Flowers
夜☆空☆ミ
ライフ!オブ・リビング♪
…満月の夜でした。私はお母さんから、事前に教えられていましたが、お兄ちゃんは何も知らされていなかったようです。夕食が終わり、部屋に戻ろうとするお兄ちゃんに、お母さんは言いました。「今日は満月だから、早く寝なさいね」
お兄ちゃんは、「母さん、何を言っているの?」と、意味を解しません。それでもすでに準備は整っていたのです。お兄ちゃんのスープにだけ、我が家に代々伝わる成長促進剤と、眠り薬が入れられていました。それを入れたのは私でした。お兄ちゃんは、「今日は宿題がたくさんあるんだ。それを終わらせたら、勝手に風呂に入って寝るよ」そう言って、二階の自分の部屋に上がって行きました。お兄ちゃんは、宿題なんてもう、やらなくていいのに。。私がそう思っているのを見透かしたように、お母さんは悲しそうな顔で私を見つめます。
私の家は、人魚の家系です。そんなこと、学校のお友達にも言わないし、私もそれを特別なこととは考えていません。どの家にもそれぞれの事情があり、周囲に理解してもらうべきことと、そうではないことがあるというだけなのですから。
お母さんは、私のお父さんである人間の男性と結婚しましたが、本当のことはお父さんには伝えず、私が十二歳のときに離婚しました。それは私のためでもありました。第二次性徴期を迎えた私は、一ヶ月間のうちの数日間は、人間の姿で人前に出ることができなくなるから。
お母さん自身がこの問題を、どうお父さんに対して隠し通したのか?実際に私自身が「人魚」となった今、びっしりと鱗に覆われた下半身をバスタブの中でぬるぬると滑らせながら考えますが、よく分かりません。でも、身の回りの世話はおばあちゃん(お母さんのお母さん)が、看ていたようです。今、それは私に引き継がれました。脈々と続く、母と娘の関係。ただ、おばあちゃんはおじいちゃんと今でも仲良く暮らしています。おじいちゃんは、おばあちゃんが人魚だということを、知っているのでしょうか?自分の娘の、孫娘のことも、理解してくれているのでしょうか?
私だってお父さんに、私のことを分かったもらいたかった。でもお母さんはそれを許してはくれなかった。お母さんは私の目の前で、いきなり人魚になってみせた。二人が離婚するおよそ一年前、学校から帰った私を二階の寝室に呼び、化粧台の椅子に座って、「今からお母さんが言うことを、よく聞きなさい」そう、私を正座させると、お母さんの体は一瞬ずるっと腰から砕けて、仰向けに床に転がったかと思うと、それまで履いていたスカートとショーツをくるくるっと回して器用に宙に放り投げた。
最初は蛇にしか見えなかった。私は大泣きした。脚はすくんで動かなかった。両手で器用に這い、お母さんの上半身が足元に近づいてくる。怖がらなくっていいのよ。小さい頃から教えていたでしょう?お母さんは人魚なのよ。そしてあなたも。。
「ひぃっ!!」
体の軸がどろりと溶けて崩れるのを、お母さんが支えてくれた。そっと床に寝かされ、一瞬見てしまったそれを頭の中から追い払うべく、目を固く瞑り、その上から手のひらで顔を覆った。
…でも、私の意に反して、床をのたうち、ぬるぬるとうごめく蛇のような胴体が、自分の下半身なのだということは感覚で分かる。「しばらくこうしていなさい。すぐに慣れるわ」慣れたくなんてなかった。ここから逃げ出したかった。でも私には分かっていた。今の私には足なんてなく、従って逃げ出すことなんてできないということを。
二人の人魚は、二階の寝室から慎重かつ滑稽に階段を降り、バスルームへと向かった。水を張り(寒い季節だったが、寒さはまるで感じなかったことを覚えている)、二匹のウナギのように私たちはバスタブの中で体を横たえた。
「おめでとう。これであなたも一人前の女。人魚になったのよ」
私は何も言えなかった。人魚は言葉を失うのか?本気でそうも考えたが、お母さんは普通に話している。ショックで一時的に口が利けなくなっただけだと後から分かった。
お母さんの「人魚化」はそれから三日間続いた。私は意図的に与えられたショックでお母さんの思惑通り発作的に人魚化したらしく、その日の夜には自然と人間の脚を取り戻していた。お父さんとお兄ちゃんはその日帰ってこなかった。翌日も帰ってこなかった。私は学校を休んで、人魚と化したお母さんの身の回りの世話をし、その間人魚の歴史、生き方、そして禁止事項を延々と聞かされた。おばあちゃんも日に二度、やってきた。二階に上がる気にはなれなかった。いつどこで私が再び人魚化するかと思うと、あの惨めな擦り傷だらけになるのは二度とゴメンだった。
ここから私の憂鬱な日々が始まる。「いつまた、人魚化するかも分からない」「学校でなってしまったらどうしよう?」お母さんは大丈夫だという。予兆のようなものが段々分かってくるし、朝あなたの顔を見れば、お母さんにはそれが今日なのかどうかが分かるから。
「いい?人魚になることは、とってもステキなことなのよ。あなたも大人になれば、それが分かるわ」
満月の夜でした。
三人で食卓を囲んだ最後の夜。
去年までは、ここにお父さんもいて四人でした。
寒い季節。お鍋に残ったシチューの湯気が、静かに静かに息絶える。
「先にお風呂に入りなさい」お母さんの命令。
バスタブの中で。
息をやめる。
やめてみる。
人魚になると陸地でも水の中でも呼吸ができるのに、今の私はお湯の中で息苦しくなる。
そういえば、お湯にぬくまる感覚が、人魚のときの私にはありません。
滑らかな樹脂のバスタブの中で、磯の香りのことばかりを、考えているかな?
おかあさん、出たよ。
はーい、と返事が聞こえる。そうそう。お湯を抜いておいてー。
お母さんはお風呂、入らないの?
「お母さんは、今から人魚化するのよ。お兄ちゃんの成長の瞬間を見届けるのが、母の務めだから」
…ああ。そうだった。
思えば私たち兄妹は、そこまで仲がよいわけでも、悪いわけでもなかったように思います。
寝室を開けるとお兄ちゃんは、机の上に俯せて眠っていました。ノートを盗み見すると、宿題の出来は半分、といったところでしょうか?(私のお兄ちゃんは結構優秀だったのです)
お母さんに言われたように、「お兄ちゃん、下に降りられる?」と話しかけると、むにゃむにゃと寝言を言いながら、頭をもたげます。
腰に手を回して、右手を進行方向に誘うようにすると、意のままにお兄ちゃんが歩くので、ちょっと面白い。
階段を一歩一歩、降りて行って、バスルームに到着すると、お母さんは既に人魚化していて、バスタブの中で尾びれをぴちゃぴちゃさせています。
「服は?いいの?」
「そのままでいいわ。一瞬だから、ちゃんと見ておきなさい」
お兄ちゃんを頭からバスタブに滑り込ませます。するっとシャツの手応えがなくなって、洗い場にズボンと靴下が転がりました。
バスタブに落ちたシャツの中からお母さんは、器用に一匹のキラキラとした魚を取り出し、優しく胸に抱いた後、自分のおへその上の水に、そっと沈ませて、手を離します。魚はコバルトブルーに輝く、見事なヒレの金魚です。大きさはお母さんの乳房ひとつ分くらい。
閉じることのない目は、まだ眠っているのでしょうか?ぱくぱくと口を動かしながら、お母さんの乳房に向き合って、その場に沈み続けています。
私の、お兄ちゃんです。
私たち女性の人魚が月に一度、人間ではない本来の姿に戻らねばならないのと同様、男性の人魚は成長の過程で魚の体に変化します。
魚となった男性は、人間社会では生活できませんから、その後は女性の家族に養われつつ、時期を見て海の底へと帰り、人魚の女性に子を孕ませ、次の世代へと命を繋ぎます。
海の底には、今も人間のイメージする人魚の世界は確かに存在はしているのですが、地上の人とは異なり、人魚は海底の食物連鎖の頂点に、君臨しているわけではありません。
私のお母さん、そしておばあちゃんのように、より文明的な生き方を求めて陸に上がり、人間の男性と結ばれ、人間と「混じわる」生き方もあれば、それを堕落と呼び、古来からの生活を守ろうとする生き方も、あるということです。
そして何よりも、人魚としての純血を保とうとすれば、必然人魚の男性との契りを交わすことになるわけで、彼らが人として地上では暮らせない以上、海の底で、サメやエイに怯えながらもひっそりと暮らすことは、理に適っています。
こうしてお兄ちゃんは大人の男性となり、体も生活も激変しましたが、私たち三人の「人魚」がこの街で暮らし続けていることは変わりません。
「ただいまー」
私が鍵を開けて玄関で靴を脱ぐと、「おかえり」という、おにいちゃんの思念が伝わってきます。
「おなかすいたよ。えさは、えびのところだけたべたい」
なんて贅沢な魚だろう?と私は思いますが、それを言葉には出しません。魚となった人魚の男性の「考えること」は、そのまま傍にいる人魚の女性に伝わりますが、女性の考えることが男性に知れたりはしません。そんなことは恥ずかしいですし、第一に必要ありません。
人魚の男性は考えることを、人魚の女性に伝えられなければ、彼らはただの魚として一生を送ることしかできないのです。ここには必然があります。
…お兄ちゃんは最初、そのことに気づいてはいませんでした。自分が魚になる、ということなど、まるで知らされていなかったのですから当然です。リビングの水槽の中で、それまで自分が世話をしていた熱帯魚たちに混じって沈んでいることを受け入れられなかったようです。
あの時、お母さんは泣いていました。
「許してね。。おまえを男の子に産んでしまって」
あの満月の夜、バスタブの中で、人魚として、人魚の母親として。
この時になって私は初めて、お兄ちゃんはもう、一生魚のままなのだということに思い至ったのでした。
私たち女性が人間として陸上で生活をしながらも、月に一度は強制的に元の姿に戻らねばならないように、男性も元の姿に戻らねばならないのです。
…人間と交わった人魚の子供は、幼いうちは人間の子どもと何ら変わりはありません。それが成長とともに、人魚の特長が強くなってゆくのです。
私は海の底の人魚と会ったことはありませんが、女性は最初から人魚として生まれ、言葉を覚え、両手を使って最低限度の文化的な暮らしを送っているとおばあちゃんが教えてくれました。女性が人間に化けることはそう難しいことではなく、その昔は、まるで街にショッピングに行くように、脚を生やして陸に上がることも普通だったそうです。
それが今の日本の社会では難しいだろうということは、私にも分かります。ひとたび人魚とバレてしまえば、その日のうちに大ニュースになってしまいます。
いつ頃からか、陸との結びつきを築いた人魚たちは、海を捨てる生き方を選択しました。軽々しく陸に上がれなくなった人魚たちは、そんな仲間たちを嫉妬し、堕落だと侮蔑し始めました。
それでも未だに陸の上と海の底の人魚たちは、繋がりを保っています。時に戸籍のない若い娘を、「親戚の子」として陸の上の生活に受け入れ、周囲に怪しまれないうちにそっと海へと帰すこともあるそうです。
その理由は人魚の男性にあります。純血の人魚の男性は、最初から魚として生まれ、姉妹が言葉を覚えるのをそばで聞きながら学び、自分は言葉を発することはなくても「考える」ことを身につけ、女性に理解されるようになります。女性の発する言葉も理解できます。ただしこれは、男性が女性に考えることを伝えられるのではなく、女性が男性の考えを読み取れるだけなので、男性同士の間に知的な意思疎通はなく、その一生は、ごく普通の魚です。人間に化けるということもありません。陸に近づいても水から出ることは叶わず、万が一釣り人の針に掛かってしまっても、珍しい魚として息絶えるだけです。
つまり私のお兄ちゃんは、死ぬまで魚として生きるのです。
おとぎ話の中に、人魚の女性が人間の男性と結ばれるようには、人魚の男性が人間の女性と結ばれる物語がないのは、こういう事情だからです。
人魚化したお母さんは普段よりもヒステリックで、人使いが荒いものですが、今回は少し様子が違います。
ただ、じっと金魚のおにいちゃんを両手で包むようにして、慈しむように涙を流しています。
いつもの癖で、三十分置きにはご機嫌伺いにお風呂場を覗き込みますが、何度覗いても変わりありません。
「眠っているの?…お兄ちゃん?」
「そうよ。男の子はずっと人間として育つから。一度も人魚化したことはなかったから。病気ではないけれど、体は完全に作り替えられて。回復には時間がかかるの。そうは言ってもこの大きさだから、丸一日あれば、目を覚ますでしょう。回復できるものよりは、失ってしまったものの方が、ずっと多いから」
お母さんは、お兄ちゃんの鱗を優しく撫でながら、力強く言いました。「人魚の母として、私にはこの子をもう一度産み落とす使命があるの」
そして、お母さんは子守唄を歌い始めました。男たちを海の底に引きずり込んだと言う、セイレーンそれ自身として。
「うた…」
「しろいひかり」
次の日、学校から帰った私がカバンを置きに二階に上がろうとするところで、そんな声が聞こえました。
「お母さん?何か言った?」
「お兄ちゃんよ。目を覚ましかけているわ」母の声はバスルームで反響して聞こえ、確かにさっきの声とは違いました。
「…」
「…」
二階に上ってしまうと、コトバは聞き取れなくなります。なるほど、そうなんだ。
静かに階段を降りてゆくと、お母さんが私を呼びます。
「あなたもここにいなさい。お兄ちゃん、いえ、この子が陸の上で生きる限りは、死ぬまであなたが面倒を看るのよ。だから、しっかりと見ておきなさい」
私は自分でも意外なほど、素直に頷きました。
「しろいな…」
「しろい。しろい」
「きらきら。きらきら」
「ゆらゆら。ゆらゆら」
金魚の目が、きゅるっ、きゅるっ、と周囲を伺い始め、ヒレの動きに意図が見えるようになってきました。
「せまい。せまい」
少しバックします。
「うーーん」
金魚の痙攣するような動きって、「伸び」だったんだ。。
ゆっくりと金魚が、金魚らしくバスタブの中を自由に泳ぎ始めます。
「あれ?」
「あれれ?」
「ふうーん」
ゆっくり、ゆっくりと、何かに怯えるでもなく、金魚はお母さんのおへそを見つけると口先でつついてみたり、背中に回ったり、ひゅん、と加速したり、水面でぱくぱくしたり。。
けっこうかわいいかも。そんな風に思いかけたとき。
「なあんだ。ゆめか…」
私は膝から崩れ、足ふきマットを口に当てて大声で泣きました。
「ひっ…」お兄ちゃんが怯えます。
「にげよう。にげよう」
…逃げることなんて、できないんだよ。。
「みずのなかだなぁ」
「なつかしい、かんじがする」
「そうよ。あなたは母さんのお腹の中にいるの。目が覚めたようね」
「あ、かあさん」
「おはよう。目覚めはどう?」
「おはよう。…おはよう」
「ここはゆめかな?」
「そうね。覚めない夢かも」
「ははは。。かあさん」
「なぁに?」
「おおきいね」
「あなたは。。こんなに小さいわ」
「!? うわああーーっ!」
お母さんは、金魚を両手で救い上げて、自分の顔のそばまで近づけました。
「わあーーっ!わあああーーっ!」
びちびちと、おかあさんの両手の中で金魚が跳ねます。
「むぐっ!むがっ!」
どう藻掻いても、ぬめった体はつるん、と滑って今の窮屈さから、次の窮屈さへと姿勢が代わるだけです。その絶望的な無力感がそのまま伝わってきて、私まで息が苦しくなります。
お母さんの視線が、私に命令します。次はあなたが持ちなさい。「えっ?」恐る恐る手を伸ばすと、金魚の悲鳴が大きくなっていき。。
「あちーーーっ!!!」
あ、そうだった!びっくりして私が手を離すと、ぽちゃん。金魚はバスタブの中に落ち、悲鳴を上げながらもその声色には徐々に安堵が蘇るのが分かります。人間の私の手のひらは、人魚のお母さんの体温よりもずっと高く、触られると魚はやけどをしてしまうのです。
「ああ、ひどいめにあった。。」
お母さんの顔を見ると、悲しそうに頷いています。お兄ちゃんのようには、お母さんのコトバは伝わっては来ないけれど、言いたいことは、分かります。お兄ちゃんは魚になったのです。
※
ここから先のことは、今の私には書く余裕がありません。今年私は受験生です。お兄ちゃんは二年生の冬に魚になったから、私はお兄ちゃんを人間の年齢で追い抜いたことになります。
二階の自分の部屋にいる限り、お兄ちゃんのコトバは聞こえません。逆にいえば私が勉強をするには、我が家には雑音から逃れる場所が他にないのです。
勉強に没頭している間は、自分が人魚であることも忘れていられる。いつの間にかこの時間が、私は好きになっていました。
今はつかの間の休憩時間。そろそろ日本史の模試に取り掛かります。あ、そうだ。
おしまいに、私が書き続けている日記のうちから、この物語に関係のありそうないくつかを、ご紹介することとしましょう。
日記は五つくらい、選ぼうかと思っているけれども、十になるかも知れないし、逆に三つで飽きてしまうかも、それは分かりません。
日を改めて、また書き足すかも?
でもそれは早くても、年が明けて来年の春、私が志望校に合格して、晴れて人魚女子高生と、なってからのお話です。
ではみなさん。おやすみなさい。よい夢を。
十二月六日
結局お兄ちゃんは居間で暮らすことになった。私は反対したのだけれど、お母さんは、「ここが一番、賑やかでいいでしょう?」と譲らない。
お兄ちゃんは、魚になって、頭も魚並になってしまったようだ。「ここがにぎやかでいい」お母さんの言葉をオウム返しにコトバにすることしかしない。お母さんがにっこりすると、お兄ちゃんのコトバにならないじわっとした喜びが、水槽の周囲に汗のように滲み出す。
「さいってー。代わりに私、自分の部屋にテレビ買ってもらうわよ」
思わず毒づいてしまったけれど、私の言い分は間違っていただろうか?
お兄ちゃんは「おかあさん」とお母さんを呼ぶけれど、私のことは意図的に意識から外そうとしている。目も合わせないし、私が勇気を出して「お兄ちゃん?」と話しかけても心を閉ざしてしまう。それも、きちんとコトバをしまい込めるならまだしも、人間のまま大人になってゆける妹の私に対する、劣等感や羞恥心。そして魚になってしまった自分自身に対する、自虐が渦巻くのを隠すこともお兄ちゃんはできないし、傍にいる限り私も拒否することはできないから、本当にいたたまれない気持ちになる。
お兄ちゃんは、早く海に還した方がいいのだ。私は心から、そう思う。
十二月二十六日
色々なことが少しずつ落ち着き始めている。クリスマスも終わってしまった!
冬休みなので、居間にいる時間もどうしても長くなる。我が家の居間には、二十四時間住み続ける住人がいる。魚に、人魚の成人男性になった、私のお兄ちゃんだ。
「いいな。いいな。いいな」
四六時中、そんなお兄ちゃんのコトバと視線を、背後に感じながら、私はソファにだらしなく寝そべって、テレビを見ながらお菓子に手を伸ばす。
「いいな。いいな。いいな…」
ひとつ、分かったことは、人魚の男性の知性は、その脳の体積に比例する、ということだ。つまり、あんまりおりこうではない。
「いいな。いいな。いいな。いいな…」
人間だった頃のお兄ちゃんは、妹の私から見ても聡明で、私の友だちの中にも憧れる子のいるくらいの美少年だったはずだが、そういう立派な部分は失われてしまったらしい。
もっとも男の人魚たちは、頭の中で組み立てた言葉を、私たち女の人魚に伝えているわけではなく、頭の中に浮かんだ考えがことごとく私たちにバレてしまうだけだから、そこに洗練さがないことはいたし方がない。
…だんだんイライラしてくる。
同じコトバの反すうは、語いの少なさだけではなく、思考そのもののスピードの遅さ、頭の回転の鈍さが生み出す単調なリズムなのだ。
それは正直なところ、月に一度人魚になる私自身にも思い当たる、低温の呪いとでも、呼ぶべきものだ。冷たい水を冷たいとも感じず、タイミングの悪い試験の勉強をバスタブの中でしているとき、いつもよりもゆっくりと、色々なものをこぼしながら、知識が頭の中に積み上がってゆくのが分かる。ひとつひとつ、大切に。でも愚鈍な、その営み。海の底の、昔から変われぬ人魚の暮らし。
…テレビの中で、新作ゲームのCMが流れる。
「いいな。いいな!」
「お兄ちゃん。あれ、欲しい?私、買おうか?」
びくっとして、すいすいーっと、金魚はバックする。
「ほしい。ほしい。ほしい。だけど…」
だけどお兄ちゃんは、水槽の中から出られないし、胸びれではパッドも持てない。と、私は口に出す代わりにスマホに入力した。
自分の手が一瞬魚のヒレに感じて、総毛立つ。
「…」
「おにいちゃん。寝たの?」
コトバが途切れ、そして少したつと、コトバにもならない、き、とか、く、とかいうようなコトバの切れ端が、時折リビングにぽーんと投げ込まれる。
見ると、青い金魚は、樹脂製のワカメの陰でふわふわと浮かんでいる。じっとこちらを向いている開きっぱなしの目を覗き込んでも、何も伝わってこない。ただの魚の目だ。
感覚的に、なのだが、おにいちゃんが知性を保ち続けられるのは、十秒。頑張って二十秒といったところ。それを超えると、お兄ちゃんの人間の部分は、ぶくぶくと頭の中の泥に沈んでしまう。またしばらくするとコトバは復活し、水槽の中の様子も、何か伝えたげな、意図のある振る舞いに見えないこともないのだが、大抵十秒のうちに、やはりただの魚に戻ってしまう。
お兄ちゃんは私のお兄ちゃんであることに変わりはないが、人間である前に彼は、既に魚なのだ。
「おやすみ、お兄ちゃん。いつか、人間に戻れたら、私もそう願うよ!」
そう水槽に話しかけて、私は電気を消し、自分の部屋へと上がった。
三月十五日
「ひかるちゃん!ひかるちゃん!ひかるちゃん!」
リビングでは女三人、紅茶を飲みながらしっとりとした時を編みこんでいた。でも、それは表向きの話だ。
「ひかるちゃん!ひかるちゃん!ひかるちゃん!」
水槽の中をぐるぐると泳ぎ回る、兄の心の叫びがけたたましい。気が狂いそうになる!
もっとも、兄がどんなに人間らしく振る舞おうが、見た目には青い金魚が水槽の中で暴れているようにしか見えないし、水槽から出ることも兄にはできない。
中学を卒業した兄の同級生、ひかるさんが遊びに来てくれた。
魚に成長した兄は、急病で亡くなったということで、矛盾なく処理されたから、ひかるさんはお線香を上げに来てくれたのだ。
お線香上げは今回が初めてではなかったけれど、その度にお母さんに言われて私は兄を小さな金魚鉢に移し、バスルームに避難させていたから兄がひかるさんに気がつくことはなかった。
今回、兄を水槽から移すことをしなかったのは、兄が自分の運命を、成長を、少しずつ受け入れるようになったとお母さんが判断したからだった。
でも、それは間違いだったらしい。
「ひかるちゃん!ひかるちゃん!ひかるちゃん!」
延々と叫び止まない情念に、私もお母さんも、気が滅入る。何も聞こえない平和なひかるさんだけが、しんみりと兄の美しい思い出を語り続けるのだが、そんな美しい体験ではなかったことは、兄の心の解説ですべて丸裸なのだ。
…やっとの思いで、辛い時間をやり過ごし、お母さんも、私も自室に戻って休むことにした。
何よりも、元彼女さんの名前を叫び続けることしかできない兄の心の声から逃れたかった。
今日はこのまま寝ます。
おやすみなさい。
三月二十四日
ひかるさんが来て以降、兄の様子が変わった。
「もどして!ぼくをもとのからだにもどして!おかあさん!おかあさん!」
そして、お母さんが自分の手足にならないと分かると、狙いは私に移ってくる。
「なぎ!なぎ!たのみがある。にいちゃんをここからだしてくれ!おさらにみずをひたして、そこにぼくをのせてくれ!」
兄が自傷行為を企んでいるわけではなかったので(それは望む望まぬに関わらず、人魚の女には分かるのだ)、私は兄の望むようにバットに水を敷いて、網で兄を掬ってそこに乗せてあげた。
「ああ。。くるしい。。からだがひりひりするよ。。でも、ぼくはにんげんになる!にんげんになるんだ!」
ひょこっ、ひょこっと胸びれで体を起こそうとしたり、尾びれに無駄に力を込めて、願わくばにょっきりと二本の脚が生え出す妄想に浸ったりと、青い金魚もなかなかに忙しい。
(くそ。。なぎがにんぎょからにんげんにもどるのを、ぼくはみたんだ!おなじようににんげんになってやる!なぎにできて、ぼくにできないなんてことがあるか!)
ええっ!?そんなところ、絶対見せた筈ないのに、いつの間に。。
(なぎ。。おしえてくれよ。どうやってにんげんにもどるんだ?)
兄には、人魚の女性が、人魚の男性の心がまる分かりということを教えてはいない。これは人魚界の知恵だった。聞きたくない心の声まで、聞こえてしまうのは事実だけれども、女たちは、「聞こえないふり」で都合の悪いことはしらを切るのだ。
(ううう。。おんながうらやましい。。ぼくのからだは、ぜんぶさかなだ。。なぎみたいに、じょうはんしんはにんげんのままなら、てもつかえるし、ことばもはなせるけど。。)
「いやだ!」
びちゃっとバットから跳ねて、金魚は床の上に落ちた。
「このまましんでやる!しんでやる!にんげんにもどれないなら、しんでやる!」
「お兄ちゃん!」慌てて拾い上げようとする私を、包丁を持ったままのお母さんが静止した。
「…圭吾。お母さんはおまえを、五体満足の、健康な人魚の男子として成人させてあげられたことを、誇りに思っているわ。これ以上、お母さんがおまえにしてあげられることは、ここで観賞魚として一生飼育することか、海の底の人魚の世界に還すこと。そのどちらかひとつよ」
(かあさんも、なぎも、おんなだ!にんげんでいられるおんなに、さかなのままいっしょうをすごす、ぼくのきもちなんて、わかるものか!!)ぴちぴちと、床の上を跳ねる姿は、普通の魚と何も変わりありません。
「くるしい。。たすけて。。」
私は両手をボールの冷水に浸けて、ずっと兄のこの言葉を待っていた。
「お兄ちゃん。私の手は、熱くないよ」今、助けてあげるね。
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