第32話 会いたくて
ドアが叩きつけられるように閉じられて、私は我に返った。
慌ててエスパーダの後を追いかけ、ドアに飛びつくけれど、扉は硬く閉ざされていた。
「開けて頂戴っ! 話を聞いてっ!」
両手で拳を作って、堅い重厚なドア板を叩く。
またエスパーダは自分が都合の悪い事実を前にして逃げ出したのだと、頭の隅で理解する。
アリスエールを皇太子さまのお城から連れ去ろうとして拒絶されたエスパーダは、彼女を放り出して逃げだしたという。同じことが今回もまた繰り返されていた。
「あの人……成長していないのね」
私はドアを叩くのを止めて、ため息をついた。
どうしようもない子供なのだと思う反面、見捨てておけない気がした。だって、私に似ている気がするの。
いえ、性格がというわけじゃない。
一人でいいと思っていた昔の自分だ。
一人でいることに慣れて、一人でも平気だと思っていた――もう戻れない、昔の自分だ。
あの頃の私は、一人であることを選んだ。そして、周りと距離を置いた。
今なら一人を選んだ自分の気持ちを分析できる。
私は寂しくて、それを認めたくなかった。だから一人でいることに慣れようとした。同時に誰かと親しくなることによって、また両親と死別したような、大切な人を失うことに直面することが怖かったのだろう。
エスパーダも同じなのだ。誰も理解してくれる人がいなかったから、彼は箱庭の中に一人でいることを選んだ。
でも――アリスエールを恋慕うその感情は、エスパーダが孤独を嫌っていることを示している。
「独り」が平気なら、誰も愛する必要はない。
寂しいから誰かを求めるのか、誰かを愛したから傍にいられないことを寂しく思うのか、私にはわからない。
だけど……。
「エスクード」
私は唇に彼の名をのせた。耳に馴染みのある音が自分の喉から発せられる。それを確かめながら、呪文のように繰り返し呟いた。
「エスクード、エスクード、エスクード……」
私は指にはまっているサファイアの指輪を撫でた。お守りだと言って渡してくれたときの彼を思い出すだけで、気持ちが落ち着いてくる。
次に何をすべきか、私は考えた。
一年間、この世界に暮らしたと言っても、私の生活空間は皇太子さまお城だけだ。この隠れ家からエスクードの下に帰るには、エスパーダを説得するしかないのに、彼を追い詰めてしまった。
戻って来てくれるだろうか。戻って来たとして、私をエスクードのところへ帰してくれる?
――もう一度、エスパーダと話をしよう。
多分ね、エスパーダはアリスエールを慕う感情にだけに支配されていて、本当の意味での自分の気持ちに気づいていないのだと思う。
彼は、寂しいのだ。
その寂しさに気づきたくなくて、ただアリスエールへの恋情だけにしがみ付いた。
エスクードが話してくれた思い出話。アリスエールと遊んでいると、エスパーダが怒って割り込んできた、と。
本当はエスクードやアリスエールの輪の中に、エスパーダも入って行きたかったんだろう。
自分が抱えている寂しさに気づけば、エスパーダは変われるだろう。だって、私自身が変わった。
この世界に来て、寂しさを知って、周りの人たちの優しさに触れたなら、もう一人ではいられない。
差し出された手のひらの温もりの愛おしさを知れば、エスクードに会いたくて、どうしようもなくなる。
ねぇ、この気持ちは、アリスエールを慕うエスパーダの恋心と違わないでしょう?
今の私なら、エスパーダを理解できる。ううん、しなくっちゃ。
そして、あの人をエスクードのところへ連れて行こう。
馬鹿な弟と言いながら、それでもエスパーダに正面から向かって行ったエスクードは、何だかんだと言いながら、弟を心配しちゃうんでしょ?
そういう人よ。
私はもう一度、ドアと向き合う。扉を押したり引いたりするけれど、びくともしない。
ここからでは無理だろう。一度、外に出てみよう。
重たいカーテンが下がった窓辺へと私は足を向けた。カーテンを開くとガラス戸があり、その向こうにはテラスがあった。ここからならば、外に脱出できる。
私はガラス戸を開け、テラスへと踊り出た。
「………………」
そうして目の前に広がった光景に息を飲んだ。
自分が目にした光景を、強制的に目蓋を伏せて遮断する。
今、私は何を見た?
富士の樹海を上空から見たような……そんな光景が映ったような気がしたけれど。
き、気のせいよね?
私は頬が引きつるのを自覚しつつ、自分自身に言い聞かせた。
今見たのは、錯覚よ。だって、ここはどう見てもお屋敷じゃない? そのテラスの外に樹海が広がっているなんてありえないわ――しかも、眼下に!
皇太子さまのお城の展望塔から見たときの高さじゃない。フレチャの背に乗って空を飛んだときに匹敵する位置からの光景だった。
そんな高いところに人が住む家が建っているわけないわ。
――落ち着いて。もう一度、確かめてみましょう?
そう自分に命じて、そっと目蓋を開ける。強く瞑っていたせいか、視界はかすんでいた。少しずつ色が馴染んでくる。
夜明けを迎えているのか、藍色から水色へのグラデーションの空と深い緑の樹海が目に映る。
私が思わずテラスの手すりに寄って、眼下を確認すれば、この屋敷は断崖絶壁のぎりぎりの位置に建っているらしかった。テラスの下は岩肌剥き出しの崖だ。
「……監禁する気、満々ね」
こめかみに冷や汗が流れた。この部屋はアリスエールのための部屋だと、エスパーダは言った。
つまり、彼女を閉じ込めて、逃さないように……意図された部屋だ。
私の脳裏に数年前にニュースで見た監禁事件が浮かぶ。女性を一室で何年も監禁していた男がいた。その悪質さに恐れ戦いた記憶が蘇れば、決心が揺らぎそうになる。
……エスパーダを説得できるかしら?
弱気になりかけた気持ちを振り払うように、私は首を振った。駄目駄目、私がしっかりしなくっちゃ。
左右を見回す。隣の部屋があるらしく、そこにもテラスがあった。
隣の部屋に行ってみる? 人がいるかもしれない。いなくても、その部屋の扉には鍵が掛かっていないかもしれない。そうすれば屋敷内を歩き回れるはずだ。
この部屋でじっとエスパーダを待つよりは、いいだろう。
――問題は、隣のテラスまで五、六メートルはありそうなこと。壁はつるりとしていて足を引っ掛ける場所がない。
でも、カーテンがあるわ。あれを引き裂いて、ロープを作って向こうに投げつけるの。よく映画の脱出シーンで見かけるじゃない? ロープの先に何か大きなものを結び付けて、あちらのテラスの手すりに引っ掛ける。それからロープをピンと張って、後は綱渡りの要領で向こうへ行くのよ。
「よし!」
私は気合を入れるため声を吐きだし、カーテンでロープを作るべく部屋に戻りかける。そこへ崖の下から吹き上げてきた冷たい風に髪を乱され、私は我に返った。
そして心の中で自分に向かって叫んだ。
ちょっと待って、落ち着きなさい、私!
そんなことが本気でできると思っているの?
動きづらいドレスという格好もあるし、下は数百メートル以上ありそうな絶壁。落ちたら死ぬわよ?
脳内で冷静に語る自分の声に、私は胸に手を置いた。焦りすぎて、自分ができることを見失っているみたい。
「駄目、落ち着いて。私はエスクードの下に無事に帰らなきゃいけないんだから」
心配しているだろうエスクードを安心させるために。
ううん、私がもう一度、彼に会いたいから。
こんなところで無謀なことをしていられない。
「だけど……じっとしていったって」
エスパーダが私を帰してくれる気にならなければ、ここから出られない。
行き詰りの現実に、私は唇を噛んだ。
どうすればいいだろう? どうすれば、あの人にもう一度、会えるだろう?
会って、伝えたいことがある。今の私は言葉で想いを伝える術を持っている。自分の声で、言葉で、気づいた想いを彼に届けたい。
「……エスクード、会いたいよ」
願いをそっと口にした瞬間、懐かしい声が私を呼んだ。
「――――アリス」
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