第三話 格の違い
ホルスターにしまわれた銃の感触を胸に感じながら、ツキヒコは自分がこれからやるべきことについて考えていた。なすべきこと、と言い換えてもいいかもしれない。客室にいたツキヒコの周りには誰もいない。今の時間、ナナカは小学生と一緒に給食を食べていて、SPはその警護に付いていた。
時計を見る。あと三十分ほどで給食の時間が終わり、給食が終わってから三十分後には体育館でナナカのスピーチが始まる。スピーチの後には小学生からの感謝の催し物があり、それが終わるのが午後三時だった。午後三時までにナナカ・ミマサカを殺せ。ツキヒコには今までどうして午後三時がタイムリミットなのかわからなかったが、ようやくその意味がわかった。
「くそ」
頭を抱えて目蓋を閉じるツキヒコ。自分の家族を救う大義名分があるとはいえ、一人の人間を殺してもいいのだろうか。自分の利益のために、他人を犠牲にしてもいいのだろうか。その答を求めて思考を巡らせていた。答えは未だに出てはいない。仕事柄、利己的な犯罪をいくつも目にしてきた。そのたびに、利己的な犯人を軽蔑してきた。しかし、今は自分がその軽蔑すべき人間になるかどうかで悩んでいる。自分の利益のために他人を犠牲にしていいはずがない。そう即答できない自分の未熟さに苛立ちと落胆が募っていく。
『大丈夫ですよ。人を殺すのは初めてじゃないでしょう。いつも通りの精神でやればいいんですよ』
ココロは別れ際にそう告げた。彼女の言う通りツキヒコは今まで何人もの人間を殺している。だが、そんなものは気休めにもならない。今までツキヒコが殺した人間は、すべて自分や自分の大切なものを傷つけようとしてきた人間だ。多少の罪悪感はあったとしても、自分を正当化出来る材料がある。しかし、今回殺さなければならない相手は、自分や自分の大切なものを傷つけようとしている人間ではない。故に、いくら自分の妹と姉を救い出すためとはいえ、簡単に引き金をひけるわけがなかった。
突然、部屋の扉が開いたのは、ツキヒコが落ち着かない気持ちを内にとどめておくことが出来ずに部屋を歩き回り始めた時だった。
「頭がおかしくなったのかしら、あなたは」
部屋に入ってきたのはナナカ・ミマサカだった。ベージュのジャケットと紺のスカートというフォーマルなファッションに身を包んだ彼女は、緑色のジャージ姿の時とは別人で、ツキヒコには一瞬誰だかわからなかった。
ツキヒコは質問に答えなかったが、ナナカは特に気にした様子は見せずにソファーに腰を下ろした。大きくため息をついてツキヒコに手を伸ばす。何となくコーラが欲しいのかなと思ったツキヒコは、冷蔵庫で冷やしていたコーラをナナカに渡した。
「給食後ですから、ポテチはいりませんよね」
コーラを受け取って喉を潤したナナカは言う。
「残念だったわね。もしもポテチを渡したら、コーラをかけられたあなたは、全身から甘いにおいを発して昆虫たちの人気者になれたのに」
ナナカはペットボトルに口をつけてコーラを豪快に飲みだした。当たり前だが、見た目が変わったとはいえ、中身は変わっていないようだった。コーラを飲んだナナカが一息つくタイミングを見計らって、ツキヒコは口を開いた。
「せっかく小学生の人気者になれたのに、こんなところに来てもいいんですか? まだ給食の時間は終わってないみたいですけど」
ナナカはため息交じりに言う。
「何時間もファンサービスをやってあげるほど安い女じゃないのよ、わたしは。ボランティアの仕事なんて適当にやればいいのよ。もしもお金を貰っているのなら、きちんと料金分の結果は残さないといけないけれどね。愛嬌や笑顔だって料金分ならば振りまいてあげるわよ」
「給食は美味しかったんですか?」
「美味しかったわよ。でも、食べ終わっちゃったらおしまい。世の中は無常。幸せは必ずいつかは終わるのよ」
どうやらナナカは何らかの口実を作って小学生との給食を抜け出してきたらしい、とツキヒコは思った。気持ちはわからないでもない。おそらく子供特有の空気を読まない質問に笑顔で答えることに、疲れてしまったのだろう。
「哀しみもいつかは終わりますかね?」
ツキヒコが漏らした言葉にナナカは言う。
「当たり前じゃない。憎しみだって妬みだっていつかは終わるわ。人は必ず死ぬんだから」
「死ぬまで哀しみを背負いたくはないですね」
「何も背負わないよりはマシよ」
ふと、ツキヒコは思った。この人は一体、何を背負っているのだろうと。その疑問を口に出す前に、ナナカが言う。
「ところであなた。生意気にも何か悩み事を抱えていたりするわけ?」
脈絡のない突然の問いかけにツキヒコは少し驚いた様子で言う。
「どうしてそう思うんですか?」
「難しい顔をして部屋の中をうろつく人間は、たいてい悩み事を抱えているものでしょ。何に悩んでいるか言ってみなさいよ。暇つぶしに聞いてあげるわ」
ナナカは半分ほどなくなったコーラのペットボトルを軽く揺すりながらツキヒコを見た。その瞳からは不思議な力が感じられる。まるで『あなたのことは何でもわかっているわ』とでも言っているかのようだった。
遠慮します。ツキヒコにはそう答える選択肢があったが、それを選ぶとナナカの機嫌を損ねてしまうような気がしたので、素直に悩みを打ち明けることにした。いや、本当は悩みを打ち明けたくて仕方がなかったのだろう。しかし、ストレートに自分の妹と姉を助けるためにあなたを殺すのは許される事でしょうか、と訊けるはずはない。故に、具体的な名前を出さずに一般的な話として切り出す。
「もしも、もしもですけど、自分の大切なものを守るために誰かを傷つけなければならないとしたら、どうしますか?」
ツキヒコの問いに、ナナカは即答した。
「そんなの決まってるじゃない。誰かを傷つけるわ」
ナナカの答を聞いて、ツキヒコの目は大きく開かれた。自分が悩んでいた問題の答をあっさりと出してしまう決断力、そしてぶっきらぼうな言い方なのに相手の心情を察してシリアスな雰囲気を一瞬で作り出してしまう威圧感、それらを備えているナナカにツキヒコは圧倒されてしまったのだ。人としてのレベルが違う。そう感じざるをえない。ナナカの口から放たれた言葉は短いものだったが、その言葉には説得力があった。あなたの考えの根拠は何なのか。そんな疑問を浮かべていたツキヒコにナナカは言う。
「誰かを傷つけるくらいなら失ってもいい。そう思えるものが大切なはずないじゃない」
ナナカの考えは明瞭だ。故に、ストレートにツキヒコのこころに響いてくる。ツキヒコは思い出した。いや、正確に言えば思い出したのではなく、思い知らされたのだ。ナナカ・ミマサカ。目の前にいる彼女は一つの判断で世界を動かしかねない力を持つ、ミマサカ機関の時期総統候補筆頭だということを。彼女の判断は簡単に人を生かすことも殺すことも出来る。そんな彼女の決断する力が末端エージェントの自分と同レベルのはずがないのだ。
ツキヒコにはナナカがこれまでどんな道を歩んできたのかわからない。だが、自分よりもはるかに厳しい道を歩いてきたことは簡単に想像できた。もしも平坦で舗装された道を歩いてきたにも関わらず、言葉で人のこころを動かすことが出来るのだとしたら、彼女は天才的な詐欺師に違いない。
ツキヒコは何も言わなかったし、何も言えなかった。故に、言葉を紡ぐのはナナカばかりになってしまう。
「人と上手くやっていくために妥協することも大切だわ。現に、わたしだってレベルの低い子供との会話を我慢してやっているわけだし。でも、本当に大切なものを守ることを、妥協すべきじゃないわ。自分の大切なものを守るためだったら、たとえ全世界の人間を殺すことになったとしてもやるべきなのよ。犠牲にしてもいいと思えるモノの大きさと、守ろうとしているモノの価値は比例するのよ」
ここまで言ったナナカは「さてと」と言ってソファーから立ち上がった。どうやらそろそろ小学生のもとへと戻るらしい。部屋の扉へと向かって歩いて行くナナカ。そんな彼女にツキヒコは問う。
「どうして初めて会ったぼくに対してこんなにも親身になってくれるんですか? 本来なら謁見すら簡単に許されない仲ですよね。ぼくたちは」
「勘違いしないで。別にあなたを気遣ったわけじゃないから」
立ち止まったナナカはツキヒコを見て悪戯っぽく微笑んだ。
「特別に、わたしの趣味を教えてあげる。それはわたし色に染まる人間を増やすことよ。人間にとって最強の武器はお金じゃない。兵器でもない。自分のことを神だと崇める人間よ。わたしはそんな最強の武器を造っているだけなんだから」
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