第二章-異世界-

金貨

 無事に目的地であるリュミエールの街へ辿り着いたセシリアだったが、焦燥は少しも薄れないどころか増すばかりで舌打ちせずにはいられなかった。

 MMORPGの街は現実の街並みと比べて遥かに小さい。首都ですら端から端まで数分で辿りつけるミニチュアスケールになっている。

 無駄な居住区や街並みを作っても処理が重くなるだけで意味がないから、必要最低限の雰囲気だけで大部分を省略しているのだ。

 端から端まで歩くと4時間くらいかかる上に大部分は空き家だと言われてもプレイヤーから糞仕様乙と罵られるだろう。

 このリュミエールという幻想桜で有名な街も例に違わず省略化の処理を受けていた。

 形はほぼ完璧な円形。中心には街の領主が使っている巨大な屋敷が居を構え、そこから東西南北に向かって6つの大通りが伸びている。

 ゲームの中では街の外から領主の屋敷まで徒歩2分程度とかなり小さく、NPCは要所要所に配置されただけのがらんとした印象を受ける街だった。

 大量の家屋も立ち並んでいたが大部分はただの飾りで内部に侵入することは出来ない。

 クエスト用の数軒と、武器防具宿屋といったプレイヤー向けの施設が解放されているだけだった。


 だというのに、大通りに差し掛かったセシリアが見たものは幅20メートルはあろうかという道幅に溢れかえった人の山だった。

 通路の脇には果物や野菜、その加工品を売っている店が軒を連ね、通行人に向けてひっきりなしに声をかけている。

 誰もがごく自然に、時には子どもや若者同士で会話しながら歩いているからか随分と騒がしい。

 注意深く見れば髪の1本1本、表情1つ1つまでが洗礼されていて、どれもグラフィックで表現できる範疇を逸脱している。

 半ば予測していたとはいえ、これにはセシリアも驚きを隠さずにはいられなかった。

 ゲーム内ではこの半分の道幅もなかったはずだし、こんな大量のNPCも歩いていなかった。

 領主の屋敷も中央通りからはっきりくっきり見渡せたと言うのに、今はどれだけ距離があるのやら、遥か遠くに霞んで見える。

 明らかに街が大きく開発され、まるで現実の大都市の様相を呈していた。

「あぁもう、いよいよ何でもアリになってきた」

 うんざりしながらも、これだけ人で溢れかえっているのはセシリアにとって悪い事ばかりではない。

 人ごみをかき分け混雑の中に溶け込めば追手は簡単に小柄なセシリアの姿を見失うだろう。

 速度を落とさず、大量の人ごみの中に突撃する。荒い息を吐きながら駆け抜けるセシリアを、通行人は物珍しげに見つめていた。


 大きくなった街にも所々見覚えのある看板や景観が残っていた。それを頼りに個室を確保できる宿屋に向かおうとして唐突に足を止める。

 表情は苦々しく歪められていた。

「宿屋はダメだ……」

 この状況からいつ解放されるかは分からないけど、今日明日で収束する可能性は低いだろう。そうなれば必然的に追手のプレイヤーも宿屋を使う筈だ。

 となれば自然とゲーム内にもあった宿屋へ足を運ぶのではないだろうか。

 同じ宿屋に泊っていたのでは遭遇する確率は格段に跳ね上がり逃げた意味もなくなる。

(どうする……)

 迷っている暇はなかった。


 一度呼吸を整えてから近くの軒先で野菜らしき品物を売っている店主に近づくと布教用の人当たりのいい笑顔を浮かべ話しかける。

「お忙しい所すみません。この辺りであまり目立たない宿屋はありませんか?」

 店主は客でないセシリアの声に嫌そうな表情を隠そうともしなかったが、顔を見るなり目を丸くして硬直した。

 待てども返事が来ない事に、セシリアはまさか言語体系が違うのかと焦りを感じ始めた頃、ようやく正気に戻った店主は突然薄気味悪い笑みを浮かべて殊更丁寧な口調で言う。

「ち、小さい宿屋ならそこの裏路地に入って3つ目を曲がった先にありますぜ」

 これだけ大きな街に広がっているのだ。ゲームのように宿屋が1つだけのはずがないというセシリアの読みは当っていた。


 短く礼を告げてから是非ともまたお立ち寄りくださいと頭を下げる店主に背を向け、言われたとおり裏路地に入れば小さな看板が掛けられた宿屋が見つかる。

 良かった、ここなら早々発見される事はないと納得できる物件だったが、同時にまた苦々しい表情を作る。

 着ていた服のポケットを漁ってみてもお金がない。まさか一文無しの少女を泊めようとは思わないだろう。働かせてくださいと無理に懇願すべきか。いや、安易に実行するには自分の姿に問題がありすぎる。

「ああもうっ! インベントリにはあったはずなのにっ」

 ゲームではキャラクターの持つアイテム一覧の最下部に所持金が表示されていた。

 完全に電子上のやり取りで貨幣として存在していたわけではないから普段あまり意識しないものの、そこそこの額が詰まっていたはずなのだ。

「あれさえあれば……」

 そう強く願った瞬間、不意に手の平の上にずっしりとした重量を持つ布袋が出現した。ご丁寧に¥マークが刺繍してある。

 恐る恐る覗き込むと中には山ほどの金貨がどっさりと詰まっていた。

 まさか、と思ったセシリアが今度は愛用している主武装の杖をイメージする。すると布袋と同じように何処からともなく杖が現れた。

「インベントリのアクセスが出来る……」

 ゲーム時代でもシステムメニューを介さず、意識だけでインベントリ内のアイテムを具現化できた。もしかすると同じ原理なのかもしれない。

 ここまでで数少ない嬉しい情報に笑顔をのぞかせ、なら逆はどうかと杖をしまう事を願えばかさばっていた杖は跡形もなく消える。

「あとはダメもとでこれを使ってみるしかない、か」

 この世界の通貨がどうなっているのかなんて知るはずもない。唯一知っているのは単位にCと書いてコルトと言う事くらいである。



「いらっしゃい」

 ドアを潜ると内装は木材を使っているようだった。

 木製のフローリング、木目の麗しい壁、並べられているテーブルは巨大な木から削りだした一品なのだろう。

 カウンターに座る大柄な老人は入ってきたセシリアに見向きもせず、手元の書物をよみふけっていた。

 杜撰な挨拶はとても接客業とは思えないが、セシリアは特に気に留めない。

 宿屋は小さなもので、客室がそう多くない事は容易に見て取れた。これもセシリアにとっては願ったり叶ったりだ。


 木製のカウンターに向かうと、どこか怯えた小動物の様な体裁で金貨を1枚取り出す。

「ここに泊まりたいのですが、支払いはこれで大丈夫ですか?」

 店主がようやく書物から目線を上げ、小柄なセシリアを上から下まで何度もしげしげと眺める。それから手に持っていた金貨に視線が移り、明らかな動揺を示した。

 何度も彼女と金貨を見比べた後、思い詰めたような息をつく。

「そいつは無理だ。その様子だと嬢ちゃんはどこかの大貴族様だろ? 自分で買い物をしたことがないなら知らないかもしれないが、これは何処だって使えないよ」

 店主はセシリアの身なりと態度を見て世間知らずな貴族の娘が家出でもしたのだろうと当たりをつけていた。


「どうして使えないんでしょう」

 不安そうに身を竦める様を見て、店主が僅かにたじろぐ。

 彼の人当たりが良くないのは来店時の挨拶からもうかがえる。セシリアのことも面倒だと思っていたのだが、純粋無垢な様子に生来の毒気も抜かれたらしい。

「お嬢ちゃんはそれが使われるのを何度も見たんだろうさ。でもそれは大商人や大貴族、国が大きな取引の時だけに使う特殊な硬貨なんだよ。この辺の寂れた店で使われても、とてもじゃないが釣りを払えない」

 店主の言葉にセシリアはまじまじとコインを見つめ、なるほど、と小さく頷く。

「あの、出来れば硬貨の種類と価値を教えて欲しいんです」

 どこか弱々しいセシリアに店主は『いいえ』とは言えなかった。

 今は客も居ない事だし、仕方ねぇなとばかりにカウンターから凄まじい種類のコインを引っ張り出し並べてみせる。


 この国に流通している貨幣は枚挙に暇がない。同じ国内であっても東の端と西の端では全く異なる貨幣が流通していたりする。

 街並みからわかる通り、現代に比べて技術水準が低いので工業化には至っておらず、量産体制に問題があるのだ。

 物流網も街道を馬車が行き交う程度。国が一括して貨幣を製造・流通させるには最低でも鉱山と各地域を結ぶ大量輸送手段、鉄道網の整備が不可欠になる。

 それがない時代では原材料となる鉱脈を持つ領地が貨幣を製造し流通させるのが一般的で、この世界もその例に違わない。

 銅の名産地は銅貨を、銀の名産地は銀貨をといった具合である。

 加えて銅や銀の名産地は当然ながら一か所ではなく、同じ銅の名産地といえど同じ規格の貨幣を作るわけでもない。


 貨幣の発行というのは大きな利権なのだ。かつて日本の大名達が次から次へと規格の異なる小判を作ったように、自分の考えた貨幣を流通させたいと思うのは当然である。

 よって銅貨にもミリー銅貨やアルゼン銅貨など発行した地域の名が付けられ種類は際限なく増えていく。中には質の良い銅貨を模倣して作った偽ミリー銅貨なんてものまであるくらいだ。

 日本なら贋金は重犯罪なのだけれど、この世界には著作権なんて制度もないので普通に罷り通っているのである。

 特にリュミエールは経済都市と言われているくらい経済活動が盛んなので色々な地域の貨幣が舞い込んできやすい。

 お客さんの差し出した貨幣の価値が分からず追い返してしまうのは利益の機会損失に繋がる。

 商売人達はそうした事態にならないよう、様々な地域の貨幣と価値を詳細に把握しているのだという。


「どうして銅貨だけで6種類もあるんですか……しかも全部価値が違うって……」

 店主からレクチャーを受けていたセシリアは早くも限界を感ずにはいられなかった。

 ミリー銅貨、アルゼン銅貨、シアル銅貨、カイゼル銅貨、エリー銅貨、ミスナ銅貨。

 名前と形を覚えるだけでも億劫だというのに、出来栄えや材質によって価値も大きく変動する。

 この中ではミリー銅貨が一番質が良いらしく、一番質の悪いエリー銅貨と比べると実に3倍もの価格差が生じていた。

 当然、貨幣は銅貨だけではない。銀貨は5種類、金貨も2種類。しかも日々相場が変動するおまけつきである。


「商売するんじゃなきゃ全部覚える必要なんてないさ。この辺りで使われている貨幣だけ覚えておけばいい。これと、これと、それからこれだな。3つくらいなら覚えられるだろ?」

 げんなりするセシリアを店主はがははと豪快に笑い飛ばす。どうやらちょっとした悪戯のつもりだったらしい。意外と茶目っ気もあるようだ。

「んで、お嬢ちゃんの持ってる貨幣なんだが、ちぃっとばかし特別なんだよ」

 コルト金貨は王家だけが製造できる唯一無二にして特別な硬貨である。

 領地から税金を納めるのに膨大な数の貨幣を運ぶのは手間だし、流通していない貨幣を受け取ったところで使い道がない。

 証書を作っても換金するまでに破産したり、現金が手元になくて引き出せないといった事態が起こり得る。

 そこで王家は一枚が途方もない価値を持つコルト金貨を流通させることでこれらの問題を対処するとともに、王家の威光を知らしめることにしたのだった。

 これなら税金を納めるのも簡単だし、貨幣の価値を王家が保証してくれるので証書以上に換金性が高い。

 失くしたり盗まれたりといったデメリットもあるのだけれど、それは証書にしても同じなので要は使い分ければいい話だ。


 一般人が慎ましやかに生活する分には銅貨さえあれば事足りる。住居や家具、家畜といった少し大きな買い物をするときにも銀貨を使うくらいだ。

 それを聞いたセシリアは、思いつく限りの日用品の値段、食料、特にパンや野菜の値段を聞いて自分の中の価値観に落とし込む。

 店主は不思議そうにしていたが世間知らずのお嬢様の知りたがりだろうと思い、余すことなく答えてくれた。

 パン1斤が銅貨12枚、日本だと大体150円くらいだから1銅貨10円ちょっと。

 リンゴ1kgが銅貨16枚で、日本だと500円くらいするから1銅貨20円後半。

 こんな風に幾つもの品物の価値を換算して平均値を求めていく。


 ここがゲームと世界観を同じにしているのであれば科学的な技術は殆ど発展していないはず。

 それを裏付けるかのように、日本なら100円で買える工業品の数々が軒並み信じられないくらい高額で売られている。

 恐らく、職人が一点一点を手作業で作っているのだろう。その分だけ人件費や材料費が嵩んでいるのだ。

 逆に主食となる小麦や野菜の値段はそれ程でもない。もしかしたらこの街の近くに農園があって専属契約を結んでいるのだろうか。

 ただし甘い果物だけは例外で、どれも現代の数倍から時に数十倍の値段がついていた。

 大体20品目を試したところで試算が完了し、セシリアは顔を青く染める。

 コルト金貨1枚は現代価値に換算して1千万円に届こうかと言う超高額貨幣だったのだ。

(確かにゲーム内で持ってた所持金はかなりあったけど、だからってこれは……)

「使えない理由が分かったかい?」

 店主の言葉にセシリアは何度も頷く。数千円から数万円の買物をする時に使う貨幣ではない。


 けれど、これが使えないと宿屋には泊まれないのも確か。

 すると店主もセシリアの考えている事が分かったのか、紙にペンを走らせてからぶっきらぼうに差し出す。

 随分と適当な形だったが、☆印が今居る場所であることは何となく分かった。簡易な地図の上には5つほど点が打たれている。

「ここに行けば両替所がある。全部大商会直属だからコルト金貨の両替も受け付けてくれるだろうよ。ただ手数料として1割近く持っていかれるかもしれんぞ」

「ありがとうございますっ」

 セシリアは地図を大切そうに受け取ると花を咲かせたように笑い宿屋を後にした。

「気をつけろよ、あんまり足元見られるようなら騒げばいい。商会にとって信用は代えがたいからな。一方的に不利な条件を突き付けたと知られたくはないだろうさ」

 店主の入れ知恵に一度くるりと回って手を振り返してから猛然と走り出す。もう追手も街についていることだろう。

 長時間動き回るのは得策ではない。できるだけ素早くこの任務を終えなければならなかった。


 教えられた両替所はすぐに見つかった。

 正確には両替所というより金融機関だろうか。個人、商人向けにお金の貸し借り、証書の換金や発行を一手に引き受けている大商会だ。

 今後の生活を考えるに、多少価値を落としてでも全て指定されたアルター銀貨に替えてしまった方が良いと判断して1箇所につき金貨20枚の両替を目標に定める。

 とはいえむざむざ相手の良い値で替えることを良しとした訳ではない。

 両替所に入るなり気を引き締め、自分の立場や状況をどう"設定"すれば最も交渉がしやすいかを検討した。


 セシリアが威圧感を与えられる外見でない事は一目見れば分かる。

 小柄な身体は10代半ば、とても成人しているとも思えず、最悪大量の金貨を持っていることで、この世界に治安機構があるのか分からないが、あるなら通報されてもおかしくない。

 宿屋の店主は騒げばいいとアドバイスしてくれたが、騒動を起こしてプレイヤーに目をつけられたのでは元も子もない。

 よって交渉には慎重に慎重を期す必要があるのだ。その上でどうにか自分の容姿や立場を利用できないか。

 まずは大量の金貨を持っていても怪しまれない立場の設定から入る。

 王族、大商人、大貴族。この内王族はリスクが高い。なにせセシリアはこの国の仕組み自体を知らないのだ。

 となると大商人か大貴族。

 セシリアは普段から外観を意識した服を着ていたこともあり、とても商人には見えない。

 宿屋の店主が勘違いした事からも大貴族を選択するのが一番だろうと結論付ける。


「少しよろしくて?」

 貴族らしさが何かはセシリアにも分からなかったが、身分制度から考えて偉ぶっているに違いないとひとまず上から目線で応対する。

 受付はムッとすることもなく愛想笑いを浮かべていた事からも間違いではなかったのだろう。

「本日はどのような御用件でしょう」

「両替を頼みたいの」

 交渉の基本はいかにして相手の余裕を切り崩すかにある。冷静さを欠かせる事で隙を作らねば付け入ることなど出来ない。

 そこで、この手の交渉に関して古来より頻繁に使われている手法を取ることにした。

「如何ほど替えましょうか」

「金貨20枚をアルター銀貨にお願いするわ。あまり時間がないから急ぎで支度してくださる?」


 一つは強烈なインパクトを与える事。

 もう一つは時間的猶予を与えない事。


 現代換算で2億円の大金が持ち込まれたとなれば受付が応対できる限度を越えている。

 積み重ねられた20枚の金貨を見て、相対していた彼は顔を青くすると店の奥へとすっ飛んで行った。

 暫くの間をおいて先ほどの受付とは身なりからして違う男が現れる。

 それもそのはずで、彼はこの店のオーナーを勤め上げているのだと語った。


「コルト金貨の交換と伺いましたが」

 場慣れしているのか、並べられた金貨を見ても特に動揺している様子はない。

 両替所という立場を考えるに、大口取引をした商人や貴族から両替を依頼される事もあるのだろう。

 先ほどの受付と同じ手法ではダメか、と思いつつ条件を手早く告げると金貨の一つ一つを持ち上げて何かの魔法を使う。

 一瞬驚いたものの、セシリアは動揺を表に出すことなく飲み込んだ。ここで動揺を示せば金貨の取引に不慣れという印象を与えてしまう。

 いかにも、「あぁ、いつものですね」といった雰囲気を崩さず余裕を見せつける事がなによりも重要なのだ。

 彼が使ったのは鑑定用の魔法だった。

 セシリアは知らなかったが、コルト金貨には製造時に王家御用達の特殊な魔法がかけられ鑑定用の魔法に反応を示す作りになっている。

 このような仕組みでもなければ王家と言えど超高額貨幣の鋳造には踏み切らなかったはずだ。偽造されようものならとてつもない被害額になってしまう。

 全てが例外なく本物である事を確かめると、彼はセシリアとコルト金貨を見比べてどうした物かと腕を組んで気難し気な声を出した。


 まずは取引に長けた商人に熟考されたのでは勝ち目はないだろうと判断したセシリアが仕掛ける。

「1対93で構わないわ」

 現在のレートはコルト金貨1枚につきアルター銀貨101枚。相場から考えると両替所の方が圧倒的に有利である。

 それが20枚分ともなれば金貨1枚以上の利益になるのだが、そんなレートを提示するのは何か裏があるからに決まっている。

 しかし、目の前の金貨の輝きは簡単に切って捨てるには勿体ない金額だった。

 ゆっくり時間をかけての交渉ならば彼らの得意とするところだろう。

 何か漏れがないか、不利ではないか、粗がないか、細かい部分にも気を配り自分にとって最高の取引に仕上げる。

 でもそれは取引の微妙な塩梅を調整する行為であり、明らかに有利な条件を相手から提示され決断を求められるのに慣れているとは言い難い。


 オーナーの頭の中では儲けやリスクがぐるぐると回るばかりで決断に至らなかった。

 迷っている。そう鋭敏に感じ取ったセシリアが最後の一押しに出ることにした。

「無理ならいいわ。お邪魔したわね」

 まだ1軒目なのだ。勝手を掴む練習にもなったし取引の成否は重要ではない。

 だからここで急かす事で「そうですか、ではまたの御利用を」と言われても構わなかった。


 特に感慨深げもなく金貨を回収して立ち上がるセシリアを前に、オーナーは内心焦っていた。

 どう考えても目の前の少女と金貨の山は不釣合いだが信じられない低レートでいいと言っている。

 このまま受けない選択は確かに保身的であろう。しかし、自分が受けなければ他の両替所に行くに決まっている。

 一瞬で金貨1枚半近い利益。他の両替所がこの甘い蜜を拒めるのだろうか。いや、拒まないはずだ。諸手を挙げて喜ぶかもしれない。


 リュミエールの領主は『街の発展に必要なのは経済活動である』という理念に従い、他の領地では考えられないほどの優遇措置を与えている。

 商人からすればこの街ほど商売がしやすい場所はない。

 今では大陸の奥から、海の向こうから、国を超えた先から、様々な大商会が拠点を構え日々競い合っている激戦区だ。

 ここで両替を拒めば他の商会にむざむざ利益を与えてしまうのではないか。それはつまり、敵に塩を贈る行為なのでは?


「……お待ちください」

 気付けばオーナーは立ち去ろうとするセシリアを呼び止めてしまっていた。

 内心で『はいはい入れ食い入れ食い』とほくそ笑みながら、しかし表情には微塵も出さず『何?』とばかりに振り向いてみせる。

「……承りましょう」

 苦渋に満ちたオーナーの声にセシリアは今度こそ満面の笑みを浮かべながら彼の前に向き直った。

 背を引っ張って耳を近づけるなりこっそりと囁く。

「正直な方ですね。貴方の百面相は中々見物でした。ですから、ほんの少し耳寄りな情報を差し上げましょう」

 自分から言い出したというのに、このまま低レートで取引に応じるつもりなど彼女にはないのだ。

「実は最近贔屓にしていた両替師といざこざがありまして。新しい両替師を探しているのです。選抜方法は私の様な子どもが金貨20枚を交換した時に何枚になるか。それを踏まえて、どんなレートで交換してくれますか?」


 オーナーの渋面が更に酷いものに変わる。

 セシリアの言い分を鵜呑みにするわけには行かないが、実際に20枚もの本物の金貨を持っていることから、可能性がゼロだとは言い切れない。

 それどころか、こんな子どもが20枚の金貨を持っている理由として考えられない事もないとさえ思っていた。

 平常時の彼であればこんな都合の良すぎる考えには至るまい。

 しかし裏がありそうな取引を受けてしまい、自分は悪くない、この取引は適正なのだと考えるあまり、取引が正当である理由ばかりを探してしまっていた。

 もしセシリアの言っている事が真実だとすれば大口の顧客を獲得できるチャンスといえよう。

 ならば利益も出ないが損失も出ない程度の最高レートで応じるのが最善手である。いや、多少の損を出しても良いくらいだ。


 だがもし嘘を言っているとすればみすみす大儲けの機会を逃すことになる。

 ならば低めのレートを提示するか。

 いや、そんな事をして、もしセシリアの言っている事が真実だったら"子どもだからと言って低いレートで取引に応じる両替所"という致命的な噂が上流階級に流れてしまう可能性がある。

 この激戦区でそんな噂は御法度だ。最悪経営が傾いてしまう。ライバル店はいつだって相手を食い破らんと身構えているのだ。

 オーナーにとって笑いかけてくるセシリアは悪魔にも天使にも見えた。

「時間はお金より価値がある、そうは思いませんか?」

 無邪気に決断を迫る姿は、悪魔でもあり天使だったのかもしれない。

 彼が損にも得にもならない、一般的に見てやや有利なレートを提示したのは当然の帰結だろう。




 宿屋の店主に教えてもらった5件の両替所全てで同じ演技をすると彼女が持っていたコルト金貨は綺麗さっぱりなくなった。

 セシリアはネカマプレイの最中に人から貢物を貰う事も多かったが、その用途は須らく換金である。

 適度にお返しとして振舞っていたとはいえ収支は常にプラスだった。

 例のカミングアウトの前に持っていたお金をとある事情から派手に使ってしまっていたが、それでも手持ちは相当な物だ。

 後々換算してみると持っていた金貨は全部で102枚。ゲーム中で持っていた金額が102Mだった事から、1Mが1金貨なのだろう。

 それなら1M以下の端数も金貨袋に入っていればいいのにと思ったが不思議と銀貨や銅貨は1枚も入っていないのだ。

 ちなみにMはメガ、百万の単位で、その下位にはKと書いてキロと呼ばれる千の単位がある。


 両替した銀貨の枚数は数えるのも億劫な量だったがインベントリにしまえば重さも量も関係ないのは便利極まる。

 慣れてしまえば銀貨一枚だけをポケットの中から取り出すこともできた。

 用を終えたセシリアは人ごみに紛れ、建物の陰を使い再び宿屋に戻る。

「両替は出来たのか?」

「はい。ありがとうございました。みんな親切な方ばかりでしたよ?」

 ふふりと自然な笑みを浮かべてひとまず1週間の宿を取ると部屋へ案内される。

 古めかしい鍵を開けて部屋に入るなり大きな溜息を漏らしたかと思えばその場に崩れ落ちた。

 もうここには誰もいない。演技をする必要もないと思った瞬間、ずっと堪え続けてきた絶望感に押しつぶされてしまったのだった。

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