殲撃のヴェンデッタ - 全てを奪われた俺は、勇者ヲ否定シ王ト為ル -
糾縄カフク
第一部 - 勇者編 -
序章:ララト、奪われし者の名を
序章01:汝、満たされし豚よ
僕の命で救えるならば。
君の命を救えるならば。
かけがえない君の為に。
かけがえある僕の命を。
――何か酷い夢を見ていた気がする。
それが長い長い時間だったのか、或いは
ただ一刻も早く過ぎて欲しいと希い、無ければ良かったと恨んだ事だけは、はっきりと覚えている。
小鳥の囀りに重なり、僕を呼ぶ声が彼方から聞こえた。
――お兄ちゃん!
布団の上で馬乗りになり、僕を揺する小さな影。
うっすらと瞼を開ける。――窓から射す光が眩しい。どうやらもう朝らしい。
「う……フィ……オナ?」
僕の上に乗っているのは、小柄で細身の幼い少女。――義妹のフィオナ。
藍色の髪をおでこで揃え、後ろ髪をおさげにして縛るフィオナは、僕の胴で跳ねてモーニングコールを告げる。確か今年で齢の十三を迎える筈だったが、相変わらず育たない身長と胸板の所為で、見た目はまだ未就学児のそれでしかない。
フィオナはアカデミア――、この街の中央に建つ学園の制服に既に着替えていて、魔道士用に設えられた青のローブは、ぴっちりと彼女の身体にフィットしていた。――しかし余談だが、魔道士用のローブを纏うフィオナは、魔法の一切を扱えない。俗に言うカナヅチ、すなわち魔法不適合障害の為だ。
「ふああ……おはよう。フィオ」
「おはようじゃないよお兄ちゃん! 今日から仕事でしょ! 早く起きなきゃ!」
フィオナは赤縁の丸メガネをくいとさせ、グラスの奥の、さらに濃い藍の瞳で僕を覗き込んだ。
「分かった。分かったから。起きるって」
ちなみに僕はと言うと街の守備隊へ配属が決まっていて、今日がその出勤の初日だった。目覚ましはかけておいた筈なのだが、どうにもやはり、肝心な時にツイていないらしい。
「うーん。じゃ、早く降りてきてね! アタシはもう食べてるから!」
観念してずり下がるフィオナは、真後ろに引いた所為で屹立した僕の身体の一部に当たってしまい、寸時に顔を赤らめて怒った。
「ちょっ……お兄ちゃん! 朝から何妹で興奮してんの! ヘンタイ!」
そのままプンスカと湯気を頭から出し、フィオナはドアを勢い良く閉めると階段を降りていった。怒涛の様に過ぎ去った嵐の後に、僕だけがぽつんと部屋に取り残される。
ヘンタイも何も生理現象なのだから仕方ないだろう。そもそも初出勤の前夜に性欲を発散出来るほど、僕は肝っ玉が座ってはいない。今日の準備を事前に整え、にも関わらず緊張に苛まれながら、深夜にやっとこさ眠りについたのだ。
やれやれと頭を掻きながら起き上がると、僕は律動の収まるのを待ってトイレに向かった。トイレは一階へ降りる階段の手前にある。
――僕の住まいは街の孤児院。
数年前まで雑魚寝も普通の寂れた教会だったが、さっき出て行ったフィオナの寄付で増築を果たし、今では一人が一部屋の、ともすれば市民の生活並に整った環境で暮らしている。――まあ言うなればシェアハウスの様なものだ。
義妹のフィオナは魔法が使えない代わりに知力がずば抜けていて、アカデミアから全面的な支援を受け進学する程の才媛だった。――彼女が発明した「
そうして寝ぼけ眼をこすりながらトイレのドアを開けると、今度は別の悲鳴が響き渡り、僕は顔面にトイレットペーパーの直撃を受けた。
「なに勝手に開けてんの! センパイ! バカ! エッチ!」
洋式の便座に腰掛けたまま予備のペーパーを投げつける少女。
黒髪のショートカットと日に焼けた肌が溌剌を思わせる彼女はケイ。――僕の後輩だ。
数分前に聞いたばかりの台詞をもう一度浴びせかけられ、挙句に顔面に一撃を受けるとは。ツイていないを通り越し、最早今日は厄日では無いだろうか。
おまけに寝ぼけたままの僕は、すぐにドアを閉めるでも無く、ケイの姿をがっつりと凝視していた。
「ボ、ボクの事……い……いつまで見てるん!!」
頬を紅潮させたケイが、タンクトップの上着を押さえ下半身を隠した所ではっとした僕は「あああ!! すまん!!!」と上ずった声で慌ててトイレを出た。
「センパイの馬鹿ー! ノックぐらいしろ! スケベ! エッチ! ヘンタイ!」
ドアの奥からフィオナと同じ怒声が飛び、僕はすごすごと階段を降りる。――せめて鍵ぐらいは掛けておいてくれ……
僕とフィオナの後に孤児院に来たのがケイで、彼女は遠い東の国の生まれだった。当時はやせ細り、僕の影に隠れて歩く少女だったケイも、今じゃスポーツ万能の優等生だ。
身体能力に秀でた彼女はアカデミアの模擬戦で無敗を誇り、国内で十人しか席の無い
フィオナとは一学年の違いだから、恐らくは今日も連れ立って登校するのだろう。身長はフィオナより幾分か高いが、それでも同級生の子よりは低い部類だ。
それから一階に降りると、焼けたトーストの香ばしい匂いが鼻孔をくすぐった。こちらに背を向けて鍋をかき混ぜているのは孤児院の院長、シンシアだった。
「あら、おはようございますぅ。ララト」
三角巾を被った彼女が、足音に気づいたのかこちらを向く。
淡紅の長髪がなびき、修道服では包みきれない肉体の豊満が揺れながら存在を主張する。
年齢が僕より一つ上のシンシアは、落ち着いた物腰とその体つきのせいか、童顔であるにも関わらず不思議と大人びて見える。
あの日家を失った僕とフィオナを拾ってくれたのが正に彼女で、シンシアは僕にとって命の恩人であり、姉と母と友人を混ぜあわせた様な存在だった。
「おはよう、シンシア」
「遅いですよう。いつまでたっても降りてこないから、お姉さん心配しちゃってました」
彼女は僕と話す時、自分のことを「お姉さん」と呼ぶ。何かと慌ただしい僕の身の回りでは、シンシアのスローペースはある種のオアシスとも言えた。
司教だった父の跡を継いだ彼女は、医者顔負けの薬学の知識と、魔道士も唸る治癒魔法、この二つを徹底的に叩きこまれ、それを生活の糧として孤児院の運営を続けてきた。
多くの命を預かりながらの渡世。妹一人すら守る事に精一杯だった僕などでは想像もつかない苦労があっただろう。だがシンシアは、僕たちの前で悲嘆めいた表情を見せた事は一度も無かった。
(――ところで、フィオちゃんが怒ってましたけど、何かやらかしたんですかぁ?)
(――どうもこうも、男の朝の生理現象だよ。不可抗力、不可抗力)
耳打った僕の言葉にシンシアはくすくすと笑い「それじゃあお姉さんがその不可抗力、処理してあげましょうかねえ」と
日頃から薬を煎じ飲み、自らを薬壺と化している彼女の身体からは、時に淫靡すら感じるほどの甘い芳香が漂っている。ふとした瞬間に感じるシンシアの「女」に、僕はその度にドキリとして目を背ける。
「あっお兄ちゃん」
そこに丁度カバンを手に現れたフィオナは、じっとりとした目で僕を見つめると「ねえねえシンシア、聞いてよ、お兄ちゃんったらね……」と、事後の報告をし始めた。
妹の話を笑いながら聞き流すシンシアは、コップにコーンスープを注ぐと、トーストされたパンと一緒に四人分を食卓に並べた。同じ孤児でも出勤、登校組の朝は早く、僕たちが食事を終えた頃に他の子供たちの
「ふふふ。それじゃあお姉さんがララトお兄ちゃんの
案の定からかうシンシアに、今度はフィオナが顔を赤らめて俯き「ううん! シンシアじゃ駄目! 駄目だって!」と否定した。
次に用を足し降りてきたケイも、シンシアへの事後報告に同じ返しをされ、赤くなって俯くまでがフィオナと一緒だった。
少し騒がしい妹と後輩、それを見守る姉の様な存在。
一度はどん底だった僕の人生は穏やかな時間を取り戻し、これこそが幸せなのだと心のどこかで信じていた。
フィオナは研究者として将来を嘱望されているし、ケイもやがては都市の要職を司るに違いない。
僕が言うのも手前味噌だが、二人は傍目に相当可愛い。きっと僕よりもっとふさわしい相手が現れるだろう。
だから今の僕に出来るのは、この幸せを守りながら、彼女たちを待つ洋々の未来を希う事だけ。
その為に街の守備隊に志願し、魔物たちと戦う役職に就いたのだ。僕は僕の出来る範囲で、彼女たちの幸せを守れればそれでいい。
「ごちそうさま」
一足先に食事を終えた僕は、着替えるからと席を立ち、また二階へと戻る。
「えっへっへ。センパイ! 初日に失敗しないでよ!」
「アタシたちが応援してるからねー」
背後から二人の暖かい声援が飛ぶ。いや或いは冷やかしか。
トイレを済ませ顔を洗い、歯を磨き寝癖を直す頃には、大分目も覚めて来る。いつも通りの朝。いつも通りの騒がしさ。
守備隊の制服はショルダーガードと胸当てが付いた簡素なもので、僕は腰にベルトを締め剣を差すと、階下へ向かった。
どうやらフィオナとケイは既に出かけたらしい。リビングにはシンシアが一人立っていて「いってらっしゃいララト。お迎えが来てますよう」と悪戯げに笑った。
「お迎え? もしかして上司とか?」
「行ってみれば分かりますよう。それじゃあ初勤務、頑張ってね。
また誂うシンシアに「どうせフィオナかケイでも待ってるんだろ」と返した僕は「行ってきます」と続け玄関のドアノブに手を掛けた。
――ガチャリ。
開いたドアの、陽光に包まれた先で待っていたのは、聞き慣れた声の、だけれど予想とは違う人物だった。
「おっそいわよ! ララト!」
朝日に長いブロンドを煌めかせ、僕に怒るのは幼なじみのエメリア。――エメリア・アウレリウス・ユリシーズ。
アカデミアを飛び級の主席で卒業した彼女は、今や国防のエースに位置する
「なーにきょとんとしてるの? 昔は一緒にアカデミアまで通ったじゃない。仕事の初日の、案内も兼ねて私が一緒に行ってあげようって思ったのに」
そこまで言ったエメリアは、一度は僕から目を逸らすと「なのに全然ララトったら、出てこないんだもん」と次にその目を伏せて言った。
「ご、ごめん……知らなくてさ」
目を泳がせる僕を上目遣いに、くすくすと笑ったエメリアは「なんてね、うそ」と僕の手を取る。
「ねぇ行こ。久しぶりだね……ララト」
都市で十人しか着用を許されない、魔法剣士を示す青の法衣を纏い、エメリアは微笑みながら僕を誘う。
「――ああ」
そして僕も彼女の手を握り返す。――最強格の戦士とは思えないほど、白く美しい柔肌。青い瞳が曙光を照射し、一層にエメリアを遠く眩しく見せる。
* *
――そうだ。あの頃は全てが眩しかった。そして僕は幸せだった。
だけれど朝の光に包まれた世界はめらめらと音を立てて崩れ、走馬灯の様に過ぎった美しい過去を燃やし尽くしていく。
辺りには血の臭いが立ち込め、魔物の咆哮が耳をつんざく。
死体の様に転がる仲間たちが、僕の視界に横たわっている。
ああ。
そうだ。
ここは、もう、戦場だった。
――戦場だったんだ。
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