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未知比呂
第一章 思惑混交
第一話 ままならない
本当にやりたいと思うことなら、やらなければならないと思うことならば、たとえ世界中を敵に回しても、恋人すら、友人すら、家族すら悲しませることになったとしても、やるしかない。やるべきなんだ。価値というものはそうやって決まる。
男は改めて自分の決意を胸に刻んだ。
男にも自分以外の誰かの幸せを願っていた時期があった。
だが、それもたった一つの出来事がきっかけで霧散してしまった。
誰にも褒められない。
それでも自分を納得させるにはやるしかなかった。
この復讐は誰のためのものなのだろうか。
自分のためでしかない。
だからこれは自分にしか価値のない愚行だ。
わかっている。わかっているさ。
* * * *
「ああ、もうっ」
激しく揺れるSUV型の
「じゃまっ。どいてっ」
蛇行しながら次々と
「シオ」
助手席から声が聞こえてくる。シオの同僚であるミヅキ・タチバナだ。肩の辺りで切りそろえられた銀色に近い白髪が、窓の外から入って来る日差しを受けてキラキラと輝いている。だが、肝心の少女の表情は輝いていない。赤子のように柔らかそうな頬や、艶のある唇は思わず手を伸ばしてしまいたくなるほど魅力的なのだが、目覚めた直後のような半開きの瞳がすべてを台無しにしているのだ。ミヅキの瞳は、今、この瞬間だけ、半開きになっているわけではない。常にこの状態だった。荒々しい運転をしている車内も例外ではない。「なに?」と返事をするシオに、ミヅキは無表情のまま口を開いた。
「チョコ、キメる?」
「うん、キメる――なんて言うわけないでしょっ。今、チョコを舌で優雅に転がすゆとりはないって。はじめて仮免許で道路に出た時みたいに手と足が痙攣寸前なんだからっ。てか、『キメる?』じゃなくて普通に『食べる?』って言ってよっ」
「そんな上品な言葉を教えてくれる大人は誰もいなかった。橋の下に捨てられていたわたしには」
「あんたには立派な親御さんがいるでしょっ。昨日、会ったよっ」
「親は死んだ」
「ニーチェっぽく言うなっ」
こんな時に冗談はよしてくれ。そう思いながら前方を走っている
『次の交差点を華麗に左ね』
シオの耳に装着されているインカム越しに、男の声が聞こえてくる。優しい声だ。だが、どこか他人事のようでもある。声の主は事務所でパソコンの画面を見ながらナビをしてくれているタイチ・イシグロだ。今頃は危険とは無関係な冷暖房完備の快適な部屋で、思わず身体を揺らしたくなるような洒落た音楽でも聞きながらモニターを観ているのだろう。その光景を想像したシオは喚くように言う。
「華麗には無理っ」
『出来ない言い訳を考えるよりも、どうすれば出来るのかを考えた方が建設的だって誰かが言ってた』
「たしかにそうだよねっ」
叫びながら、言われた通り交差点を左折するシオ。スピードを出し過ぎていたため
「ねえ、ミヅキ。チョコばっか食べてないでなんか手伝ってよっ。友達がものすごく困っているんだけどっ。藁どころか、糸でさえ掴みたいくらいにねっ」
「シオは友達じゃない。親友。わたしにとっては重要なことだから間違えないで」
「ええっ。このタイミングでそんな感動的なことを言っちゃうわけっ。全然、こころに響かないよっ。てか、感動的な言葉よりも現実的な援助が欲しい場面なんだけどっ」
「無茶言わないで。給料日までお金がない。あと一週間はマッチを売るか、物乞いをしなくちゃいけないのに」
「そういう援助じゃなくてっ。てか、この状況でその甘いにおいをさせている手を伸ばして物乞いをしてこないでっ」
「スウィートスメル。何か必殺技っぽい」
「どうでもいいよっ」
シオの嘆きに、ミヅキはため息を漏らす。
「そんなわがままを言われても、車内でわたしに出来ることは何もない。こんな狭い車内じゃ『鼻』が利かないから。例えるならわたしは砂漠に放置された哲学者。生きる意味を語れても砂漠では生き残れない」
「わかってるわよっ。ちょっと言ってみただけっ。少しでもリラックスした状態で運転できるように冗談を言い合える話し相手が欲しかったのっ」
「シオこそ、エシュロン並みの能力を持つ自慢の『耳』を使って相手の会話を盗聴して逃走ルートを先読みすればいい。そうすれば飼い主に命令された犬みたいに相手を追いかけなくて済む」
ミヅキの提案にシオは眉をひそめた。
「出来ないことはないけど、ものすごく集中しなきゃいけないのよ。十秒間で英単語を三十個覚えるくらいのねっ。運転しながらじゃ無理っ。まあ、ミヅキがハンドルを操作してくれるな別だけど」
「そう。それくらいならお安い御用。ちょろちょろちょろすけ」
「え?」
シオは冗談を言ったつもりだったのが、隣にいたミヅキは本当に助手席に座ったまま、筋骨隆々の男が力強く握ったら簡単に砕けてしまいそうな華奢な腕を伸ばしてハンドル操作を始めた。シオが呆気に取られる中、片手でチョコレートの袋を持ち、もう片方の手でハンドルを起用に動かしている。アクション映画でしか観たことのない驚愕の運転方法だったが、シオが運転をしている時よりも車体はずっと安定していた。あまりにも運転が上手すぎるので、シオはハンドルから手を離さざるをえない。
「そんなに上手いんだったら、はじめから運転してくれればよかったのにっ」
「わたしが運転したら豚箱行き。たとえ神さまが与えたもうた試練だったとしても、臭いご飯は食べたくない。ご飯の味の八割は匂いで決まる」
「わかってるわよっ。ちょっと言ってみただけっ」
「ちょっと言ってみただけが多いシオは告白できない男子みたいにもたもたしてないで、早く能力を使うべき。その耳は男からピアスを貰うために付いているわけじゃないはず」
「わかったわよっ」
シオは目蓋を閉じて集中を始めた。彼女の身体から波紋が広がるように神々しい光が溢れ出してくる。この光は普通の人間には視認不可能。故に、特定の人以外にはシオはただ目蓋を閉じているようにしか見えない。
前方で制限速度をはるかに超えるスピードで走る
『シオっ。危ないっ』
「え……。えええええええっ」
目蓋を開いて叫んだ時にはもう遅かった。慌ててブレーキを踏んだが間に合わない。身体中に自分の体内が震源地になったみたいな衝撃が走る。シオたちが乗っていた
「地元では敵なしのわたしもハンドルだけじゃ方向転換しか出来ない」
こんな時にも無感情に淡々とミヅキは呟いた。シオは何も言うことが出来ない。ゆっくりと目蓋を閉じるだけだ。
「どうして我々のやることは上手くいかないのだろうか。もしかしたら我々ではなく世界が悪いのかもしれない。シオ・カワスミはそう嘆いた」
エアバックに顔を突っ込んだままそう呟くミヅキに、シオは言う。
「そうだよ。そんなふうに嘆きたい気分だよ。世界が悪いんだよ、きっと。悪い人がいなければ困る人はいない。困る人がいなければわたしたちが働く必要もないんだし」
シオとミヅキのインカムにタイチの声が聞こえてくる。
『必要悪という言葉を知っているかい? ぼくらは悪がいなければ米粒一つ口に入れられないと言う現実をきっちりと認識した方がいい。所詮は社畜なんだから。与えられた仕事をしなくちゃお金がもらえないからね。悪がいなかったら仕事もない』
「解説しよう」ミヅキが言う。「シオは現実逃避をしないで運転技術を磨くべき。人間に最も必要なもの。それはエデンの園を夢見ることではない。向上心を持つことである」
「うう。わかってるわよ」
「世界は悪で満ちている。禁断の果実をかじって以来、それは拭うことが出来ない人の性。故に、これからも悪がはびこり続ける。もしかしたら、一呼吸後に、とんでもない事件に巻き込まれるかもしれない。わたしはそう考えながら生きている」
「考えながらって……具体的には?」
「横断歩道で立ち止まったとき、必ず背後を警戒する」
「誰も押さないよ」
「異議あり。その保証はない。自殺に見せかけて殺すなら、人通りの多い交差点で車が来た瞬間にターゲットを押すのが楽ちん」
「まあ、そうだけどね」
息を吐きながらエアバックに顔を埋めるシオ。世界は悪で満ちている。確かにミヅキの言う通りだ。一呼吸とまではいかくても、数時間後に事件に巻き込まれる可能性は十分にある。
まあ、事件に巻き込まれるのが仕事だし、巻き込まれることによってご飯を食べているわけだけど、きっとしばらくは事件に巻き込まれることもないだろうな。せめて今日は美味しいものでも食べて嫌なことを忘れよう。ところで、禁断の果実ってどんな果物だろう。
そんなことを考えていたシオの耳に声が聞こえてくる。
「えっと……大丈夫か?」
声の発生源は運転席側の窓の外だった。相手を自動認識した窓には、外にいる人間の簡単なプロフィールが映し出されている。
ツキヒコ・ヨツバ。
十七歳。
ミマサカ機関中央支部第二エリア所属エージェント。
そんな個人情報を読まずに、シオは呟く。
「あんたのせいだ……。わたしたちが『今一』どころか『今二』って言われるのも全部……。あんたがたまたまいなかったから。だから、わたしが運転するはめに……」
完全に逆恨みであることは理解している。だが、シオはそう呟かずにはいられなかった。
「また、しばらく干されるのか……」
シオのため息が、地面に落ちた
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