火の国より来たる者


 里のはての岩壁には、ぽっかりと空いた穴がある。

 さして大きなものではない。大人なら、少し身を屈めなければくぐれないほどのものだ。あらゆる光を吸い込むような、黒々とした穴。その先は、暗闇の路へと続いている。

 そこへ足を踏み入れることは、禁じられている。例外はふたつ。男たちが銀を掘りにゆくときと、葬儀のときだ。

 暗闇の路のなかばには、死者の川がある。

 轟々と音を立てて流れる、冷たい川だ。人が死ねば、なきがらはそこに投げ込まれる。

 死者は川をどこまでも下ってゆき、やがては水底の国にたどりつく。彼らはそこで、永遠の眠りにつくといわれている。

 暗闇の路は、死そのもののような、深い静寂に包まれている。それでいて闇の中には、驚くほど多くのものが息をひそめている。音を立てずに地を這う、目のない蛇。毒をもつ蜘蛛。それから、川を下りそこねた亡霊たち。

 道すじはひどく入り組んでいて、そこで上げた声は、響く端からほうぼうに跳ね返って、耳を惑わす。ひとたび迷えば、けして無事に戻ってはこられない。

 けれど、その長く危険に満ちた路を、どこまでもたがわずに正しく辿ることができたならば、その先ははるか彼方の地、天上にあるもうひとつの世界へと続いている。

 火の国。

 その大地は、燃え盛る炎に包まれているという。



    1


「今日からサフィドラの月になるのね」

 その日の早朝、母さんが感慨深げにそういったのを、よく覚えている。部屋の中にまでほのかに霞のかかる、しっとりと涼しい朝だった。

 その言葉を聞いたわたしは、ちっともいうことを聞かない縫い針から視線を上げて、母さんの顔を見上げた。母さんは、近頃とみに白髪の増えた頭をかしげて、わたしの手元をのぞきこんでいた。

「年があらたまるのをいい機会と思って、お前もそろそろひとつ、何か大きなものを仕上げてはどうかしらね」

 母さんの声は、心配げな色を帯びていた。もう少し針が上達しないことには、嫁いだ先で困ることになりますよというのが、そのころの母さんの口癖だった。

 けれどわたしはそのとき、ほかのことに気を取られていた。サフィドラの月という、聞きなれたはずの、けれどいつ聞いても不思議な響きのする名前のほうに。

 サフィドラ、レヴェ、ルークス、エオン、ヤクシェ、イディス、ユヴ……。ぜんぶで十七ある月の名前は、どれもきれいだけれど、音の響きがよいという以外に、意味があるようには思えない。そういうものだと思っていたけれど、考えてもみれば、そんなにたくさんの名前で暦を呼び分ける必要なんて、どこにあるのだろう。

 ようやく言葉を覚え始めたばかりの幼い子どもらには、一の月二の月と、数字で暦を教えるくせに、彼らが少し大きくなると、今度は正式な長い名前で覚えなおさせる。わざわざそんなことをする意味が、どこにあるのだろう。

「ねえ。月の名前って、なにか意味があるの」

 母さんはすぐに答えず、日々の仕事に荒れた指先で、そっと額を押さえた。叱りつけたいのをこらえるときの、母さんのくせだ。

「さあ、どうかしら。もともとは星の名前からとられたと、導師が仰っていたと思うけれど」

 ずいぶん前に聞いたことだから、忘れてしまったわ。母さんはそんなふうにいって、小さく首をすくめた。

「星って、なあに」

「さあ、何かしら。難しいお話は、母さんにはわかりませんよ」

 それよりも、と母さんが厳しい顔をしたので、てっきりお説教が続くものと思って、わたしは首をちぢめた。けれどそうではなかった。母さんはゆっくりと、噛み含めるようにいった。

「わかっていると思うけれど、今日は火の国の使者さま方がお見えになる日ですよ。続きは裁縫室でなさい」

 はい、と返事はしたけれど、いわれるまでわたしはほとんどそのことを忘れかけていた。あわてて裁縫道具を抱え込んで立ち上がると、母さんがまたため息をつきかけて、飲み込んだ。



 姉さんたちはみんなしっかりしているのに、あなただけ、いつまでも小さい子どものままみたいね。そんなふうに、何度ため息をつかれたことだろう。そのたびに首を縮めて、お説教をやり過ごしながら、わたしは実のところ、ちっとも反省していなかった。母さんも、姉さんたちも、みなでよってたかってわたしを子ども扱いするのだから、いつまでも子どもっぽいのは当たり前だ。

 ヒカリゴケに淡く照らし出される通路ヤァタ・ウイラを歩きながら、わたしはそのとき、まだ月の名前のことを考えていた。

 星、とは何のことだろう。

 小さいころから、一度なにかを気にしだすと、答えを知るまでずっと気になり続ける性質だった。ソトゥの月だけがほかの月の半分ほどの日数しかないのはなぜだろう。どうして日が経つことを、月が満ちるというのだろう。ひとたび気になりだすと、疑問は次から次へと湧き出してくる。わたしはこのとき、暦に秘められた謎に、すっかり夢中だった。

 長い通路の先には、裁縫室がある。姉さんたちはすでにそちらに行って、縫い物なり、糸紡ぎなりに、精を出しているはずだった。

 けれどわたしはその手前の、勉強室の前で足を止めた。母さんは、裁縫室で縫い物の続きをやるようにといったけれど、要は邸の奥に大人しくひっこんでいさえすれば、それでいいのだ。

 サフィドラの月の頭から三日間、この邸に暮らす未婚の娘たちはみな、奥の部屋に篭もらなくてはならない。表のほうの部屋には、使者の方々をお泊めするからだ。

 母さんたちは、導師のご指示を仰いで忙しく立ち働いている。男の人たちは今年の荷をあらためて、火の国よりもたらされた物珍しい品々に、目を輝かせているころだろう。わたしたちだけが、にぎやかな表から切り離されている。わたしにはそんなふうに思えてならなかった。

 使者はいつも、男のひとたちばかりのようだった。女性の使者さまはいらっしゃらないのですかと、導師に訊いてみたことがある。もし許されるものなら、火の国の話を聴いてみたいと思ったのだ。

 ――さて。女性にょしょうの使者は、すくなくとも私がこのお役目についてからは、お見かけしたことがないが。

 わたしががっかりして肩を落とすと、導師は困ったように微笑んで、ゆっくりと仰った。

 ――火の国からこの里へいたる道のりは、とてもけわしく恐ろしいものだというから、たとえ火の国の御方といっても、女性の足で通り抜けるのは、難しいのではないかな。

 いわれてみれば、もっともな話だった。いつだって導師はそんなふうに、わたしの考えの足りないところを、やんわりと気付かせてくださる。

 導師はお優しい。教えを請えば、たいていのことは詳しく答えてくださる。月の名前のことも、お訊ねすれば、教えてくださるだろうけれど……。

 垂れ布をくぐって勉強室に入ると、立ち並ぶ書架が、持ってきた手燭のあかりに淡く照らし出された。この部屋だけの、独特のにおいが鼻をくすぐる。古びた紙とインク、それから埃のにおい。

 誰もいない勉強室は、静かだった。

 奥の裁縫室からは、ときおりはしゃいだ高い声が漏れ聞こえてきていた。自分もそちらにいって姉さんたちの話に混じろうかと、思わなかったわけではない。けれどわたしはそうしなかった。ひとりでいるのが好きなわけではない。だけど、お裁縫はもううんざりだった。向かないのだ。

 昔からずっとそうだった。まわりの娘たちと違うものに興味を惹かれ、皆が喜ぶものにはあまり関心を持てない。べつに意地を張ってそうしていたわけでもないのだけれど、自然といつもそうなった。

 皆がわたしのことを変わり者だと思っているのは、知っていた。わたしのそういうところが母さんを心配させているのも、わかっていた。けれどそれでも、好きではないものを好きだということが、わたしにはどうしても耐え難かった。

 わたしはため息を飲み込んで、奥の書架に向かった。

 目に付いた本を取り出すと、それはずしりと手に重かった。その列の書架には、とくに古い書物が集めてある。表紙に張られた布は、端がほつれてしまっていた。綴じ糸もすでにもろくなって、雑に扱えば、ばらばらになってしまいそうだった。

 机まで運んで、明かりのそばでそっと表紙を開くと、中のページに記された文字は、すでに古び、薄れかかっていた。そろそろ写本をつくるべき時期にさしかかっているようだった。

 わたしは以前から、導師が古い本を書き写されるのを手伝っていた。裁縫は苦手だけれど、読み書きならば、姉さんたちの誰よりも上手にできる。けれど母さんは、それをあまりいいことだとは考えていないようだった。

 いずれお嫁にいってしまえば、本など読むこともないのよと、母さんはいう。それが本当なら、嫁ぐというのは、なんてつまらないことなのだろう。

 書物に記されているのは、古い叙事詩のようだった。在りし日、族長イグラン――というように、そのつづりは読めた――が、無用のいくさに明け暮れるあまりに、とうとう神々の怒りに触れて、水という水を奪われてしまった。渇きのために苦しむ一族に、ひと柱の美しい女神が心を痛め、天より降り立った。女神は道を示し、わたしたちの祖先を新たな地へ導いた。この豊かな水の溢れる楽園、エルトーハ・ファティスへと。

 本の中には、その長く苦難に満ちた旅のことが、活き活きと綴られていた。

 それは、いつか耳にしたことのある物語だった。母さんが寝物語に聞かせてくれたのではなかっただろうか。

 けれど、記憶の中の話とは、細部がかなり違っていた。それに母さんの語った内容は、この書物のように詳しくはなかったと思う。己の過ちを悔いながら、民を率いて道を切り拓く族長の、人間的な苦悩に満ちたようす。それに、巫女の口をとおして語られる女神の託宣の、謎めいた、神秘的な響き……。

 読みながら、わたしは何度もため息を漏らした。母さんは子ども向けに話して聞かせるために、話の難解なところをすべて省いてしまったのだろうか?

 その書物のなかには、知らない言葉がたくさん出てきた。わからないところでは手を止めて、その単語をそっと指でなぞり、不思議な響きの音から自分なりの(きっとそのいくらかはとんだ見当はずれの)想像をめぐらせながら、わたしは夢中になってそれを読んだ。

 読み終えていっときの間、わたしの心は古代の英雄たちの姿から離れることができなかった。

 時がたって興奮がいくらかしずまると、今度は嵐のような疑問が押し寄せてきた。これは何百年前の話なのだろうか。この地が、苦難の果てにようよう見出された楽園だというのなら、その前にわたしたちの祖先が住んでいた場所は、どのようなところだったのだろう。神々に水を奪われる前の、その土地は。

 少なくともここより、ずっと厳しい土地だったのだろう。深い暗闇にうち沈む、寒々しいところだろうか? それとも話に聞く火の国のように、灼熱の土地なのだろうか。あるいは水を奪われるその前には、こことよく似た土地だったのだろうか。

 導師にお訊きしてみたいと思ったけれど、この三日間は、勉強室にお見えにはならないだろう。使者の方々をもてなすのに、お忙しいはずだから。自分が入ってきたほうと反対側、ト・ウイラへ続く戸口をちらりと見て、わたしはため息をついた。

 奥の裁縫室のほうで、誰かが歌っているのが、かすかに響いていた。耳を澄ませば、それは一番上の姉さんの声だった。


 ――愛しいひとの名を呼んで、

   乙女は駆ける、暗闇の路を。


 それは、古い恋歌だった。

 炎の乙女の歌。火の国からの使者に恋をした乙女が、帰りゆく使者のあとを追いかけて、越えてはならぬ火の国との境を、とうとう踏み越えてしまう。そして乙女は炎に焼かれ……。

 その歌が、わたしは昔から好きになれなかった。正直にいえば、悲しいばかりで、辛気臭い歌だと思っていた。どうせ歌うのなら、もっと楽しい歌がいい。

 対抗しようと思ったわけではないけれど、つい、ちがう歌を口ずさんでいた。豊穣の歌。豊かな実りを大地の女神に感謝する歌だ。

 それは本当ならば、女が歌うようなものではないのだけれど、ときおり男のひとたちの畑のほうから聞こえてくるのを、耳で覚えていた。その喜びにあふれた力づよい音律が、わたしはとても好きだった。

 誰かの足音が、近づいてきた。それでもわたしは、歌を止めはしなかった。母さんたちか、姉さんたちの誰かだろうと思ったので。

 けれど、その予想は裏切られた。

「――いい声だな」

 心臓が、止まるかと思った。

 あろうことか、それは、男のひとの声だった。いまこのとき、この場所に、導師以外の男のひとが、いるはずがないというのに。それどころか声は、ヤァタ・ウイラから聞こえた。女たちしか使ってはならないはずの通路から!

 声の主は戸口のそば、ほとんど垂れ布のすぐ向こうから、話しかけてきたようだった。布に、うっすらと人影がうつっているのが見えた。

「もう、歌わないのか」

 不思議そうに、通路の声はいった。低く、語尾のやわらかい、不思議な響きの声だった。

「すまない。邪魔をしただろうか」

「いえ……」

 ようやく、どうにか喉から声を絞り出すことができた。声の礼儀正しい響きからは、少なくとも悪い人ではなさそうだと思えて、それでいくらか、わたしは落ち着きを取り戻した。

 そちらがわの通路は、ヤァタ・ウイラですよと、そう声の主に教えようと思った。けれど口が勝手に、違うことをいっていた。

「もしかして、火の国からの使者さま?」

 訊いてしまってから、考えが言葉に追いついた。それ以外に考えられることがあるだろうか?

 男のひとの言葉には、あまり聞かないような古風ないいまわしが混じっていたし、それに抑揚や声の響きも、どこか変わっていた。第一、里の男で知らずにヤァタ・ウイラに闖入するものなど、いるはずがない。

 そうと知っていてわざと入り込んだ狼藉者の話ならば、耳にしたことはあるけれど、それにしては声の主は礼儀正しかったし、なによりここは、導師のお邸なのだ。使者のいらっしゃるこの大切な時期に、それほど愚かなことをする男がいるとは考えづらかった。いたずら盛りの子どもならともかく、声は、大人の男のひとのものだった。

「ああ……いや、そうだな。お前たちが、火の国と呼ぶ場所から、荷を運んできた」

 ああ、なんていうことだろう! 使者さまとお話しができるなんて。わたしは小走りに戸口のほうへと駆け寄った。

 気分が高揚していた。母さんや導師に知られれば、ひどく怒られるだろう。わかってはいたけれど、そんな心配よりも好奇心のほうが勝った。

「今日の早朝に、ようやく着いたところだ。ほかの者は皆、まだ休んでいる。……ひとり早々に目が覚めたはいいが、ここの暗さに惑わされて、どうやら道に迷ってしまったようだ」

 弁明する声は、とてもまじめな調子だった。それがどうにも可笑しくて、わたしは小さく吹き出した。

「いやだ、お邸の中で迷うなんて」

 そういってから、慌てた。あまりに無礼な口のききようだっただろうか。とても偉い方なのだということは知っていたけれど、そうといって、使者にどんなふうに礼を尽くすべきかなんてことは、誰からも教わらなかった。それも当然のことだ。わたしたちは、使者にお会いすることそのものを、厳しく禁じられているのだから。

 けれど、使者はわたしの無礼を咎めるふうでもなく、ただ困惑したように呟いた。

「ここは邸の中、なのか」

 何を不思議に思っていらっしゃるのだろう。わたしはちょっと首をかしげた。火の国では、お邸というのはもっと立派なものなのかもしれない。

「いや、すまない。妙なことをいうと思っただろう。……邪魔をしてすまなかったな」

 使者が立ち去ろうとする気配を感じて、わたしはあわてた。こんな機会、もうあるとは思えなかった。とっさに垂れ布の近くまで駆け寄っていた。

「ねえ、火の国のお話を、聞かせてくださらない?」

 そう口に出してしまってから、わたしはうろたえた。相手は家族でもなければ、導師のようなお爺さんでもない、大人の男の人なのだ。

「あの、わたし……その」

 なにか言い訳をしなければならないと、そう思うのだけれど、焦るとよけいに言葉が出てこなかった。少しして、垂れ布にうつる影が揺れた。

「どうした」

 うながされて、わたしは恥じ入りながら、小声でたずねた。

「その、はしたないと思う?」

 訊きながら、いたたまれなかった。垂れ布の向こうから、使者が喉の奥で笑うのが聞こえた。

「お前はまだ、子どもだろう」

 とっさに反論できなくて、わたしは口を開閉させた。

 たしかにわたしは歳のわりに幼いと、姉たちからも母さんからも、口癖のようにいわれている。自分でもちょっとそう思うふしはある。けれどいくらなんでも、男の人に話しかけて、子どもだからと笑って済ませてもらえるような年ではない。

 けれど、そう誤解してもらえるのなら、わたしにとっても都合のいいことではあった。憮然として、わたしは答えた。「そういうことにしておくわ」

 使者が、今度は声を立てて笑うのが聞こえた。こっそりふくれながら、わたしはその場に座り込んだ。

「地上の、どんな話を?」

 使者はどうやら、子どものわがままにつきあってくれるつもりになったようだった。面白がるようにそう囁く声は、けれど、意地悪そうではなかった。

 わたしは気をとりなおして、顔を上げた。訊きたいことは、いくらでもあった。火の国の人たちは、どんな姿をしているのか。いつもたくさん運んでくる、あの不思議な品々は、だれがどうやって作っているのか。火の国をつねに覆っているという炎に焼かれても、ちっとも熱いと感じないのか。どれくらいの数の人がいて、どんな暮らしを送っているのか……。

「火の国のことを、あなたがたはなんというの?」

 まっさきに口から飛び出したのは、そんな疑問だった。

 使者はさっき、お前たちが火の国と呼ぶ、という言い回しをした。ならば、彼らは自分たちの国を、ほかの名で呼んでいるのだ。

「俺たちの町は、ファナ・イビタルという。中央砂漠にある、大きく美しい、オアシスの町だ」

 いいながら、使者は少し口ごもったようだった。わたしが話を理解できないでいる気配が、沈黙に乗って伝わったのかもしれない。

「オアシス、という言葉はわかるだろうか。砂漠は?」

「いいえ。それは、どんなもの?」

 使者は少し、言葉をさがすような沈黙を落とした。それからゆっくりと説明を足した。

「ここと違って、地上はとても暑く、ひどく乾いているのだ。見渡すかぎり、焼けた赤い岩の大地か、そうでなければ、乾いた砂を敷き詰めたような地面が広がっている。その中にときおり、水の湧く場所がある。その水場のことを、オアシスと呼ぶ。そうした水のそばに、人が集まって暮らしている」

 使者はいったん言葉を切った。それから、わたしの頭に砂漠の情景が沁みるのを待つような間をおいて、続けた。

「それらの中でもっとも美しく、とびきり豊かなオアシスが、ファナ・イビタルだ」

 声は全体に落ち着き払っていたけれど、そのことを口にしたときだけ、子どものように、自慢げに弾んだ。

 地上、という言葉にはなじみがなかったけれど、きっと火の国のある場所のことなのだろう。それよりも、火の国の人も水がなければ渇くのかと、わたしはそのことに驚いた。

 灼熱の大地で暮らすことができるのは、かの国の人々が、けして炎に焼かれることのない、特別な肌を持っているからだと教わっていた。それなのに、水がなければ生きてはゆかれないのだと思うと、それはとても、不思議なことのような気がした。

 ファナ・イビタル。口の中で、そのきれいな響きの音を転がすと、それは神々の住まう天のどこかではなく、生きた人の暮らす里なのだという感じがした。

 その考えは、わたしに先ほどの本を思いださせた。母さんの話ではいかにも英雄然として、神々の眷属のようにしか思われなかった人物が、書物の中では活き活きとした、ひとりの人間として描かれている……

「ここのように水の豊かな土地は、地上ではとても珍しい。羨ましいことだ」

 そう囁いた使者の声には、憧れるような響きがあった。その声音が、言葉の内容よりもなお雄弁に、遥かな土地の乾いた風を、わたしに想起させた。

「火の国は、とても遠いところだと教わったわ。どれくらい遠いの?」

「ああ、そうだな。地上までは一日も歩けば着くが、ファナ・イビタルへは、そこからさらにひと月ほどだ」

 ひと月! わたしは自分の耳を疑った。それがどれほどの距離なのか、見当もつかなかった。試したことはないけれど、里の端から端まで歩いても、二日もかからないだろう。

 わたしがあんまり驚いていたからだろう、使者は笑って付け足した。「途中のオアシスに立ち寄りながらの旅だ。ひと月のあいだ、ずっと歩き詰めというわけではない」

 それにしたって、途方もない話だった。それに、荷のこともある。使者とお話しするのはこのときがはじめてのことだったけれど、火の国から運ばれてきた荷ならば、わたしも見たことがある。あんなにたくさんの荷物を、ひと月もかけて、ここまで背負ってくるというのだろうか。

 わたしがそういうと、使者は首を振った。

「荷は、駱駝をたくさん連れてきて、運ばせるのだ。いまも、里の外で待たせている。仲間が一人残って、面倒を見ているが」

 ふと気づいたように、使者は言葉を途切れさせた。「ああ、駱駝も見たことがないだろうな」

 駱駝というのは、火の国に棲む動物なのだと、使者はいった。四つ足で歩き、気性が大人しいのだと。また賢くて、人のいうことをよく聞くのだとも。

「この里には、人より体の大きな動物はいないようだな」

 使者の言葉に、わたしは何度も頷いた。鼠や蝙蝠よりも大きな動物がいるのだということも、獣がひとのいうことを聞くだなんていうことも、とても信じられないような気持ちだった。それこそおとぎ話か、神話の中の出来ごとだとしか思えなかった。

 人よりも体の大きな動物。そんなものがたくさんいるのなら、食べるものは足りるのだろうか。蝙蝠だって魚だって、ものを食べる。大きい動物なら、食べものもたくさん必要とするだろう。

 ああ、だけどあれほどたくさんの荷を、惜しげもなくもたらしてくださるのだから、火の国はきっと、とても豊かな土地なのだろう……。

 なにかをひとつ訊ねるたびに、ますます疑問はあふれかえるようだった。

「さっき、暗くて迷ったと仰ったけれど、そんなにここは暗い?」

「ああ、俺たちにとってはな。……お前たちのその眼には、暗闇の中でも、ちゃんとものが見えるのだろうが」

 その返答に、わたしは目をしばたいた。

「暗いところでは、明かりを使うわ。あなたがたは違うの?」

「いや、同じだ。けれど、俺たちが明かりがないと何も見えないような暗がりでも、お前たちはなんなく歩き回っている……」

 使者は、ため息のような声でいった。

「はじめてお前たちの同胞に会って、その眼を見たときには、とても驚いた。地上でも、明るい色の瞳をした人間は、稀に見ないではないが。お前たちの瞳は、どういったらいいか……そう、暗がりの中で、うす青く光るだろう。あんな眼をもった人間は、ここ以外では見たことがない」

「青い? ひとの目が?」

 わたしが素っ頓狂な声を上げると、使者は訝しげにいった。「俺には、そのように見えるが」

「そんなふうに考えてみたことなんて、なかったわ」

 わたしの声は、よほど途方に暮れていたのだろう。使者はゆっくりと言葉を考えるようにして、説明を足した。

「いままで会ったここの人々は皆、うすい灰青というか、そのような色の目をしているように見えたな。あるいは、青という言葉のさす色が、お前たちと俺とでは、少し違うかもしれないが……」

 その言葉の内容を、少し考えて噛み砕いてから、わたしはわかったような気になって、うなずいた。

「そうかもしれない。言葉か、あるいは、色の見え方が」

「見え方、というのは?」

 訊ねかえされて、わたしは向こうに見えるわけでもないのに、大きくうなずいた。

「たまに、ほかの人と違う目のつくりをしていて、明かりのあるところでも、うまく色が見分けられない子どもが生まれてくるのだそうよ。記録に書いてあったわ。あなたがたとわたしたちとでは、もとから色の見え方が違うのかもしれない。同じものを目にしても、同じような具合には、見えていないのかも」

 使者はいっとき黙り込んだ。なかなか返事がかえってこないことに、わたしが不安になりだしたころ、囁くような声で、ようやく使者はいった。

「面白いことを考えるものだ。……お前は、字が読めるのか」

 ええ、と頷いてから、わたしは少し声を沈ませた。「おかしいかしら?」

「いいや。なぜ?」

「女が読み書きなんかできたって、それが何になるのって、姉さんはいうわ。母さんも」

 わたしはいって、うつむいた。そもそも、里で書物の集められている場所といったら、この導師のお邸くらいのものなのだそうだ。何か知りたいことがあればみな、導師を訪ねてここまでやってくる。わたしたちが特別で、ふつうの家で暮らしていれば、書物に触れる機会などほとんどないのだと、母さんはいう。

 ずっとこのお邸で育ったわたしには、それは、なかなか飲み込みにくい話だった。けれど母さんは、繰り返しわたしにいってきかせる。導師はとても偉い方で、本当なら、わたしが気安くお話しをできるような相手ではないのだと。

 姉さんたちやわたしは、たまたま父さんが早くに死んでしまったために、里のしきたりに従って、導師の邸においていただいている。導師はお優しいから、本当の家族と思うようにといってくださるけれど、わたしたちはそれを当然のことと思ってはならないのだと。

 ひととおりのお説教のあとに、かならず母さんはいう。あなたはいずれお嫁にいくのだから、字が読めたって、何にもならないのよ。

「さて、学があって悪いことはないように思うが」

 わたしはぱっと顔を上げた。けれど使者は、ふと考えなおすように、苦笑した。「ただ、そうだな。学のある女を煙たがる男は、いるかもしれないな」

「なぜ?」

 わたしはとっさに訊きかえした。わたしがよく知っている男のひとといったら、導師くらいのものだけれど、導師はわたしが新しいことを学ぶと、とても喜んでくださる。

 使者は苦笑の気配をさせた。

「さて、なぜだろうな」

 それはいかにも、大人が子どもを煙にまくときのいい方だった。わたしはちょっと唇をとがらせた。けれど、抗議するよりも早く、垂れ布にうつる使者の影が立ち上がった。

「あまり長居をすると、探されてしまうな」

 使者は今度こそ、立ち去るようだった。衣擦れと、それからかすかに、なにか金属のぶつかって鳴る音がした。

「また、お話しできる?」

 使者はすぐには、答えなかった。わたしは息をつめて、返事を待った。

「……そうだな、明日も来よう。暇を見つけることができたなら。お前は、明日もこの部屋にいるのか」

「昼間はずっといるわ」

 そう答えながら、もどかしくてならなかった。聞きたいことはいくらでもあったし、明日かならず使者がいらっしゃるとは限らないのだ。ああ、どうしてもっと大急ぎで、色んなことを訊かなかったのだろう? わたしは歯噛みした。

 それでも、これ以上使者を引き止めて、もし彼がこの場所にいることが誰かに知られてしまえば、きっと次はない。そう考えるくらいの分別はついた。

「来た方向へ戻って……そうね、よく見えないのなら、左手を壁についたままゆくといいわ。角をふたつやりすごしてから、今度は反対側の壁に手をついて進んで、最初の角を折れると、広間に出ます」

 戸口の布にかすかにうつった使者の影は、こちらを振り返ったようだった。

「ありがとう」

 そういった使者の口調は、子どもにかける言葉にしては、いささか丁重すぎるように思えた。気恥ずかしいような、いたたまれないような、複雑な気分をもてあまして、わたしは口早に言葉を重ねた。

「きっと、いらしてね」

 その声は自分の耳にも、いかにも幼い子どものおねだりと聞こえた。恥ずかしさのあまり、頬が熱くなるのがわかった。

 布ごしに、かすかに笑いを含んだ声がした。「努力しよう」

 やがて足音が立ち去ったあとも、わたしはその場に座り込んだまま、呆然としていた。たったいまあった出来事が、夢ではないのかと思えて。

 そんなふうに思うくらい、勉強室は元の通り静まりかえっていて、布一枚へだてたヤァタ・ウイラには、もう何の気配もなかった。

 いや――立ち上がり、そっと垂れ布をくぐって通路に顔を出すと、ほんのわずかに、空気が違っていた。かすかに甘く、涼しげな匂い。いつか、使者さまがたの荷のなかにあったという香料を、導師が見せてくださったことがある。どうやって使うのか見当もつかない、やわらかい石のような塊。それの匂いと、よく似ていた。

 けれど、それはほんとうにかすかなもので、じきにわからなくなってしまった。

 姉さんはまだ奥の裁縫室で、炎の乙女の歌を歌っていた。まるで時間が経っていないような気もしたけれど、気づけば、机の上の手燭はすでに消えかかっていた。

 戸棚から新しい蝋燭を取りだして、わたしは書き物机に戻った。そうして本のページに手をかけたまま、長いあいだ、ぼんやりしていた。

 奇妙な魅力にいろどられた空想の切れ端が、幾度となく頭の中にひらめいては消えていった。火の国からやってきた使者。見渡すかぎりどこまでも広がるという、砂の大地。とびきり美しいという彼のオアシス……。

 明日も来ようと、使者はいった。ならばそのときに、何をたずねよう。今度はよく考えておかなければならない。知りたいことは限りなく、そう、星の数ほどあった。

 《星の数ほどセイラ・ウェルヤ》という言い回しを、そういえばわたしは、この勉強室にある古い書物の中で覚えたのだった。そういうひとくくりの言葉として覚えていて、語源なんて考えたこともなかったけれど、母さんのいう星とは、このウエルと同じものだろうか。

「トゥイヤ、そこにいるの?」

 その母さんの声がして、わたしはほとんど飛び上がるように椅子を蹴立てた。母さんがここにきたということは、もうかなりの夜更けということだ。使者の方々に夕餉を出して、その始末が終わるまでは、とても娘たちの様子を見にくるような暇は、ないはずだから。自分がとんでもなく長い時間、ぼうっと心を飛ばしていたらしいということに気がついて、わたしは驚いた。とっくに消えていた手燭に、母さんが新しい蝋燭を挿した。

「食べるものを持ってきたのよ」

 そういって母さんは、わたしの顔を、心配げに覗き込んだ。「姉さんたちのところに運んであったのに、食べにこなかったというから」

「ごめんなさい。本に夢中になっていたの」

 自分の声に、嘘の気配がにじんでいないか、ひやひやしながら、わたしはそう返した。

 そうして、ようやく気づいたのだけれど、お腹はとっくに空っぽだった。当たり前だ。朝の早い時間にここにやってきて、それからずっと食べることも忘れていたのだから。

 母さんが持ってきてくれたエトヤ豆のスープは、すっかり冷めていたけれど、どちらにしても、じっくり味わうような余裕はなかった。大慌てで流しこむと、ゆっくり食べなさいというお小言が降ってきた。

「ねえ、母さん」

 空っぽになったスープ皿を、母さんに手渡しながら、わたしはなんでもないふうを装って訊いた。「使者の方々って、どんなふうな人たちなの?」

「さあ。母さんは直接お会いするわけではありませんからね」

 なあんだと、思わずがっかりした声を出すと、母さんの目がつりあがった。

「こっそり広間をのぞいてみようなんて、思ってないでしょうね」

 大慌てで首を振ると、母さんはいっとき疑わしげにわたしを見下ろしていた。それからふっと、短いため息を落とした。

「そんな愚かな真似をするほど、もう小さい子どもではないわね?」

 はい、と生真面目な顔をとりつくろって頷くと、母さんはもう一度、今度は長いため息をついた。

「あなたはほんの小さなころから、好奇心が強すぎて、お母さんはいつも苦労のしどおしでしたよ。……今日はもう遅いわ。裁縫室の姉さんたちのところにいなさい」

「……はい。でも、明日もここに来ていいでしょう? 読みたい本がたくさんあるの」

 母さんが渋い顔をするのに、慌てて言いつのった。「だって、ふつうのときは、こんなに一日中勉強室にいられる機会なんてないもの」

 裁縫室などは、そもそも女たちしか使わないけれど、勉強室はそうもいかない。というよりも、むしろここは本来、男の人たちが使うための部屋なのだ。それを、彼らの用のないときに、わたしたちが使わせてもらっているというのが正しかった。

 導師は里のみんなの先生だから、ここには色々な人がやってくる。毎年ユヴの月になると、大人になる手前の年頃の少年たちが導師のもとにあずけられて、さまざまのことを学ぶ。けれどそれ以外のときにも、何かあると皆、導師の知恵をあおぎに、ここまでやってくる。水場のようすがおかしいときにも、作物の出来がよくないときにも、複雑な諍いが起きてしまって誰もが仲裁に困るときにも。

 そして、そうやって導師を頼ってくる人たちのほとんどが、男の人だ。それだから、わたしたち女は、あまりここに長くはいられない。

 母さんは肩を落として、けれど、頷いてくれた。「いいでしょう。でも、少しはお裁縫の練習もなさいね」

「ありがとう、母さん!」

 わたしは思わず声を上げて、母さんの細い肩に飛びついた。それを慌てて受け止めながら、母さんは苦笑した。

「ほんとうに、あなたは本が好きなのねえ」

 その呆れた、けれど優しい声を聞きながら、ほんの少し、気が咎めるような気がした。

 けれど本当のことを口にしてしまえば、叱られてすむような話でないのはわかっていた。だから、素直にはしゃぐふりをして、わたしは裁縫室へと向かった。

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