第33話 役割
アリス――と、私を呼ぶ声が聞こえてきた方角に私は首を巡らせた。
その声は蒼い空から聞こえた。
断崖絶壁の上に建つ屋敷のテラスに私以外の人の声が聞こえるはずはない。けれど、そこに彼はいた。
さっきまで誰もいなかった場所に、エスクードは静かに立っていた。
私は一瞬、これは自分が見せた幻かと思った。
昇り始めた朝陽に煌めく金髪が眩しかったし、蒼い瞳がとても澄んでいて綺麗だったから。
見惚れて立ち尽くす私にエスクードと思しき幻は、腕を持ち上げてこちらに手を差し出す。
「アリス、迎えに来た。――帰ろう」
ホッとどこか安堵したような彼の顔を見つめて、私は無意識に手を伸ばした。大きな手のひらが私の指を包み込んで、グイッと引っ張られる。
抵抗する間もなく、エスクードの胸に引き寄せられ、彼の二本の腕が背中に回る。私の頬に顔を寄せるエスクードの吐息が耳朶に触れた。
「無事で、良かった……っ」
頬に触れた胸板の奥で響く鼓動、徐々に染み込んでくる彼の体温に、私は幻ではないことを知る。
「……どうして?」
私はかすれた声を吐きだしながら、エスクードの背中に腕を回して自分の身体を押し付けた。これが夢ではないことを全身で彼の温度を確かめる。
触れた彼の熱に呼応するように、私の身体の奥から熱が込み上げ、瞳から涙がこぼれた。
「俺を呼んでくれただろう? だから、迎えに来れた」
抱き合った体勢から互いに顔を起こして見つめ合うと、エスクードは私の腕に触れた。自然と彼を抱きしめた二本の腕は剥がされる。
エスクードの指先が目尻に触れ、涙を拭ってくれる。そうして、私の左手をとって持ち上げた。そこには彼が貸してくれたお守り指輪が青く輝いている。
それからエスクードは自分が着ている服の襟元を緩めて、内側から細い銀の鎖を引きずり出す。ペンダントトップは私がはめている指輪と同じ物。サファイアが煌めく。
「この指輪は対で一組なんだ。まあ、その色々あって、この指輪は互いを呼び合うんだ」
「――魔法?」
「そうだろうな。昔からうちの家系に伝わって、どの過程で魔法を仕掛けられたのかはわからないが。宮殿は広いから万が一、はぐれたときのことを考えてこの指輪をアリスに預けておこうと思ったんだ。まあ、俺としてはもう一つの役割の方に期待していたけれど」
もう一つの役割というのは、虫よけ?
不意に私は、皇太子さまの言葉を思い出した。
『――この上なく面倒な求婚者になるだろう』
無自覚なままではいられない、と言っていた。
それはどういう意味?
それに私、自分の気持ちにばかり考えが行ってしまっていたけれど、エスクードの想い人はアリスエールで……彼は、今も――。
『故に家宝である指輪の片方を伴侶となる相手に差し出して求婚する』
皇太子さまの言葉が私の戸惑いを押し流すように、滝のように降ってくる。
『まあ、要するにその指輪は、アリスには決められた相手がいるから、むやみに口説くなよ――というものだな』
あの、えっと……。
『アリスのその鈍さは天然か?』
ぱちぱちと、パズルのピースがはまっていって、答えのようなものが見えてくる気がした。
…………もしかして私、色々と勘違いをしていた?
いえ、まだっ! まだ、そうと決まったわけじゃないし! 早計は禁物。
彼が誰を好きだとしても……私はエスクードが好きだけど。エスクードも私を好きでいてくれるなんて答えは、まだ決まってないから。
だから、だから、だから――今は指輪の役割を考えちゃ駄目。
思わず頬に熱を走らせ、一人焦る。期待して間違っていたら、ちょっとダメージが大きすぎる。二十九歳、色々と経験したつもりだったけれど、多分、自分から本気になった恋はこれが初めてだ。
恋愛初心者もいいところだ。失敗しないように、気を付けなきゃ。
赤くなったり青くなったりしているつもりの――傍から見ると、顔色はそう変わっていないのかもしれない――私を余所にエスクードは動いた。
私を引っ張って、テラスの端に身を寄せる。
「それにほら、前にも話しただろ? 意思の疎通ができれば、どんな距離に居ても通じ合えると」
エスクードが指を一本立てて空を指し示す。それに釣られて顎を仰け反らせると、上空を旋回する大きな影が視界に入ってきた。
「――フレチャ?」
驚く私にエスクードが柔らかく笑い声を響かせながら、告げた。
「アリスを助けに行くぞと、あの後すぐに飛んで来たよ」
「本当に?」
私の声が届いたように、影がこちらに向かって降りてくる。テラスの正面に、フレチャは翼をはためかせて滞空した。そして、テラスの手すりに足を乗せて翼を閉じると、長い首をこちらに突き出して私の頬をつんつんと鼻先で突く。
迎えに来たよ、そう言っているみたい。
私は両腕を伸ばして、エメラルドの鱗を持つドラゴンの首を抱きしめた。
「ありがとう、フレチャ! 大好きよ」
「キュキュッー」
鼓膜を叩くのはドラゴンの鳴き声。だけど私の耳には「僕も、アリスちゃんが大好き」と聞こえた気がした。
私の勝手な思い込みかな? フレチャに気に入って貰いたいと思う私の願望の表れかもしれない。
エスクードが私の疑念を振り払うように笑って言う。
「フレチャの声、聞こえただろ?」
「うん――あの、本当に……?」
そう言いながら、私はエスクードと普通に会話している現状に気づいた。
エスクードの唐突な登場に対して混乱して、大事なことを忘れていた。
「……私」
私の困惑を察したように、エスクードが先回りしてくれた。
「やっぱり、喋れたんだな。エスパーダが術を?」
「うん、そうだけど……。やっぱり、って?」
色々、説明しなきゃと思うのだけど、私の頭は理解が追いついていない。エスクードは既に承知済みという態度だ。どういうこと? もうずっと前から、バレていたというの?
たどたどしくなってしまう問いかけに、エスクードは頬を傾けて笑う。
「殿下が、アリスは喋れるのかもしれないと言っていた。前に殿下と一緒に、眠ってしまったことがあっただろう?」
私は小さく頷いた。肖像画の間でうっかり眠ってしまい、翌日、皇太子さまの寝室で目覚めたときのことだ。
「あのとき、アリスが寝言を口にしていたと言われたんだ。でも、それはこの国の言葉ではなかったから、もしかしたらアリスは記憶がないんじゃなく、言葉がわからないから喋らないだけなんじゃないかって――アリス、記憶はあるのか?」
蒼い瞳がこちらを覗き込んでくる。その真摯な視線の前に、私はこくりと小さく息を飲んだ。
私がずっと隠していたことを白日のもとに晒すときが来た。もう隠し事はできない。それは構わないけれど、そのことをエスクードがどう思うかと考えれば、言葉に詰まる。
手のひらを返すようなことはしない人だと信じられる。でも、私のそのままを受け入れてくれるだろうか。
目の前にいるこの人を――彼を好きになってしまった私を。
エスクードの問いかけに、私は頷いた。
「本当の名前は?」
「里桜……」
「――リ、オ?」
「うん、でも今まで通り、アリスって呼んで欲しい」
さっき、エスクードが「アリス」と呼んだとき、私はそれを自分の名前だと認識した。里桜という本当の名前も、両親が付けてくれた名前だから私には大切なものだけれど。でも、エスクードが私に向かって「アリス」と呼んでくれる、その響きが今はとても好き。
「あの、私……違う世界から来たの」
「ああ」
エスクードは私の腰を抱いたまま、頷いた。手を離してしまえば、また引き裂かれてしまうような気がして私も彼の服に手を掛けたまま、続けた。
「こことは違う世界なの。国とか、そんなレベルじゃない。次元が違うというか……わかる?」
私は恐る恐るエスクードの瞳を見つめ返した。自分の説明が果てしなく頼りない。こんなことで、エスクードがどこまで信じてくれるか、甚だ疑問だ。
エスクードは「冥界や天界みたいなものかな」と小さく首を傾げる。
「多分、直接交流なんてできない、見えない壁の向こう側といった感じなのだと思う。その魔法なんて概念はないの。ドラゴンも伝説上の生き物で、そういったことはファンタジー……空想のお話だと考えちゃうような世界で。でも、文化レベルはこちらより発達しているかもしれない」
「そんな世界から来たのか? 自分の意志で? それとも事故か何かで?」
「多分――事故みたいなもの。あのね、エスパーダは……アリスエールを蘇らせようとして術を実行したというの。私……その術でこちらに来たんじゃないかと思うの」
私がそう推測を口にすると、エスクードは表情を凍りつかせ、息を呑んだ。
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