第2章.生活編
第16話『最初の朝』
元社畜の朝は、早い。
時間になれば体内時計が動き出し、起床を促す。
誰も抗う事は出来ない。
これは、現代に生ける社会人達の定めだ。
異世界に転生し、勇者になっても染み付いた習慣は変わらなかった。
目覚めた私は、上体を起こしてカーテンの閉まった窓を見る。
レース地のカーテンの向こうは、まだ真っ暗だった。
時計が無いため、正確な時刻は分からないが、夜明け前だと思う。
「爆睡してやろうと思ったのに……結局、早起きちゃったか」
深い溜息が漏れる。
背筋を伸ばしてから、ベッドの脇に揃えておいたブーツを履く。
私が寝ていたこの部屋は昨晩、キリカに案内された勇者専用に用意された部屋だ。
広さは12畳ほどで、最低限の家具が置かれただけの質素な部屋だ。
昨夜の私達の行動はこうだ。
ローウェルのガイドで、無事に『隠れ家』に到着した私は、とりあえずキリカに家の案内を一通りして貰った。
キリカには夕食を勧められたが、「今は休みたい」とやんわりと断って、自室に篭った。
部屋のドアを閉めて、一人になった途端、緊張の糸が切れた私はベッドに倒れ込んだ。
マズイとは思ったが、風呂にも入らず、汚れた服装のまま眠ってしまった。
自室に向かう際、リビングで今後の話し合いを始めたローウェルとキリカが、 その後、どうなったのか知らない。
そして、夜明け前に目が覚めてしまったと言うわけだ。
「まず、身嗜みをどうにかしよう……」
ブツブツ独り言を呟きながら、自室を出る。
リビングに人気は無い。キリカは自室でまだ眠っているのだろう。
勇者の武器である、魔刀『ローウェル』の姿はない。何処に行ったのだろう?
まさか、犬だから外で寝てるとか? 番犬まで出来るのか、凄いな師匠……。
足音を立てない様にしのび足で歩き、洗面所に向かう。
洗面台に備え付けられた鏡を覗き込めば、ボサボサに伸びた薄紫の髪に髭面の男、シャリオンがこちらを睨んでいる。
「ホント、ひっどい顔だなぁ……まずは、髭でも剃るか」
洗面台の隣に置かれた木製に棚から、剃刀とタオル、いい香りのする固形石鹸を取り出す。
産毛や眉毛を剃る事はあったけど、髭は初体験だ。
伸びすぎた髭を剃るのは至難の業だったが、何とか肌を傷付けずに綺麗に剃れた。
ついでに、眉やモミアゲ部分も綺麗に整える。
改めて鏡に映る自分の顔をじっくり観察する。
自分で言うのもなんだけど……なかなかハンサムな顔立ちだ。
前世のクズ男こと元彼より全然若いし、イケメンだ。
「あとは、外にある井戸で水浴びをして……問題は、この髪の毛だよな」
伸びすぎた前髪を摘んで、うーんと悩む。
ここで髪を切ったら、床が大惨事になる。片付けるのが大変だ。
でも、屋外で切るにしても、鏡が無いと細かい所まで一人では切れない。
ハサミが見つからないから、剃刀で削ぐしかないみたいだ。
かと言って、髪を切るためだけに、眠っているキリカを起こすのは申し訳ない。
鏡の自分と暫く睨めっこをしたが、結局、観念してハサミとタオルを持って玄関に向かった。
外に出ると、遠くに見える山の裾がほんのり赤く染まっていた。
日の出は近い。
美しい大自然の光景に思わず、
「綺麗」
と、自然に感想が漏れた。
冷たく済んだ空気を肺いっぱいに吸い込んでから、私は隠れ家の裏手にある井戸へと向かった。
薄暗い角を曲がった私は、目に入ってきた光景にギョッと目を剥いて立ち止まった。
危うく、剃刀をブーツの上に落とす所だった。
丈夫な素材だから、刺さりはしないだろうけど、ヒヤッとした。
「お……おはよう、師匠。そんな所で何してるの?」
「ん、シャリオンか? ……見違えたぞ。こんな夜更けにどうしたのだ?」
井戸の手前、庭に相当する広い空き地の真ん中には、人一人座るのに丁度良い岩がある。その岩の上に、人の姿で座禅するローウェルがいたのだ。
私が近づいた時点で、立っている犬耳が動き、閉じていた瞳を開いた。
金色の瞳が突っ立っている私を映す。
一瞬、ローウェルは眉根を寄せたが、すぐに元に戻った。
髭を剃った私の印象が、前後で変わり過ぎたのか、困惑したらしい。
「前世の悪習が体に染み付いてて、起きちゃったんだよ。だから、皆が起きる前に身支度整えちゃおうと思ってさ」
「なるほどな」
「で、師匠はどうしたの? 番犬でもしてたの?」
冗談交じりに言うと、ローウェルはジト目で睨んできた。
胡坐の状態から立ち上がり、ズボンに付いた土埃を叩き落とす。
「日課の瞑想だ。勇者に呼び起こされると、夜明け前に必ず、この場所で行っている」
「へぇ、瞑想か。日課でやってる人、初めて見た」
「小生を冷やかしている暇があるのなら、早く水浴びをしたらどうだ?」
「へいへい、言われなくてもやりますよっと!」
売り言葉に買い言葉で、私達は会話を中断する。
ローウェルの前を通って、井戸の傍に立つと、上着を脱いで半裸になる。
ローウェルはと言えば、座り直して再び瞑想に耽ってしまった。
くみ上げた井戸水は、透き通っていて、氷水みたいに冷たかった。
ヒイヒイ悲鳴を上げながら、水を被ると持ってきたタオルと石鹸で体を隅々まで洗う。
上半身の後に、下半身を洗い、最後に髪を洗った。
絞ったタオルで水滴を拭った後、長い髪を一まとめにして握る。
空いているもう片方の手に剃刀を持って、髪の束に押し当てようとした。
その時だった。
「おい待て、シャリオン。お前、何をするつもりだ?」
「何って、髪を切るんだよ?」
瞑想していたはずのローウェルが、私の行動を見て声を掛けてきた。
私は一思いに切ってしまおうとしていたのに、横槍を入れられた形になったので、少しぶっきら棒に言葉を返した。
切ろうとした体制のまま一時停止する私を、顎に手を当てたローウェルが見つめる。
「ふむ」と、一人納得した様子で立ち上がると、私を手招いた。
「……ここに座れ。小生が切ってやろう」
「え? どう言う風の吹き回し?」
「ただの気まぐれだ。そもそも、お前一人では上手く散髪できないだろう?」
「そりゃ、そうだけど……じゃあ、お言葉に甘えちゃおうかな」
岩の上に座ると、ローウェルに剃刀を手渡した。
それを受けたったローウェルに「どんな髪型にしたいのだ?」と聞かれたから、「師匠のオススメでお願いします」と返す。
すると真面目な口調で「了承した」とだけ返ってきた。
正直、どんな髪型にされるのか、内心ヒヤヒヤしていた。昨日、出会ったばかりのローウェルの感性がどんな物なのか分かっていない。
坊主、角刈り、かりあげ、おかっぱは、勘弁して欲しい。
ローウェルの手が、私の髪に触れる。
細い指が、私の髪の感触を確かめるように上から下へと梳いている。少し擽ったかったが、グッと堪えた。
サリサリと剃刀が髪を削ぐ音と、地面にハタハタと落ちる薄紫の髪。
ローウェルは集中しているのか、無言だ。
なので、私も黙って地面に積もっていく自分の髪を見つめた。
「後と横は切り終わった。あとは前髪だけだ、目を閉じていろ」
声を掛けてから、ローウェルは私の正面に周った。
切り始めてから、10分ほどしか経っていないのに、もう切り終わったのか。
流石は刃物、その扱いにも慣れている。
大人しく目を閉じると、ローウェルはいくつかの房に髪を分けてから、丁寧に切ってくれた。
ローウェルの呼吸音と剃刀が髪を削ぐ音が合わさり、心地よい音色に聞こえてきた頃、「終わったぞ」と低い声で囁かれた。
半裸の上半身に付いた髪を叩き落としながら、剃刀を返してくるローウェルにお礼を言う。
「師匠、ありがとう。あー、頭が軽くなったよ」
「良かったな」
素っ気無い態度のローウェルに肩を竦めて、落ちている髪を一箇所に纏めた。
ゴミと化した髪の毛の山をどうしようかと考えていたら、師匠が「後で燃やせばよかろう」と助言してくれた。
そうだね、そうしよう。
「ちょっと、鏡でどんな感じの髪型になったのか、確認してくるね」
「確認が終わったらここに戻って来い。やる事がある」
「ん? やる事? とりあえず、了解!」
そういい残して、私は駆け足で屋内へ戻った。
「おおう……師匠のセンス、侮れないな」
鏡を覗き込んで、私は唸った。
ローウェルが整えてくれた髪型は、ロングウルフカットだった。
肩甲骨辺りまでの長さで、何気に段が入っている。前髪も長過ぎず、短すぎずで良い感じだ。
カリスマ美容師顔負けのカット技術、しかもあの剃刀一本でこのクオリティー。
いやはや、お見逸れしました。
てっきり、文明開化的ザンギリ頭にされるものだと思っていた。
中身が女のままだと言う事を、さり気なく考慮してくれたのかもしれない。
「師匠には申し分けないけど、この長さはちょっと邪魔だな。勿体無いけど、結おう」
私は髪は結ぶか、アップにする派だ。仕事や家事をする時に髪が邪魔だと集中できない。
キリカに貰ったリボンをポケットから取り出して、一部を編んだ髪をサイドテールに無ってみた。ここはファンタジーな異世界なんだから、男がこう言う髪形をしていても問題ないだろう。
ふふん! なかなか、様になったんじゃなかろうか?
鏡で確認して、一人満足げにうんうんと頷いた。
髪形のチェックも終わったし、やる事があるみたいだからローウェルの所に戻ろう。
「う、クッ!……」
「左腕が下がっている、真っ直ぐ上げよ」
「お、おっす……」
「もっと腰を落とせ。朝日が顔を出すまで、その体制を維持しろ」
「うぐぐ……ちょ、ぉあッ!」
私の喫緊の声とバリンと陶器の割れる音が重なる。
一直線に広げた腕の先、両手の甲に乗っていた白磁の茶碗が、地面に落ちて割れたのだ。
茶碗に並々と注がれていた水が、地面に染みを作る。
私の周りをウロウロ周回していたローウェルは、割れた茶碗を一瞥して頭を振った。
私は今、何をしているのか?
ここに第三者が通りかかって、そう質問してきたら、私は迷わず『修行』と答えよう。
私はローウェルから「無心」を体得するため、精神統一の特訓を強いられている。
そう、強いられているのだ。
割れずに残った右手の茶碗を手ぶらになった左手で持つと、地面に腰を下ろした。
腕を組んで私を睨むローウェルに、不満をぶつける。
「こんなの無理だよぉ。腕は下ろすな、茶碗は落とすな、でも腰は落とせって、訳分かんない。こんなんで、本当に勇者力が上がるの? 剣術の修行は?」
「お前と言うヤツは……根性と忍耐が、今までのどの勇者よりも圧倒的に足りとらん。そんなお前に小生を握らせられるかッ!」
「このご時世に根性論とか、師匠の考え方古過ぎッ! 刀なんて使ってなんぼじゃない!?」
「そんな減らず口を叩くお前には、『温故知新』と『初心忘るべからず』と言う、ありがたい諺を送ってやろう」
悔しいけど、人生の大先輩でもあり、剣術の師匠であるローウェルには口では敵わない。
何がムカつくって、剣術の師匠なのに全然、剣術教えてくれないんだよ。
これって絶対、おかしいよねッ!
学ランの懐から新しい茶碗を取り出したローウェルは、近場の山肌から湧き出す清水を汲む。
準備が良いっすね……水汲みの動作すら様になっているローウェルを目で追えば、座っている私の前まで来て、ズイッと茶碗を差し出す。
まだやれと? これで、茶碗10個目なんだよね。つまり、すでに9つ割ってるのさ。
「ぐぎぎぃ。ああ言えば、こう言うはお互い様だよね!」
「勇者にとって、心技体の三位一体は必要不可欠。お前は体力はそれなりだが、心と技がまるでなっていない。始める前に今日から毎日、体と心を鍛えると小生は言ったはずだが?」
「そこまで言うんだから、師匠も当然出来るんでしょうね? この体制で1分間、茶碗の水一滴も零さなかったら、文句言わずにやるよ」
私はローウェルの説明を聞いて、『心技体=勇者力』と理解した。
私は歴代勇者の誰よりも、この『勇者力』が低いんだってさ。
嘘……私の勇者力、低過ぎ! と、両手で口元を隠した。
もちろん、このギャグはローウェルに通じなかった。
茶碗を差し出すローウェルに聞き分けの無い子供みたいな駄々をこねる。
ローウェルの瞳孔が一瞬で細くなった。
私に手を伸ばしてきたから、ヤバい怒られる! っと身構えた。
伸ばされた手は私の持っていた茶碗をさっと取り上げた。
手から無くなった茶碗を目で追っていると、ローウェルが深い溜息をついた。
「何て顔をしているのだ。小生がやれば、無駄口を叩かずやると言ったのはお前だろう?」
「あ、やってくれるんだ。零したり、茶碗落としたら、いくら師匠でも……」
「そう言っていられるのも今の内だ。しっかり腹を括っておけよ、シャリオン?」
ローウェルは、私に向かってニヤリと不適な笑みを見せた。
ローウェルが見本をやり始める前に、こうなった経緯を思い出す。
庭に戻った私は、ローウェルに言われるがまま、軽く準備運動をした。
その後、隠れ家の裏手にある小高い山を指差したローウェルに「山頂を目指せ」とだけ言われた。
整備されていない獣道同然の山道を、犬の姿で先導する師匠を追ってひたすら駆け登った。前世だったらすぐにバテててしまいそうな早いペースで走ったが、山頂に到着しても息は大して上がっていなかった。
この体、結構体力がある。
「ふむ……体力は、それなりか」
ローウェルは、感心していた。
第一印象のせいで、心身ともにヘタレだと思われていたらしい。
山頂に着いた後は、まさに少年漫画の王道展開だった。
勇者の武者修行が始まった……んだけど、想像したのとちょっと違ってた。
心技体の『心』を手っ取り早く鍛えるトレーニングが、先程やっていた茶碗のヤツだ。
「納得いかない」
「納得しろ、これが現実だ」
どんな修行方法なのか、説明しよう。
まず、力士が四股を踏む様に中腰になる。
足は肩幅に広げてつま先は外側に向け、両手を真っ直ぐに広げる。
伸ばした両手の甲に、水の入った茶碗1つずつを乗せる。
本当は、頭、両肩、両肘の内側にも載せるらしいんだけど、初回だから手の甲だけにしてくれた。
私は四股踏み、中腰の時点で産まれ立ての子鹿みたいに足が震えた。
基礎体力とインナーマッスルは関係ないのね、走れるからってバランス感覚が良いとは限らない。
足の振動が茶碗が伝わって水は毀れるし、茶碗は落ちて割れるしで散々な結果だ。
体制を維持するため精一杯努力したが、15秒ともたなかった。
駄々を捏ねた私にお手本として同じポーズを取ったローウェルは、流石だった。
涼しい顔で私よりずっと低い体性で中腰になり、地面と平行に四股を踏む。
とんでもなく足と腰に負担のかかりそうなのに、ローウェルの体はピクリとも動かない。
茶碗の水も一滴も毀れない。……どう言う事なの?
近くで見ていても、置物か等身大フィギュアかと見間違えてしまいそうだ。
60秒カウントし終わったが、ローウェルは微動だにしなかったどころか、瞬きすらしなかった。
こんなの人間業じゃないよ。
「師匠、ズルしてるんじゃないのぉ?」
「ズルだと?」
「だって、師匠は人間じゃ無いじゃん! 元は刀なんだから、ジッとしてるなんてお手の物……十八番なんじゃないですか?」
「そうか、動かぬ修行では満足できんか。ならば、接近戦向き格闘術の稽古でもつけるか? 小生が一方的に技をかける側になると思うが?」
手首を回して、手の甲から手の平に器用に茶碗を収めると、地面にソッと置いた。
先程とは違う、鋭い犬歯を見せ付ける獰猛な笑みを浮かべた。
ローウェル……これ、絶対に怒ってるでしょ?
その指をベキベキ鳴らすのやめて下さい。
「と、言いたい所だが……日が昇ってしまったな。早朝の特訓はここまでにしよう」
「た、助かった……」
安堵の表情を浮かべる私を無視して、目を細めながら朝日を眺めている。
朝日が山肌を照らし、草木に反射した光が眩しい。
朝日が昇ってくれる事に、こんなにも感謝したのは初めてだ。
このキツい特訓がやっと終わってくれて、ホッと胸を撫で下ろす。
「これから毎日、ここで『心』体得の特訓をする。体得できるまでは、次の訓練には移らんからな。覚悟しておけ」
「ヒィッ!? そんなの聞いてないよッ!」
「今、初めて言ったからな。知らぬ存ぜぬは通用せんぞ?」
タイミングを見計らったとしか言いようのないローウェルの言葉に、私は絶望した。
愕然とする私が見たローウェルの笑みが、ただただ怖かった。
毎日、ここで特訓……コイツ、7歳の子供にとんでもないスパルタしてたんだな。
「師匠って、歴代の勇者に嫌われるか、怖がられるか、距離置かれてたでしょ?」
「いきなり、どうした?」
「いや、何となく……」
「ふむ、好かれていなかった事は確かだ。小生の特訓は、6種の神器達の中で最も厳しいらしいからな」
「うん、だよねー」
「そんなやり方のせいか、逆恨みに近い感情を抱く勇者もいた。そやつは試練後、小生を一度も抜かなかった」
「あ……」
そうしみじみと語るローウェルの表情は悲しそうだった。
調子に乗って、掘り下げ過ぎた。
確かに、ローウェルは厳しい。でも、この特訓は勇者のためを思ってローウェルがやっている事なのだから、逆恨みするのはお門違いだ。
私はキツイ、ムカつくとは思っても逆恨みでローウェルを使わないなんて事をしようとは毛等も思わない。
「この特訓は私のためにやってくれてるんだし、恨むとか絶対にしないからッ!」
「恨んでくれても構わんさ。お前がオリゾン・アストルで無事に天寿を全うしてくれさえすれば、小生は本望だ」
「なんかさぁ……師匠の生き方って、ストイックで最高に格好良いよね。憧れちゃうよ」
「ふふッ。お前は最弱勇者だが……その垢抜けた性格は、嫌いではない」
この後、隠れ家まで来た時と同じくジョギングで下山した。
下山中、ローウェルは一言も喋らなかった。
井戸水で軽く水浴びをしてから、隠れ家の玄関を静かに明ける。
キリカの姿はない。まだ、眠っているみたいだ。
もう一度、自室で仮眠を取ろうかとも考えたが、キリカが起きてきた時の事も考えて朝食を作る事にした。
キッチンに立ち、食材を物色する。見つかったのは、卵、固焼きパン、ベーコン、玉ねぎっぽい植物、人参、数種類の調味料だった。
キッチンの使い方は後から入ってきたローウェルに聞いた。サラダに出来そうな新鮮な葉野菜が欲しいと言えば、ローウェルが籠を持って外に出て行った。
数分後、戻ってきたローウェルが持つ籠にはレタスっぽい野菜が入っていた。
生で食べられる山菜で、癖がなく、仄かな甘みと酸味があるためサラダに最適だと説明された。
魔石を埋め込んだコンロを《スイッチ魔法》で、点火すると手早く料理を作った。
1人暮らしをしてきた時は基本、朝と夜の食事は自炊をしていた。だから、料理にはちょっと自信がある。
ベーコンと玉ねぎのスープ、半熟ポーチドエッグとチーズ、焼きベーコンを載せたパン、細く切った人参と葉野菜を混ぜた簡単サラダ。
これだけあれば、朝食としては十分だろう。
仕上げをして、テーブルに皿を並べて入ると、奥の部屋から慌しい音がした。
バタンを扉が勢い良く開いて、キリカが飛び出してきた。
そして、キッチンに立つ私と目が合うと固まってしまった。
昨日とは打って変わって、乱れた衣服に、適当に結った髪で私の顔を食い入る様に見つめている。
体調でも悪いのかなと不安になって、声を掛ければ、全て上の空の返事が返ってきた。
なんて事はない、まだ寝ぼけているみたいだ。
顔を洗っておいでと言えば、フラフラした足取りだったが素直に洗面所に向かって行った。大丈夫かな?
私はその後姿が洗面所に入っていくのを見送ってから、キッチンの窓を開けた。
庭では、ローウェルが太極拳みたいな体操を1人黙々とこなしている。
「師匠、朝ごはんできたんだけど……食べる? てか、食べ物って食べられるの?」
私に呼ばれたローウェルは体操をやめて、窓枠に近づいて手をついた。
キッチンを覗き込み、出来上がった料理を見ると目を丸くした。
「良い香りがしてくると思えば、お前が作ったのか。食事は、巫女に作らせれば良かろう?」
「あのさぁ……森で迷子になって、心身ともに疲れ切って眠ってる十代の女の子を無理やり叩き起こして、朝ごはん作らせるとか。勇者じゃなくて、小姑の所業だよね?」
「お前の場合、姑ではなく舅だろう? そもそもお前の身の回りの世話をするのが、巫女の役目だ」
亭主関白な物言いをするローウェルに、私はムッとする。
眉間に皺を寄せてながら、温まったスープを器によそった。
「料理なんて、早起きしたヤツが適当に作れば良いんだよ。勇者だからって修行だけして、家事は一切しませんなんて通用しないでしょ。……で、師匠は食べる、食べない? どっちよ」
「頂くとしよう。不本意だが、今の小生は、魔力を維持するために食事が必要なのだ」
「ほいほい。じゃあ、手を洗ってリビングに来てね」
「了承した」
颯爽と井戸へと向かうローウェルの後姿を眺める。
朝の挨拶を誰かと交わし、誰かのために朝食を作る毎日が始まる。
大変と言えば大変だが、前世の1人暮らしより断然、こっちの方が生活に潤いがある。
こうして、オリゾン・アストルでの一日目が始まった。
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