第30話 帰る場所



 私は何度も繰り返す。

「私はアリスエールじゃないわ!」

 エスパーダの血相が変わった。形相が変わったと言っていいだろう。

 言葉が通じたというわけじゃないと思う。私は日本語で語ったのだから。それが別人と判断された原因?

「――お前、何者だっ? アリィじゃないなっ? アリィとは声が違うっ!」

 声で別人と認定されたようだ。容姿が似ていても、声までは似ていなかったらしい。エスクードたちの前では一言も喋っていないから、私としても初めて知る事実だ。

「だからそう言っているじゃないっ!」

 私は声を荒げて反論した。勢いに任せて声を出さないと、目の前のエスパーダに気圧されて呑みこまれてしまいそうだった。

 釣り上がった眉、剣呑な瞳、引きつった頬に、歪んだ唇。

 エスクードと同じ面差しが、これほど凶悪な人相に変わるとは信じられなかった。

 手に入れたと思っていたアリスエールの存在が別物であることを知り、彼の中で怒りが爆発している。

 私の頬に触れていた手が私の肩を掴んで、床へ押し倒された。絨毯が衝撃を殺してくれたけれど、掴まれた肩の骨が軋む。

「痛いわっ! 離してっ!」

 怯えてしまったら負けのような気がして、私はエスパーダを睨み返した。

「オレにわかる言葉を喋れっ!」

 怒鳴り返してくるけれど、それは無理な相談だ。喋れるのなら、とっくの昔にエスクードに自分のことを話していただろう。

 それができなくて申し訳ないと、何度思ったことか。

 彼が話してくれる言葉が聞き取れるようになってからも、耳にする音と実際に口にする発声が一致するとは限らない。自分の発声に自信が持てなくて話しかけられずにいた。その前に声が出せないという嘘をついた後ろめたさがあったのも事実だけど。

 それを簡単にできるような言い方で、気安く注文をしないで欲しい。

「私に出来ることを言って頂戴っ!」

 だからそのまま、日本語で言い返してやった。売り言葉に買い言葉の口喧嘩に近い。

 正直、自分がこんな大声を出せるとは思わなかった。両親を亡くしてから、自分を殺してきたこともあるし、常に周りから一歩退いた位置にいた。

 感情任せの声なんて、何年も出した記憶がない。

 それにこの一年、喋れないふりをして、実際に声を出して喋ったのも、思い出す限り先日の森林火災の現場でフレチャに話しかけたときだけだ。

 久しぶりに気兼ねせず声を出せることに気持ちが高ぶっているのだろうか。

 それともこの迷惑男に、私、キレちゃった?

 エスクードの苦労を思うとね、ちょっと黙っていられない気がしてくる。

 子供の彼に負けたら、エスパーダは自分が正しいと思い込んでしまうだろう。いえ、否定意見を聞き入れない彼は、いつだって自分が正しいと思っている。

 その自己至上主義が、どれだけ周りを困らせたのか、少しは知りなさい!

 私はエスパーダを思いっきり突き飛ばす。

 肩を掴んだ力はやっぱり男の人だと思ったけれど、エスクードと違って薄い胸板はバランスを崩すと呆気ないほどたやすく引き剥がせた。しかし、立ち上がって逃げようとしたところで、足首を掴まれた。引きずり倒される寸前、私はヒールでエスパーダの腕を蹴った。

「くそっ!」

 体力や握力といった運動能力は男女の差が歴然としているけれど、反射神経では私と変わらないようだ。

 彼の拘束から逃れ、私は長椅子の向こうに逃げて距離を置く。

 武器になるとは思えないけれど、枕にしていたクッションを持ち上げ、いつでも投げつけられるような体勢でエスパーダを睨む。

 これが花瓶などの凶器になりかねない物なら、エスパーダも見すごしはしないだろう。でも、羽毛入りのクッション相手に魔法で攻撃するほど、大人げなくはないわよね?

 というか、この人の常識は子供のそれなので、甚だ怪しいけれど。

 せめて、一息付くぐらいの間を置いて、冷静さを取り戻して欲しい。

「何なんだっ! お前はっ?」

 尻餅をついた姿勢からエスパーダは問う。

 直ぐに動き出さないということは、激情は冷めたと考えていいだろうか。そうなるとあまり刺激したくない。

 エスパーダにどれだけ私の言い分に耳を傾ける気があるかどうか、わからないけれど。第一にジェスチャーでどれほど伝わるのか、疑問だけれど。

 とりあえず、私をエスクードのところに帰して貰わなければ。

『――アリスっ! 俺を呼べ、何処へだって迎えに行く!』

 脳裏に連れ去られる直前に聞いた、彼の声が蘇る。

 迎えに来てくれるとエスクードは言ったけれど、この一年、エスパーダの消息を掴めなかったのだ。

 この隠れ家――なのだろう。随分と手入れがされているところを見ると、定期的に掃除が成されていると思う。多分、人を雇っているのだろう。でなければ、この人に外の噂話を集めるなんて芸当、できそうにないもの――を、エスクードが直ぐに見つけてくれると考えるのは、楽観的過ぎる。

 それに足手まといになりそうな予感があったのに、宮殿内に留まらずにエスクードの後を追ってしまったのは私の失態だ。彼が守ってくれると言ったその言葉に甘えて、迷惑を掛けてしまった。

 きっと今頃、あの人は私を心配して、そして自分を責めているんじゃないかという気がする。

 エスクードはそういう人なの、そうでしょう?

 少なくともこの一年、私が見てきたエスクードという人はそういう人だ。

 優しくて、責任感が強くて、真面目で――笑うと素敵で。時にユーモアがあって、皇太子さまと楽しげに会話して、私の手を引いてくれた。

「また」と、私に約束をくれた。明日に繋がる約束が嬉しいと思えたのは、両親を亡くしてから初めてだった。

 色々なことを忘れていた私に、エスクードは沢山のことを取り戻してくれた。

 寂しいと思うことも、嬉しいと思うことも。ドキドキしちゃうことも、誰かのために綺麗になることも。

 そんなエスクードのお荷物だけにはなりたくなかった。

 なってしまったら、私はこれから彼の傍にいられない。それは嫌なの。私は今まで通り、エスクードの傍にいたい。

 もうここまで来たら自覚しないわけにはいかないだろう。

 私は――彼が好きなんだ。特別な人として、好きになってしまった。

 エスクードの隣で笑っていたい。そして、心配してくれただろう彼に、「大丈夫だったから」と笑って、彼にも笑って貰いたい。

 そのためには、私が無事に彼の下に帰りつく必要がある。

 私の帰る場所はエスクードの元なのだ。

「私は――違う世界からきたの」

 日本語で一度告げて、それからこちらの言葉を真似てみた。どうにも発声が怪しい気がする。だって、エスパーダが眉間に皺を寄せて、意味がわからないという顔をしているから。

 ああ、ノートか何か書くものがあれば、筆談できるのに!

 辺りを見回すけれど、この部屋には筆記用具は見当たらない。

「もう、どうして鉛筆の一つもないのよ?」

 苛立ちが唇からこぼれた瞬間、喉に冷たい感触が這った。

 視線が離れた隙にエスパーダは体勢を取り戻し、私の背後に回っていた。細い指が前方に回り込んで、五本の指が私の首を掴んでいる。

 エスクードの鍛えられた手のひらとは厚さも大きさも違う。それでも男性の手の大きさは私の首を片手で掴むのに、造作はない。

 ほんの少し力がこもれば、私の喉は簡単に潰され息が出来なくなるだろう。

 ――殺される?

 背筋に悪寒が走る。アリスエールと別人と知れた以上、エスパーダにとって私は何の価値もない人間だ。

 アリスエールを救うために他人の命がどうなっていいと言いきった彼は、私の命を潰すことに躊躇しない。

「……喋ってみろ」

 ぼそりとエスパーダの声が響いた。改めて聞いていると、明朗なエスクードの声と違って、エスパーダの声は愛想がない分、刺々しく響く。

「えっ? 喋る?」

 口から出た言葉は日本語だったはずなのに、耳に響いた私の声はこちらの世界の言葉を喋っていた。

「――何をしたの?」

「魔法で言語変換しただけだ……お前、そんなことも知らないか」

 馬鹿にしたような口調にムッとしないでもない。エスクードだったら、丁寧に教えてくれるだろう。

 第一に私はこういったことを教えて、と言うに言えなかった。そんな事情を口にしたところでエスパーダは耳を貸さないだろうから、言わないけれど。

「……言語変換って、簡単にできるの?」

 私は呟きながら考えた。

 竜騎士がドラゴンと契約する際、魔法で会話するのかもしれないと考えた。恐らく、同じような魔法なのだろう。

 多分、簡単ではない。竜騎士になるには相応の魔力を持っていなければならないという話だったから。でも、宮廷魔術師に上り詰めたエスパーダには簡単な魔法だろう。

 私が思考を巡らせていると、エスパーダはグイッと私の肩を掴んで、姿勢を強引に反転させた。

 乱暴に揺さぶられた視界が定まり、恐る恐る顔を上げると、鋭く刺すような蒼い視線が私を睨んでいた。


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