第三話 はじまっている
ミマサカ機関のエージェントであるツキヒコ・ヨツバは、自宅でリラックスした時間を過ごしていた。今日の仕事は予想外に早く終わった――仕事が失敗しただけ——ので、夕飯後の時間をこうしてゆっくりと過ごせているのだ。自宅でこのような時間を過ごすのは久しぶりだったツキヒコにとって、普通の人が普通に送っているであろうこの時間は特別なものである。
ツキヒコが自宅でゆっくりと過ごすことが少ないのはミマサカ機関のエージェントだからである。仕事を請け負えば昼夜生死を問わずに働くことになるミマサカ機関のエージェンとは多国籍に複数の事業を展開する大企業のCEOのように自宅でのんびり過ごすことがほとんどない。それを頭では理解していても感情が追い付かない姉のサイカとツキヒコはたびたび諍いを起こすことがある。サイカはツキヒコが心配なのだ。そんなサイカの気持ちをツキヒコはよく理解している。故に、今のようにくつろいだ時間を過ごせる時にはなるべく一緒にいることを心がけていた。
「ねえ、この男が怪しいと思わない? イケメンだし」
Tシャツとハーフパンツというラフな格好でソファーに座っているサイカが、ツキヒコの腕を肘でついてくる。縦に星が三つ並んだピアスが踊るように揺れた。そのピアスはツキヒコがサイカの誕生日にプレゼントしたものだった。特別高価なものではない。たまたま立ち寄った露店で安く売っていたものだ。ツキヒコは別の誕生日プレゼントを用意しようと思っていたのだが、露店で売られていたピアスがどうしても欲しいと懇願してくるサイカに押し切られ、こんなものでいいのかな、と思いながらもプレゼントしたのだ。ピアスが目に入り、その時のことを思い出したツキヒコはテレビ画面に目を向けたまま言う。
「イケメンは関係ないでしょ」
「あるわよ」サイカは語気を強めた。「犯人にだって華は必要よ。悪にだって美学はあるんだから。美徳と言い換えてもいいわ。美のない犯人なんて、電池が付属していない充電器みたいなものよ。ちっとも人の役に立たない」
「ハンニバル・レクター。ジグソウ。美を持った犯人ってこんな感じ?」
「そう。そんな感じ。いや、うーん、ちょっと違うかも。確かに華はあるけど、その二人は顔がいいってわけじゃないし。どっちかと言えば、ルパンや怪盗キッドかしら」
「美が顔限定になってるんだけど」
「いいのよ。今は顔の話をしているんだから。それ以外の美の話は一緒にお風呂に入った時にでもしましょう。気分をリフレッシュさせる効果があるティートゥリーの入浴剤があるから、一緒に身体を汚染している疲労物質を取り除きながら皮膚がぐにゃぐにゃにふやけるまで語り合いましょ」
「その機会は永遠になさそうなんだけど」
「ふふ。恥ずかしがらなくてもいいわよ。わたしがお風呂に入ってる時には、いつでも鍵は開けてあるから」
含み笑顔でからかってくる姉を無視して、ツキヒコは言う。
「ああ、そう。てか、ルパンってイケメン?」
「イケメンじゃない。宝石だけじゃなくてこころまで奪っちゃうんだから。こころっていうものはパンドラの箱に入っていた災いみたいなものよ。一度、外に出たら世界を一変させちゃうんだから」
こころを奪うのにイケメンかどうかは関係ないような気がしたが、ツキヒコはあえてそのことを口にはしなかった。その代わり、冗談っぽく別のことを言う。
「パンドラの箱なら、急いで蓋をすれば希望が残るんじゃないの?」
「わかっていないわね、ツキヒコ。希望が残るから残酷なのよ」
もしかしたらお気楽そうに振る舞っている姉にも辛いことがあるのかもしれない。いや、あるに決まっているよな。そう思いながらドラマの内容に思考を集中させる。イケメンかどうかは別として、確かにサイカが怪しいと言った登場人物には隠された部分がありそうだった。一言で言えば、良い人過ぎる、のだ。
「協力的過ぎるやつってのは大抵最後に裏切るんだよな。確かにあのイケメンは怪しいかもしれない」
「ツキヒコが言うと、ネタバレみたいになっちゃうわね」
姉の言葉にツキヒコは首を振る。
「『勘』と『予知』は違うって」
ツキヒコとサイカの二人がリビングで見ているドラマはサスペンスものだった。リアルタイムで放送されている番組ではなく、サイカが録画していたものである。ツキヒコはサスペンスドラマよりもアクション映画の方が好きなのだが、サイカと二人でいる時にはサイカの趣味に合わせて時間を過ごすことに決めていた。その気遣いが普段一緒に時間を過ごせない家族への免罪符になるとは思っていないが、気休めくらいにはなっていればいいと願っている。
テレビ画面を観ているツキヒコ。仕事の緊張から解放されたその瞳からは安らいだ気持ちが見て取れた。フィクションではなく、リアルで命のやり取りをしているツキヒコにとってサスペンスドラマの展開など所詮は机上の空論であり、人の本質がしっかりと描かれているとはとても思えない代物である。だが、それがツキヒコにとっては救いだった。いや、救いと言うよりは願いに近いのかもしれない。現実の事件がサスペンスドラマのように甘いモノだったらどれだけいいか。そう考えたことは一度や二度ではなかった。
「なあ、姉貴」ツキヒコは視線をテレビからサイカへと移した。「ミユも呼んでこないか? そろそろ宿題が終わってる頃だろ」
ツキヒコの提案にサイカは唇を尖らせる。
「あれれ、わたしじゃ満足出来ないってこと?」
「そういうことじゃないって」ツキヒコは慌てて首を振る。「三人一緒の時間を過ごしたいだけだって」
「わたしはもう少し新婚気分を味わっていたいのだけれど」
「婚姻届けを出した覚えはないけど」
「そんな誰かがねつ造出来る紙切れに意味はないわ。必要なのは当人同士、身体とこころを深く交わらせること」
「胸をくっつけるなっ」
「冗談よ、冗談」サイカは満足気に微笑んだ。「隣にいる綺麗なお姉さんが弟に向けている愛は一般的なものよ。残念ながらね」
ツキヒコは別に残念ではない、と思いながらため息をついた。腰まで届く長くて艶のある髪の毛を一つに束ねている彼女は、ツキヒコよりも十個年上の二十七歳。歳が離れているせいかサイカは弟のツキヒコに対して大人ぶることが多いのだが、ツキヒコにとってはそれが逆に子供っぽく思えた。
「でも残念ね」サイカは言う。「今、呼びに行ってもミユはこっちに来てくれないわよ。脈のない恋愛相談をしてくる相手に現実を突きつけるみたいに残酷なことは言いたくないけれど、あの子、まだあなたにこころを開いていないんだから」
「それはわかってるけど……」
「寂しかったら、早く仕事を辞めて普通の高校生になった方がいいわよ」
「普通の高校生って……。俺はアイドルじゃないんだけど」
冗談っぽい言い方だが、明らかに本心である姉の言葉を聞いて、ツキヒコは苦笑いを浮かべながら視線をテレビ画面に固定した。逃げるために視線をそらしたと言ってもいい。テレビの画面上では仲睦まじい様子の幼い兄と妹が映し出されている。昔は自分たちもこんなふうに仲が良かったのに。こころが温まるシーンのはずなのに、ツキヒコの気持ちがほっこりとすることはなかった。むしろ、きつく締め付けられていく。
一七歳のツキヒコと一〇歳の妹であるミユの関係が悪くなったのはツキヒコがミマサカ機関のエージェントとして働くようになった一年前からだ。仕事で家にいる時間が大幅に減少したツキヒコは妹と一緒に過ごす時間がなくなり、それが積み重なった結果、いつの間にか挨拶をしてもそっけない返事しかしてもらえないほど関係が簡素化してしまったのである。今日も一度だけ顔を合わせたが、久しぶりの対面だと言うのに無言で瞳をチラリと見られただけだった。仕事上の挨拶のように軽く頭を下げることもなければ、友人とすれ違う時のように軽く手をあげることもなかった。
「ミユは寂しいのが辛かったのよ。だから寂しがるのをやめて嫌うことにしたのよ。その方が楽だと思ったから」
サイカの言葉にツキヒコは何も答えなかった。先に辛い思いをしたのは妹のミユだ。それを自分はしっかりと理解しているだろうか。まるで自信がなかった。
出来れば仕事を辞めて普通の生活を送りたい。本音ではそう思っているツキヒコだが、その希望が叶うことが限りなく不可能に近いことを彼は知っている。ミマサカ機関のエージェントとして働いているツキヒコは表向きには依頼人や一般市民を守っているが、実際には姉や妹を守っているのだ。そのことを姉と妹は知らない。ツキヒコも知らせるつもりはなかった。
「なあ、姉貴。俺にカリスマ占い師みたいにアドバイスをくれると嬉しいんだけど」ツキヒコは言う。「ミユはどうしたら機嫌を直してくれると思う?」
「だから言ってるじゃない。仕事を辞めればいいって。この世に家族よりも大切なものってあるのかしら?」
「俺をいじめて楽しい?」
「ええ。とても」ふふふ、と悪戯っぽく笑ったサイカはソファーに下ろしていた腰を少し動かしてから言う。「仕方がないからカリスマ占い師みたいにアドバイスを送ってあげるわ。一つだけ提案。もうすぐあの子の誕生日だから、その日に今までの埋め合わせをすればいいんじゃないかしら。女の子にとって誕生日はクリスマスよりも大切なんだから」
「単純すぎる気がする。たった一日の奉仕で機嫌を直してくれるものなの?」
「一瞬の幸せのおかげでそれまでの不幸を忘れられる。それが女よ」
なるほど、と納得したわけではなかったけれど、妹が姉の言う通りの女であることを願ってしまう。自由な時間が限られているツキヒコには妹に奉仕する時間はほとんどないのだから。
「仕方がないわね」気分が晴れない弟の思いを察したのだろう。サイカはソファーから立ち上がってこう提案をする。「わたしがミユの様子を見てくるわ。もしゲームでもして暇そうにしていたら上手く騙して連れてきてあげるわよ。人を騙すのにはちょっと自信があるんだから」
「騙すって……、まあいいか。ありがとう。姉貴」
満面の笑みを浮かべる弟の姿を見たサイカは、満足気な足取りでリビングを出て行った。妹と久しぶりに話が出来るかもしれない。そんな期待を抱いていたツキヒコの元にサイカが帰って来る。たった一人で。その様子を見てツキヒコは違和感を覚えた。
「どうかした?」
気遣うようにツキヒコが訊くと、サイカは答えた。
「いないの」
「いない?」
「どこにもいないのよ。部屋にもトイレにもお風呂にもミユがいないの」
「マジでっ」
思わず叫び声をあげてしまったツキヒコのせいで、サイカの身体がびくんと震えた。どうやらミユは二人に黙って外出してしまったらしい。現在の時刻は夜の八時を少し過ぎたあたり。高校生ならまだしも小学生が遊びに出掛けるには遅い時間である。
「大丈夫よ。たぶん、小腹でも空いてコンビニにでも行っただけだと思うから。ねえ、落ち着いてツキヒコ。そんなに心配することじゃないわ」
「だ、だよね」
とりあえず姉の言葉を信じて気持ちを落ち着かせようとするが、なかなか上手くいかない。仕事で人間の暗部を日常的に目の当たりにしているせいで世界が平和だとはとても思えないし、人間が良い人ばかりであるとも信じられなくなっているのだ。確かに外に出たのはコンビニに行くためかもしれないが、その道中で危ない目に遭っているかもしれない。そう考えると不安の波は収まらなかった。
もしかしたら、自分のせいでミユは黙って家を出て行ったのかもしれない。自分がいなかったら姉を誘って一緒にコンビニに行ったのではないか。そんなふうに自分を責めながらミユの行方を追うために玄関で靴を履き替えようとしたとき、ポケットに入れていたケータイが鳴った。どうしてこんな時に、と苛立ちながらディスプレイを見ると、相手はミマサカ機関の同僚であるシオ・カワスミだった。彼女からの電話を無視するわけにはいかない。ツキヒコは煩わしいと思いながらも、平静を装って電話に出る。
「はい。ヨツバです」
『こんばんは、ツキヒコ。今、大丈夫? まあ、大丈夫じゃなくても電話は切らないけど』
楽しそうに笑うシオの声に罪はない。だが、それをわかっていても苛立ちを抑えられないツキヒコは、無駄口を叩くなと言わんばかりに先を促した。
「要件は?」
『あ、えーっと』ツキヒコの声音で彼の気持ちを察したのだろう。シオは無駄な話をせずに要件を伝えてくる。『今からエリアに集合だって』
「今から? 何時までに行けばいい?」
『何時までとは言われてないけど、三十分以内には来た方がいいと思う。今回は支部長直々の招集だから、あまり遅くなっちゃうと街中で拉致られちゃうかもしれないし』
「……わかった。出来るだけ急いで行くよ」
ため息をつきながらケータイを切るツキヒコ。そんな彼を心配そうに見つめる姉に事情を説明する。仕事に行かなくちゃいけなくなった、と。
「大丈夫。ミユのことは任せて」サイカは優しい笑みを浮かべる。「さっきも言ったけど、たぶんコンビニに行っただけだと思うし心配ないわよ。戻ってきたらちゃんと連絡してあげるから」
「わかった。よろしく頼むよ」
渋々ながらも妹のミユのことは姉に任せることにして、ツキヒコはミマサカ機関の支部へと向うことにした。妹が危ないことに巻き込まれていなければいい。そう願いながら。
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