件の話

祖父の一周忌で田舎に帰ったときの話。享年九拾壱。大往生と言えはするが、突然の、それも他人に迷惑を掛けしまった事故死だったから、一年経ってもその後ろめたさを引きずったまま、連休前の四月中旬、故郷の駅を降りるとロータリーには、クルマで父親が迎えに来てくれていた。


お互いの姿を見つけても、ニコッともしないのは男同士、父と息子だから、という以上にやはりあの事故のことがある。小さな田舎町で、あれだけの騒ぎとなったニュースのことは、顔見知りならば当然のこと、「○○家の」と素性が知れれば街の人間なら誰も、「あそこのねぇ」と、口の端に話題が登ることは明らかだった。


新緑の萌え立つ頃。何もないこの田舎町が一番美しく映える季節に、これからもこんな思いをしながら帰郷するのかと思うと、思い出そのものを見限りたくなる。


立ち去るように二人はクルマに乗り込み、ロータリーを後にした。バックミラーを覗きこむと、あとには同じ電車を降りた若い女が、独り放心したように立ち尽くしている。その姿も段々と小さくなる。信号が変わってクルマが右折すると、景色は溶け出し、憧憬も薄れて消えた。


家に着くと、お手伝いの親戚一同、○○ちゃんお帰り、と笑顔で挨拶をしてくれるが、後ろめたい気持ちは全員の心の底にある。そう思うと少しだけ勇気づけられた。


「疲れたろう。姉ちゃんたちが手伝ってくれているから、あんたは休んでいなさい」


そう、母に言われ自室に戻ると、正月まではそこにあった子供の頃から使っている勉強机が消えていた。文句を言おうにも、抗議の表情で部屋を出ても、母よりも先に、母によく似た伯母や、従姉妹たちと鉢合わせてしまうから、手伝いに対する感謝と、申し訳ない気持ちを精一杯浮かばせた笑顔に、切り替えるしかなくなる。


「あら~、久しぶりね!あんたは小さい頃から、ほんと変わらないわね」


ばんばん背中を叩かれながら、つっかけを履いて庭へと逃れた。親戚連中のクルマが意地悪なパズルのように、ぎっしりと庭の一角に固まって停めてある。…どれか一台だけを動かして、あとはすべてのクルマが同時に駐車場から出るためにはどのクルマを移動させればよいか答えよ。ひとしきり考えて、それから諦めて裏手の土手へと逃れた。


田園風景には、その土地に、あるいはその家に住むものにしか見ることの叶わない表情がある。大通りをクルマで過ぎながら、何もない田舎だなと呟いている自分に気づいたなら、今言ったことを思い出すがいい。


と、亡くなった祖父に言われたことがある。或いは祖父がそう言ったのではなくて、祖父に連れられて回った農家の屋敷の窓から、実際にそういう景色を幾つも眺めるうちに、それを祖父の言葉として胸に刻んだだけかも知れない。


農家の屋敷には必ず縁側がある。そこから望める風景は、大抵の場合その家の田んぼをなだらかに見下ろす眺めになっていて、何も遮るもののない空間がどこまでも、場合によっては遠く山の斜面にまで続いている。天気の移り変わりは、その数キロという範囲の空模様と、それを映す地表とを舞台に、舞い、閃き、打ち据え、かき鳴らし、しんしんと降り積もる。


そんな少年時代を過ごせたことを、本当に懐かしく、そして幸福だったと感じる。ただし、戦後祖父が生まれ故郷のこの土地に親兄弟を頼って疎開してきた当の我が家は、農家ではないから縁側もない。


気が付くと近くの廃屋まで歩いていた。ここに来るのは、成人して以来初めてかも知れない。無邪気で不可思議なものの存在を純粋に信じていた子供の頃よりも、今の方がこの廃墟の不気味な佇まいに感じるものがあるような気もする。


ふと、人の気配を感じた。気配。いや、タバコの臭い。権利を振りかざす偽善者のような顔つきで後ろを振り返ると、そこには父がいた。


「男はどうにも、家が忙しいと居場所がなくなるな」


「父さん。タバコ、やめてなかったんだ」


「ここ半年ばかり、な。ああ、正月にはまだ禁煙、続けていたかな?」


「ここも親戚の家だっけ?」


「いや。ここは違う。オヤジとは、仲のよい将棋仲間が住んでいたが、あの人も、確か不幸な亡くなり方をしたな」


父の口ぶりに不快さを感じた。よりによって今日、親戚の誰かに聞こえれば咎められるようなもの言い。いつもであれば父自身が、誰よりもそれを咎めそうな、不適切な話題。


「牛小屋?馬かな?」話題を変えようと、現実の禁忌よりも、子供らしい不気味さへと、足を踏み入れようとしてみた。


「牛小屋だ。ここにいた牛はな。。喋ったんだ。不思議なんだが」


「父さん?」


「中に、入ってみるか。中で話そう」そう言うと父は、ボロサンダルのまま深い茂みへとずかずかと入って、すぐに姿が見えなくなってしまった。「ふん抜きに気をつけろ!」茂みの奥、母屋の軒下の辺りから声がする。

父の踏みしめた跡を辿ろうとしたが、そんな痕跡はどこにも見つからなかった。



「件って、聞いたことはあるか?昔クルマで内田百閒の小説の朗読を聞かせたことがあったと思うが。。」


確かに聞いたことはある。随分と小さな頃だったから、件。ニンベンにウシと書いてクダンと読む、その名の通り、人の頭にウシの体を持つ、ミノタウロスと安直に訳せそうな妖怪の名として、この漢字を先に覚えたほどだ。


「あの時は、オレも忘れていたというか、件とあいつらを繋げて考えもしなかったし、いつか自分の息子に語って聞かせるような話とも、思ってはいなかったな」


軒下には、蟻地獄がびっしり一面に広がる乾いた砂地があって、今どきどこにもないプルタブが分離する細長いジュース缶を灰皿代わりに、父はタバコを吸いながら話し始めた。

勧められたが、吸わないから断った。



…今まで話したことはないと思うが、もしかするとばあちゃんから聞いたかも知れないが、オヤジは、お前のじいちゃんは洋画家だった。

もっとも画材は東京に全部置いてきてしまったから、オレも学校を卒業して上京し、都内に残った伯母さんの家で、オヤジが一時期使っていたというアトリエと、習作を見るまでは信じてもいなかった。オフクロの若い頃のヌード画が飾られていたのにはびっくりしたよ。ふふ。


こっちでは色んな仕事を点々としたオヤジだったが、晩年までイエイを描くことは続けていたらしい。


「イエイ?」


ああ。遺影だ。…お前も、夏休みなんかに方々の家に一緒に行ったんじゃないか?オヤジはそこで遺影を描いていた。お金は取らず、ただの道楽として、らしいが、それで結構この辺りでは頼りにもされていたみたいだよ。


「全然気が付かなかったな。でも、意外だね」


…まあ、変人だったのは確かだ。そして、この家の話になる。この家のおやじさんは、うちのオヤジに何度も、自分の肖像画を描いてくれと言って、しつこかったらしいんだな。

偏屈者のオヤジだったから、すっかりへそを曲げて、オレは絵描きなんかじゃねえ!オレが画家だなんて、二度と誰にも言うんじゃねえぞ!ということになったんだが、遺影描きは相変わらず続けていたし、ここのおやじさんとも、その一週間後には将棋盤を挟んで睨み合っていたらしいから、やっぱり変人としか言いようがない。


で、ある日のことだ。将棋から帰ってきて、あの牛はなかなか手ごわい、とオヤジが言うんだな。

あのおやじの将棋は大したことないが、牛がときたまぶつくさと呟いて、その次の一手がまるでプロの打ち筋だと。

その話を聞いたのは、オレが中学校に上がる直前の頃だった。

子供では、オレより将棋のうまい奴はこの辺りには一人もいなかったから、オヤジが仕事でいないときに、将棋を教えてください、と、確かめにここに来たわけだ。今じゃこの通り、ただのボロ屋だが、土地は持っていたから、今風に言えば資産家だった。いつも暇そうにしていたから、「そうか!じゃ、教えてやっか!」嬉々として将棋盤を引っ張り出してきて、お菓子もくれたよ。


将棋が始まると、確かにおやじさんの腕は、大したことがなかった。オレとオヤジの実力差を考えると、うちのオヤジとはとても釣り合う相手には思えなかった。

一局、二局と指すんだが当たり前のようにオレが勝つ。途中何度も「そろそろ本気で行くぞ!」とは言うのだが、眉間のシワが増えるだけで、腕前は変わらない。牛も何も言わない。


三局目だったな。あれは。もう、序盤からオレの優勢で、おやじさんは防戦一方だった。角と交換した銀を握りしめて、顔を真っ赤にしてうんうん唸っているときに。「右の桂馬の筋で王手」と、確かにそう聞こえたんだ。オレはこの辺りに、こう、座っていたから、牛がそこの納屋に二頭いて、背後から聞こえた声は、確かに牛なのかも知れなかった。怖くは、なかったな。やっと現れたか!そんな感じだった。親父さんも、「ほう。なるほど」なんて、聞こえた事実を半ば認めるようなことを言うものだから、オレも意地になって、二対一の勝負を引き受けたのさ。


…結果は、オレの負け。声はその後も何度か聞こえたけれど、言葉まで聞き取れたのは最初の一回だけだった。おやじさんの打ち筋自体が変わったのではなくて、やっぱり声の主の指示があった数手が、他の誰かの仕業だった。


オヤジが言っていたことが本当だと分かって、オレは負けた悔しさよりも、子供らしく素直に聞いたね。「おじさん。どっちの牛が将棋強いの?」ってな。

おじさん「ん。あ、そうな」とかなんとか、誤魔化そうとはするのだが、秘密を隠そうというのではなくて、将棋をズルしたことを、後ろめたく感じていたみたいだった。

この大人に聞いても無駄だな、と思ったから、ずかずかと牛の方に歩み寄って、一頭ずつ頭を撫でながら、「お前かい?将棋がうまいのは?」そう声を掛けると、手前の一頭の目がにっと笑ったんだ。さすがにこの時はぞっとした。思わず手を引っ込めて、おじさんを見ると、照れくさそうに頭を掻いている。


…あのとき、この家にはタングステンランプがあってな。そういう道楽はあの人は、いくつもやっていたから。他の家でよく見る裸電球とは、やっぱりひと味違っていて、その明かりのことばかりを思い出すんだ。もう夕方だった。家に帰ればオフクロが夕飯の支度を始めていて、問答無用で手伝わされることは分かっていた。


「かあちゃーん、って、逃げ帰ったよ。…そう。ちょうどこんな夕暮れだった」


それ以降オレは、ここに近づかなくなった。オヤジは相変わらず牛が牛がと言いながら、対局を楽しんでいたみたいだが、オレから話を聞くことはしなかったし、そのうち中学に上がって、将棋ではなくサッカーに夢中になったから、牛の事自体、すっかり忘れてしまった。

あれは、なんだったんだろう?


「さあ、帰るか」


父は、吸い殻の詰まった空き缶を、そっと軒下に供えるように置くと、入ってきたのと反対方向に、奥の方に歩き始めた。


「この先に隧道があるんだ。知ってたか?もう水は枯れているから、真っ暗だが、隣の庭に出るからそこを通って帰ろう」


杉と杉の幹の間から、オレンジ色の西陽がほとばしる。

見渡す限り、辺りは眩しい闇だった。


あとにする廃屋は、二人の男の足音を、呑み込み呑み込み、振り返る度に押し黙り、人がどんなに訝しがっても、もうこちらを振り返らないと確信したところで、にゅーっと舌を出して笑うのだ。

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Flowers 夜☆空☆ミ @yorusolahoshimi

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