第19話『葛藤』
オリゾン・アストル生活も3日目に入った。
キリカの父親からの手紙の返信を待っているが、まだ返ってこない。
キリカ曰く、ソルシエール本家や分家、親戚一同で今後の処遇について話し合っているのだろうとの事。
ローウェル指導の下、日が昇る前に起床して『心』を鍛える特訓しているが、成果はまだ出ていない。割れた茶碗の欠片だけが増えていく。
あれ、茶碗を割る特訓してるんだっけ? とすら思えてくる。
特訓から帰ると一生懸命早起きをして、寝ぼけ眼でぼんやりしているキリカと共に朝食の準備をする。その後、洗濯や掃除を3人で分担して執り行うのだが、私が洗濯当番になった際、キリカのパンツを洗っている所に偶然、キリカが通り掛り、悲鳴を上げられた。
そんな一悶着あってからは、洗濯はキリカが担当する事に決まった。
家事の後、午前中いっぱいは、キリカが先生役になってオリゾン・アストルの文字や歴史、文化を私に教えてくれる。
文字は《翻訳》で読めはするが、書く事が出来ないのだ。とは言っても、この世界の文字は勇者が作ったものだ。
しかも、主語・目的語・動詞の独特な文法から見て『元日本人』の勇者だ。おかげで、文字は覚え易かった。
教えてもらった中でも、2日目で教えてもらったオリゾン・アストルの通貨が印象的だった。
リビングのテーブルには、数冊の分厚い本と白紙のページが開かれたノート、鉛筆、ティーセットが置かれている。
ローウェルはいない。私とキリカが対面して座っている。
個人レッスンの家庭教師だ……しかも年下の可愛い先生ね。
「本日は、オリゾン・アストルの通貨についてお話します」
「はーい、キリカ先生」
「あう、その呼ばれ方は恥ずかしいです……」
「そんな恥ずかしがってるキリカちゃんが、今日も可愛いです」
「もう、からかわないでください! コホン,では気を取り直しまして,シャリオン様。こちらをご覧下さい」
キリカが取り出したのは、ふわふわの布で縫製された可愛らしい三毛猫らしき動物のがま口だ。パチンと軽い音を立てて、止め具をと外すと中身を取り出した。
「これがオリゾン・アストルの共通通貨――ソルです」
「え? これがお金なの?」
がま口から出てきたオリゾン・アストル通貨『ソル』、私の目には、色とりどりの透き通った『おはじき』にしか見えなかった。
これが通貨だって? 古きよき時代の女の子の遊び道具じゃなくて?
その中の一つ、青い硬貨を手に取って食い入るように見つめる。
青い硬貨の大きさは、10円玉くらいだ。
他のソル硬貨と見比べると、一円玉サイズから500円玉サイズまである。
色は小さい硬貨から順に、白、緑、青、赤、銀、金だ。
「ソル硬貨は、大きさと色で単位が決まっています。一番小さい白が1ソル、緑が6ソル、青が12ソル、赤が60ソル、銀が120ソルです。金の600ソル硬貨は、大きな買い物をする時以外は、まず持ち歩きませんね」
キリカの話を聞いて、何となしにソルを日本円に換算してみた。
1ソル→【10円】
6ソル→【100円】
60ソル→【500円】
120ソル→【1000円】
600ソル→【10000円】
ってトコロかな? キリカに日本円の概念がないから、何とも言えないけど。
それにしても綺麗な硬貨だ、使うのが勿体無く感じてしまう。
「綺麗だね」
「うふふ。私も小さい頃は、宝石だと思っていました。でも実際はガラス製なんですよ」
「ますます、おはじきじゃないか……ガラス製って、割れたり、偽造されたりしないの?」
「ガラスの原料に硬化魔石の粉末が混ぜてあるので、石に叩きつけても割れません。それから偽造対策としては、光で透かすと『不変六理の輪』のエンブレムが浮き出るようになっています。これは、造銭局の特許技術なので作れないんです」
「ホント、魔法様々だね。オリゾン・アストルの物価って、どうなってるの?」
おはじきでお買い物、おままごとみたいで年甲斐もなくワクワクしてしまった。
ソル硬貨で遊び始めた私を他所に、物価と聞かれたキリカはちょっと困った顔をしていた。
「ええっと、ルー……いえ、私の弟でしたら、そう言った世情に詳しいいのですが。確か、リンゴで計算するんでしたっけ? 今年のリンゴの値段は、1つ8ソルだったと思います」
リンゴ一つが8ソル、日本円で言うなら120円――まあまあな値段か。
前世の私が生きた2015年の日本と物価は大差ない。
物価より、気になる情報がポロッと出てきたんだけど。
「え? キリカちゃんって兄弟がいるの?」
「お話していませんでしたっけ? 私、弟が一人いるんです」
「初耳なんだけど。弟かぁ……弟ってさ、何かにつけて上の兄弟を馬鹿にしてこない?」
キリカと私は、兄弟構成が同じだった。
否応無しに前世の弟の顔が脳裏に蘇ってくる。嫌な思い出の数々もセットで蘇ってきたので思わず、歯噛みしてしまった。
「世間知らずで愚図な私を手助けしてくれる、優しくて、頼もしい、優秀な弟なんです。週に一、ニ度は必ず、私の様子を見に尋ねてくるのですが……仕事が忙しいのか、今月はまだ一度も来ていないんですよね」
少し心配です。と、窓の外に目を移したキリカ。
頬杖を付く私は、キリカみたいに弟を心配した事は、一度だって無い。
なにせ、出会い頭に「死ね、ブス」「黙れ、カス」と言い合うのが挨拶代わりだった兄弟だ。
良いなー、兄弟で仲が良いのって憧れるなぁ。
「弟をそこまで褒められるキリカちゃんも、優しくて良いお姉ちゃんだよ。正直、弟さんが羨ましい」
「良い姉だなんて、私は何も……。それに今は、シャリオン様が一緒にいて下さいますし……シャリオン様は、とてもお優しいです」
「んー? 私って優しいのかなぁ? 全然、自覚ないよ」
「とてもお優しいですよ! 弟以外の男性に、こんなに優しくして頂いたのは……初めてです」
あれ? キリカ先生、勉強はどうしたん?
ちょっと、リビングにピンクの靄がかかり始めた様に眼が錯覚する。
キリカは黙り込んでしまったが、何か言いたげに口をモゴモゴさせている。
心なしか、ほんのり耳が赤く染まっている気がする。
これが噂のラブコメの波動と言うヤツなのか?
うわああ、ローウェル、早く帰ってきて。私、こんな雰囲気、耐えられないよ!
「シャリオン様は……私の事、どう思われますか?」
「き、キリカちゃん? どう思うって……言われても」
キリカの潤んだ瞳の上目使い、瑞々しい唇、そのまま自然に視線が胸元へ下る。
悲しいかな……私の男の本能が蠢き出してしまった。
ゴクリと生唾を飲み下した私の脳裏に、高笑いが響いた。
だ、誰だ!? すると脳内の虚無にスポットライトに照らされた一人の男が現れる。
男の顔は見えない。
『見ろよ、キリカの顔を! コイツは、男を欲しがってるメスの顔だぜぇ。こんな上等な据え膳を食わないなんて、お前男じゃねーよ。邪魔なローウェルもいねぇし、このまま押し倒しちまおうぜ!』
うわ、無駄にテンション高いな。いや、私……心の方は男じゃないし。
てか、お前誰なんだよ。
『誰かだって? 俺はお前だよ、シャリオン! 心の中にいるお前の男の本性さッ!』
逆光で見えなかった男の顔が明らかになる。
そいつは、あくどい笑み浮かべた私だった――。
全身黒尽くめで、頭には立派な二本の角が生えている。なるほど、暗黒面……悪魔な部分の私だな。
酷いゲス顔だし、何より思考が最低だな、オイ。
男の私って、ただの変態じゃないか! 世の男は、可愛い女の子を見たら皆、こんな風に性欲に塗れた感情を抱くの? 自分自身にドン引きだよ!
『待って、駄目よ! そんな事をしては駄目!』
脳内空間に、第三者が現れた。
スポットライトを浴びたその人物は、全身真っ白で背中に翼を背負った私だった。
内股だし、モジモジしてるし、見てるとイライラして来る。
こっちは、天使の私か。
『良く考えて、貴方は女なのよ? 貴方の事を心の底から信頼しているキリカちゃんに、そんな酷い事をするなんて……男性以前に、人間のクズになってしまうわ!』
天使の私さ、口調が女々し過ぎない? 普段の私だって、そんな喋り方しないよ?
オネェ通り越して、オカマかニューハーフだよね。
でも、天使の私の方が常識的だ。
私が天使と悪魔を傍観していると、勝手に2人が口論を始めた。
『うるせえな、オカマ野郎。本当はお前もキリカをヒイヒイ言わせたく仕方ないんだろ? 正直になっちまえよ』
『キィイイッ! アンタみたいなサイテー男、今すぐ黙らせてやるんだからッ!』
私の中の天使と悪魔が、脳内の特設プロレスリングで激しい試合が始めた。
何故か、私がリング上でレフリーを勤めている。
あ……悪魔な私が優勢になってる。天使な私に、『アナコンダ・バイス』をかけている。
これって、カウントした方が良いの?
頭の中がプロレスが、いよいよ佳境に入ってきた。
本能のまま、野獣と化す一歩手前の私に、救いの手が差し伸べられた。
「取り込み中に済まんが、お前達に朗報だ」
「どわぁッ!」
「ひゃあああ!?」
音もなく、ヌッと私達の間に現れた黒い影、誰であろう我らがローウェル師匠だ。
私もキリカもローウェルの気配に全く気が付いていなかった。
驚きのあまり、二人同時に椅子から勢い良く立ち上がる。
「師匠ッ! 脅かさないでよ!!」
「うう、ビックリしました」
「小生の気配に気付けなかったお前達が悪い。巫女はともかく、シャリオンよ、お前の《第六感》は飾りか?」
「あのねぇ、《第六感》は身に危険が迫らないと発動しないの!」
「ほう……では、殺気でも出すか?」
ローウェルの軽いジョークのつもりなのかと思ったが、直後に《第六感》の警告音が鳴り響いた。
《警告――。魔刀ローウェルが……》
「ねぇ、本気で殺気出さないでもらえます? それより、朗報って?」
「お前達が勉学に励む間、小生は隠れ家周囲の巡廻を行っていたのだ。その途中で、昼餉に丁度良い獲物を捕らえた。コレだ」
ローウェルが前置きを言ってから、ヒョイッと右手を上げる。
その手には、丸々太った大きな鳥が足を握られて、逆さにぶら下っていた。
鳥は、ピクリともしない。もしかしなくても、死んでるね。
スーパーや精肉店の加工済みになった肉を見て育った私には、白目を剥いて絶命している鳥は、ちょっと不気味だ。
「わあ、立派な山鳥ですね。流石、ローウェル様!」
「これしきの下等生物の1匹や2匹、狩れて当然だ。勉学は一旦終わりにして、巫女は昼餉の支度に移れ。シャリオン、お前は小生と一緒に来い」
「はい? どこに行くの?」
「井戸だ。この獲物を捌く」
「えぇええ!? 私も一緒に行かなきゃ駄目なの?」
「鳥の捌き方を直々に教えてやる。拒否権はないぞ?」
私の意見も聞かずに、ローウェルは玄関に向かう。キリカの視線に後ろ髪を引かれたが、それを振り切って、ローウェルの後姿を追いかけた。
外に出て、玄関の扉を閉めた。同時に安堵のため息が出た。
外ではローウェルがこっちに背中を向けて、私を待っていた。
ローウェルのおかげで脳内の茶番プロレスと邪な感情が、綺麗サッパリ消え失せた。
ここは、お礼を言っておいた方が良いだろう。
「師匠」
「どうした?」
「……その、助かったよ。ありがとう」
「礼には及ばん。主のために一肌脱ぐのも武器の務めだ」
マフラーをはためかせて、キメ顔でそう言ったローウェルは、木に吊るした山鳥の首をナイフで切り落とした。
切り口から血が噴出すのと、私がリバースするのは綺麗にシンクロした。
都会育ちには、鳥をしめる光景は刺激が強すぎたのだ。
嘔吐で食欲を失った私は、昼食を即決即断でパスし、自室のベッドで転寝をしていた。
吐き気も収まって、気分も大分マシになったからムクッと起き上がった。
口の中が胃液臭いなぁ、としかめっ面で舌打ちする。
それにしても変だ――。今まで感じた事の無い違和感を感じる。
口の中ではない、下半身からだ。下半身から妙な、圧迫感に似た感覚が……。
「こ、これはッ!?」
健康な男性ならば誰でも、自分の意思と関係なく『息子』が元気に起立してしまう現象を体験すると言う。
人はそれを『朝勃ち』と呼ぶ。朝と入っているが、勃起するのは朝だけではない。
一説によると、「疲労が溜まった上体で、睡眠を執ると高確率で勃起する」らしい。
こんな元気で聞かん坊な『息子』だが、その元気は長続きしない。
精々30秒が限界だ。
そう――。寝起きの私の股間は、嘔吐で元気を失くした主に反し、元気いっぱいに「朝勃ち」していた。
ズボンがテントを張っているなんて表現を、私自身が使う事になるなんて。
何と言う事だ。誰か、コレは夢の続きなのだと言ってくれ。
「嘘でしょ……こんなのって」
ないよ、と絶望感で頭を抱え様と両手で顔を覆った瞬間、自室の扉がノックされた。
最悪なタイミングである。頼む、ローウェルであってくれ!
「シャリオン様、起きておられますか?」
扉の向こうから聞こえてきたのは、キリカの声だった。
神様は何て残酷なんだ。神様……この世界を創ったのはクェーサーだ。
クェーサー、私は君を絶対に許さない。
無言で拳を握り締めていたら、静かにドアが開いた。
待って、キリカちゃん! 今は入って来ちゃ駄目だ!!
「シャリオン様?」
「待って! 今はちょっとタイミングがッ!!」
「ま、まさか、具合が悪いのですか!? 今すぐに回復魔法をッ!!」
アカン、逆効果だった。
私の焦った声を聞いて、ロッドを構えたキリカが部屋の中に飛び込んできた。
元気になった『息子』を隠そうと急いで布団をかけ様としたが、時すでに遅しだった。
キリカちゃん、今回に限って何でそんなに行動が素早いの?
ベッドの上に座る私、テントを張っている下半身、握っている掛け布団……の順でキリカの視線が移動し、最後にもう一度テントに戻った。
テントを見つめる顔がどんどん赤くなっていくが、視線は外さない。
やめて、そんなに見つめないで。息子よ、お前も早く着席しなさいッ!
私もだんだん顔が熱くなってきた。たぶん、私も耳まで真っ赤になっているだろう。
「あの、あの……シャリオン様」
「ち、違うんだ! これは、その……生理現象なの! 疲れてる時に寝ると、たまにこうやって勃っちゃうんだよ。別に厭らしい事考えてたとかじゃなくて……」
「私じゃ……駄目ですか?」
「……へ?」
んん、会話が噛み合ってない?
何が『駄目』なの? シャリオン、ちょっと分かんない……。
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