Fantastic Fantom Curse 輪廻の竜

草上アケミ

第1部 偽りの救済

インディム王国近郊 バルバエ街道

第1話 異形のある世界で

 夢を見た。

 そこは、赤い夕陽に照らされた白銀の森だった。地面には雪が降り積もり、木々の枝には氷柱つららが垂れ下がっている。

 見るからに寒そうな景色だったが、不思議と冷気は感じない。足元の雪に触れてみても、冷たさを感じることはできなかった。

 ふと顔を上げると、遥か彼方に二つの影を見つけた。

 小さな男の子と、もっと小さな女の子が森の中を進んでいた。

 男の子は、手袋を嵌めた手で女の子の小さな手を握りしめ、ずんずんと歩いていた。男の子は女の子よりも身体がずっと大きかったので、女の子は半ば引きずられるようにして歩いていた。

 男の子は女の子の方を見ることもなく、ただ真っ直ぐに森の中を早足で歩いていたが、女の子は後ろが気になるのか時々立ち止まって振り返ろうとしていた。

 けれども、男の子は決して足を止めることも手を離すこともしなかったので、女の子はいつまでも後ろを確かめることができなかった。

 女の子はひたすら先を急ぐ男の子に少しむっとしていたが、抗議することもなく黙って歩き続けていた。

 二人は休まず歩き続け、とうとう森の終わりが見えてきた。

 男の子は森が途切れているのを見て、女の子に何か話しかけた。

 それを聞いた女の子はぱっと顔を明るくさせて、疲れ果てていたにも関わらず男の子を引っ張って走りだした。

 森の出口に立ってその様子を見ていたので、女の子の嬉しそうな顔と男の子の少し困ったような顔がよく見えた。

 そして、側を駆け抜けて森から出た二人は——




 一台の幌馬車ほろばしゃが森の中を進んでいた。

 長い間使われていなかったのか森の道は荒れ放題で、大きな石が転がっていたり、大きな溝があったり、地面から木の根が突き出ていたりと、平坦な部分は殆ど無い。そのせいで、ゆっくり進んでいるにも関わらず馬車は常に横に縦にと大きく揺れていた。

 その上、車輪が何か大きな障害物に引っ掛かって宙に浮く度、積み荷と乗員の足下が一瞬持ち上がってどすんと落とされるという嫌なおまけまで付いていた。実に乗員の体力を奪う道であった。

「いつまでこんな道が続くのよ」

 馬車の後方から一人の少女が身を乗り出した。

 木箱が平積みされて足の踏み場も無い荷台の中で、少女は自分のため特別に空けられた狭い空間に、自前の荷物と一緒くたになって押し込められていた。

 少女は肩や肘に緑に染色した革を重ねた黒い革の上着を着ていた。下は厚手のズボンとロングブーツという服装で、頭には帽子と毛皮の耳当てを重ねてつけている。腰にはポーチとホルスターをぶら下げ、ホルスターの中には拳銃が収まっていた。

 帽子の下からはこの辺りでは珍しい豊かな真っ黒の長髪が零れていて、黒い瞳と合わせてとても魅力的だった。

 少女は振り落とされないよう幌を掴み、首を伸ばして外を見回した。

 頭上には高木の枝が広がり、昼だというのに薄暗い。道の脇には草や低木が自生し、視界を遮り見通しが利かない。緑の深さからして、まだまだ森は続くようだ。

 此処はリドバルド王国の西の果て、緩衝地域とインディム王国との国境の両方にぶつかる、所属があやふやな森である。

 馬車が向かっているのはインディム王国の大きな町で、少女は位置関係をよく分かっていないが、まだ随分と先にあった。

「リン、不用意に動くな。落ちても拾わないよ」

 御者台から容赦の無い叱責が少女に向かってとんだ。

 少女は声がした方をちらりと見て、溜め息をつくと身体を馬車の中に引っ込めた。少女は座り直して馬車の枠にもたれ掛かった。

 御者台には二人の人間が座っていた。一人は、手綱を握って二頭の六足馬を前に進ませている商人。この馬車の持ち主だ。

 もう一人は剣士で、こちらは少女のよく知っている人物だ。剣士は脇に立てかけた剣に寄りかかったまま、身じろぎ一つしていない。

 声を発したのは、剣士の方だった。

 剣士も少女と同じくらいの若者に見えた。

 剣士は明らかに丈の合わないぶかぶかの黒い外套を着ていて、手には頑丈そうな革の手袋をはめていた。外套の袖がかなり余るのか、折り返してピンで留めている。逆に、ズボンは丈が短すぎて裾をブーツの中に引き込めず、だらしなくはためかせていた。

 金のない傭兵が有り合わせの装備を身に纏ったような剣士の格好は、普通なら失笑ものなのだろうが、剣士の顔立ちがその悪印象を払拭していた。

 乾いた泥のような色の茶髪を、襟足を残して短く切り揃え、新緑色の宝石のような目は更に薄い色の睫毛で縁取られている。肌は旅をしている身とは思えない程白く、整った顔立ちと合わせて陶器の人形のような美しさがあった。

 たったそれだけで、普通なら道化にしかならないような格好が、絵物語の吟遊詩人のように映えてしまうから驚きだ。

 しかし、纏う雰囲気も人形のようにどこか生彩に欠けていた。美貌とは裏腹に人を引き付けるような魅力を感じない、何かが決定的に欠落してしまった空虚な目をしていた。

 見る目の無い者が見れば、気味悪がって警戒心を抱くだろうし、見る目のある者ならば、その目に底知れないものを感じてより一層気を引き締めるだろう。

 それが、少女の相棒の剣士だった。

「時々動かないとお尻が痛くてやってられないわよ。リーフは全然痛くないの?」

 少女――リンは剣士に言い返した。

 リンがさっきまで座っていた場所には藁の敷物が敷かれていて、馬車から伝わってくる振動を微弱ながらも軽減できるようになっていた。

 それでも長い悪路の前では焼け石に水で、長時間座っていると尻から腰にかけてかなり堪えた。

 今も、馬車から身を乗り出すことはやめたものの、リンは幌の枠に寄りかかって尻を床につけないようにしている。

「大した事はないと思うけれど。君はそんなに軟弱なのかい」

 表情筋を少しも動かすことなく剣士——リーフが応えた。リンの方に振り返らずに言ったが、声の調子だけで余裕たっぷりであることは伺えた。

 御者台にも同じ敷物が敷いてあり、剣士はその上に座っていた。剣士は馬車が出発してからずっと座ったままだったが、特に苦痛に思っていないようだった。

「誰かさんみたいに鋼でできてるわけじゃないからねーだ」

「キミのはただの贅肉だろう。むしろ貧相なボクのより衝撃を吸収しそうに思えるのだけどな」

 リンの嫌みに対してリーフは即座に切り返した。リンの顔が一瞬で真っ赤になったが、前を向いて座っているリーフには見えていない。

「……うるさい」

 リンはむくれると敷物の上にぺたんと座った。

 その様を横目で見て、馬の手綱をさばいている商人が軽く笑った。

 商人は標準的な旅装束にマントという格好で、年は四十に差し掛かったくらいに見えた。丁度自分の子供と同じくらいの若者同士の痴話喧嘩が微笑ましく思えたのか、特に邪見にする様子もなかった。

「お二人共、仲が良いんですねぇ。組んで長いんですか」

「いえ、この稼業の日は浅いです。しかし、腕は保証しますよ」

 リーフが静かに言った。

 リンとリーフは商人のただの同行者ではなく、雇われた護衛である。対人戦に優れた剣士のリーフと、モンスターや野獣の相手に慣れている銃士のリン。

 リーフが正直に言った通り二人は組んで日が浅いが、盗賊が出ようがモンスターが現れようが、多少のトラブルならこなせると自負していた。

 その腕前は商人も確認済みであり、安心して二人を雇っていた。

「それは頼もしい。できればそのお手並みを拝見せずに終わればよいのですが」

 商人は常に落ち着き払ったリーフに感心しながらも、苦笑いを浮かべて言った。

事実、護衛に出番があるような時には商品に傷がつき自らの命が危険になるし、戦果によっては護衛に追加報酬を払わなければならない。何も無いことが一番なのだ。

「確かに、それが一番かもしれませんが……そうもいかないようです」

 リーフは突然前方を睨み、腰を浮かせた。寄りかかっていた剣を腰のベルトに通したホルダーへ挿し、臨戦態勢を整える。

 さっきまでの人間味の薄い様子とは打って変わって、リーフは明確な敵意を進行方向にとばしていた。

 ただならぬ様子に、商人もつられて遠くへと目を凝らす。

 特に不穏な影は見えなかった。寧ろ開けていて明るく、見通しがよかった――不自然なほどに。

「まさか、この辺りまで迫ってきているとは……」

 異変に気がついた商人の顔が険しくなった。

 出掛けに確認した地図上ではまだ深い森は続いている筈なのだ。それが途切れているということは、異常事態に相違なかった。

「抜ける瞬間にとばします。瞬間的に揺れるのでご注意を」

「分かりました。リン、しっかり掴まれ!」

「そっちこそ振り落とされんじゃないわよ」

 リーフは膝立ちで御者台に座り直し、幌の枠を掴んだ。リンも慌てて馬車にしがみついた。

 馬車は開けた場所に近づいていった。森の出口近辺とは思えない程まだ道は険しかったが、商人は手綱を勢いよく振るった。

「ハイヤッ!」

 掛け声をしたが早いか、それまでとろとろと歩くことを強いられていた二頭の六足馬は、喜び勇んで全力で駆け出した。

 途端に、木の根に後輪が引っ掛かり、馬車の後部が完全に宙に浮いた。

「うぎゃっ」

 馬車が壊れてしまいそうな勢いで地面にぶつかった。馬車に身体を密着させていたリンは衝撃を全身で受け止めて、思わず呻き声を漏らした。口はしっかりと閉じていたので舌を噛むことはなかった。

 しかしそんなこととはお構いなしに馬車はぐんぐん加速し、森の中で上げられる限界の速度に達するのと同時に開けた場所へと抜けた。

 森を抜けたそこは、荒野だった。

 木が一本残らず食い尽され、背の低い草が一面に生えているだけの、痩せこけて何もない荒れた土地が延々と続いていた。

 振動を堪えて馬車の後ろから外を見ていたリンの目には、森の外縁の木々が映っていた。

 木々は皮を剥がされ、幹を抉られ、葉を毟られて、無惨な様を晒していた。おそらく、立ち枯れするよりも先に根まで残さず胃袋に収まってしまうだろう。

 広大な森を荒野へと変えていく暴食ぶりに、リンは思わず顔をしかめた。

 近いうちにこの周辺の地図は描き変えられるだろう。リドバルド王国とインディム王国の境の森ではなく、モンスターの土地である外地イパーナの荒野として。

 商人たちの裏道であったこの道も、外地となってしまっては放棄されざるを得ない。この使えなくなった道における第一の被害者になってしまったのが自分たちであるという不幸に、リンは前もって心の中で嘆いておいた。

 後で嘆くことすらできなくなるかもしれないからだ。

 森を食い荒らす犯人は、間もなく一行の背後に姿を現した。


  キィーーン、キィーーン


 独特の高い鳴き声を上げながら、若木の芽吹きを拒む硬い大地を蹄で蹴り、鹿の群れが馬車に迫ってきた。数は丁度十頭。

 鹿たちはどの個体も馬のように大きく、頭に茨のような刺々しい角を一対揃えていた。胴は荒野に溶け込むような枯れ草色、口の端にはジャコウジカのような牙が見えた。

 この鹿は、オオカイタクジカという中型モンスターである。オオカイタクジカは草本を一切口にせず、立派に育った木のみを餌とする。だが、成体の大きさだと森に入り込むのに角が邪魔なので、群れで削り取るように森を食い尽していく。

 完全な草食であるが、非常に気性が荒く、群れに他の動物が近づこうものなら集団で襲いかかる習性がある。その襲撃方法もかなり悲惨で、角で串刺しにして息の根を止めるだけでは止まらず、蹄で骨か肉かも分からなくなるまでにぐちゃぐちゃに踏みつぶして大地の肥やしにしてしまう。

 その獰猛さは、同じ中型モンスターで肉食のヤツハオオカミに匹敵するとさえ言われ、反撃されても諦めることなく息の根を止めるまでしつこく追いかけくる。

 商隊殺しとして有名であり、外地を行く商人の間では『人殺しの鹿』と呼ばれ怖れられているモンスターの一つだ。

 もし追いつかれてしまえば、万に一つも命はない。

 幸い、家畜化モンスターの六足馬はオオカイタクジカよりも遥かに足が速く、馬車を引いている状況下でも追いつかれない速さで走ることが出来る。

 だが、森の中では十分な加速が出来ず、平原でようやく本気を出せた六足馬と、最初から殺す気で襲いかかってくる鹿では、後者の方がまだ速かった。

 六足馬は徐々にスピードを上げているが、鹿の群れはそれ以上のペースで追い上げてくる。

 追いつかれるのは時間の問題だった。

「迎え撃つぞ、リン!」

 このままでは逃げ切れないと悟ったリーフが鋭く叫んだ。

「出番ってわけね。合点!」

 リンは馬車の脇に積まれていた木箱を二つ取ると、自分の正面に並べた。

 続いて自分の鞄を一つひっくり返し、中身を片方の木箱の中に全てぶちまける。鞄からじゃらじゃらと銃弾が落下し、一山を築く。銃弾は全て対モンスター用の特別仕様だ。

 厚手の革手袋をはめ、両耳を耳当てで覆う。銃身による火傷と発砲音による耳の障害を防ぐ為には、どうしても必要な装備だ。

 続いて、リンは荷物の上に置いてあった猟銃のストラップを掴んで引っ張りよせた。猟銃は上下二連の中折れ式の大口径で、普通の熊を一撃で仕留めることも可能な代物である。

 猟銃を二つに折って銃弾を装填し、構えると同時に引き金を引く。

 重い爆発音と共に、銃弾が迫り来る鹿の胴に突き刺さった。

 被弾した鹿は転び、馬車を追う群れの中にあっという間に埋もれた。しかし、転んだ鹿が群れの妨げになることは無く、倒れた仲間を軽々と飛び越えて尚も鹿たちは襲いかかってくる。

 別の一頭の頭蓋を撃ち抜き、即座に銃を肩に担ぐように反転させる。反転の勢いで機関部を開くと空薬莢が空いた箱へと落ちた。

 左手で銃弾を乱暴に、しかし正確に空いた場所へと突っ込み、右手首のスナップで機関部を閉じて装填。再び銃口が二回火を噴き、今度は一頭の鹿が群れから脱落した。

 続いての二連撃は虚しくも両方外れ、そのうち一発の弾丸は、鋭く尖った角を中程から折り取ったが、当の本鹿は全く頓着する様子は無かった。

 リンが銃を撃っている間も、気性の荒すぎる鹿たちはじわじわと馬車との距離を詰めていた。

 このままでは追いつかれ、最初にリンが血祭りに上げられるのは防ぎきれない。普通の娘なら恐怖に慄くのだろうが、それでもリンは冷静だった。

「リーフ、援護!」

 次弾を装填しながらリンは背後に向かって怒鳴る。そして返事を待つ事無く鹿を撃った。

 今度の弾丸は二発とも命中し、鹿の群れは半数まで減った。

 それでも、血走った目をしたモンスターは馬車を見逃してくれそうもなかった。

「はぁっ!」

 気合いのかけ声と共に、馬車の奥から瓶が投げられた。

 先頭を駆けていた鹿は飛来物を鬱陶しげに角で薙ぎ払い、瓶を砕いた。瓶の中に詰まっていた粘度の高い油が飛び散り、先頭の鹿だけでなく後方の鹿の身体と角にもまとわりつく。

 リンは腰のポーチから発火弾を取り出し猟銃に装填、油をかぶった鹿を狙って撃った。

 弾頭に特殊な火薬を詰めた弾は、着弾と同時に微かな炎を作り出した。その瞬間、鹿の背中は燃え上がった。

 いきなり火を点けられてパニックを起こした鹿は周囲の鹿に体当たりをし、火のついた油を周りの鹿へと撒き散らす。

 銃声に怯む様子を見せない化け物鹿も、火だるまになって藻掻き苦しむ同胞の前に追撃を中断せざるを得なかった。

 六足馬も加速を終えて全開で走っているので、今から追いつかれる心配はない。

「やったね」

 リンはガッツポーズをとると、背後に振り返った。背後には、念のため次の油瓶を持って待機していたリーフが腰を低くして立っていた。

「現金な奴……」

 さっきまでの不機嫌が嘘のようなリンに、リーフは呆れてぼそりと呟いた。

 だが、安心するにはまだ早かった。

 リーフは何かに気付いたようで、弾けるように馬車の前方に顔を向け、舌打ちをした。

「今度は前からか」

 森の道は途切れてしまっているが、全て無くなった訳ではない。現に、馬車は僅かに残る轍の跡を頼りに以前森の道であった場所を走っている。

 道の跡を辿っていけば、まだ食い荒らされていない森の中に逃げ込める。ただ、森と荒野の境界はオオカイタクジカの縄張りなのだ。別の群れが十中八九襲ってくるだろう。

 しかも、次は背を向けて逃げるのではなく、正面から迎え討たなければならないのだ。危険度は先程よりも遥かに高い。

 既に森は目の前に見えていた。

 リーフが御者台から身を乗り出し、周囲を見回す。予想通り、右手前方から四頭の鹿が迫ってくるのが見えた。

「リン、右手前方、四!」

「了解っ!」

 リーフが素早く脇に寄り、荷物を乗り越えて前へとやってきたリンに場所を譲る。

 リンは素早く猟銃を構え、まだ遠くに見える鹿に向かって引き金を二回引いた。

 距離があるのもあって、当たったのは一発のみだった。三頭は依然として馬車の方へと突進してくる。

 森の中に逃げられるか、鹿と激突するか、微妙なところだった。

「くそっ」

 商人が焦って進路を左に変えようとした。そうすれば鹿から逃げられないこともないだろう。だが、追い立てられるままにモンスターの巣窟である外地を走り続けたとして、生きて帰れるとは思えない。

 商人のとろうとした行動は愚か以外の何者でもなかった。

 しかし、横から急に伸ばされた手が商人の腕を掴み阻止する。

 手を伸ばしたのはリーフだった。

「進路を変えずに突き進んでください」

「しかし――」

 商人は死の恐怖の前に躊躇していた。リーフが気の利いたことを一言二言投げかければ腹を括りそうな様子ではあったが、もはやそんな猶予は無い。

 リーフは商人の心が固まるのを待たずに、御者台から身を躍らせた。

「ひゃっ!」

「リーフ!?」

 余りにも突飛な行動に、商人だけでなく相棒であるリンも驚いて銃弾を装填する手を止めた。

 リーフは六足馬に飛び乗っていた。振り落とされないように素早く馬具を掴み、激しく揺れる背中に貼り付く。

 突然背中に乗られて六足馬は足を乱しかけたが、商人が慌てて手綱を振るとすぐにまた真っ直ぐ走り始めた。

 それでも、碌に鞍も鐙も付けていない馬上でリーフは大きく揺さぶられ、今にも落馬しそうだった。いつ取り出したのか分からないが、口にはナイフを咥えていて、歯を食いしばって振動に耐えることもできない。

「何やってんのよ馬鹿っ!」

 リンが悲鳴に近い声を上げる。

 元々六足馬は走りに安定感が欠けることから乗馬に向いていないのだ。なんとか背に跨がることに成功したが、馬具から片手でも手を離すことは自殺行為である。

 だが、リーフは何の躊躇いもなく右手を離した。

 リーフの目に恐怖の色は無く、迫り来るオオカイタクジカを真っ直ぐ睨みつけていた。

 離した手で口に咥えたナイフを握り、上へと振り上げた。

 先頭の鹿は、既に馬車に近寄り過ぎていた。瞬きを二つする間に角でリーフを馬上から叩き落せる位置にいる。故に、その鹿が被害者となった。

 リーフが投げつけたナイフは躱す暇も与えず鹿の顔面に当たり、柔らかい眼球に突き刺さった。

 目を潰された鹿はそのあまりの痛みに身を翻し、鳴き声を上げながら幌の一部を引き裂いてあらぬ方向へと迷走を始めた。

 続いてリンが放った二発の弾丸は後続の二頭に惜しくも当たらなかったが、馬車は森の中へと突入し、ようやく窮地を脱した。



 幸い、外地との境界から近隣の都市への道中で、モンスターが再び現れることもなければ盗賊も現れなかった。

 インディム王国の外地と程近いとある一都市の、商業区へと続く広い通りの片隅で、リーフとリンの仕事は終わりを迎えた。

「道中、ありがとうございました。これは約束のものです」

 商人はリーフに謝礼の入った袋を渡した。

 商人はかなり上機嫌だった。モンスターの群れに襲われて、馬車の幌が少し破れただけですんだのだから、当然と言えば当然ではある。

 リーフは袋を開き、契約通りの額が入っているかを確認した。脱税狙いの危険な道だったので、通常の護衛より見返りは多かった。

 袋の中には提示した通りの金額があったが、全ての報酬が入っている訳ではなかった。

「例のものが入っていないのですが」

「それならここに」

 商人が畳んだ二枚組の紙切れをリーフに渡した。

「懇意にしている情報屋の居場所です。それを見せれば取り次いでくれるでしょう」

「分かりました」

 リーフは紙切れにざっと目を通してから、畳み直して懐にしまった。

「もし縁がありましたら、またよろしくお願いします」

「こちらこそ」

 商人が手を差し出し、リーフは手袋を外して握手に応じた。

 一瞬、商人は眉をひそめたが何も言わずに手を離し、馬車に乗って商業区へと行ってしまった。

 二人は馬車が角を曲がるまで後ろ姿を見送った。

 馬車が完全に見えなくなると、早速リンがリーフから謝礼の袋を引ったくった。

「じゃあ、私はこれから銃の整備と弾丸を買いに行くけど、いいよね」

「ついでに宿も取っておいて。後、全額持っていくなこの浪費家」

 リーフは謝礼を取り返すと、三分の一を取り出してリンに残りを渡した。

 唯でさえ銃器は金がかかる武器なうえに、リンには貯蓄という概念が欠けていた。渡せば渡しただけ使い切ってしまうのだ。事前に生活費を差し引いておかなければ、明日から路地裏で寝ることになりかねない。

 中身が減った袋を両手で持って、リンは唇を尖らせた。まだ手にずっしりとした感覚が残る程度には金が残っていたが、それでももの足りないらしい。

「……分かった。さっきの通りにあった『角折れ鹿亭』でいい?」

 不満たらたらではあったが、リンはリーフに従った。

「ああ。ボクは情報屋に会ってくる」

 リーフは外套の裾を翻して歩き始めた。

「有益な情報待ってるからねー。それから、帰りに頭洗ってきてよー」

 後ろから追いかけてくるリンの声に、リーフは軽く肩を竦めた。

 リーフは人混みに紛れ、一人で通りを歩いていった。

 紙切れに書かれていた道順通りに進んで行き、細い通りへと入る。日の当たらない通りの一角に目印の看板を見つけ、指示通り、その下で座り込んでいる靴磨き屋の少年の前に立った。

 少年はリーフの履いている靴を少し見てから、リーフに向かって少し固い愛想笑いをした。

 リーフの履いているブーツは爪先と踵に金属を打った特殊な仕様で、蹴りの威力を増強するのと同時に軽い刃を弾くことができる。そんな武闘派の靴でも磨く価値がないわけではないが、わざわざ金を払うようなものでもない。

 少年はかなり戸惑っていた。

「イソンさんはいるのかい」

 混乱を解くために、リーフは少年に紙切れを渡した。

 少年は紙切れを開いて書かれていることをじっくり読むと、背後の扉を開けて中に入っていった。

 リーフも少年の後に続いて家屋の中に入った。外からの光が少ないせいで部屋の中は薄暗く、部屋の中央のテーブルに置かれたランプの光が、その周りだけを明るく照らしていた。

 内装は一般的な中流家庭と言った具合で、高価な置物や装飾品の類は飾られていないが、手作りの品で彩られ、掃除も行き届いている。

 ランプの置かれたテーブルに向かって一人の男が紙に何かを書き付けていて、靴磨きの少年はその男にリーフが持ってきた紙切れを渡した。

 少年は紙切れを渡すと、リーフの脇を通り抜けて外へと出て行った。出て行く際に扉を閉め、リーフと男を二人きりにする。

 男がペンを持つ手を止めて、リーフをちらりと見やった。

「あんたがこの紹介状に書いてあるリーフ、っていう奴か?」

「そうです」

 値踏みするような目で情報屋の男はリーフをじろじろと見た。

「剣士の割には随分と細いな……まあいい。で、なんの情報が欲しいんだ?」

「この辺りに、魔剣が手に入る場所はありませんか」

 リーフの一言に、情報屋はペンを机に叩きつけた。

「一つ言っておく、やめとけ。魔剣は誰にでも扱える便利なものじゃない」

「知っています。場所さえ教えてくれればいいんです。後は自分で『交渉』します」

 勝手知ったようなリーフの言い草に、情報屋は少し目を見開いた。

「あんた……まさか……」

「お察しの通り、ボクは魔戦士タクシディード——魔剣と契約する素質を持った者です」

 リーフは真剣な目で、男を見据えた。

「もう一度お尋ねします。魔剣の在り処に心当たりはありませんか」




 日がすっかり落ち人通りもまばらになった頃、リーフはようやく用事を済ませて宿へと向かった。

 湿った頭に外套のフードをすっぽりとかぶったまま、リーフは『角折れ鹿亭』の扉を開けた。

「あ、リーフ、こっちこっちー」

 リンは宿のカウンターの近くに座り込んでリーフを待っていた。

 フードをかぶって顔を隠していたにもかかわらず、リーフが来たのにすぐに気付いて立ち上がり、傍へ駆け寄る。

「部屋は?」

「もう取ってあるよ」

 さりげなくリーフの腕に自分の腕を絡ませ、部屋へと引っ張っていった。

 端から見れば宿で待ち合わせをしている恋人のようにも見える。

 結構可愛い女の子であるリンにくっつかれているリーフに周囲から嫉妬や羨望の目が向けられるが、リーフがリンの行動を嫌がる様子はなかった。また、照れる様子もなかった。

 別に二人は恋人同士という訳ではないが、特にリンを邪険にする理由もないのでリーフはリンの好きなようにさせていた。

 リンはそのままリーフを部屋の中に連れ込んで、ドアに鍵を掛けた。

 窓が閉まっていて誰も見ていないことを確認すると、リーフはようやくフードを脱いだ。

 一息つくと、リーフはベルトを外して外套の前を開け、寝台の上に放り投げた。続いて腕に巻いていた暗器を外して外套の上に落とす。ぶかぶかの外套を着ているのは、この暗器を隠すためであった。

 リーフがコートの下に着ていたのは仕立てのよさそうな白い七分丈のシャツ一枚だけだった。シャツから覗く二の腕は、暴れ馬に振り落とされない筋力を持っている割には細く、十分な筋肉が付いているようには見えない。

 全体的に見て、リーフは剣士と思えないほど線が細かった。ぶかぶかのコートを着ているのは、体格で軽んじられないようにするためでもあった。

「あ、ちゃんと髪洗ってきたんだ。やっぱり変に色付けるより、そっちの方が似合ってるぅー。後、はっきり言って泥臭かったし」

 上着を脱いで同じく肌着を晒したリンが、リーフの頭を見て歓声を上げた。

「そうかな」

 リンはリーフの髪を見て目をきらきらさせたが、逆にリーフは鬱陶しそうにしていた。

 リーフの髪は、泥を綺麗に落としたことで本来の色に戻っていた。

 銀の糸のような眩い色に、所々混じった夜色の筋。月の光が形をとればこうなるだろうと思えるほど美しい髪色だった。

 白い肌と相まって、息を呑むような幽玄さを醸し出している——現在進行形で眉間に皺が寄っていなければより一層良かったのだが、それについてリーフに求めるのは無理があった。

「ボクとしては、目立つから根本的に染めたいのだけど」

「絶対にそれは駄目! 綺麗なのに勿体無いよ!」

 髪の色を台無しにする発言に、リンが目の色を変えて猛反対した。あまりの勢いに、リーフは若干身を引く。

「じゃあ毛を全部刈るから、リンにあげるよ」

「それはもっとやっちゃ駄目だって! リーフが持ってこそのお宝だもんっ」

 リンはさらに声を張り上げて異を唱える。隣の部屋にまで響いていてもおかしくないが、気にする様子はない。

 類希な髪色のせいで山のように嫌な目にあってきたリーフにとって、その言葉は微塵も理解できなかったが、否定したところで十倍の反論が帰ってくることは明白なのでこの件について主張するのは諦めた。

「……で、これから先のことだけど、目的地が決まったよ」

「情報屋にあったんだ、例の手掛かり。それで、手近な魔剣はどこにあるって?」

 リンは自分の寝台に腰掛け、ブーツの紐を緩める。

「外地のレニウムという村に、開拓当時から魔剣とその下僕である剣守つるぎもりが住み着いているらしい。今の時期はモンスターが大人しいから、境を北上した町に行けば乗り合い馬車が出ているそうだ」

 リーフも寝台に腰掛けてブーツを脱いだ。ズボンの裾に隠していた暗器も外す。

「乗り合い馬車、ねえ……外地の割には平穏過ぎない? ま、だから人が住めるんだろうけど」

 ブーツをぽいと脱ぎ捨て、リンは寝台にぼふっと音を立てて倒れ込んだ。

「はー、もうお尻痛ーい。しばらく馬車には乗りたくなーい」

 リンが枕に顔を埋めて愚痴った。この二日間、暇さえあればそればっかりリーフに言っていた。

「残念だけど、明日も馬車だよ」

 リーフが現実を突きつけると、リンは呻き声をあげた。

「っていうか、本当に何でリーフは平気なワケ? 全体的に肉付き悪いし、お尻も小さいのに」

 リンは枕から顔を持ち上げるとまくしたてた。

「ホント信じられない。リーフが——」


「——女だなんて」

「女にしては肉付きの悪い体型で悪かったな」

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