第3話 現実
「ミーンミンミンミン」
…蝉が鳴き出したな。
京介はスマホで時刻を確認した。朝の五時である。
ベンチに座り、元サラリーマンの動きを見張り出してから、すでに十一時間が経過した。京介は一睡もしていない。
(気合で起きてたけど、さすがにキツイな…それにしても…)
黒月は、京介の肩に寄りかかって、スースーと寝息を立てている。
(こいつ、気持ち良さそうに寝やがって…)
神経質なのか図太いのかわからないやつだ。
しかし、こんな所で黒月の寝顔を見ることが出来るとは…
しばらくして黒月がモゾモゾと動き出した。
「んん…」
「…黒月、起きたか?」
「…んん…あれ…?田村、私…」
そこまで言うと、黒月は顔をこちらに向けた。…近い…
そこで黒月ははっとした。見開いた目で京介の目を見る。自分の体勢に気がついたようだ。
「た、たたた、田村…! …あれ?私…!!ご、ごめん…!!」
「よう。おはよう、黒月」
黒月は、慌てて京介の肩から頭を離すと、髪の毛を手で整えている。
「…私、寝ちゃってたのね…」
「ああ。まあ、しょうがねえさ。お前、昨日の夕方からすでに眠そうだったし」
黒月は申し訳なさそうにしている。
「隣に居てもらうだけで、ありがたいよ。気にすんな」
京介は笑いながら言った。
「…う、うん…」
黒月は赤くなっている。
それから黒月は、「朝ごはん買ってくるね」とコンビニに向かった。
しばらくして、黒月が戻ってくると、一緒に軽く朝食をとる。
「…まだ何の動きもない?」
「…ああ、面接の結果は案外よかったのかな…」
「どうかしら。とりあえず一回寝ることにしたとか」
「そうかもな」
それから二時間が経過した頃。マンションのエントランスから、一人の男性が出てきた。ドス黒く滲んだ靄に全身を覆われている、元サラリーマンの男である。
「…来た…!! …なんつう色だ…」
この色は、間違いない。確実に‘‘死’’が目前に迫っている。
「…田村…」
「…ああ、…行こう」
元サラリーマンは昨日と同じスーツを着ている。重い足取りで、どこに向かうのだろうか。
しばらく元サラリーマンの後をつけていて、北習井に向かっていることに気がついた。どこか別の場所に移るのだろうか。
「田村、色はどう?」
「ああ、もういつ死んでもおかしくない色だ。おっさんの行動に気をつけてくれ」
「…わかったわ」
ふと、自分から命をたつ人の気持ちを考えてみた。…正直わからない。自分もそれなりに辛い経験はしてるほうだと思うが、死にたいとまで思ったことはない。だって、怖いじゃないか。
「なあ黒月、お前は死にたいと思ったことあるか?」
(…って、何俺はさらっとこんな質問してんだよ)
「…無いわ」
「…だよな。リストラされたくらいで死にたくなるもんなのかな」
ピタッ。黒月の足が止まった。
「…ん?どうしたんだよ」
「田村…そんな言い方はないでしょ」
「…えっ?」
「私もあんたも、それなりに大変な人生を送ってきてると思うわ。色々辛い経験もしてると思う」
「…何だよ急に…?」
「…でもね、幸せとか不幸とかって、他人と比べて決まるものじゃ無いのよ。それを決めるのは個人の感じ方。…だから、きっと世界一不幸な人は、自分のことを世界一不幸だと思ってる人なんだと、私は思う」
「…黒月…」
…なぜだろう。黒月のその言葉は、まるで自分に言い聞かせているように聞こえた。『自分は不幸じゃない』と、『幸せは自分で掴めるんだ』と、そう言っているように聞こえた。
「…すまん……」
「…いいわ。行きましょ」
二人はしばらく無言で歩いた。
京介は黒月を怒らせてしまったことを悔やんでいたが、切り替えることにした。今はとにかく、目の前の‘‘死’’を跳ね除けなければ。
北習井駅に到着した。元サラリーマンは、地下に向かって階段を下っている。京介と黒月は、元サラリーマンから離れないように、すぐ後ろを歩くことにした。
改札を通り、ホームに行く。そこで元サラリーマンは、来る電車を待った。
小学生の頃は、あまり気にしていなかったが、中学生に上がって、自分が女の子とほとんど関わりを持てないことが判った。それはそうだ。私は運動も出来ないし、顔も良くない。ましてや、話すのが得意なわけでも……いや、というか苦手である。女の子の目を見ると、途端に何も喋れなくなってしまうのだ。
その頃くらいからだろう、私が漫画やアニメの中の女の子たちに、興味を持ち出したのは。私の子供の頃には、そんな言葉は使わなかったが、いわゆる、二次元というやつだ。
二次元にどっぷり浸かりながらも、今ほどオタクが許されている時代ではなかったため、それを隠して生きてきた。
幸い勉強は、そこまで苦手ではなかったので、必死に勉強した。決して好きなわけではないが、それしかなかったのだ。自分の存在価値を見出すためには、勉強しか…自分が幸せになることを信じて、只々ひたすらに勉強することしか、生きる方法が無かったのだ。
高校三年生の頃、同じ学年に、凄く可愛い女の子がいることを知った。一目惚れだった。私はその子のことを調べると、私と同じ大学を志望していることがわかった。
無事大学に合格した私は、大学でもひたすら勉強して、常に成績上位をキープしていた。そんな私の姿を、その子は認めてくれた。「一生懸命な人は好き」と。ろくに喋れもしない私と、その子は付き合ってくれたのだ。嬉しかった。なんの取り柄もない私が、努力で掴み取ったものだった。
私は社会人になり、その子と結婚した。子供も生まれ、仕事もバリバリこなし、出世もした。幸せだった。
だが、月日が経つにつれて、私に対する妻の愛も冷めていくのがわかった。子供も大きくなり、私に反抗するようになった。しかし、それは仕方のないことだ。それが普通なのだ。だから私は、自分の存在価値を保つために、仕事にすがった。学生のとき勉強にすがったように。
しかし、私は事業で大きな失敗をしてしまった。会社に多くの損害を出してしまったのだ。私は会社にとって要らない存在になった。給料を多く取る古株のくせに、会社に損害を出したのだ、首を切られるのは当然である。
私は現実逃避した。アニメにもすがった。風俗にも行った。それでも頭の靄は消えないから、自分の精神を保つために、半ば投げやりに面接を受けた。だが、昨日、面接の結果を見てわかったのだ。今の私に価値は無いのだと。
…いや、見なくてもわかっていた。唯一愛し、そして愛してくれた女性と、その間にできた愛娘に、愛想を尽かれたら、もう生きている価値など無いのだ。
京介は目を見開く。元サラリーマンを覆っている靄が、動き出したのだ。
(伊藤のときと同じだ!)
段階を踏むか、最初から真っ黒かの違いはあるが、最期は同じ。おそらく、靄が、死因を表現するのだ。元サラリーマンの靄は、もごもごと蠢き、全身で弾けては戻り、また弾けるを繰り返している。……いやな予感がする。
『まもなく、四番線を、列車が通過します』
アナウンスが流れた。
その時、京介の目に、電車の光が差し込んできた。
(まさか…!!)
元サラリーマンが、うつむいたまま、一歩踏み出す。そして、身体を投げ出そうとした。
「させるかよ!!」
京介は両手で元サラリーマンのスーツを掴むと、後ろに思い切り引っ張った。
「おらぁ!」
ズザァァァ!
元サラリーマンは京介に投げられる形で、後ろに倒れ込んだ。
ゴォォォォ!
列車が音を立てて通過して行く。間一髪である。
周りにいた人たちがざわざわしだした。
「なんだなんだ?」
「喧嘩か?」
そんな声が飛び交う。
「田村!靄は!?」
「…駄目だ!消えてねえ…!!」
元サラリーマンは、自分の置かれている状況が理解できていない様子だった。
(あれ…?おかしいぞ…?私は今、電車に飛び込んだハズ… ここは死後の世界?…あれ?なぜ、みんなこっちをみている…!?)
京介は元サラリーマンに掴みかかった。
「おっさん!あんたが死にたがってんのは知ってる!だけど、死なせるわけにはいかねえんだ!少し大人しくしててくれ!」
「う、うわぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!!」
元サラリーマンが叫んだ。
「は、離せえ!」
京介の手をどける。
「おい、おっさん!!」
「わ、私を見るなぁぁぁぁ!!!!」
元サラリーマンは完全に錯乱状態である。このままじゃまずい!
元サラリーマンは、ホームの階段を駆け上がって行った。
「田村!追いかけましょ!」
「ああ!」
京介と黒月が後を追おうとすると、駅員に止められた。
「ちょっと君たち、話を聞かせて貰おうか?」
「…こんな時に!」
黒月が言う。
「邪魔だ!」
京介は駅員の手を振り払って、走り出した。黒月は振りほどけない。
「君!待ちなさい!!」
「田村!先に行って!」
「おう!」
京介は元サラリーマンの後を追いかけた。
元サラリーマンは叫びながら走っている。京介を敵だと思っているようだ。
「おい、おっさん!待てよ!」
京介が叫ぶが、聞こえていない。
元サラリーマンは、阻む改札を無視してそのまま通過した。
「くっそ!」
京介も改札を飛び越える。
「ちょっと、君たち!待ちなさい!」
後ろで駅員の声がしたが、今は気にしている場合じゃない。
元サラリーマンは外へと繋がる階段を駆け上がって行った。京介も後を追う。
「…待ちやがれ!!」
京介が息を切らしながら、階段を登り終え外に出ると、元サラリーマンは目の前の横断歩道を渡ろうとしていた。
「馬鹿野郎!赤…」
ドン!!!!
京介が言いかけた所で、鈍い音が辺りに響いた。
「……え…?」
キキィ!
ボンネットの凹んだ車が、少し先で止まる。
そして、更にその少し先で、何かが落ちる音がした。
……元サラリーマンであった。
「きゃぁぁぁ!」
女の人の叫び声がした。辺りが騒然とし出す。人の泣き声や、嗚咽する音が京介の耳に入ってきた。
……なんだこの感じ。息がし辛い。
「う…うそだろ…」
心臓がドンドンと胸を叩く。あり得ないくらいの速さで動いている。だが、全身の血の気が引いて行くのがわかった。
「…ハァ、ハァ…」
息が苦しい。足に力が入らない…
京介は膝をついた。
理解したくなかった。いっそ真っ白になって欲しかった。だが、頭は正常に動いている。ふと空を見上げた。そこには、今の京介とは対照的とも言えるほど、嘘みたいに晴れた空が広がっていた。
蝉の鳴き声と、人の阿鼻叫喚が混ざる。
京介は理解した。自分は、失敗したのだと。
玲花と田村は警察の事情聴取を受けた。田村は、居合わせたのはたまたまで、元サラリーマンを助けようとしたと説明していた。警察もそれで納得したようである。
今は事情聴取が終わり、田村と一緒に帰っている所だ。田村は一言も喋らない。
…なんて声をかければいいのだろう。
玲花にはわからなかった。
玲花は田村の目を見た。田村は具体的なことは何も考えていない。しかし、彼の断片的な言葉と感情が、玲花に流れてくる。悲しいとも、悔しいともとれない感情だ。玲花はこの感情をよく知っている。これは‘‘絶望’’だ。田村に前向きな人生を送って欲しくて、‘‘希望’’を与えるために自分が言い出したことで、逆に‘‘絶望’’を与えてしまった。やはり、
(…私が出しゃばったせいで田村を傷つけた…)
玲花は思った。
うつむきながら歩く田村を見ると、心が痛くなる。
……ごめん、田村…
アパートに着くと、京介は無言で部屋に入った。黒月は、何か言いたげな顔をしていたが、今はどうでもいい。とにかく、早く忘れたかった、脳裏に焼き付いた出来事を。だが、目の前で車に轢かれる、元サラリーマンの残像が消えない。思い出すたびに、腹の底からこみ上げてくる。
「うっ…!」
京介は吐きそうになるのを必死に抑えた。どうでもいいと思っていた命でも、命は命。目の前で飛び散ったそれを、その事実を、簡単に受け流すことはできない。
(だから、関わりたくなかったんだ…)
関わらなければ、実感がわかない。だから、罪悪感も少なくて済む。そして、‘‘死’’は克服できないものなのだと、改めて実感することもなかった。
(くそっ…!)
一瞬、黒月を恨みそうになった。だが、それはお門違いもいい所だ。黒月は悪くない。思い出せ、彼女の善意を。…悪いのは自分だ。こんな
京介はシャワーを浴びると、布団に寝転び、天井を見つめた。
(…俺は、どうすればいい…?)
結局、何も言ってあげられなかった… いや、今は何も言わない方がいいのかもしれないが。
玲花は部屋に入ると、ベットに倒れこんだ。
田村は今、自分よりはるかにへこんでいる。当たり前だ、目の前で助けようとしていた人が轢かれ、わずかに持った希望を打ち砕かれたのだから。
そして、その希望を持たせたのは自分だ。だから、自分に責任がある。いや、責任云々なんて関係なく、田村をなんとかしてあげたい。
(…こんなとき、『きょうすけ』だったら、なんて言うかな?)
玲花は考えながら目を閉じた。
「れいか…!れいか…!!」
……?何…?
「れいか!なにつっ立ってんだよ!」
……だれ?私を呼ぶのは…
「早く行こうぜ!!」
…この元気な声は……きょうすけ…?
そこで玲花は目を開けた。昔、きょうすけとよく遊んだ公園に居る。
「……えっ…!?」
目の前にきょうすけがいる。顔は影になっていてよく見えないが、このシルエットは間違いなくきょうすけだ。
まさか、子供の頃にタイムスリップしたのか?
「きょうすけ…?」
「…ん?なんだよ。早く行こうぜ」
「…行くってどこに…?」
「はぁ?何言ってんだよ!蝉取り行く約束したろ!?」
「…あ、そっか…」
「よし、行くぞ!」
そう言うときょうすけは玲花の手をとって、森の中に入っていく。
しばらく歩いていると、玲花が口を開いた。
「…きょうすけ…」
「なに?」
きょうすけは玲花の手を引っ張りながら答える。
「…私の友達が、今、とっても辛い状況にいるの…。それは、私が言い出したことのせいでもあるんだ…」
きょうすけに手を引かれながら、玲花は下を向いて言った。
「ふーん。助けてやればいいじゃん」
きょうすけは、拾った木の棒を振り回しながら言う。
「…でも、なんて声をかければ良いのかわからなくて…。それに、私に助ける権利なんてあるのかなぁ…」
玲花がそう言うと、きょうすけは足を止め、玲花の方を向いた。
「ある!!」
即答だった。
「…なんでそう言い切れるの…?」
「だって、友達なんだろ?」
「…そうだけど…」
「だったら、助けるべきだ!」
「…でも…」
「だって、友達が苦しんでるとこ見ると、自分も苦しいもんな!」
……そうだ…
「なんなら、おれも手伝うぞ!」
…そうなんだ。田村が苦しむ姿を見ると、私も苦しかったんだ。
…そうだよね。
「ううん、ありがとうきょうすけ。私が助けてみせるよ」
「…そっか!まあ、なんかあったらおれに言えよ!」
「うん…!」
そこで映像が途絶えた。
玲花は目を覚ます。
「……夢… きょうすけの夢、久しぶりに見た…」
玲花はベットから起き上がった。
「きっと、きょうすけだったら、あれこれ考えずに助けるよね…! …待っててね、田村…!」
結局昨日は眠れなかった。
京介は、ふらふらと洗面所に向い、鏡を見る。いつもより濃い隈が目立った。……大学に行かなければ。
月、火と二日連続で大学をさぼってしまった。大学に入学して以来、初のさぼりである。
寝不足で、フラフラの頭を押さえながら、京介は家を出た。すると、家を出たと同時に、「ガチャッ」と隣の部屋のドアが開く音がし、黒月が出てきた。
彼女と目が合う。
「おはよう…」
黒月が言った。
「……、おはよう…」
京介は、そう挨拶を返すと、そそくさと大学へ向かった。
黒月は追っては来なかった。
教室に着き、定位置に座ると、伊藤に声をかけられた。
「京介君、おはよ!二日も休んでたけど、何かあったの?」
「…べつに、なにも。ただのさぼりだよ」
京介はてきとうに応えた。今は誰とも話したくない。
「へぇ、京介君がさぼりなんて珍しいね。……その…、黒月さんも大学来てなかったけど、二人で、どこかに行ったりしてたの…?」
ん…?何を聞いてくるんだこの子は。いや、実際当たっているのだが、何故そんなことを聞いてくるのか分からない。
「んー、まあ、そんなところだな」
彼女の質問の意図が気にはなったが、早く話を終えたいため、そっけなく応えた。
「…そう…なんだ…。……、その、二人は付き合ったりしてるの…?」
この伊藤の質問と、質問の仕方に、京介の頭にある疑惑が浮かんだが、そんな筈は無いだろうと、自分で否定した。……、まさかな…。
(…というか、俺に対しての伊藤の気持ちはともかく、俺と黒月がそういう風に見えるのか)
「まさか」
京介はきっぱり応えた。付き合っているとか、付き合っていないとか、そういう類の話に、今はなんとなく腹が立つ。
「そっか!良かったー。…あっ!いや!…その…えっと、…なんでもなくて…!」
…この子はなにを一人で取り乱しているのだ。
まあ、いい。早くどこかに行ってくれ。一人になりたい。
そう思いながらふと横に目をやると、こちらをじっと見つめている男と目が合った。いや、見つめているというより、睨んでいるの方が正しい。
(なんだあいつ…)
京介はすぐに目をそらした。
伊藤のたわいもない話をてきとうに流していると、黒月が定位置に座るのが見えた。それと同時に先生が教室に入って来たため、伊藤は自分の友達の元へと帰って行く。
( …黒月と目を合わさないようにしよう)
京介はそう思った。
京介が家に帰り、しばらくすると、「ピーンポーン」
と家のチャイムがなる。京介は、なんとなく誰が来たのかわかっていた。…ひとりにさせてくれよ。そう思いながらも、部屋のドアを開ける。
そこには予想通り、黒月が立っていた。
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