第二話 今二

 目蓋を閉じ、全身の皮膚を使って吸い込むようにカノンを聴いていたミマサカ機関の支部長であるサカエのケータイが鳴った。サカエの目蓋が開かれるのと同時にカノンが消える。


「わたしだ」


 ケータイに出たサカエの耳に少し興奮した様子の男の声が聞こえてくる。


『情報が入りました。やはり決行は明日のようです』


 午後三時。ミマサカ機関中央支部の支部長室。床も壁も天井も真っ白に彩られたその部屋の中、部下からの報告を聞いたサカエの表情はカノンを聴いていたときと変わらない。肩先まで伸びた金色の長い髪。グラデーションがかった青い瞳。モデルや俳優として仕事が出来そうなほど整ったその顔立ちは、そのまま雑誌の表紙を飾れそうなほど綺麗なままだった。


「無駄な報告をさせて悪いと思うが、一応確認しておこう。ターゲットは誰だ?」


 サカエの問いかけに、男は報告する。


『ナナカ・ミマサカ。お嬢様です』


 そうか、とサカエは淡々と言葉を漏らした。ナナカ・ミマサカはサカエが所属しているミマサカ機関の創設者であるカズオ・ミマサカの孫娘だ。世間的には隠されているが、彼女はミマサカ機関次期総統候補の筆頭である。穏健派である彼女の存在のおかげで、現在、ミマサカ機関と政府はギリギリのところで折り合いをつけている。もしも、彼女の存在が消えることになれば急進派の勢力が増し、世の中の勢力図が一気に書き換えられることになるのは明らかだった。


「どうしてこう叩かなくてもいい扉を人は叩いてしまうのだろうね」


 サカエの問いに、男は答える。


『扉の先にオアシスがあると思っているんですよ』

「なるほど。飢えと渇きには耐えられいというわけか。それが人の性ならば仕方がない」


 ナナカ・ミマサカ。彼女の存在を疎ましく思っている人間や組織は多い。今までも彼女の失脚を狙うための謀略はいくつもあった。そのすべてを傷口が開き出血を伴う前に処理していたサカエにとって、今回の報告は再び仕事を遂行するための合図となる。

 

 ナナカ・ミマサカが再び狙われるという懸念が生まれたのは一週間前。反政府組織による無差別テロが行われた小学校へ彼女が慰問に訪れることが決まってからだ。サカエは信頼できる部下に調査をさせ、周囲の動向をうかがわせていたのだが、慰問の前日である今日になって、懸念がただの懸念ではなくなったことが判明したのだった。


『先ほど、お嬢様のSPに連絡を入れたら、放っておけ、と言われましたよ』


 苦笑いを浮かべながら男が報告した。


「だろうな」サカエは息を吐いた。「彼女たちも仕事がしたいのだろう。姫の前で格好つけたいナイトのようにな」

『そうですね』


 ナナカ・ミマサカのSPは実際にナナカが襲われた時に彼女を守るチームである。故に、実際に彼女が襲われる前にサカエの部下が事件を解決してしまったら出番がない。サカエが支部長に就任して以来、ナナカのSPの仕事は減っていた。変な言い方だが、SPたちは暇なのだ。


「そうは言っても、放っておくわけにはいかない。実際に彼女が襲われ銃弾にでも倒れたりしたら、追悼式典をやるだけではすまなくなってしまう。わたしは仕事は嫌いではない。だが、やらなくてもいい仕事をしたいと思うほど熱心というわけでもない」

『わたしの部隊はいつでも出動出来ますよ。まあ、代償として半日後にはSPたちから苦情の連絡が来るでしょうが。いかがいたしましょうか』


 男は冗談っぽく言った。だが、それがただの冗談ではないことをサカエはよくわかっている。今まで指示した仕事を完ぺきにこなしてきた彼らをサカエは信頼していた。だが、


「さすがだな。だが、今回は待機だ。珈琲でも飲みながら家に積んである本でも読んでいてくれ。そこに書いてある内容はすぐには役に立たないかもしれないが、永遠に役に立たないと言うわけではないだろう。他人が残してくれた教訓をいざという時のために、身体に染み込ませても損はないはずだ」


 そう言ってサカエは男の提案を断った。


『何か策があるんですね?』


 男の言葉に、サカエは答える。


「策というよりは、準備だな。いや、観察かな。せっかく種を植えたのだからその成長を見届けなければもったいない。花を咲かせる責任もあるしな。少し準備をしてから花に水をあげにいくことにしよう」

『責任ではなく、愉しみでは?」

「言葉とは難しいな」


 ケータイを切ったサカエはゆっくりと目蓋を閉じた。真っ白な部屋の中に、再びカノンが流れ始めた。



               * * * *



「ばああああっか、もおおおおおおおおおおおおおおんっ」


 避雷針が歪んでしまうほどの雷が落とされたのは、ミマサカ機関中央支部のとある一室だった。この部屋の主はミマサカ機関中央支部作戦課長のタイヘイ・イワブチであり、雷を落としたのも彼だった。六頭身の丸い身体が、怒りに震えている。大きな顔に着いた二つの眼が、するどく前方を睨み付けた。彼の前には四人の部下たちがいる。ミマサカ機関中央支部第二エリア所属のエージェントたちである。


「申し訳ありませんでした」


 誰よりも早く頭を下げたのはリーダーであるシオ・カワスミだった。


「すみませんでした」


 続いて頭を下げたのはツキヒコ・ヨツバ。彼はサブリーダー。


「大変、申し訳ありりませんでした。この失態は仕事で返したいと思っています」


 頭を下げつつも、相手に悟られないように笑いをこらえているのはタイチ・イシグロ。そして、何も言わずに頭を軽く下げただけだったのはミヅキ・タチバナである。


 定時に帰ることが出来るサラリーマンならば、そろそろ勤務後の時間をどう過ごすかを考え始める午後四時という時刻。どうして彼らミマサカ機関中央支部第二エリアのエージェントたちが作戦課長に雷を落されているのかというと、それは数時間前の出来事が原因だった。第二エリアのエージェントたちは本部の調査によって手に入れた情報を元に麻薬の密売人の確保に乗り出したのだが、売人を確保する際に空中車エアカーで逃走する売人たちとハリウッド映画のワンシーンのようなカーチェイスを行い、挙句の果てに自ら事故を起こして売人を逃がしてしまうという失態を犯したのだ。


「貴様ら、一体、いつになったらまともに仕事を遂行できるようになるんだっ」

「申し訳ありません」シオが言う。「次こそは必ず結果を出せるように努力します」

「聞き飽きたんだよ、その台詞はっ」

「すみません」

「その台詞も聞き飽きたっ」


 タイヘイは肉厚の手のひらをデスクに叩き付けた。デスクに置いてあったパソコンや書類の束が激しく揺れる。タイヘイの家族の写真を入れた額が倒れた。タイヘイは倒れた写真立てをなおそうともしない。その姿を見て、もう何を言ったとしても作戦課長の機嫌は直りそうにないと判断したシオは、言い訳をせずにただ謝罪の言葉を述べ続ける作戦をとる。早くこの雷が納まって欲しい。そう願いながら。


「いいか。貴様らは仮にもミマサカ機関のエージェントなんだ。そんな貴様らが犯人を逃し、さらにその映像を動画サイトに投降されることがどんな意味をもっているのかわかっているのかっ。全世界の笑いものだぞっ。恥を知れっ」

「すみません」

「我々がこれまで築き上げてきた信頼を壊すことが貴様らの仕事ではないっ。信頼を築くことが仕事だろっ」

「すみません」

「こんな失態続きでは『今一』どころか『今二』と言われてしまっても仕方がないだろっ。悔しくないのかっ。憤りを感じないのかっ。貴様らに矜持はないのかっ」

「すみません」

「その台詞はもう聞き飽きたっ」


 聞き飽きたと言われたくらいで『すみません』を辞めることはしない。飽きて吐き出すくらい『すみません』を食べさせるくらいでなければ、この雷からは逃れることが出来ない。シオは経験からそれをわっかっていた。


「課長殿。発言してもよろしいでしょうか」


 もう何度謝ったかわからないほどシオが頭を下げた頃、唐突に手を上げたのはミヅキだった。鼻息を荒げながら、なんだ、と発言を許可する作戦課長にミヅキは言う。


「この大変ありがたいご指導ご鞭撻はあとどれくらい続くのでしょうか? ほら穴に心情を吐露するように本音を申し上げます。実は数十分前からずっとある場所に行きたいと思っているのですが」

「ある場所とはどこだっ」

「厠であります」

「くっ」苛立たし気に口元を痙攣させる作戦部長。「行けっ。さっさと行ってこいっ」

「では、失礼します」


 そう言って、ミヅキは部屋を出て行く。


「あ、ぼくもいいでしょうか? 先ほど牛の乳を飲み過ぎてしまったみたいで、ちょっとお腹の調子が……」


 ミヅキに続いてタイチも手を上げる。


「行けっ」

「では、失礼します」


 大げさに下腹部を両手で抑えながらタイチも部屋を出て行った。

 部屋に残されたのはシオとツキヒコの二人だ。そんな二人に作戦部長は言う。


「まさか、貴様らもどこかへ行くとは言わないだろうな」


 両手で下腹部を抑えながら苦笑いを浮かべるシオ。隣を見ると、ツキヒコも自分と同じような姿を見せていた。焦燥の色を見せるシオは課長のタイヘイに悟られないように小声でツキヒコに話しかける。


「ちょっと、やめてよっ。四人同時にトイレに行きたいだなんておかしいにきまってるでしょ。ばれちゃうよ、嘘だってことがっ」

「なあ、シオ。お前はこの茶番がバレてないと思ってるのか?」

「え、バレてるの?」

「当たり前だろ」


 まさか、と思いながらシオはタイヘイの顔色を窺う。どこから圧力が加えられているのかわからないほど、タイヘイの顔は禿げ上がった頭頂部まで赤く変色していた。


「ど、どうしよう」


 呟くシオに、ツキヒコは囁く。


「つき通すしかない。嘘を嘘で上塗りするのはいけない。でも嘘をつき通すのは悪くない。そして貫き通した嘘は真実へと昇華する。そう言っていたやつがいる」

「誰?」

「うちの姉貴」

「し、信じられるの、それって」

「わからん。だけど、やるしかないだろ。今さら、嘘でしたって言える雰囲気でもないしな」

「わ、わかった」


 下腹部を両手で抑え続けるシオとツキヒコ。顔色が悪いわけでも、汗を垂らしているわけでもない二人の姿にタイヘイが慈悲を見せることはなかった。だが、状況を変える力を持っているのはその場にいる人間とは限らない。ブラジルの蝶がテキサスで竜巻を起こすこともある。


 作戦課長であるタイヘイが部下にその日最大の雷を落そうとした瞬間、部屋に電話のコール音が鳴り響いた。忌々しく電話を睨みつつも、受話器へ手を伸ばしたタイヘイは下腹部を抑え続けているシオとツキヒコに雷ではなく台風を発生させる。


「だから、お前らは『今二」なんだっ。もうお前らにまともな仕事は回さんぞっ。さっさと、トイレでもどこへでも行けっ」


 ガッツボーズを取りたい気分になりつつも、とりあえず下腹部を抑えながら部屋を出て行くシオとツキヒコ。その様子を確認してから受話器を取るタイヘイ。電話先の相手と二言三言話した彼は、まるで相手が目の前にいるかのように前のめりになってこう叫んだ。


「え、あいつらをですかっ」

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