第六話 不穏な予感
ミマサカ機関中央支部第二エリアの事務所から第一エリアの事務所へとワゴン型の
裏切り者を探し出せ。ボスであるサカエからそう命じられたツキヒコの頭には未だに混乱が残っていた。組織内に裏切り者がいること。そしてその裏切り者を自分が見つけなければならないこと。その両方に上手く頭が対応出来ていない。何をやればいいのか。そのことを頭の中では分かっている。だが、料理の本を読めば美味しい料理が作れるわけではないのと同じように、やるべきことがわかっていてもそれを完璧に遂行できるとは限らない。どうすればいい。目蓋を閉じるツキヒコ。そんなツキヒコに隣に座っていたシオ・カワスミが心配そうに顔を向けてくる。
「サカエさんとはどんな話をしていたの?」
目蓋を開いたツキヒコは、混乱の色を隠しながら視線をシオに向けた。
「大したことじゃないって。あの人には昔、いろいろとお世話になったからその時のお礼とか思い出話をしただけ」
シオは眉をひそめて訊ねる。
「本当に?」
「本当だって。嘘をつく理由があるなら教えて欲しいくらいだし」
ツキヒコの答えにシオは納得する様子を見せなかった。当然だ、とツキヒコは思う。あと二十四時間もしないうちに次期総統候補筆頭のナナカ・ミマサカが暗殺されるかもしれないという状況下で、先輩後輩が旧交を温めることに違和感を覚えるのも無理はない。だが、ツキヒコには本当のことを言えない事情がある。怪しいと思われつつも今はそれを押し通すしかない。
「ねえ」シオが言う。「わたしに出来ることなんてほとんどないかもしれないけど、何も出来ないってわけじゃないわ。だから何かあったら遠慮なく言って欲しいの」
シオの言葉を聞いて、ツキヒコは胸が熱くなった。たった一人で戦わなければならないという不安を抱えていたツキヒコにとって、シオの言葉や気持ちは寒空の下で不意にかけられたコートのように気持ちを救ってくれるものだった。だが、相手が優しい言葉をかけてくれるとしても簡単にこころを許すわけにはいかない。なびくわけにもいかない。誰も信じるな。サカエはそう言っていた。
「ありがとう。もしもの時は、嫌がられても頼ることにするよ。その時になって後悔するなよ」
シオは微笑んだ。その微笑みが無理矢理つくられたものであることをツキヒコは感じていた。
「安心して。面倒事に付き合うのは嫌いじゃないの。おかしな言い方だけど、好きって言い換えてもいいくらい。だから本当に遠慮しないでね。いつでも面倒事を入れるリュックは持ち歩いているから」
「リュックって……」
ツキヒコの呟きに、シオは顔を紅潮させる。
「ああ、もうっ。どうせわたしは比喩のセンスがゼロですよっ。シェイクスピアでも読めって言いたいんでしょっ」
「いや、良いと思う。シオらしいし」
「それって褒めてるの? けなしてるの?」
「物事は前向きに考えろよ」
もう、と言いながらシオはツキヒコの肩を叩いた。そんなシオの仕草がツキヒコのこころを穏やかにしていく。人は人と触れあうことでしか安心を得られない。たとえそれが叩くと言う動作であったとしても。そんなことを考えていたツキヒコは口元を緩めた。
「あ、あとね」ツキヒコの肩を叩くの止めたシオが言う。「実はもう一つ訊きたいことがあるんだけど――」
シオが遠慮がちに質問をしようとしたとき、ツキヒコのケータイが震えた。ちょっと待って、と手を上げてからツキヒコはケータイを取り出す。ディスプレイには姉のサイカの名前が表示されている。今は仕事中だが、移動中なので問題はないと判断したツキヒコはケータイに出た。
『ごめん。仕事中よね。大丈夫?』
大丈夫だと答えたツキヒコにはどうして姉が自分に電話をかけてきたのかがわかる。あのことしかない。故に、催促をするように話題を振る。
「ミユは帰ってきた?」
妹のミユ。彼女はツキヒコとサイカに黙って夜の街へ出てしまっていたのだ。ミユは十歳の女の子。高校生の女の子が外に出かけるのとはわけが違う。本当だったら彼女を捜しに行きたいのだが、仕事にそれを邪魔されていたツキヒコは、姉に妹の件を任せて心配することしか出来なかった。そんなツキヒコに、姉のサイカは穏やかな声で言う。
『ええ。帰ってきたわ。やっぱりコンビニに行っていたみたい。ポテチと漫画雑誌を買ってきたわ。寝る前にポテチを食べちゃいけないっていつも言ってるのに』
姉の話を聞いて、ツキヒコは少しだけ自分の体温が上がったように感じた。深く息を吐いてから話を続ける。
「そっか。だったらよかった。ミユと代わってくれない? ちょっと話がしたいんだけど。ほら、誕生日プレゼントの探りも入れたいし」
ツキヒコは妹のミユに黙って家を出て行くな、と説教をしたかったわけではない。仕事が本格的に始まる前に妹の声を聞きたかっただけだった。しかし、
『ごめん。今は代われないの』
ツキヒコの願いは叶わなかった。おそらく自分を嫌っているミユが話をしたくないと言っているのだろう。気を落とすツキヒコ。思わず深い息を吐いてしまう。だが、諦めたわけではない。
「どうしても無理かな。この後、しばらく連絡が取れなくなるかもしれないから声を聞きたいんだけど。姉貴から上手くいってくれないかな。騙すのは得意だろ?」
『あ、違うのよ。別にツキヒコと話をしたがってないわけじゃないの』
「え。じゃあ、どうして――?」
『えっとね……、その、お風呂に入っちゃったの。お風呂にケータイは持っていけないでしょ』
「そっか。だったら仕方ないか」
タイミングが悪いと思いつつも、自分と話をしたくないからケータイに出ないのではないと知り安堵するツキヒコ。声を聞くことは出来なかったけれど、妹の無事を知ることが出来たのでよしとすることにする。
『それじゃ、お仕事頑張ってね。ミユにはわたしからちゃんと言っておくから』
「ありがとう。俺ももっと関係改善の努力をしてみるよ。もとはと言えば、ミユが黙って出て行ったのは俺のせいだと思うし。今の仕事が終わったら休みを取れるように調整してみるよ。みんなでどこかへ遊びに行こう。誕生日プレゼントは旅行でもいいかもしれない」
『そうね。ありがとう。でも、そんなに自分を責めないで。大丈夫。きっとわかってくれるわよ。あの子だってツキヒコを憎んでいるわけじゃないんだし』
「だといいんだけどね」
ツキヒコが通話を切ると、隣にいたシオと目が合った。素早く視線を外したシオにツキヒコが訝し気に訊く。
「もしかして、聴いてた?」
「え、ううん。聴いてないよ」
「本当に?」
じっとシオを見据えるツキヒコ。シオはあっけなく撃沈した。
「ごめん。ちょっと聞こえちゃったから気になっちゃって」
シオが聴いていた。それは一般人が隣で電話をしている人間の話を盗み聞きしているのとはわけが違う。隣にいる人間の言葉だけではなく、電話の向こう側にいる相手の言葉や背景で流れているあらゆる音まで聞こえているということなのだから。ミマサカ機関エージェントカテゴリーH。一般人よりも秀でた聴力を有するシオ・カワスミは組織ではそう分類されている。
「まあ、いいよ。俺の恥ずかしい過去がバレる話でもなかったし」
本来ならプライベートな会話を盗み聞きされていたのだから憤りを見せても仕方のない状況なのだが、気分が良かったツキヒコは少しだけ注意をするだけでシオを許すことが出来た。だが、シオが放った次の一言でこころの安寧が一気に揺らぐことになる。
「お姉さん、電話はベランダに出てするタイプなの?」
「え、何で?」
「だって、外で電話をしているみたいだったから」
姉がわざわざ外に出て電話をする理由に心当たりがなかったツキヒコは、無視できない違和感に襲われる。通話中には意識をしていなかったが、今思えば風の音や車が近くを走っているような音が聞こえていたような気がする。姉にはベランダで電話をする癖はない。少なくとも、ツキヒコの知る限りでは。再び、ケータイを取り出して姉に電話をかける。しばらくコール音がなった後に留守番電話になるだけだった。
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