クローズド・アクアリウム
朝陽遥
1部 セオドア
第1話
誰かと一緒に暮らす、ということが、まずぴんと来なかった。
一ヶ月後に迫ったそれぞれの結婚の話で、教室内は持ちきりだった。想像なんだか妄想なんだか、誰もがまだ顔も知らない花嫁のことを、好き勝手にあれこれ憶測している。
みな冗談を飛ばして笑いあいながら、どことなく落ち着きのないまなざしで、級友たちの表情を探っている。そこに自分の胸にあるのと同じ不安を探り当てようとして。
十五歳。それは僕らにとって、特別な年齢だった。
もう卒業式は目前だった。課程はすべて消化され、あとはセレモニーの予行練習だの、将来に向けてのカウンセリングだのといった、お決まりの日程を残すばかりという時期。
卒業式は慣例で、特別な典礼のときにだけしか使われない市民ホールで大々的に行われる。リハーサルは何度もしつこく繰り返されていた。分厚い樹脂の窓越しにとはいえ、生まれてはじめて本物の宇宙空間と地球を仰ぎながらの、一大イベントだ。
だけど、式のことなんか話題にしているやつは、そのときひとりもいなかった。口を開けばみんな、花嫁の話ばかり。
僕としてはそんなことよりも、将来進みたいと思っている学部の受入れ枠のほうが、よほど気になっている――と言いたいところだったし、実際にそういうような言葉を何度となく口に出しはしていたのだけれど、正直にいえば、そんなものはただのポーズだった。
あまり積極的に認めたくはないことだけれど、僕だって、自分の妻になるはずの、まだ見ぬ女の子のことが気になっていた。
あのころ僕らにとって、女の子っていうのは、常に神秘のヴェールの向こう側の存在だった。テキストの中には登場する。その存在の生物的な仕組みについて、教科書で習いもする。だけどそんな話はいかにも抽象的で、実体は茫洋として知れない。大人に訊いても、みんな言葉を濁して多くを語りたがらない。
「ちょっとくらい、前もって教えてくれてもいいのにな。写真とかさ」
僕の机にひじをついてそうぼやいたのは、委員長だ。手元の端末をいじりながら、顔をしかめている。いくら探したって、参考書の図以外には、何も出てこないだろうに。
「写真なんか、どうだっていいだろ」
「そうか? 俺は気になるけどな。これから一緒に何年も暮らす相手じゃないか」
「そうだよ。否が応でも何年も顔をつきあわせて生活するんだから、いま知らなくったって一緒じゃないか」
「お前、そういうところ、あんがいクールだよな」
僕は黙って肩をすくめた。もちろん、無関心を装っているだけだ。僕だって皆と同じ。あれこれあらぬ想像をしては自分の思いつきに振り回されて、無為に動揺してばかりいる。そういうことを、態度に出したくないというだけだ。
僕はせいぜい不機嫌そうな、しかつめらしい顔を作った。不安ではなく、不機嫌と見えるように。
人と一緒に暮らす自分、というのをイメージすることは、どうにも難しかった。
もちろん僕だって子供の頃には、誰かに世話をされていたはずだ。赤ん坊というのは、放っておいても生きられるようには出来ていないらしいから。誕生するまでは『揺り籠』のなかで培養液に浸かって、医療機器の世話になっていたにしても、生まれてからの五年間は、両親に育てられていた。そのはずだ。
級友たちの中には、『家』にいたころのことを覚えているという者もいるけれど、僕にはさっぱり記憶がない。
物心ついたときには学寮にいた。寮ではもちろん同じ建物の中にほかの級友たちが暮らしてはいるけれど、ほとんど個室の中だけで生活に不自由しない。これから先に待っている『同居』とは、やはり勝手が違うだろう。
同居。その言葉を口の中で呟くたびに、憂鬱が増した。台所や、風呂や、寝室や、そんなものを誰かと共有するということを、具体的に想像しようとしてみると、なんだか薄気味の悪いような気がしてくる。
友達が部屋に泊まりにくるのとは違う。毎日、きまって同じ相手と顔をつきあわせて、同じものを食べる。同じ部屋の中で何時間も過ごす。考えただけで飽き飽きしそうだ。
じきに住み慣れた学寮を出て、与えられたまだ見ぬ家で暮らすのだということも、漠然とした不安を呼んだ。生活に必要なものはきちんと与えられるのだし、何か困ったことがあったらこれまで同様、『アドヴァイザー』に相談すればいい。なんとかなるだろうとは思う。それでも落ち着かない。はじめてのことに弱いのは、性格だ。わくわくするのよりも、心配が勝つ。
それでもみんな十五になったら決まって必ずそうするのだからと言われれば、そうなのかとしか言いようがない。決められていることにいつまでも不満を言っていても仕方がない。
せいぜい六年かそこらのことだ。そう思おうとした。どんなにいやな教師に当たったって、二年間さえ乗り切れば、必ず担任から外れる。それと同じことだ。
我慢していればいつかかならず終わる苦痛というものには、人間、どうにか耐えられるようにできている。
「父さんから聞いたんだけどさ」
学友のひとりが、秘密めかした口ぶりでそう言った。「今年は特別、可愛い子が多いんだとさ。楽しみにしてていいぞ、だって」
言ってから、彼は慌ててきょろきょろとあたりを見回した。父親の立場を心配したのだろう。
彼の父親は『センター』に勤務しているという話を、いつか聞いたことがある。本来その情報を外部に漏らすことは、禁じられているはずだった。たとえその相手が息子であっても。
センター。僕らの住んでいるのとは別のコロニーにある、女の子たちの暮らす施設。女そのものと同じくらい、秘密のヴェールに包まれた場所だ。
しかし、この年齢になってもまだ父親と連絡を取り合っているというのは、なかなか珍しい。いまのクラスでは彼くらいのものじゃないだろうか。
いつもだったら、それをからかったり、馬鹿にしたりするやつのひとりやふたりも出てくるところだけれど、このときに限っては、みなそれどころではなかった。話の聞こえるところにいた級友たちが、そわそわと身じろぎをして、肘でお互いをつつきあう。
おめでたいやつらだ、と思う。期待したってしなくったって、相手はもうとっくに決められているんだから、いまさらそんな情報に、なんの価値があるっていうんだろう。
そう思う一方で、「可愛い女の子」のイメージは、しっかり僕の頭の隅に居座った。
ひどく漠然とした、形にならないイメージだ。可愛い女の子って、どういうものなんだろう。小さいとか、丸いとか。顔が整っているということだろうか。
そもそも女の顔なんて、生まれてこのかたまともに見たこともないのに(記憶に残っていない母親を除けばだけど)、何を基準に、可愛いほうだとか可愛くないほうだとか、判断すればいいんだろう。馬鹿馬鹿しい。
理性ではそう思うのだけれど、ふわふわした形のないイメージは、いつまでも頭の片隅に居座り続けた。
「女って、どんなんだろうなあ」
委員長があきらめきれないようすで端末をいじりながら、ぼそりと言った。さあ、と首をすくめて、僕は興味のないふりを続けた。
おそらくこの教室にいる誰ひとり、その答えを持ってはいない。
月面都市にそのウイルスが蔓延したのは、二百年ばかり前のことだったという。
女性だけが罹る、遺伝子異常をもたらす病気。罹患率、百パーセント。十五歳までの致死率、八十何とかパーセント。二十歳まで生きられる女性は、ほとんどいない。
その凶悪なウイルスのせいで、僕らの社会はいまの形になった。歴史の授業で習ったことを要約すると、そういうことになる。
僕らの知っている女性っていうのは、教科書に出てくるのっぺりした顔と棒のような手足の、妙な体型をした図解だけだ。あとは卒業後、見てのお楽しみというわけ。
昔はそうじゃなかったらしい。男も女も、普通に同じ場所で暮らしていたんだそうだ。どのみち、いま生きている人たちが誰もまだ生まれていなかったころのことなんて、考古学的な過去の話と同じだけど。
卒業式の翌日にはもう引っ越しだった。
とはいえ、ほとんど身一つで移動するだけだ。クラス替えよりも身軽だったかもしれない。私物は指定のカートに放り込んでおけば、あとで新居まで届けてもらえることになっていた。
移動も、トラムに乗り込んで指定された席に座れば、あとはもうほとんど自動的に目的地に運ばれるようなものだった。
これからの数年間を過ごす予定の家、その入り口の前に立って、僕は途方に暮れた。それは、家だった。学寮の二部屋きりの個室とは違う、独立したひとつの地下建造物。それは僕の目には、小さなシェルターのように見えた。
中にはまだ見ぬ花嫁が待っているはずだ。これから数年間をともにする相手。
まだ顔も知らないけれど、名前だけは聞かされていた。マリィ。アマーリア=ルー。生まれて初めて目にする、同い年の女の子。
一段目に足をかけると同時に、センサーが反応して灯りがついた。
自分の足音が反響して、幾重にも響く。すぐに突き当たりだ。緊張をごまかすためにつばを飲み込んで、おっかなびっくりドアに手をかざすと、手の甲に埋め込まれているIDが反応して、音もなく扉がスライドした。『やあ、君はラッキーだったね、新築だよ』そういって笑った係官の顔が思い出された。
それがどれくらいラッキーなことなのか知らないけれど、だから何だと、聞いたときには思っていた。それでもいざ新しい建物の鋭いようなにおいを嗅ぐと、ちょっとだけわくわくするような気がした。
玄関の向こうには誰もいなかった。ほんの少しほっとして、それから表情を引き締めた。初めて顔を合わせる相手にしょっぱなから舐められるのは、得策じゃない。――スクールのクラス替えの理屈が、花嫁に対しても応用できるかどうかは、考えてみれば少々疑わしいところだけど。
新しい建材に独特の、鋭く乾いた空気に混じって、機械油と消毒薬のにおいが漂っていた。それから、何か甘いような、嗅いだことのないにおい。
家の中に向かって、何か声をかけようとした。だけど何を言っていいかわからなかった。はじめまして? 今日からよろしく? 廊下の奥に向かって顔も見ないうちに呼びかけるには、どちらも少々間の抜けた言葉に思えた。
「えっと――入るよ」
とりあえずそれだけを口に出して、おっかなびっくり中に上がり込んだ。自分の声がかすかに反響して、どこかに吸い込まれるように消えた。
誘導灯は足下のほうにある。廊下だけを見ても、中はけっこう広いんじゃないかという気がした。ドアの前を通りかかるたびに、視界の隅で網膜投影式の表示がちかちかと瞬く。ひととおり覚えたら表示をOffにしなけりゃ、うっとうしくてかなわない。
廊下を歩きながら、ずっと考えていた。第一声は何にしようか。礼儀正しく挨拶したほうがいいのかな。同じ年の子なんだから、あんまりかしこまるのも変かもしれない。皆はどんなふうにするんだろう。変に意地を張らないで、もっと相談しておけばよかった――
リビング、と表示されたドアの前で、僕は足を止めた。少しだけためらって、それからもう一度、「入るよ」といった。
返事はなかった。少なくとも僕の耳には聞こえなかった。二呼吸ばかり待ち、制止の声もなかったのだからまあいいかと考えて、ドア脇のセンサーに手をかざした。
やはり音もなくドアが開いた。その向こうには、ゆったりとしたソファがあった。若輩者に貸与されるにしては、やけに豪華なものだ――そう考えてから、違うと気づいた。これは僕ではなくて、花嫁のために設えられたものなのだ。貴重な女の子のために。
とっさにそんな考えが浮かんだのは、そこに腰掛けていた人間が、あんまりやわらかく、壊れやすそうに見えたからだ。
服の裾から伸びる真っ白な手足の、ふっくらとした線から、なかなか目が離せなかった。
栗色の髪が元気よく跳ねているのには、その後で気がついた。瞳が緑色をしていることも、その目がまん丸に開かれて、びっくりしたように僕を見ているのにも。体のどのパーツを見ても、まったくもって、自分と同じ種の生物なのだとは思えなかった。初対面の相手をじろじろと観察するというのは、褒められた行為ではないかもしれなかったけれど、それについては許してもらえるだろう――向こうも同じことをしているのだから。
言葉は喉の奥につっかえて、なかなか出てこなかった。準備していたいくつかの挨拶は、どこかに消えてしまった。
「あの――ええと、」
唾を飲み込んで、どうにか僕は人間らしい言葉を発した。「きみが、アマーリア?」
彼女はこっくりとうなずいて、それからあわてたように立ち上がった。それから彼女は恥ずかしそうに、自分の服の裾を引っ張った。ひらひらして動きにくそうな、おかしな服。
「あの……あなたが?」
「あ。えっと、うん。そう。僕はセオ。君の――」
君の夫だよと口に出していうのは、いかにも恥ずかしかった。それでとっさに口ごもって、ごにょごにょとごまかした。級友たちには間違っても見られたくない姿だった。
「セオ?」
彼女は確かめるように僕の名前を呼んで、小さく首を傾けた。その仕草に、僕はうろたえた。自分の顔に血が上るのがはっきりとわかった。馬鹿みたいに何度もうなずいて、僕は言った。
「うん。――君に会うのを、ずっと楽しみにしてた」
それはまるきりの嘘だったけれど、口に出した瞬間、本当のことになった。そうだ、僕はずっと、彼女に会いたかったのだと、本気でそう思った。理屈もなにもあったもんじゃなかった。
彼女ははにかんで、上目遣いに僕を見た。向こうは向こうで、緊張しているんだなと思った。今年の花嫁は可愛い子ぞろいらしいと囁いた、級友の言葉が耳によみがえる。ついでに、ラッキーだったなといった係官の声も。いや、あれは家の話であって、花嫁のことじゃなかったんだっけ。
混乱した頭の中で、ずいぶんくだらないことを、いっぺんに考えた。その間、彼女はじっと僕を見つめ返して、ただ微笑んでいた。落ち着かないようすで自分の服の袖を小さく引っ張って、頬を赤らめながら。ちょっと引っ込み思案な子なのかな、と思った。だけどそれが可愛かった。男が同じことをしていたら、いらいらするだけだっただろうに。
「えっと……マリィ、って呼んだらいいのかな。それともマリア?」
確認すると、彼女は小さく首を振った。「ルーって呼んで。みんなそう呼ぶから」
ルー。彼女の微笑に見とれながら、口の中で転がしたその音は、なんだか丸くてころころしていた。彼女によく似合った呼び名だとも思った。
可愛い、可愛いルー。栗色のふわふわの髪をした、僕の花嫁。
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