第2話
ネイディア・シルバーパディは、取りついた観測衛星の足場から片足だけ踏み出して、はるか眼下に広がる地表を指差し音声通信を送った。
「――さあ、紹介するよ新人。この足下の糞ったれが、あたしらのご先祖が生まれた星さ」
極限環境のさなかにしては、余裕に満ちた軽口だった。
剛繊維と特殊樹脂と金属蒸着フィルムとが編み合わされた気密服の、幾重もの層を隔てた向こう側は、空気も重力もない宇宙空間――つまり、果てなく無間に拡がる、純粋なる死の世界だ。
いまや隣り合わせのそこは、降り注ぐ危険な宇宙線や、プラスマイナス三百度にも達する激しい温度差によって、ヒトが生存するために最低限必要な環境レベルすら満たしていない。そして宙にとどまったままに観測される彼女ら自身も、実際は秒速八キロメートル近い速度で地平線に向け落下し続け、この惑星をたった九〇分たらずで一周する人工天体の一部と化していた。
地球の周回軌道に乗った観測衛星に寄り添う形で、小型の宇宙船が浮かんでいる。〈SIMON-WRIGHT〉の船名が刻印された船体。球体の
アームの先端から釣り竿よろしく垂らされた白い命綱の先で、白い気密服を着込んだネイディアが観測衛星相手に危険な
今年で十九歳になるネイディア・シルバーパディは、人工衛星や宇宙ステーションなどのメンテナンス作業、漂流する多種多様な遺失物の物理的/電子的な
本日の彼女に与えられた職務は、この観測衛星の定期メンテナンス作業だった。
ネイディアは、アーム先に設置された船外カメラに手で合図を送ってから、自分の足下で正体を露わにしている、豹変した地球のありさまを眺めなおしてやる。
「地球がこんなになっても、まだ気象変化の兆候がある。そっちのモニターだと雲が映って見えるだろ? 地表を覆い尽くしたアーカイヴスの下に、まだ充分な水が残ってるんだ」
彼女が言う地表――観測衛星の直下、直線距離にしてたったの六百キロメートル先では、異様な光景がつくり出されていた。
地表が鈍い銀色の輝きを放ち、モノクローム質の荒野を全土に広げている。そして、海洋が存在しない。
かつてそこは、緑の大陸に青く色をなす海原をたたえ、多くの生命を内に宿す楽園だったはずだ。そのことを、いまもこの惑星を眺めることができる多くの者たちは、何らかの情報として記憶にとどめている。
送信先の母船から応答あった旨の電子音が鼓膜を刺激する。寸分のタイムラグを経て、
【――ええ、実は、私も肉眼であれを見るのは初めてなんですよ。地上は現在、世界的な雨期に入っているようです。これが死の惑星だなんて、あくまで人間ならではの視点なのかもしれませんね】
音声データが真空空間を越え、もう一人の女性の声が気密服内のヘッドセットまで送り届けられた。
【でも、母なる地球のあんな変わり果てた姿を、こう……実際に目の当たりにしてしまうと、スクリーン越しでは伝わらない何かに心を奪われるというか――そう、ゾッとしちゃいます】
軌道船サイモン・ライト号側から発言している、覇気のある声の少女が、ネイディアに新人呼ばわりされた人物だ。
「…………アーカイヴス。いまあたしらの足下に見える灰色のかさぶた野郎、全部がアーカイヴスだ」
そうぼやきながら、化学繊維で編まれたグローブの指先で、口振りほどの感慨もなく地表の銀をなぞってゆく。
透明なヘルメットバイザーの向こう側の世界。指の間からのぞく成層圏を越えた終着点は、溶けだした鉱物か何かを文字通り雨として降らせたとしか説明できそうにない、いびつな第二の地層を空に向けさらけ出している。
「こんなありさまじゃ、もうどこからがアメリカでどこまでがユーラシアかなんてわかったもんじゃないね。かつてあたしら人間様のつくった発明品のなれの果てが、いまやああして殻みたいに地表に張り付いて、勝手に居座ってやがる。糞ったれめ」
さながらウェハースのように地球をパッケージした〈殻〉状構造物群。地上を網目に覆うそれらの狭間に、辛うじて過去の姿をとどめる陸の茶と海の青も、いまや地球儀上のかすかな染みでしかない。
彼女らが〈アーカイヴス〉と定義した概念が、地表のすべてを自らの意志をもって覆い尽くし、人類をはじめとする本来の住人すべてを飲み干したあと、この固体惑星を化石同然の姿へと変容させていた。
想像を絶するスケールの、そしておぞましいばかりの光景だった。
見飽きた地球の観察にうんざりとさせられたネイディアが、メンテナンス作業を再開した。五メートル四方の立方体形状をした観測衛星本体を掴み、固定ボルトを緩めてメンテナンスパネルの蓋を開ける。そこから先の、より繊細さが要求される工程は、手の甲に装着されたマイクロアームが請け負う。チューブ状の微細な触手が基板モジュール上を這い回り、不具合や老朽化度合いについてスキャンしていった。
ネイディアの背後では、衛星の太陽電池パドルにはめ込まれたいくつかのパネルを、ロボットアームから分岐した補助マニピュレーターを遠隔操作して取り外している。
「ところでキーラ、この話は聞いてるか? 議会の老いぼれどもが、この期に及んで地上降下作戦なんてのまで計画してる、ってやつ。そのうち探索隊の募集がかかるって、同業の間じゃちょっとした騒ぎになってる。それも完全な大規模編成だ。あんた、どう思う?」
【――ええ、とっくに知ってるわ。でも、そんなのまだ構想レベルでしょう?】
次の応答は、先ほどの新人のものとは別の、大人びてどこか知的さを感じさせる女性の声だ。
【そもそも予算が通るわけないし、実行しようにも自殺行為だわ。あんな敵地のど真ん中に有人で降下するだなんて、正気の沙汰じゃない。それにもし無事降りられたとして、そのあとどうやって大気圏から離脱するつもりなのかしら。月でやるのとはわけが違うもの】
口調そのものは穏やかだったが、キーラと呼ばれた女はネイディアの振った話題を一蹴してしまう。
【いまやアーカイヴスが人間への敵対行動を見せなくなったのは、確かに事実よ。けれど、奴らがああして地球を掌握したから、あえて人間を駆除する必要性がなくなった、だから人類に対して危害を加えなくなった――なんていう俗説は、上の学者連中が勝手にそう主張してるだけ。なのにわざわざ相手を刺激する行動をとるだなんて、何が起こるかわかったものじゃない。議会も上への対抗意識ばかりで、平和ボケしすぎなんじゃないの。私たちは奴ら――アーカイヴスとの戦争に負けたのよ?】
やや語気を強めまくしたてるようにしゃべった彼女の心情を察したのか、ネイディアは両手をひらひらと広げて、
「あんたが聡明な思考の持ち主だってのはあたしらもわかってるよ、ウンザリとするほどね」
彼女がこうなってはお手上げだと、ひょうきんな仕草を母船に向けて寄越した。
【もう、茶化さないでよ。要するに、私たち人類がこうして宇宙に定着した現代において、いまさら地球奪還作戦だなんて絵空事でしかないって言いたいだけなの。軍事力面と環境面、そのどちらの見地に立っても現実的じゃないわ】
「かと言って、上の学者連中が躍起になってる星間植民船とやらでの地球圏脱出計画だって、それこそ絵空事の権化だろ? あんなデカブツまで建造しちまって、こっから一体どこへ逃げようってんだ」
【ま、どちらも私たち一市民ふぜいが首を突っ込むようなネタじゃないのだけは確かね。いくらうまい話が舞い込んできたからって、関わり合いにならないのが得策だと君にもアドバイスしておくわ、ネイディア〈降下隊長殿〉】
「へいへい、キーラ〈艦長代理〉。あんたの持論だもんな。地表にへばり付いたアーカイヴスどもを引っぺがしたけりゃ、素粒子反応兵器をしこたまぶち込んで地球ごと吹っ飛ばすか、あるいはアーカイヴスの天敵たる〈彼女〉らの、圧倒的な対アーカイヴス制圧能力に頼るっきゃない――」
言いかけたネイディアが急に命綱を一巻きほど手繰り寄せると、ロボットアーム上の足場から身を乗り出し、向かって直下となる地表側の方角を大げさに指差してアピールしだす。
「――ほらほらっ、あれを見なよ。奇遇なことに、ちょうどあちらにおわしますぜ」
彼女が示す先――サイモン・ライト号の後方に、いつの間にか小さな黒い粒に見える小物体が、ヘルメットバイザー越しの肉眼でも視認できる形で存在していた。
その小物体は、ただの宇宙塵か、そうでなければ正体不明の飛翔体に見えた。実測距離で言えばまだかなり遠く離れているにもかかわらず、想像を絶する速度で流れゆく地表とのコントラストを得て、異物感を浮き彫りにしている。
飛翔体との間に開けていた距離は、みるみる詰まってきた。相対的に緩やかな速度でこちらまで接近してきたように見えたが、実際は互いの軌道傾斜角にわずかな差があるせいで、斜め後方から出現した飛翔体との座標が偶然交差するにすぎない。
間もなくしてその飛翔体は、彼女ら漁師たちのたゆたう軌道の直下に向けて進み、その大きさと姿形をあらわにしていった。
〈彼女〉と形容された飛翔体の外装が陽光を受け、その全貌をさらけ出す。
まず色に驚かされる。この宇宙空間において本来不必要な、鮮やかな水色をしている。
外形も奇妙だ。機体と呼ぶにふさわしいこの飛翔体は、観測衛星や軌道船と同じ設計世代の工業製品とは思えない、うねるような有機的フォルムを描いている。
おそらく動力部と思われる、ターコイズブルーに塗装された円錐型の本体。その背面に備える四対の大型部位は、さながらアゲハチョウかヒレを広げたイトマキエイにも見える。
サイモン・ライト号との距離が徐々に狭まるにつれ、次第に人間たちも思い知ることになる。〈彼女〉の、その大きさだ。サイモン・ライト号を優に三倍を越える全長。その輪郭像からは、地上国家時代に存在した航空機のデザインを連想させられる。
だが、そう喩えるにはあまりに異質な部分があった。くだんの飛翔体は、これまでに彼らがお目にかかった経験もない、白銀色にきらめくヴェール状の素子を、その翼端すべてからから背に向けて広げている。それが果たして何の機能を持つパーツなのかすらわからない。衛星軌道の海原に、四枚の翼と広げたヴェールとを生物然と蠢かせ、既知のテクノロジーにない神秘性を観測者たちに向けまざまざと見せつけているだけだ。
そのありさまはまさに、衛星軌道を住処にして、病んだ惑星を上空から睥睨する怪物。
人工衛星――そう形容するにはあまりにも巨大で、そして異形の姿を、〈彼女〉が人間たちの眼前にさらけ出している。
漁師ネイディアがこう言葉を続けた。
「麗しの我らがお姫様――〈アリス=サット〉だ」
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