破滅からのプロローグ
本来ならば糾弾されるべき立場にあるのも、困窮極まるのもセシリアでなければいけないはずなのに、状況はまるで正反対。
今さら何をしても過去は変えられない。彼らがセシリアに愛を囁き、恥ずかしい言動を伴ったことはなったことにできない。
かといって、最初から最後までこの状況を望んでいたセシリアの考えを改めさせる術があるとも思えない。
まんまと誘い込まれた直結厨達にとって状況は完全なる八方塞がりだった。
身に覚えがありすぎるのだ。逃げたところで彼女に何もかもをぶちまけられてしまえば笑いものにされる。
過去を消すにはキャラクターの再作成しかないが躊躇なく実行できるほど軽い選択肢ではない。
長い人ではサービス開始当初の2年間。大部分は一年以上。短い人でも半年という歳月を無に帰すのは彼らにとっても痛手だ。
さりとて、後ろ指をさされながら続けたとしてもこれまでのように純粋に楽しめるかどうか。
有名になればなるだけ『ネカマに小っ恥ずかしい愛を囁いた馬鹿』という汚名が付き纏うのだ。
ある者は絶望に打ちひしがれ膝を折り、ある者は懺悔の言葉を口にして慈悲を乞い、ある者は錯乱したかのように暴れまわる。
「ふっざけんなぁぁぁぁぁっぁああああ!」
悠然と構えるセシリアに飛び掛かったのは最後の選択をした愚かなプレイヤーだった。
セシリアにはどれも等しく許すつもりなどないが、殴り掛かればハラスメントとして対処可能になる。運営がレッドカードの判定を下せばゲームそのものから退場させられるのだ。
セシリアにとって最も好ましく、直結厨にとっては最も避けたい結末である。
さぁこいと、指が触れて警告申請が可能になった瞬間に牢獄へ送り込んでやると意気込んだ。
その上で彼の過去を告発し、蔑み、嘲笑い、この世界から居場所を奪い尽くしてやろう。
ところが彼の拳が届く刹那、世界にノイズが走った。
人が多すぎてラグでも発生したのかと周囲を見渡したところで視界がブラックアウトする。
「サーバーエラー? ちょっと人を集めすぎたかなぁ……」
特定地域に人が集まりすぎるとサーバーへの高負荷が続きゲームに支障をきたすのはままあることだ。
折角いいところなのに、とセシリアは思いつつフルフェイス型のヘルメット端末に手をかける。
けれどあるはずのそれに触れる事はなく、滑らかな髪を撫でるだけだった。
(あれ……)
おかしいな、と思った瞬間、ブラックアウトした視界が元に戻る。
ただの処理落ちかと苦笑しつつ、振り抜かれた拳に合わせる形でハラスメントコードを実行しようとした。
「今までのは全部演技かよ! 俺が一体どんな気持ちで! どんな気持ちで……」
荒ぶる感情のままに怒鳴られた瞬間、身体を芯から揺さぶるような衝撃が襲い掛かってきた。
ごろごろと2、3度転がってからようやく身体が止まる。
打ち付けられた肩や臀部の中心にじわりと痛みが広がって思わず顔を顰めるが、相手は押し倒されたセシリア以上に強く動揺していたようで、怒りの言葉も尻すぼみに消えていく。
突き飛ばす為に伸ばした両手をまじまじと見つめて何度も開閉を繰り返しては戦慄いているみたいだった。
その瞬間、セシリアも自分が何をされたのかを遅まきながら理解し、直後に顔から色が失せた。
地面に触れた手が冷たい土の感触どころか、砂の粒さえ知覚させる。
まじまじと目の前に持ってきた手の平には転がった時に沢山の土と思われる極小の粒が張り付き、ぱらぱらと零れ落ちる。
風が吹いて、周辺にいる全てのアバターの髪が1本1本に至るまで精緻に舞った。
(ちょっと、待て)
ともすれば仕事を放棄しそうになる脳味噌を必死になって働かせる。
いっそ何も考えずに呆けられたらどれほど楽な事かと何度も思った。でもそれは許されない。
気付けば思い思いの言葉を叫んでいた大勢のプレイヤーはシンと静まり返って心細げに周囲を見渡していた。
「なぁ、これ、なんかおかしくね」
神様がいるとしたら何て事をしてくれたんだと声高々に叫び、罵り、貶めたいとセシリアは思った。
ぶん殴って自分が何をしたのか理解させてやりたい。謝罪を並べられたところで許せるものか。
かつてネカマと罵られた腹いせにささやかな復讐を企てたのがそんなに悪い事だとでも言うつもりか。
「まるで本物みたいじゃね?」
セシリアは誰かの声に、まるでじゃなく現実そのものなのだと心の中で悪態を吐く。
このゲームの感覚インターフェイス機能にはフリーランサーとして仕事を請けたセシリアも関わっている。
だから誰よりもこのゲームが、フルダイブシステムで再現可能な感覚の限界を熟知していた。
風や土、水などの微粒子からなる現象の再現は何らかのブレイクスルーを迎えなければ実現できない難解な問題として立ちはだかっている。
処理する情報量が多すぎるのだ。量子コンピュータでも開発されない限りスペックが追い付かない。
故に、アバターは決して汚れない。
汗もかかないし、飛び散った敵の体液が触れてもすぐに消滅する。
まして地面に手をついて砂粒が付着するなんて起こりえないのだ。
なにせ地面のテクスチャはユーザーからチョコレートとか羊羹なんて呼称されるレベルのクオリティだったのだから。
少なくともここがゲームとは一線を画す何かだと理解した瞬間、セシリアは自分の置かれている状況が予断を許さないものだと察した。
なにせここはネカマをばらし盛大に煽っていた会場の只中なのだ。
周囲の人間は例外なく自分を恨み、尋常ではない怒りを抱いている。先ほどあらん限りの力で突き飛ばしてきた彼のように。
急ぎここから逃げなければならない。
まだ周りは状況を完全に飲み込めず思考停止に陥っている。逃げ切るチャンスがあるとすれば今しかない。
セシリアはなるべく周りを刺激しないようにゆっくりと立ち上がると人垣から離れ、ややの間を開けてから全力で駆け出した。
だが、五十メートルほどの距離を稼いだところで幾人かが逃げ出したセシリアを指さして叫ぶ。
「捕まえろ!」
彼らは何かをしていなければ自分を保てなかったのかもしれない。
その方法として咄嗟に思いついたのが逃げ出したセシリアを追うことだったのだろう。
誰かの叫び声は連鎖するように集団へと広がり、一人の少女を追い立て始めた。
セシリアは作られた人格で、中身にクソ度胸が備わっているはずもない。
復讐にしても入念に準備をして、幾つものセーフティを用意して、常に安全圏に留まっていた。
ゲームの中で何を言おうと、相手がどんなに怒り狂おうと、リアルの自分には一切関係ないと断じてきた。
だから安心して復讐にのめりこむ事が出来たのだ。
(なんでこのタイミングなんだ)
幾ら毒づいても答えは降ってこない。
(よりにもよってどうしてこの姿なんだ)
後悔しても何の意味もなさない。
周りにいるアバターは、そのどれもがかつてのセシリア以上のリアリティーを持って存在していた。
中の人の面影なんてどこにもない。そしてそれは、セシリアも同じだ。元の彼であった頃の面影など何処にも見当たらない。
細部に至るまで、彼自身が復讐の為に魂を篭めて作り上げたアバターその物だった。
セシリアも一体何が起こっているのかを正確に把握したわけではない。
人知を超えた何か、もう異世界転生でも転移でも夢の世界でもなんでもいい。
ここが何処か、どうしてこんな事になったのかを知ったとして、今の状況が変わるわけではないからだ。
自分の身に降りかかった災厄は大きく分けて三つ。
一つ、セシリアはここにいる多数の人間に恨まれている事。
一つ、セシリアのアバターは直結を釣る為にあらゆる手管を使い魂をかけて可愛らしく作った事。
一つ、セシリアがそうであったように、ゲームの中ではどんな人格にもなれるし、現実の法の適用外なのだからどんな事だってしようと思えばできる事。
特に3つめは今現在の姿がアバターであることも手伝って、これはゲームだと言う先入観を与えているはずだ。
セシリアの脳裏から離れないのは第三者に突き飛ばされ転び、痛みを感じた事。
ゲームであればシステム上の警告と共に相手が弾き飛ばされるはずなのに、ここではどういう訳か相手の肉体に危害を加える事が出来る。
どの程度の危害まで許されているのかはセシリアにも分からなかったけれど、捕まった末路を想像するのは酷く憂鬱だった。
連鎖的に、ログイン後に詰め寄ってきた直結厨の一言が思い起こされる。
―ふざけんな、犯すぞ!―
彼は今でも同じことを考えているだろうか。
どちらにせよ、今のセシリアには笑顔で挑発する余裕なんて残されていない。
恨まれる事をした自覚はあるし、元々それが目的だったのだ。
彼らがまだこの世界をゲームの中だと考えているのであれば、捕まった後はどうなる?
恨みの捌け口として殴る蹴るの暴行を受けるか、持ち前の武器や魔法で嬲(なぶ)られるか、先の直結厨が言ったように壊れるまで……。
最後の可能性が頭をよぎり、セシリアの背筋を怖気が走り抜ける。
殺人への忌避感は日本人なら誰もが持ち得ることを考えると、可能性の中で最も確率が高いのは最後に考えるのを止めた結末なのだ。
「最悪……」
逃げる以外に選択肢はなかった。
ゲームとこの世界の違和感は探さなくとも簡単に見つかるくらいありふれていた。
アバターが本物の人間並みのリアリティーを持つこと。
走った時に吹き抜ける風が今のVR技術では実現不可能の領域に達している事。
スタミナという概念が存在しないゲームでは全力疾走しても疲れを感じなかったはずなのに、今は足がもつれそうになり、肺が破裂しそうなほどの疲労感を抱えている事。
心臓の鼓動が発する息苦しさや痛みはフルダイブシステムに組み込まれている痛覚の限界を超えている事。
本来表示されていなければならないシステムウィンドウが全て見えなくなっている事。
HPやMP、チャットウィンドウやスキルリストはともかく、マップデータが見えないのは痛手だ。
幻想桜の位置から街の方向は特定できているはずで、赤煉瓦の景色や切り出した石の路地から街に近づいている事も分かるのに、どこか見覚えがない。
ログアウトボタンがないかも探したが、メニュー画面すら見つからないのではお話にならなかった。
セシリアは小さな舌打ちと共にどうしてシステムウィンドウがないのか考えるのを止める。
今はそんな事より一刻も早く街の中に逃げ込むべきだと判断したからだ。
移動速度はステータス上のAgiによって増加するが、セシリアは完全支援職でAgiは初期値のままだった。
追手にはAgiを振っているプレイヤーも多く、両者の差は刻一刻と縮まっている。
今更Agiを上げなかったことを悔いても意味がない。何か現実的な打開策がないかと懸命に頭を働かせると不意に一つの可能性が思い浮かぶ。
(ここがどこであれ、この姿なのだとしたら、覚えている支援魔法が使えたり……)
物は試しとばかりにセシリアが詰まる肺に鞭打ってスキル名を口にする。
「【ヘイスティ】」
セシリアが咄嗟に思い付いたのは支援職にとって基本でもあるAgiを増加させるスキルだった。
スキルを唱え終わった瞬間、身体の中から僅かばかりの何かが抜け落ちる奇妙な脱力感に襲われる。
次の瞬間、ゲームで何度も見てきた淡い薄緑の燐光が身体を包み、泥の中を進むようだった足がにわかに速度を増した。
支援魔法は効果がある。これなら逃げ切れるかもしれないと、セシリアの中に僅かな希望の灯がともった。
同時に、大きな絶望も。
この状況でセシリアだけがスキルを扱えるというご都合主義を期待するわけにはいかなかった。
となれば、追手だって同じようにスキルを使える。前衛系の近距離スキルならともかく、後衛火力の範囲魔法は不味い。
ゲーム内では1撃くらい難なく耐えるHPを有していたが、今となっては自分のHPが表示されておらず、どのくらいの攻撃を耐えられるのか分からない。
【ヘイスティ】の効果によって差が縮むことはなくなったが離れもしなかった。ほぼ完全な均衡である。
このままでは最悪の可能性を招きかねないと覚悟を決め、一度立ち止まってからくるりと反転、長い髪が宙を舞い顔にかかるのも気にせず、一つのスキル名を叫ぶ。
「【サイレンス】」
この魔法にエフェクトが用意されていないのはゲームと同じだった。
だが追いかけてきた集団の罵声と怒声がすっと静まることでスキルの成功を確信する。
沈黙の名を冠する通り、敵に対し一定時間スキルが使用できなくなる状態異常を付与する効果を持つ。
魔法職には成功率が下がってしまうのだが、直結厨は古来より前衛気質なきらいがある。最前列でセシリアを追ってくるのも例に違わず前衛職ばかりだった。
おまけに取り巻きである廃人によってレベリングの恩恵を度々受けていたセシリアは、プレイを初めて一年と短いながらも第一ロットで始めたプレイヤーに並ぶほどレベルが高い。
レベル差の補正も加わって効果は覿面だったようだ。
それからもうひとつ、状態異常を回復される前に次の魔法を続けて放つ。
遠距離から足止めスキルを使われなくなったとしても、両者の距離が一向に変わらないのではとても逃げきれない。
「【デクリースヘイスティ】」
先ほど使ったAgiを増加させるバフスキルを取得することで派生する、全く逆効果のデバフ魔法。通称、鈍化。
ウォーロックの使うパーマメントフロストと比べてAgiの低減量は格段に低いが、移動速度を直接下げる効果があるので敵をトレインするのに便利な魔法だ。
色の濃い緑色の燐光が遠くに居た一団を包み込んで追い上げの速度を大きく減少させる。
みるみる間に差が広がっていくのを時々振り返りながら確認しつつ、どうにか街の内部へと到達したのだった。
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