脱出
「なんで、どうしてこんな事に……」
木造の建築物の片隅で壁を背に膝を抱えながらセシリアはただひたすらに怯えていた。
瞳は絶望や恐怖といった物々しい感情に彩られ、少しも室内を映していない。
そこへ背を預けている壁越しに振動と音が近づいてきた。途端に目を強く閉じ、ただでさえ小さな体躯をより一層縮こまらせる。
潤んでいた瞳から透明な雫が零れ落ちて数多くのフリルに飾られた可愛らしい豪奢なドレスに小さな染みが広がった。良く目を凝らせば染みの跡は一つや二つではない。
音は壁越しのセシリアを通り越して奥へ進み、ややの間をあけて木の軋む音と何かが閉じられる音が響いてくる。
静寂が戻り瞳が再び開かれた。張り詰めていた息が喉から漏れるものの、瞳に浮かぶ感情はより色を濃くするばかりだ。
窓にはカーテンがかけられているが、薄手の白い生地では降り注ぐ陽光を遮断するには心許なく、明かりのない室内をささやかではあるものの柔らかく照らしている。
窓を開ければ籠った室内とは比べるまでもない爽やかな風が流れ込むだろうに、今はしっかりと鍵が降ろされ外界との接触を断絶していた。
他に外界と面しているのは背もたれに成り果てたドアだけだ。
室内の空気は重苦しい事この上ないが気に掛ける様子はない。
反対側の角には小柄すぎるセシリアには少々不釣り合いないささか大き目の木製のベッドが鎮座し、清潔な白いシーツが皺ひとつなく広げられていた。
苦労して宿泊できた、裏路地でひっそりと経営されている小さな宿屋の一室。
手狭でこじんまりとした印象を受けるものの室内に目立った不具合は見つからず、掃除も行き届いており悪い部屋ではない。
しかし、どうしても拭う事のできない違和感が室内のそこかしこからひしひしと感じられた。
壁や天井、床板は古めかしい材木で組まれており、経年によって細かな傷が散見できるのは趣があると言えるのだが、ベッドや窓枠、脇に置かれた小さな机に至るまで、何もかもが材木のみで作られているのは珍しいを通り越して異質と言える。
がらんとした室内にはクローゼットや箪笥、金庫などの収納は一切配置されていない。
本当にただ四角いだけの部屋にベッドと脇机が置かれただけの簡素な間取りだ。
大凡どんな安宿であってもぶら下がっているであろう電球類が、この部屋には天井、壁を含め1か所も配置されていない。
いや、電球以外にも、宿屋であれば置いてあるであろうスタンドや目覚まし時計、冷蔵庫やテレビといった電気製品と呼ばれる類の道具は何一つとして置かれていなかった。
それどころか、最近はどんな部屋にでも備え付けられている風呂やトイレ、洗面所と言った水回りの設備さえ用意されていない。
「意味わかんない……」
すん、と鼻を啜る。
泣き出したい気持ちを今までずっと堪えていたせいか瞳は潤みっぱなしで、時折雫になっては膝に出来た染みを広げた。
けれど泣き喚くわけにはいかない。声でほかのプレイヤーに気付かれようものなら致命傷になりかねない。
こんな長閑な昼下がりのひと時にこうして息を殺しているのもそれが原因なのだ。
ぎゅっと膝を抱える腕に力を込める。銀に少しの金を足した柔らかく暖かなプラチナブロンドの長い髪が一束流れ落ち、頬をくすぐる。
緊張の糸が解け絶望に押し潰された昨日からずっと、ただひたすらに気配を殺し物音とあれば怯える時間を過ごしてきた。
緊張と恐怖で張りつめた神経は疲労を訴えて止まないというのに、理性がそれを許さない。
(いつまでこうしていればいいの)
答えは出ない。この無間地獄に終わりがある保証などないのだ。
沈んだ思考は今まで幾度となく考えては同じ答えにたどり着くループをただぐるぐると空回りさせている。
(ここが、今までの世界とは違う、異世界だとしても)
本当の自分はこんな小さな背丈ではなかった。
本当の自分はこんな髪色ではなかった。
本当の世界はこんな不便ではなかった。
それどころか本当の自分は少女でさえ、もっと言えば女性ですらなかったのだから。
ただの、どこにでもいるネカマでしかなかったのに。
抱えた膝に伝わる柔らかい感触も、どこか違和感が残る身体の感覚も、何もかもが元の自分からかけ離れている。
だが、彼、いや、今となっては彼女にとって、10人が10人中最も危機感を抱くであろう"見知らぬ世界にいた"という事実は既知であると同時に、優先順位の低い問題に擦り変わっていた。
異世界に来たなんて、もうこの際どうでもいいと思えるほどに。
(なんだって、"こんなタイミング"なんだよ)
すん、と小さく鼻が啜られた。再び壁一枚を隔てた向こう側で人の気配を感じて小さな体躯をぎゅっと縮める。
神様が居るのだとしたら一生恨んでやると心の奥底で強く決意すると瞼がひとりでに落ちてきた。
足音がどこか遠のいて行ったのがおぼろげに感じ取れた。意識が浮遊し、限界に達した神経が眠りを渇望する。
ここがどこなのか、どうすれば元の世界に戻れるのか、セシリアは狭い部屋の中で懸命に検討した。
システム的なアシストはインベントリ機能を除いて何一つ応答しない。
魔法は使えるが、ステータスやHP、MPといった数値的なものも何一つ分からない。
何よりゲーム内では実装されていなかった堪えきれない空腹感や生理現象まで発生した。
身体を触ると生身としか思えない感触が返って来る。痛みは現実と同じ。それどころか自傷行為さえ可能だった。
インベントリにしまってた武器で軽く腕を裂いてみたところ、ゲーム内では暴力的な表現として規制されていた筈の赤い血が実際に流れ、床に染みを作った時のセシリアの表情は形容し難い。
ここが何処なのかを調べるにはこの狭い部屋の中から外に出なければならない。
しかしながら外にはプレイヤーと言う危険因子が大量に闊歩している。
あらゆる行為が規制の対象外である事実を自ら確かめてしまったセシリアにとって、外に出るのは自殺と同義だ。
かといって狭い部屋の中に閉じこもっているだけで何が変わると言うのか。
まどろみから目覚めると、セシリアは少し堅さの残る布団の上にいた。
壁に背をもたれていたはずなのに、と寝入る前の記憶が蘇り、慌てて起き上がろうとするのを誰かの手が制する。
「随分酷い顔だ。このベッドはそんなに寝難かったか?」
宿屋の店主が椅子に座り目を細めながらセシリアを見ていた。
寝惚けていた頭を振って布団を胸に抱きつつ警戒を露にする。
「勝手に入ったのは悪かった。うなされる声が聞こえてきたから声をかけようと思ったんだが、まさかあんな所で丸くなってるなんて思いもしなかった。お嬢ちゃん、やっぱり訳ありだったんだな」
セシリアが何も答えず警戒を解かないのも見て、店主は降参とばかりに手を上げると机の上に置かれていた1枚の紙を取ってセシリアに渡す。
「手配書だ。どう見たってお嬢ちゃんだろう?」
描かれているのは1枚の精巧な絵、それも人物画だった。
特徴をよく捉えていて、絵の下には簡単なプロフィールと思われるものまで付け足されている。
どれもこれもがセシリアの特徴をピタリと捉えて離さない。
「手配書って……」
まさか金貨の交換が何かしらの問題を起こしたか、と不安になったが、店主はゆるゆると首を振った。
「犯罪者ならとっくに衛兵へ突き出しとる。それは探し人の手配書だ。かけられている賞金はコルト金貨100枚。大国の姫の捜索に等しい金額なんだが、お嬢ちゃんは一体何者なんだ?」
しがないネカマプレイヤーです、とは言える筈もない。言っても通じないという方が正しいか。
セシリアが大量の金貨を持っていたように、他のプレイヤーが金貨を持っていたはずだ。
ましてあの場にはセシリアに文句を言おうと大量の廃人が詰め掛けていたのだ。
お金の価値を知った彼らが何をするか。セシリアは惜しくもそこまで考えが至らなかった。
今はまだ正攻法かもしれない。しかし、数百、或いは千の人間のお財布が合わされば役人の買収、裏取引、何でもござれだろう。
翌日には犯罪者として指名手配されていたとしても何らおかしくない。そうなれば必然、宿の亭主は手配した役人にセシリアを引き渡すだろう。
もうこの街に留まっている事なんてできなかった。
「折角のチャンスなんだがお嬢ちゃんを見てるとどうにも気が乗らん。通報する気はないからここに居てもいいが、そう長く隠し通せるとは思えん。金額が金額だけに、な」
コルト金貨100枚。現実換算で約10億円。途方もない金額である。主人が誘惑に負けて通報していたら今頃プレイヤーに取り囲まれていたことだろう。
「先に言っておくが、それは街中に配られてちょっとしたお祭り騒ぎになっているぞ」
まさにリアルウォーリーを探せだ。見つけ出した人には賞金10億円。立場が逆ならセシリアだって喜んで参加する。
セシリアの容姿は妖精と見紛うばかりの完成度と造形美を誇っていて1度見たら忘れられないほどだ。
両替商が印象的だった出会いを忘れるはずもなく、通りすがりにもセシリアの姿を覚えている者も多い。翌日にはこの街の中に居る事も、最悪この宿に泊まっていることまで知れ渡るだろう。
街そのものが敵と化した恐怖はセシリアにしか分からない。
ただそれが例えようのないほどの絶望であることは間違いなかった。
その日の内に街を出る決断をしたのは間違っていまい。時間が経てば経つほど話は広がる。
せめてそうなる前に街から離れなければ本当に逃げ場がなくなってしまう。
この日ほどセシリアが支援職を選んだ事を後悔した日はなかった。
元々ネカマをするに当って直結を釣るのに支援ほど適性のある職はない。
巫女や聖職者といった世俗の穢れの範疇にない存在を何故か彼らは一様に求めるのだ。
自分が目立てるから、守ってあげていると言う立場を実感できるからという優越感を得られるからだろうか。
そういった意味では、確かに支援はか弱い存在なのだ。
もしリースのようなウォーロックを選択していればと思わずには居られない。
囲まれてもいざという時は範囲魔法で薙ぎ倒せるかもしれないのだ。
セシリアの職業である最大主教(アークビショップ)にも攻撃魔法はあるがソロで、囲まれている時に使うには詠唱時間が長すぎる。
その間に攻撃を受けて詠唱中断されるのがオチだ。
残された方策はただ一つ。へイスティを使って全力で逃げることだけ。
出立には真夜中、なるべく人の居ない時間帯と思しき丑三つ時を選んだ。
季節は分からないが空気は湿り気を帯び、視界は白い靄で霞んでいる。この季節はこうして雲が降りてくるのだと、見送りに出てきた店主が告げた。
せめてもの餞にと渡された長い外套に身を包めば派手な服や髪、顔がすっぽりと覆われる。
裾や袖を見ると真新しい不器用な縫い目が見て取れた。
セシリアが深々とお礼を告げると照れたようにそっぽを向く、彼のような人の良い店主に会えたことはセシリアにとって数少ない幸運だった。
「気ぃつけろよ」
セシリアは最後まで逃げている理由を話さなかった。呆れたように笑う彼も聞こうとしなかった。
誰も居ない事を確認してから一息に店を飛び出すと音も立てずに駆け出す。
「【ヘイスティ】、【リメス】」
薄緑と薄青の燐光が灯って速度が増加し、霧も中に入ってこなくなる。どうやら雨避けの効果もあるようだ。
この街は幻想桜のある北側か南側にしか出口がない。
セシリアはその内、南側に位置する出口に向かう事に決めている。
だがやはりと言うか、南の扉にはプレイヤーと思しき数人が雑談をしながら見張っていた。
仕方ない、魔法で吹き飛ばしてから押し通ろうと覚悟を決め詠唱に入ろうとしたまさにその時、後ろから外套のフードを剥ぎ取られる。
街灯や商店の軒先のガスが油と思われるランプの、柔らかいオレンジ色の光が透き通るようなセシリアの髪を照らした。
幻想的とも言える光景に男は一瞬怯んでいたようだがすぐに声をあげる。
「セシリア、か!?」
返事はせずにインベントリから杖を装着。セシリアが叫んだ男の急所に向かって容赦なく杖を突き立てるとくぐもった悲鳴と共に蹲った。
外套から手が離れるなり裏路地をひた走る。
どこか遠くから、割と近くから、セシリアを探す怒声が幾つもあがった。プレイヤーの数は思ったより多いようだ。
これだけ騒ぎを起こしてしまった以上、出口は完全に固められている。
ひとまず宿屋に戻って1日を明かそうと決めて来た道を戻る最中、角から現れた人影と漫画のお約束のようにぶつかった。
軽いセシリアの身体がボールの如く跳ね飛ばされると鈍い音を立てて地面に落下する。
痛みに喘ぎながらも上体を起こすと、ぶつかった相手はバランスを崩した様子もなくセシリアを見下ろしていた。
謝罪の言葉を口にしようとして、しかしすぐに口元へ浮かぶ愉悦に満ちた笑み気づき固まる。
本能的にコイツは不味いと分かった。なりふり構わず起き上がると距離を取るべく駆け出す。
どこか遠いところへ逃げなければ。あぁ、こんな時に好きな場所にいける未来ロボットの道具があれば。
そう考えた時、どうして今まで忘れていたのか一つのスキルが脳裏を掠めた。
「【ポータルゲート】」
記録した場所へと繋がる扉を開くポピュラーなスキルを唱える。この際、リュミエールと目の前の男から逃れられるならダンジョンの中でも良かった。……けれど。
(記録地点が、ないっ)
よく露天商が集まる街、美味しい狩場、ホーム。記録していたはずの位置情報の数々が綺麗さっぱり抹消されている。
呆然と立ち尽くしたセシリアのすぐ傍で何かが割れる音が響くも構っている余裕はない。
しかし突然、身体から力が抜けて路地へとへたりこむ。抗いきれない眠気はどう考えても自然発生したものではなかった。
徐々に暗くなっていく視界の隅に割れたフラスコの欠片が飛び込んでくる。
【スリープパウダー】と呼ばれる、錬金術師(アルケミスト)が作成可能な睡眠の状態異常を誘発するアイテムだ。
支援職であるセシリアはこれらの状態異常を回復できる魔法を覚えているけれど、自分がかかってしまった時には使えない。
ゲームの仕様と同じように、強制的に引きこまれるまどろみの中ではスキルを唱える暇なんてなかった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます