第11話
メリルの言葉の意味を理解するのに、時間がかかった。
世界が遠のいたように、あらゆる物音が遠くに聞こえた――空調の音も、部屋の隅の固定端末が立てる唸るような電子音も、どこかで清掃ロボットが行き交う音も。わたしが思考停止しているあいだ、シスター・メリルは扉の向こうで押し黙っていた。間の抜けた沈黙。
ある瞬間、殴られたように、理解が訪れた。男たちは、死なないのだ。絶対に死なないわけではないけれど、わたしたちのように、あっけなく次から次に死んでいったりはしないのだ。いつ時間が尽きるのかとおびえながら暮らす必要を、彼らは持たない。
「そんなのって、」
声が掠れて、その先は言葉にならなかった。
「不公平だと思うかい」
当たり前だ――わたしが声を張り上げるよりも早く、シスター・メリルは続けた。「そうだよ。この世は不平等に出来ている。いまわたしが生きていて、わたしの同級生たちのほとんどが、すでに天に召されているように。だけどね、だからこそ、サーシャ。ちゃんと目を開いていてほしいんだ」
もどかしく苛立つ声で、シスター・メリルは叫んだ。
「あんたや、あんたの死んだ友達が生まれながらに与えられたものは、ほかの誰かのよりも、見劣りがするように思えるかもしれない。だけど、サーシャ。それでも、その価値を決めるのは、あんたたちだ。ほかの誰でもない。判ったような顔で、遠くから哀れんでくる大人なんかじゃない。あんた自身なんだよ」
息を切らして、メリルは言葉を切った。
長い間があった。わたしは口を開かなかった。ドアの向こうでメリルが息を整えるのを、じっと待っていた。
「――お説教をするつもりじゃなかったのにな。ごめん。だけど、サーシャ。あんたの人生を、大事にしてほしいと思ってる。結婚や、子供を持つことだけがそうだとは言わない。だけど、こんなふうに閉じこもって、ひとりぼっちで死んでいったほうがましだなんて、そんなのは――」
納得がいくはずがなかった。そんなのは詭弁だと思った。メリルはまだ話を続けようとしていたけれど、わたしはさえぎって声を張り上げた。「あなたは多くを持っているから、そう言えるんです」
今度は彼女が押し黙る番だった。ずいぶん経ってから、やっぱり疲れた声で、シスター・メリルは囁いた。「――そうかもしれない」
また来るよと言って、メリルは引き下がっていった。力のない足音が遠ざかっていくのを、わたしは膝を抱えたまま、じっと聞いていた。
目を閉じてまぶたを膝に押しつけると、眼球の奥がちかちかと瞬いた。ひどく喉が渇いていたけれど、水を飲みに立ち上がる気力がなかった。
どれほどの時間が経っただろう。とっくに式典が終わっただろうという頃になって、ほかのシスターが、代わる代わるやってきた。
彼女らの説得の文句は、なかなかのバリエーションに満ちていた。
いいかげんになさい、小さな子供みたいにわがままをいうものじゃありません。気の毒な花婿が待ちぼうけをくらって、困っていますよ。さきほど係官に伺ってきたけれど、あなたの伴侶になる方は、とてもいい青年だそうよ。ほんとうにいやかどうか、会ってみてから決めてもいいんじゃない?
最後のひとつは、少し面白かった。わたしは声を立てて笑った。「会って、その上でわたしがいやだといったら、どうするんです? わたしの気に入る相手が見つかるまで、次から次に取り替えてでもくださるんですか?」
だけど対する返事は、特に面白いものではなかった。「なんてことを――サーシャ、神様のおさだめになった伴侶ですよ。あなたにふさわしい、りっぱな方なのよ。会えばちゃんと、そのことがわかります」
どの言葉も上滑りするばかりで、ちっとも心に染みてはこなかったけれど、シスター・マリアの一言だけが、わたしを逆上させた。
彼女はこう言ったのだ――「この日を迎えられなかった子たちに、悪いとは思わないの?」
思わないか? 悪いと思わないかですって?
腹が立ちすぎて、言葉も出なかった。頭に血が上るどころか、すうっと血の気が引くような気さえした。
このひとたちには、ほんとうに何一つ、わかってはいないのだと思った。わたしは精一杯の皮肉を込めて笑った。「そうお思いになるなら、シスター、いっそわたしの代わりに、ウェンディやコニーを行かせたらどうなんです」
それは、同級生たちの中でも、運悪く居残り組となったふたりの名前だった。神様の思し召しで、という言い方をシスター方はしたけれど、要は何らかの理由で相手にあぶれた子たちということだ。卒業したあとも別のセンターに移って、お呼びがかかるまで何か月だか待たされるという彼女らは、そのことにコンプレックスと焦りを抱いていたように見えた。
「何度でも言うけれど、サーシャ、神様のお決めになった、あなたの伴侶なのですよ」
ため息を吐いて、それからためらいがちに、シスター・マリアは続けた。「彼女たちでは、駄目なのです。――遺伝上の問題があるとかで」
「遺伝?」
いぶかしく、わたしは声を上げた。初めて耳にする単語だった。
「ええ」あいまいな響きの相づちを打って、シスター・マリアは口ごもった。「巧く説明できるかしら――とにかく、ウェンディやコニーでは、あなたのかわりにはならないのです。それに、ふたりにはふたりの伴侶が、いずれきちんと示されます。そのときがまだいまではないだけで。それを、あなたの勝手でどうこうするなんていうことは……」
「勝手ですって?」
思わず遮って声を上げていた。ずいぶんたちの悪い冗談だと思った。「あなた方はほんとうにいつだって、ご自分の都合ばっかり! わたしたちの都合は、ぜんぶ我が儘のひとことでお済ませになるくせに!」
ドアの向こうで、シスター・マリアは黙りこくった。彼女のことだから、また泣いているのかもしれなかった。だけどわたしの良心はちっとも痛まなかった。
腹を立てるだけ立てたら、思い出したように空腹が襲いかかってきて、わたしは部屋の隅に丸くなって毛布を被った。
やがてシスター・マリアが立ち去る足音が、遠ざかっていった。
しょせんは小娘の我が儘で、腹が減ればいずれ自分から出てくるだろうと、シスターたちがそう考えるのは当然のことだっただろう。
けれどわたしは粘った。丸二日が経つころには、空腹を通り過ぎて、飢餓感はすっかり麻痺してしまっていた。ただ、体がだるくて、ときどき変な寒気がした。
人間は水だけでどれくらい生きられるのだろうと、そんなことを考えた。それくらいのことなら、ライブラリを調べればすぐにわかるのかもしれなかったけれど、それだけの動作もおっくうだった。
あの人たちのいいなりになるくらいなら、いっそこのまま死んでもいいかと思っていたけれど、その一方で、わたしは心のどこかであきらめてもいた。わたしがほんとうに衰弱して死んでしまうよりも先に、警備ロボットが押し入ってきて、わたしを引きずってゆくだろう。その先は、待ちぼうけを食らっている気の毒な花婿のところだろうか? それとももっと別の場所だろうか。
だけど予想外なことに、そういう事態はなかなかやってこなかった。シスターたちもどうしていいのかわからなかったのかもしれない。そうでなければ彼女らにも、少しばかり良心の呵責があったのか。
いや、この言い方はフェアではないだろう。シスターたちはいつだって良心的で、善意に満ちているのだ。いささか無神経で、自分たちの正しさを疑うことを知らないだけで。
それでも、わたしは半分以上、あきらめていた。認めたくないことだが、シスターたちの叱責は、必ずしも的外れなことばかりではなかった。結局のところ、わたしは小さな子供のように自分から折れるのがいやで、精一杯の反抗をしていただけだった。
死んでもいいと思っていたのは、本当のことだ。だけどその一方で、わたしは死ぬのが怖かった。どちらも本心だった。思い出したように飢餓感が胃を締め付けるたびに、イルマの手の感触がよみがえって、何度となくわたしを脅かした。まだ彼女のささやきが、耳の奥に残っていた。死にたくない――
朝から代わる代わる誰かがやってきて、夜には根負けして引き下がっていった。また来るよと言ったくせに、メリルはあれから来ていなかった。
三日目の夜更けだった。おかしな時間に足音が近づいてきて、ドアの前で止まった。用があるにしては、それきりいつまでも声がかからない。怪訝に思ったわたしが目をこらしてドアを見つめていると、ずいぶん経ってから、シスター・マリアのうち沈んだ声がした。
「サーシャ。起きている?」
「――こんな時間にどうしたんです?」
答える声は不機嫌になったけれど、それはただのポーズであって、べつに、眠りを妨げられて腹を立てたというわけではなかった。籠城を始めてからは、あまり眠くなかった。ときどきうつらうつらして浅い夢を見るほかは、たいてい起きてじっとうずくまっていた。
またしても、いっとき沈黙があった。それから、すすり泣くような気配がした。今度は泣き落としかと思ったけれど、それにしては様子がおかしかった。
いぶかしく眉をひそめるわたしに、鉄槌は下ろされた。
「シスター・メリルが亡くなりました」
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