第29話 箱庭
真っ黒な闇が広がっていた……。
目を塞がれているのか、真実――闇の中にいるのか、わからない。
何処へ向かえばいいのか、一歩を踏み出してよいものかもわからない。怖くて立ち尽くすしかない私はただ闇の中で首を巡らせた。
振り返った先に仄かな明りが見えた気がした。
ぼんやりと白い人影が揺らいだように映る。
……誰かいるの? エスクード?
一番に私の頭に浮かんだのは、その名前だった。
この一年、私の傍にいてくれた人。金色の髪、蒼い瞳、優しい笑顔が私の脳裏に浮かぶ。ただそれだけで、私の内側に小さな希望が、蝋燭の炎のように灯るのがわかった。
勇気とでも言おうか。闇に対する怖れを振り払って、私は白い影に目を凝らす。
よく見ると、人影はエスクードにしては小さい気がした。距離があるからなのか、それすらも闇の深さにわからない。
ただ、助けを求めるように手を伸ばす。
白い影もまた鏡に映すようにこちらに手を伸ばしてきた。指先が触れた刹那、声が聞こえた気がした。
――――わたしのせいで、ごめんなさい……。
声が謝るとともに、白い影は闇に溶け――そして、私の視界は光を取り戻した。
――今のは……夢?
闇の中から突然、光の中に引き出されたせいで眩しさに目が眩む。一度、目を伏せて、ゆっくりと目蓋を押し開き、徐々に光に慣らす。
白色に焼かれていた視界は色を取り戻し、輪郭を結んだ。
最初に目に入ってきたのは花模様を散らした天井だった。そこからぶら下がったクリスタルのシャンデリアは蝋燭の明かりを幻想的に散らしている。
部屋を囲う三方の壁に貼られているのは蔦薔薇の壁紙。床には、ふわふわと毛足の長い絨毯が敷かれ、中央には猫足細工の丸テーブル。テーブルの上には果物が盛られた器に曇り一つないクリスタルのグラスや水差し。
壁際のサイドテーブルに置かれた白い陶器の花瓶から溢れる白、赤、薄紅、紫に黄色といった色とりどりの薔薇の花。
飾り棚には絵皿が並べられ、傍らのチェストには愛らしい陶器の小物入れ。木製の宝石箱の蓋は開き、そこからサファイアのブローチやルビーのネックレスなどか煌めいていた。
整然と、それでいて華やかに飾られた室内が目に映る。
そんな部屋の外窓寄りに置かれた長椅子の上に、私は身を横たえて眠っていた。
枕にしていた天鵞絨のクッションから頭を上げると、ドレスの上に肩が冷えないようにという心配りからか、濃紺のマントがかけてあった。
マントの一部に切り裂いたような穴が開いている。そのマントの持ち主が誰であるかを思い出して、私は背筋を震わせた。
――私、エスパーダに……っ!
意識が途切れる前のことが蘇る。宮殿にエスパーダがやって来て、彼は私をアリスエールと間違えた。
そして……。
「起きたのか、アリィ」
声が思いの外、近くから聞こえて、私はビックリして長椅子から転げ落ちた。床にお尻をついた姿勢から顔を上げると、長椅子の背凭れに腰を掛けた姿勢で彼はいた。
彼の背後には窓があるらしく、天鵞絨の重たげなカーテンが外界を隠していた。
肩まで伸びた金色の髪。シャンデリアからこぼれる灯りの下で見ると、インドア派と断言できる白い肌。蒼い瞳の色合いは彼と同じだけど、肩も腕も肉付きが薄く、華奢な印象を受ける。背凭れに掛けた指も細くて、エスクードと似ているのは面差しだけだった。
その顔も顎の下が赤く腫れ、唇の端に血が滲んでいる。エスクードに殴られた痕だろう。内出血した痕がまだ黒くなっていないということは、それほど時間が立っていない。
私は絨毯の上にお尻を這わせながら、じりと後退した。
「そんな顔をするなよ、アリィ」
眉をひそめて囁く彼は、なんだか悲しげだった。
「突然、こんなところに連れて来て悪かったよ。でも、わかるだろう? あそこにはいられなかったんだ」
真っ直ぐに私を見つめて、エスパーダは言う。
「あいつらはオレとアリィを引き裂こうとする。だからさ、誰にも邪魔されないここに連れて来たんだ」
どこをどう結論付けたらそんな答えが出てくるのか。私はわからなくて、唖然とする。
いえ、……エスパーダはそういう人だと、エスクードが教えてくれたじゃない。
他人の迷惑を省みず自我を通し、人の話を聞かない――困った弟だと。
実際、私の戸惑いを余所にエスパーダは立ち上がると室内を歩きだした。くるぶしまである長衣が毛足の長い絨毯に触れて、衣擦れの音が大きく響いた。
「ここはさ、アリィのためにずっと前から用意してあったんだ、気に入ってくれるよな?」
花瓶から一輪の薔薇を抜き出し、それを私の方に差し出してきて言った。
「アリィは薔薇の花が好きだっただろ? オレ、ちゃんと覚えているんだぜ」
そのことを褒めてくれと言わんばかりのエスパーダを、私は床に座り込んだ姿勢のまま見上げた。
この人は……どうしようもなく、子供だ。
差し出された薔薇を受け取らない私に焦れたように、エスパーダは私の前に膝をついた。そうして、私の黒髪に簪のように薔薇の花を飾る。
「ああ、アリィによく似合う」
身じろぎできない私の反応など一欠けらも目に入れず、エスパーダは蒼い瞳を細めて嬉しげに笑った。
笑顔はエスクードの面影を濃くするけれど、私の胸の内は冷えたままだ。
エスパーダの指がこめかみから頬に滑る。力仕事を知らない細い指先は柔らかいけれど、冷たい。
私はエスクードの鍛えられて大きく硬くなった手のひらを思い出して、目頭が熱くなった。
どうして私は、彼の傍にいないのだろう?
ここにいたら駄目なのに……。
エスクードに迷惑を掛けちゃうのに……。
私は身動きできずに、エスパーダの前に凍りつくしかない。
「……アリィが死んだって話を聞いて、オレがどれだけ苦しんだか、想像つくか?」
エスパーダの問いかけに私は首を横に振った。
自分の意志を表に出さないと、このまま私の存在はエスパーダの歪んだ思慕に、アリスエールとして取り込まれてしまいかねない気がした。
「泣いて泣いて喚いて、アリィを冥界から連れ戻す術を探して、実行したんだ」
――何ですって?
私は告げられた言葉に、目を見張った。
それは死者を蘇らせるということ? アリスエールを蘇生させた? そんなことできるの?
私は可能性を思考して、直ぐに頭の中で反駁した。
いいえ、できるはずがない。生きている人間の寿命を繋ぐための禁術に、他人の命を必要としたという話だもの。
死者を蘇らせるなんて、簡単にできるはずがない。無理よ、幾らエスパーダが宮廷に仕えるほどの高位の魔術師だとしても……無理に決まっている。
「半年分ぐらいの魔力を使い果たして、寝込んだんだぜ。それでもアリィが戻ってこなくて失敗したと思っていた……」
実際に失敗したのだろう。成功していたら、私ではないアリスエールがここにいるはずだ。でも、彼女はいない。
ここにいるのは、アリスエールに間違えられた私だ。
ううん――術は違う形で成功したのかもしれない。
もしかしたらその術こそが、私がこちらの世界に迷い込んだきっかけなのでは? 前に一度考えた可能性が、にわかに現実味を帯びてくる。
冥界へ干渉するはずが、間違えて私のいた世界に干渉した結果、彼はアリスエールと同じ形を捕まえた。
アリスエールに似ている私の容姿は、形だけは彼女と同じだ。
そうして、こちらに引きずり寄せた――それなら、誰かの命を犠牲にするまでの大きな術ではなかったのかもしれない。
束の間に見たあの夢は……もしかして、この事実への予感が見せたもの?
あの声の主は、アリスエール?
「だけど、違ったんだな。アリィは生きていたから、失敗して当然だったんだ。ああきっと、あいつらがオレを諦めさせるために、病気だとか、死んだとか、でたらめな噂を流したんだろ?」
エスパーダの指が私の頬を撫でる。
「でも、もういい。アリィはオレだけのものだ。もう誰にも渡さない」
蒼い瞳は私を映しているけれど、私の姿を透かして見つめているのは、やはりアリスエールだろう。
エスパーダはアリスエールを無垢に、一途に愛した。それは間違いない事実だ。けれど、彼が見つめるのは自分に都合のいいアリスエールだった。
命が尽きる最期の瞬間まで皇太子さまを愛した彼女を、エスパーダは認めない。
アリスエールのために設えられた部屋。自分に都合のいいアリスエール。
ここはエスパーダが作った、彼のための箱庭だ。
――私はここにいてはいけない。
箱庭を完成させてしまったら、エスパーダは一生ここから出られないだろう。
「……違うわ」
日本語じゃ駄目だとか、そんなこと関係なく私は声を絞り出して否定した。
「私はアリスエールじゃないわ。私はあなたのアリィじゃないっ!」
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