋、五郎次爺ちゃんには勝てるさ」

 梶之助は自信満々な様子だった。

「前に対戦した時は、負けたではないか」

 五郎次爺ちゃんは大きく笑う。

「まだ俺が一三〇センチくらいしかなかった小六の時の話だろ。俺はその時より体はずっと大きくなってるし、五郎次爺ちゃんは年食ってるし」

「梶之助、四の五の言う前にさっそく勝負じゃ! 僕は本気じゃぞ」

 こうして梶之助、五郎次爺ちゃん、そして慶一爺ちゃん、寿美さん、光洋の五人が離れの相撲道場へ。

「五郎次お爺様と梶之助くんが相撲を取ると聞いて、飛んで来ちゃった♪」

 麗も観戦しに来た。あのやり取りのあと寿美さんが彼女のスマホに連絡したのだ。

 今回は寿美さんが呼出。麗が行司をすることに。

 慶一爺ちゃんと光洋は座敷で見物。

「ひがあああしいいいいい、あやあああがわあああああ、あやあああがあああわあああああ。にいいいしいいいいい、たにいいいかぜえええええ、たあああにいいいかあああぜえええええ」

 寿美さんは相変わらずの美声を発しながら、独特の節回しで四股名を呼び上げた。

梶之助と五郎次爺ちゃんはそれを合図に土俵へと足を踏み入れる。

五郎次爺ちゃんの四股名は、二代横綱そのままの『綾川』だ。

梶之助は以前麗と対戦した時と同じくトランクス一丁。五郎次爺ちゃんは本気モードなようで、黄金色のマワシを締めていた。

 仕切りを五度繰り返したところで、寿美さんから制限時間いっぱいであることが告げられた。

「五秒で片付ける!」

 梶之助は強く宣言する。

「相撲歴八〇年以上、双葉山をリアルタイムで知っている僕の実力を舐めたらいかんぞ、梶之助」

 五郎次爺ちゃんも勝つ気満々だ。

土俵中央に二本、白く引かれた仕切り線の前へ。両者向かい合う。

「お互い待ったなしだよ。手を下ろして」

 麗から命令されると、両者腰を下ろし、仕切り線手前に両こぶしを付けた。

「見合って、見合って。はっけよぉーい、のこった!」

 いよいよ軍配返される。

「うわっ!」

 約二秒後、梶之助は、ばったりと前に落ちていた。

「どうじゃ梶之助!」

 五郎次爺ちゃんは得意顔。

「そっ、そんな……」

 梶之助はあまりに一瞬の出来事に唖然とする。

「うっ、嘘、だろ……」

 光洋の顔が一気に青ざめた。

「五郎次お爺様、変化するとは思わなかったよ」

 麗も信じられないといった面持ちで、軍配団扇を東方に指した。

「ただいまの決まり手は、叩き込み、叩き込みで綾川の勝ち。梶之助、残念だったわね。でも、五郎次さんに変化されたってことは成長の証よ。真っ向勝負じゃ勝てないって思われたんだから」

 寿美さんは優しく言う。

「僕の究極奥義じゃ。思いっきり突っ込んでくる梶之助は甘いのう。僕は小学校時代から変化の名人と言われておったんじゃ」

「五郎次爺ちゃん、それってつまり、逃げてるってことだろ」

「いやいや梶之助、変化も立派な技の一つじゃよ。引っかかる方が悪い。それじゃ、約束どおり光洋君を相撲部屋に」

 五郎次爺ちゃんはにこにこ顔で、光洋の方へにじり寄る。

「いっ、嫌だ、嫌だぁ」

 光洋は泣き喚きながら首をぶんぶん激しく振る。

 その時、

「待てぇ、五郎次ぃ! 変化で勝つとは何事じゃっ。真っ向勝負で挑め!」

 慶一爺ちゃんの雷鳴のような、大きな声が轟いた。

「びっくりしたぁ。すごい迫力」

 麗は目を丸くする。

「俺、慶一爺ちゃんの怒鳴り声、初めて聞いたよ」

 梶之助もかなり驚いていた。

「……」

 光洋はあまりの恐怖からか、ぴたりと泣き止んだ。

「恵まれた体格の慶一兄さんとは違うのだよ、僕は。小兵には小兵の取り方というのがあるのじゃ。慶一兄さんは大相撲の決まり手がいくつあるのか知っておるのか? 八二手じゃぞ。慶一兄さんの相撲は突き押し投げだけじゃから見ていてつまらん。そんなこだわりで取り続けるから慶一兄さんは関取になれず幕下止まりだったんじゃよ」

 五郎次爺ちゃんは全く怯まず、奈良東大寺金剛力士像のような形相をしていた慶一爺ちゃんを見上げながら堂々とこう意見する。

「なにをぉ。兵助から言われたことを覚えておらんのか? 五郎次は。先人の教えは守らなきゃいかんぞ」

 両者、激しい睨み合い。両者の間には目には見えない火花がバチバチ飛び交っていた。

 今にも相撲を取り始めようとしているようだった。

「五郎次お爺様、変化とかの奇襲戦法は相手との体格差がとても大きい時に使うものです。五郎次お爺様と梶之助くんの体格はほぼ同じですから、真っ向勝負で挑まなきゃ卑怯です。私、真っ向勝負での相撲が見たいです!」

 麗は強くお願いした。

 すると、

「……麗ちゃんがそういうなら、仕方ないのう」

 さっきまでと打って変わって、五郎次爺ちゃんはほんわかとした表情になり再取組をする気になった。

「ありがとうございます、五郎次お爺様」

 麗からの感謝の一声。

「単純だな。でもよかったぁ」

 梶之助は呆れ顔で突っ込むも、ホッとする。

「うおおおおおおおおおおおおおおおっ! 梶之助殿ぉ、次こそは頼んだぞ」

 光洋も大喜びした。

「すまんのう、麗ちゃん。大人げないところを見せてしもうて」

 慶一爺ちゃんも照れ笑いしながらぺこんと頭を下げて謝る。

 そういうわけで、取り直しとなった。

「梶之助、光洋ちゃん、よかったね」

 寿美さんは、今度は四股名の呼出を省略。五郎次爺ちゃんと梶之助はすぐさま土俵に上がる。

先ほどと同じく仕切りを五度繰り返したところで、寿美さんから制限時間いっぱいであることが告げられた。

「待ったなしだよ。見合って、見合って。はっけよーい、のこった!」

 麗から軍配返された瞬間、

「やった!」

 梶之助は快哉を叫ぶ。五郎次爺ちゃんの両マワシをがっちり掴むことが出来たのだ。

「しまった!」

 五郎次爺ちゃんは思わず声を上げる。

「これで勝てるっ!」

 梶之助は確信した。

「おう! さすが梶之助殿」

 光洋の顔に笑みが浮かぶ。

「梶之助よ、マワシが取れたら勝てるというのは、甘ぁい考えじゃぞ。相撲は奥が深いのじゃ」

 しかし、五郎次爺ちゃんも梶之助のトランクスの裾を両手でがっちり掴んだ。

両者、がっぷり四つに組み合う。

「こうなったら」

 梶之助、五郎次爺ちゃんに攻められる前にとすぐさま上手投げを打ってみた。

「ありゃ?」

 すると、五郎次爺ちゃんはあっさり土俵にごろりんと転がってしまったのだ。

「えっ! 決まっちゃった?」

 予想以上の脆さに、梶之助は少し驚く。

 麗は軍配団扇をサッと西方に指した。

「ただいまの決まり手は、上手投げ、上手投げで、谷風の勝ち」

 寿美さんが決まり手を告げると、

「うおおおおおおおおおおおおおおおおっ! 梶之助殿ぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉ」

 光洋が雄叫びを上げながらガバッと立ち上がり、涙をぽろぽろ流しながら梶之助にぎゅっと抱きついて来た。

「こっ、光洋。苦しい、苦しいって」

「梶之助くん、おめでとう! 力技で勝てたね」

 麗は軍配団扇を地面に置き、パチパチ大きく拍手をする。

「強くなったんじゃのう、梶之助」

 五郎次爺ちゃんは立ち上がり体にべっとり付いた土を叩くと、苦笑い浮かべた。けれども嬉しさも感じていた。

「梶之助君、ようやったな。約束通り、ワシからはもう光洋君を角界に勧誘せん!」

 慶一爺ちゃんはきっぱりと言う。

「僕からもじゃ。男同士の約束じゃからのう。本当は梶之助と共に角界入りし、大鵬‐柏戸のようなライバル関係で一時代を築いて欲しかったのじゃが」

 五郎次爺ちゃんも残念そうにしながらも納得出来たようだ。

「あっ、ありがとう、ございまするぅぅぅ」

 光洋は涙をぽろぽろ流したまま深々と一礼して感謝の言葉を述べた。

光洋と麗が道場をあとにすると、鬼柳家の夕食再開。


「ただいまー。ん? この異様に大きい靴は、慶一伯父さんの靴か」

権太左衛門は夜九時頃に帰宅した。

「その通りじゃ。権太左衛門君、久し振りじゃのう」

「お久し振りです慶一伯父さん、相変わらず異様にお元気そうでなりよりです」

「ハハハッ。ワシはまだ十代の若者の気分でおるからのう。では、また会おう」

 慶一爺ちゃんは彼に久闊を叙するとすぐに鬼柳宅をあとにし、乗って来た自家用車で故郷へ帰っていったのであった。着いたらそのまま休まず漁に出ると言い張っていた。

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