手折られたのはアザミの花

 薄暗い路地を黒衣が駆け抜けていく。黒衣の後ろを軽装の男が二人、追いかけていく。

 重たそうな黒い外套を羽織った人物は、フードで顔を隠したまま走っていた。

「はぁっ、はぁっ……待ちやがれっ」

 掠れた怒鳴り声が外套の背中を叩き損ねて地面に落ちた。

 軽装の男達の方が遥かに動きやすい格好であるにもかかわらず、息が上がるのは追いかける方が早かった。

 疲労は男達の足を絡め取り、黒衣との距離が徐々に開いていった。

 そのまま黒衣が真っ直ぐに走りきれば逃げられる――その場面で、突然黒衣は立ち止まった。

 黒衣の目の前に、腕を広げた男が飛び出した。家の中に潜んでいた仲間が待ち構えていたのだ。直前に立ち止まらなければ黒衣は捕まっていただろう。

 黒衣の人物は外套の裾を翻し、手前の分岐点に逃げ込んだ。

 分岐点の先には既に別の男が立ち塞がっていた。筋骨隆々の腕を低く構え、舌舐めずりをしそうなにやけ顔を黒衣に向けていた。

 しかし、黒衣は目の前の肉の壁に怯むことなく正面から突っ込んだ。

 その迷いのなさに怯んだ男が反射的に身を捩って躱した。男の胴を浅く刃物が切り裂く。

 黒い外套の裾から引き抜かれた暗器が、男の胴の中心を狙って突き出されていた。避けていなければ男は血の海に沈んでいただろう。

 黒衣は突き刺す勢いをそのまま推進力にのせ、男の側をすり抜けた。

「このっ」

 逃すまいと太い指が厚手の外套の裾を掴んだ。急制動をかけられた黒衣の上半身が大きく反り返った。

 男の腕に暗器の刃が翻った。だが、暗器を握った革手袋の手は逞しい腕で押さえつけられて後一歩届かなかった。そのまま腕を捻り上げ、暗器を下に落とさせた。

 黒いフードの下で歪む顔に、男の嗜虐心が唆られた。

 仲間が追いついてきたことを横目で確認し、男は黒衣を前に投げ捨てた。受け身を取り損ねた黒衣が地面に転がった。

 地面に強か身体を打ちつけて尚、黒衣はすぐに身を起こしたが既に周囲は破落戸ならずものらしき男に囲まれてしまっていた。数は六、もう振り切ることはできなくなった。

「ようやく……捕まえたぜ。へへっ」

 息を切らせた男が下卑た笑みを浮かべた。

「おいおい兄ちゃん……声をかけた途端逃げるなんてつれねぇなぁ」

「俺達はちょっと道を聞きたかっただけなんだけどなぁ」

 悪意に塗れた声が立て続けに黒衣に投げかけられた。男達は棍棒や角材といった凶器を手にしていた。

「……」

 黒衣は立ち上がりかけた体勢のまま、ぴたりと静止した。

「なぁ兄ちゃん、兄ちゃんは旅してるんだろ。いい宿知らねぇかなぁ」

「そうそう、兄ちゃんが泊まっている宿教えてくれよ」

「俺達が責任持って、兄ちゃんごと売り飛ばしてやるからさぁ……ひひっ」

 黒衣は突然右腕を大きく振り上げた。

 ぎゃっ、と悲鳴が響く直前にゴロツキの一人の胸へ暗器が突き刺さっていた。

 再び暗器をズボンの裾から抜き放ち、黒衣は背後の男を強襲した。

 刃を向けられた男は手元の棍棒を咄嗟に振り下ろした。

 黒衣は棍棒を紙一重で躱し、暗器を握り込んだ拳で顎を撃ち抜いた。そのまま返す刃を男の左鎖骨に突き刺した。

「野郎っ!」

 そのまま走り去ろうした黒衣の背中に角材が叩きつけられた。

「うぐぁっ……」

 苦悶の声を上げて膝をついた黒衣の肩が蹴り飛ばされ、地面に背中をつけた。

 さすがに痛みで動けない黒衣の胸ぐらを一人が掴んで持ち上げた。

 湿り気を帯びたフードがぱさり、と後ろに落ちた。

 フードの下には、眩い輝きが隠れていた。

 銀色に黒い筋が混ざった髪が露わになった。短い髪の先から濁った水の雫が滴っていたが、輝きに曇りはなかった。

 銀色の髪に縁取られた顔は長旅で煤けても白さと滑らかさを保っていた。人形のような鼻筋に、宝石のような新緑色の瞳が造り物の美を思わせた。

 ひゅう、と破落戸の一人が口笛を吹いた。

「こりゃあ男でも高く売れそうだぜ」

「いや……おい待て、てめぇ、まさか」

 男の大きな手が、整った白い顎を無遠慮に掴んだ。

「こいつぁ女ぐぇっ」

 男の喉に肘鉄がめり込んだ。目を白黒させる男の腹を蹴り、黒衣は一歩でも距離をとろうとした。

 しかし、横合いから力任せに頭を殴られ、敢え無く地面に伏した。

 これ以上暴れられてはたまらないとばかりに、男達は寄ってたかって黒衣を押さえつけた。

 黒衣の女は腕と足を縄で縛られ、さらに肘鉄を食らわせた男から鳩尾に蹴りを返された。

「ぐぅっ」

「おいおい、あんまり傷つけたら安くなっちまうぞ」

 身体を折って苦しむ黒衣の女を見て、一人がけらけら笑いながら揶揄した。

「けっ、女のくせに手こずらせやがって」

「胸小せぇな……こりゃあんまり楽しめねぇな」

 口に猿ぐつわを噛ませるついでに、外套の襟から手が押し入った。乱暴に胸を揉まれ、女が歯を食いしばった。

 自由を奪われた女の頭にばさりと袋が被せられた。


  ◆ ◆ ◆


「あれ、リーフ?」

 部屋の中を見回して、黒髪の少女が首を傾げた。

 二人分の寝台と簡易テーブルが設えてあるだけの安宿の一室に、武器と荷物が散乱していた。

 少女が部屋を出たときには、黒い外套を着た同行者が寝台に座って剣を磨いていた。

 柄まで曇り一つなくなった片手剣と、特に手入れされていない赤みがかかった刃の両手剣が壁に立てかけられていた。

――飯買いに行ったぜ。

 どこからともなく若い男の声が響いた。

「あんたに聞いてないんだけど、骨董品」

 少女――リンは声の出処を不思議がる素振りも見せず、不快感を露わにした。

――そうかよ。

「で、いつ出ていったの」

――やっぱ聞いてんじゃねぇか!

「うるっさいわね、あんた以外に聞く相手がいると思ってるわけ。ばーか」

――テメェに言われたくねぇよ、バカ怪力のクソ狼。

 少女は大きく舌打ちし、再び罵倒のために口を開いた。


  ◆ ◆ ◆


 早朝の町をリンは走っていた。

 日の出前の薄明の空の下、家々の明かりも消えてまだ夜のように暗かった。

 夜目に慣れても尚危険な程の暗闇の中、リンは既に町を三周していた。

「――はあ、はあっ」

 息切れして立ち止まったリンの腕の中には、愛用の猟銃〈森狼〉があった。

「……何処に行っちゃったのよ」

 リンは部屋で一人罵倒合戦を繰り広げた後、リーフの帰りを待っていた。

 しかし、日が暮れてもリーフは帰らなかった。

――あいつがそうそう簡単にくたばるかよ。朝になったら帰ってくるだろ。

 契約者が生死不明であるというのに、当の魔剣は呑気そのものだった。

 リンは人でなしのそいつに八つ当たりをした後、武器を抱えて町に飛び出した。

 無用な声掛けを防ぐ意味も兼ねてリンは銃を携えていたが、それでも不埒な輩は寄ってきた。可愛らしい顔立ちと豊満な体つきを晒していると、他が目に入らない男というものは一定数存在するらしい。

 それでも、一発殴って気絶させたり、軒先に干されていた薪の束を一抱え分片手でぶん投げたりすると本性を悟って三下達は散り散りに逃げ出した。

 そして、ゴロツキに絡まれる度に、リンの胸に不安が募っていった。

「無事よね、リーフ?」

 肘鉄で男の顎を粉砕したとは思えない泣きべそ顔で、リンはとぼとぼと宿への帰り道を歩いていた。

「こんな時間に何をしているのだい、リン」

 後ろから聞こえた耳馴染みのある声に、リンは立ち止まった。

 銃を掻き抱き、リンは意を決して後ろを振り返った。

「リーフっ……うっ」

 咽るような酒の臭いにリンは口と鼻を押さえた。別の意味で涙がこみ上げるほどだった。

 ようやく会えた旅の相棒は、黒い外套の前をきっちり合わせてフードを目深に被っていた。その全身からつんと酒の臭いを漂わせていた。

「やっぱり臭うかい。酒で身体を綺麗にしたつもりなのだけれど」

「酒って、それで酔っ払わないなんて羨ま……ってどうしたのその顔!」

 黒い外套のフードの下には、腫れた顔があった。内出血の青い痣が新緑色の左目を圧迫して歪めていた。白い首筋にも赤い歯型の跡がくっきりと残っていた。

「ちょっと暴漢に目をつけられてしまってね。まあ、きっちり落とし前はつけているから」

 鳥に糞を落とされた程度の軽い調子で、リーフは言った。

 リンはすぐに言わんとしていることを察し、顔をくしゃっと歪めた。

「ちょっと、で済むわけ!? 絶対違うでしょ……もう、何でよ、ホント」

「もう鼻が利かなくなって分からないのだけど、そんなに臭うなら宿でもう一度身体を拭こうか」

 唇を噛み締め顔を青褪めさせるリンに対して、リーフは普段通りに振る舞っていた。

 ふと、リーフはリンの顔を見てはっとした。

「もしかしてリン、昨晩から寝ていないのかい」

「いや、寝られるわけないじゃん!」

「そうか……それは悪いことをした」

「違う!悪くない!バカ!」

 自分の身に起こったことを棚に上げて謝るリーフに、リンは怒鳴った。怒鳴った拍子に涙がぼろぼろと溢れた。

 リーフの口元が引き結ばれ、フード越しに頭をかいた。

「じゃあ、一体、どうすればよいのだい」

 リンの表情についていけなくなったリーフがお手上げとばかりに言った。

「宿まで、手、繋ぎなさいよ」

 リンは涙を流すに任せたまま、返事も聞かずにリーフの左手を掴んで引っ張った。

 そのままぐいぐいと先に進むリンに、リーフは黙って追随した。


「ただいま、ギル」

――おう、遅かったな。

 部屋に戻ってきたリーフに、魔剣ギルスムニルは軽く返した。

――顔どうしたんだ、あと首。喧嘩でもふっかけられたのか。

「そんなところだよ。君を持ち出すのは大仰すぎるけれど、帯剣ぐらいは常にしておいた方がよいかもしれない」

――違ぇねぇ。にしても、喧嘩中に噛み付くとか獣かよ。

 その会話にリンの顔は盛大に引きつったが、最早突っ込む気力はなかった。

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