第2話

 中退したとは言え、そこそこの大学で民俗学や古典を学んでいた優にとって、石板に彫られた文字の解読はなんてこともないことだった。しかもこの石板はそれほど古くなく、明治三十年と記してある。

 書いてあるのは、太古より世界を支配していた妖魔たちを退治するため、妖術師である某が犠牲となって、妖魔ヶ穴という場所に封じ込めたとしてある。

 歴史を真面目に勉強してきた優にとって、この文言はにわかに信じられるものではなかった。神々とともに人間が協力して世界を作り上げたという神話を説くのであれば得心しないでもないが、妖魔なるものが世界を支配していたなどと。そして妖術師が身を呈して封じ込めたなどと。

 神秘主義者の中には確かに悪魔崇拝する者がいないでもないし、秘密結社における世間をはばかるような研究もある。

 優はさらに石板の文字を読みすすめた。

 妖魔を封じ込めた某の子孫がこの石板を代々受け継ぎ、同時に妖魔ヶ穴を封じた鍵も大事に祀っておくように注意書きがしてある。さらに、時々下等な妖魔を呼び出し、封じた世界での妖魔の宰相の様子を聞き出すように。としてある。そしてその隣には、妖魔を呼び出すと思われる呪文が書いてある。

 優はしばらく呆気に取られていた。これは何かのイタズラではないか? そもそもこんなものが池の底から出てくること自体がおかしい。子供が遊びで作って池に沈めたと考えるのが自然だ。

 ……だが、古文で真面目な文体からは、到底子供では作り得ないし、大人が冗談で作ったにしては手が込みすぎている。そこはかとない不気味さが漂っているのだ。しかも後半の部分の文字だけは解読できなかった。今まで見たこともない文字だったからだ。

 優は石板に書いてある解読できる部分にあるとおり、石板に手を乗せて呪文を唱えた。半分馬鹿馬鹿しいと思いつつも。

 何も起きない。

 やはり偽物であったか。優はくだらないことに時間を使ったと後悔した。そんな時間があれば自殺する方法でも考えたものを。

「死にたい」

 優は布団の上に寝転がった。

「あなた死にたいの?」

 不意に聞きなれない女の声がした。振り返ると着物姿の女、というより少女が部屋の隅にたたずんでいた。十代前半であろうか? 長い黒髪と白い肌が印象的で、赤い着物を着ていると、まさに和人形そのものだった。だがどこか妙に色気がある。切れ長の目といい、口元といい、子供では出せない妖艶さがあった。

「お、お前は誰だ? ど、どこから入ってきた? げ、玄関には鍵をかけていたはずなのに」

 怯えた子供のように優はどもりながら少女に問いかけた。

「アラ、呼んだのはあなたよ。現世に呼び出されるのは本当に久しぶり。でも、ずいぶん雰囲気が変わったのね。これはかなり化学が進歩したわね」

 少女は優の部屋を品定めするように見て回り、テレビや携帯、オーディオ機器などの機械類を興味深そうに見つめた。

「お前、もしかして妖魔か?」

 優は恐る恐る質問した。 

「そうよ」

 少女はこともなげに答えた。どこからどう見ても人間の女の子だ。ただ異常なくらいの色気と可愛らしさをのぞけば。その姿に優は全身総毛立つ思いだった。

「あなたが石板と呪文を使って呼んでくれたから、別次元から移動できたの。ありがとうね。さっそくだけど、報告をするわね」

「報告?」

「アラ、あなた報告聞かなくてもいいの?」

 噛み合わない会話に少女は少し考えてから、

「どうもあなたは部外者のようね。いつもの堅苦しい神主ではないから。確かに結界も張ってないし。ふふ。あなたさっき死にたいって言ったわね。結界の中にいなかったら、いくらあたしが下等な妖魔でも人間くらい簡単に殺せるわよ。死にたい?」

 少女は顔をゆがませた。そんな表情でも美しさは保っているのがかえって恐ろしい。

「し、死にたい。僕を殺してくれ。お願いだ」

「あはは。面白い人間ね。あなた死ぬのが怖くないの? あたしが今まで出会ってきた人間の男たちはみんな死にたくないって命乞いをしたものよ。まあいいわ。あなたの望み通り殺してあげる。でもその代わり、あたしの望みを聞いてくれる?」

「の、望み? 望みって?」

「妖魔の復活よ。あなたは何も知らないみたいだから教えてあげる。あたしはかつて妖魔たちを封じ込めた妖術師の子孫に時々呼び出されて、魔界の様子を報告をさせられていたの。だけど、ここ最近はずっとお呼びが掛からなかったから退屈してたの。でも、部外者のあなたがあたしを呼び出してくれたおかげで、もしかしたら魔界に封じ込められた妖魔たちをこの世に復活できるかもしれない。だから、その手伝いをあなたにしてほしいの」

 一度にたくさんのことを言われて、優は理解ができなかった。ただ、この少女の手助けをすれば、殺してくれる、ということだけは理解した。そこでふと思いついた。

「妖魔が復活したら、人間はみんな死ぬのか?」

「うーん。それは禍つ神様や魔王様の気分次第ね。今は人間を憎んでるからきっと沢山の血の雨が降るかもね」

「お願いだ。世の中の人間を殺してくれ。僕も死んでもいいが、同じく他の連中も殺してくれ。人間なんてこの世にいなくてもいいんだ」

「なかなかいい冗談ね。まあ、禍つ神様に相談してみるわ。ちょっと待って、あたしでも禍つ神様か邪神様くらい呼び出せないかしら」

 少女は石板に手を乗せて呪文を唱えた。すると宙に角を生やした真っ黒の男が現れた。

「なんだ。あなたなのね。所詮あたしの妖力ではあなたくらいしか呼び出せないみたいね」

 ニヤニヤと不敵な笑みを浮かべる有角の男は、優の部屋を見渡すと、ますますニヤニヤした。

「ふん。そこの男。お前だよ。この女誰だか分かってるのか? 夢魔だぞ夢魔」

「なによ。あなただって夢魔じゃないの」

「せいぜい取り殺されないように気をつけるんだな」

 男の夢魔は部屋の窓へとフワフワと移動した。

「どこへ行く気よ」

「久しぶりに現世に出てこれたのだから存分に楽しませてもらう。女どもを虜にして食い物にしてやるんだ。お前だって同じつもりだろう?」

 そう言うと男の夢魔は窓から外へ飛んでいってしまった。

「お、お前、夢魔なのか?」

 優は怖々質問した。妖魔だとは認識していたが、実際にどんな妖魔なのか分かると現実味が出てきて恐怖心がわきだしてきた。

「そうね。でも呼び出したあなたが、あたしを夢魔だと知らずに呼び出したから、子供の姿なんだけどね。まあいいわ。別に今は禍つ神様たちを復活させることが優先よ。あなた、妖魔ヶ穴って知ってるかしら?」

 妖魔ヶ穴。石板にも書いてあった、妖魔が封じ込められた場所のことだ。だが優は聞いたことがなかった。

 そこで携帯で検索をしてみると、これが見事にヒットした。

 ここ関東から西へひたすら遠い道のりの先にあることが分かった。妖魔ヶ穴を護る神社の宮司が観光案内をホームページにして、詳細に説明までしている。どうやら、パワースポット巡りの穴場として、知る人ぞ知る場所であるらしい。あまりにあっけなく判明したので逆に拍子抜けしてしまった。

 だが、問題がひとつあった。金銭面である。生活の厳しい優にとって新幹線を使ってでも移動しなくてはいけない距離の旅費を捻出する方がむしろ難しいと言えた。だが、妖魔が復活した後には死が待っているのだから、別に金銭に構ってる場合ではない。しかも人間は滅びるのだ。あるだけの全財産を使い果たしてでも行く価値はあると思えた。

「とにかく遠い道のりだけど、行けるのね?」

 少女は嬉しそうに顔をほころばせた。その笑顔は思わず抱きしめたくなるほど可愛らしいものだったが、彼女のことを夢魔だと知った今ではそれが恐ろしかった。

「まずは服を買おう」

 優は着物姿の少女を見ながら言った。この格好では目立ちすぎる。近所のショッピングモールであれば子供服くらい買えるであろう。

「いいわね。今の流行りの服がいいわ。あと、今の時代の娯楽って何? 何が楽しいの? 妖魔ヶ穴に行く前に楽しまない?」

 夢魔なのだからきっと快楽主義なのだろう。楽しいと思えることには積極的になるようだ。

「そういえば、名前を言ってなかったわね。あたしはりりり。あなたは?」

「優」

「まさる? よろしくね」

 りりりはまた恐ろしいくらいの可愛らしい笑みを浮かべた。

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