第15話『命名の儀』




 ふと、疑問が浮かんだ。


「グリフィン像、壊したまま放置してきちゃったけど……あれ、大丈夫なの?」

「心配は無用。ダンジョン・ウエノエキは、初代巫女が自己修復魔法を付与した特殊なダンジョンだ。それにあの手のゴーレムには修復魔法が施されている。かなりの月日を要するが、次の勇者が現れるまでには元通りになる」

「へぇ、そりゃ凄いや」


 テチテチと石段を小さな体で駆け上がるローウェルに先導されて、私は重い足取りで階段を上がっていた。

 私のベルトに付いた照明石が階段を照らしているが、まだ出口は見えない。

 ダンジョンの最下層から、一気に外まで直通してるわけだから長いのは仕方ないだろうけど、エスカレーターとかエレベーター、もしくはバリアフリー完備のスロープにリホームしよう。

 怪我人に優しくない。


「師匠、さっきみたいに人の姿になって私を背負って行ってよぉ。もう一歩も歩けない」

「甘ったれるな。喋れる内は、体力が余っている証拠だ。自力で歩け」

「ちぇー、師匠冷たい! 女の子には優しくしないと、どんなにイケメンでもモテないんだよ?」

「何を言い出すかと思えば、お前も男だろうが……。そもそも、そんな願望は小生には無い」

「モテるかぁ……。男になったけど、精神的に考えると女の子とは、お友達止まりになるだろうなぁ。いや、かと言って男と友達以上になったら、それって……つまり」

「やはり、小生の手助けなどいらんではないか」





 そこで会話が一旦、途切れてしまった。

 黙々と歩く師匠の後姿を眼で追っていた私は、騒動の最中、頭の片隅に追いやってしまっていた『あの事』を思い出した。

 歴代の勇者と苦楽を共にしたローウェルならば、良い知恵を授けてくれるかもしれない。

 勇者は悩んでいるんだ。師匠、どうかお導きを!


「師匠……実は私、自分じゃ解決出来ない悩み事があるんだけど。相談に乗ってくれる?」

「急に改まって、どうしたのだ? まぁ、小生も伊達に長く生きていない。大抵の事には、答えられる。何でも聞くが良い」

「ありがとう。早速なんだけど、師匠は……チ○ポジって如何してる?」

「何だ、そんな事か……はぁッ!?」


 師匠が素っ頓狂な声を出して、私の方へ振り返った。

 犬なのに、驚いた表情をしてるって分かってしまう。

 私はと言えば、真剣な表情だ。

 決して、下ネタでもローウェルを侮辱しているのでもない。

 私にとって『チ○ポジ』は深刻な問題なのだ。


「訳が分からん……。なぜ今、このタイミングでそんな事を聞く?」

「何故って、思い出したからだよ? 私、女だったじゃない? 当然、今まで股間にコレが無かったわけだよ。だから、手に余るって言うか、まだ扱いに慣れてないんだよ」

「そう言われると……一理あるな」

「どうも、納まりが悪いんだよね。納まってる関連で言えば、師匠ってその道のエキスパートじゃん?」

「やめろ……小生をお前のイチモツを一緒にするな!」


 自分の股間を指差して懇々と説明する。

 ローウェルがゲンナリした表情で、引いている。

 でも結局、私の縋るような目に耐え切れなくなったのか、歩みを止めてくれた。

 人の姿になると、私の質問に実演込みで丁寧に回答してくれた。

 凄いよ――。ケモ耳中学生が私の目の前でチ○ポジについて、真剣に語ってんだよ?

 てか、ローウェルにも付いてるんだね……武器に生殖器って必要なの?

 ベッドの中で、夜戦でもするのかなぁ? 

 おっといけない、男になってから思考がどうにもそっち方向に行きやすくなってる。

 これじゃ、勇者じゃ無くてただの変態親父だ。

 気をつけよう……。

 聞いてもいないのに、「男性器での排泄の仕方は、分かるのか?」と気を利かせて、教授してくれたローウェルの優しさはプライスレスだよね。


「ありがとう、師匠。師匠の体を張った解説のおかげで悩みが解決したよ」

「……勇者よ」

「ん? なぁに、師匠?」

「これだけは忠告しておく。この話題は、女の前ではしない方が良いぞ」

「やだなぁ、女の子の前でするわけないじゃん! 師匠と私、男同士だから話したんだよ」


 バツが悪そうな顔で、犬の姿に戻ったローウェルは歩き出す。

 小さなうしろ姿に、私は苦笑いでそう返した。

 



 長かった階段をとうとう登り切った。

 重たい石の扉を押せば、外部の済んだ空気が流れ込む。

 外に出ると、そこは鬱蒼とした森林だった。背後を振り返れば切り立った崖。

 ダンジョン出口の隠し扉は、崖の岩肌の隙間に隠されていた。

 周囲は、照明石で照らさなければ見えないほど真っ暗だ。

 どうやら、ダンジョンを攻略している間に日が暮れてしまったらしい。

 空を見上げれば、無数の星がキラキラ瞬いている。

 そして、はたと気が付いた。


「おい、巫女は何処だ?」

「……あれ? ホントだ、キリカちゃんがいない」

「キリカ? 今回の巫女の名か?」

「うん。出口で待ち合わせしてたんだけど……」


 周囲をローウェルと手分けして探してみたが、キリカの姿は何処にも無い。

 まさか、何かあったんじゃ? 嫌な想像が脳裏を過ぎる。


「どうしよう、師匠! 可愛い子だから、変質者に誘拐されたのかも……ヤバイよ、警察に連絡しなきゃ! 110番だよッ!!」

「少しは落ち着かんか! 静かにしろ、何者かがこちらに向かって来ているぞ?」

「え? まさか変質者!?」


 ローウェルが見つける先を私も見つめて、耳を澄ます。

 本当だ。誰かが叫びながら、こっちに向かってきている。

 声が近づいてくる。間違いなく、女の子の声だ。

 木々の間から照明石の明かりが見え隠れしながら、こっちに来る。

 そして、目の前の茂みを掻き分けて現れたのは、


「……勇者様? ふえぇえええん、勇者様ぁー!!」

「あ、キリカちゃんだ」


 キリカだった。

 私の顔を見るなり、大きな瞳が揺れて、大粒の涙をボロボロ零し始めた。

 そのまま、わんわん泣きながら蹲ってしまった。慌てて近寄って、隣にしゃがみ込む。

 その姿をよくよく見てみれば、着ていた衣装は薄汚れていて、頭には葉っぱや小枝が付いている。

 葉っぱや小枝をそっと取り除きつつ、泣きじゃくるキリカに話しかける。

 少し離れた場所では、ローウェルがポカンとした表情で私達を見ている。


「ううう、ご無事でよかったですぅううー」

「私は大丈夫だけど……私の目には、キリカちゃんの方が大丈夫じゃないように見えるよ? 一体、何があったの?」

「それが……。私、勇者様と別れた後、グスッ……ひ、一人でダンジョンの出口に、む、向かったんですぅ……ヒクッ」

「うん」


 しゃくり上げながらも、必死に何が起きたのか説明しようとするキリカ。

 私は、その訴えに静かに耳を傾けた。


「最初は、大丈夫……グスッ、だったんです。で、でも、いつの間にか……同じ所を、ずっと……ヒック、グルグル周ってて……。み、道に迷ってしまったん、です……グスッ」

「そうだったんだ。一人で辛かったね……もう、大丈夫だから。キリカちゃんが無事で本当に良かったよ」

「ゆう、しゃさまぁ……うぇええ゛え゛んッ!!」

「よしよし、泣きたい時は、思いっきり泣いちゃうと良いよ。その方がスッキリするからね」


 抱き付いてきたキリカを優しく抱きとめて、背中をポンポンと叩いた。

 まさか、16歳の娘が森で迷子になっていたとは……真っ暗な森で、1人心細かった事だろう。

 本当にこの娘が巫女で大丈夫なのかと、頭の片隅で思ったが本人には内緒にしよう。

 強く抱きしめられて、打ち身だらけの体が悲鳴を上げていた。

 だからと言って、無下にもできず、キリカにされるがままでいた。

 ローウェルから注がれる冷ややかな視線は、全力で無視した。




 一頻り泣いて、落ち着きを取り戻したキリカが、ローウェルの存在に気が付いたのは、それから数十分後だった。

 泣き腫らした目でローウェルを見つめると、小首を傾げた。


「あ、あれ? 可愛いワンちゃんですね。どうなさったんですか? まさか、この子も迷子ですか?」

「ああ、その犬はね……」


 しゃがみ込んで、笑顔でローウェルに向かって手を差し出すキリカ。

 制止しようとした私より先に、ローウェルが不機嫌そうに唸った。


「犬ではない。小生は獣人族の刀匠ガリウムが打った勇者の武器、魔刀ローウェルである」

「ひゃああ!? ワンちゃんが喋りましたッ!!」


 ローウェルが流暢に喋るのを見て、キリカちゃんは飛び上がった。

 あわあわと慌てふためきながら、私とローウェルに視線を行ったり着たりさせている。


「ああー、師匠は犬扱いされるのが嫌いらしいんだ。ごめんねキリカちゃん、先に言っておけば良かった」

「い、いえ。勇者様が謝る事ではありません」

「全く。お前と言い、巫女と言い……実に不愉快だ」

「はうッ、失礼致しました。お、お目にかかれて光栄です、魔刀ローウェル様。私、46代目の巫女、キリカ・ソルシエールと申します。不束者ですが、何卒よろしくお願い致しますぅうう」

「……ああ、よろしく頼む」


 お互いに自己紹介を終えた両者の間には、微妙な空気が流れていた。

 んん? どうしたんだろう。


「巫女よ、何か言いたい事があるようだな?」

「……い、言っても良いのでしょうか?」

「構わん」

「その……」


 モジモジしているキリカ。

 何だ、この雰囲気は!? 只ならぬ気配を察知した私は一人焦った。

 私はキリカの肩に手をかけようとしたが、そのタイミングでキリカが意を決して口を開いた。


「あの、ローウェル様の頭を撫でてもよろしいでしょうか? 私、動物が大好きなんです」

「断る」

「はううう……やっぱり、駄目ですかぁ」

「当たり前だ。小生は愛玩動物ではない、代々勇者が扱う神器なのだぞ」

「うう、分かりました。清く諦めます……」


 その会話の一部始終を聞いて、私は膝から崩れ落ちた。

 何だコイツら……可愛過ぎるだろ。

 ドジッ娘巫女と喋る黒豆柴の組み合わせは、破壊力が半端無い。

 取り扱いには十分注意しないと、火傷では済まなそうだぜ……。

 それより二人とも勇者をノバにしないで欲しいな、寂しいじゃん。


「時に、巫女キリカよ」

「はい、何でしょうか?」

「勇者に回復魔法を施してやってはくれないか? ゴーレムとの戦いで手酷くやられてな」

「勇者様、お怪我をなさったのですか!?」

「あはは、ちょっとだけね。回復薬も飲んだし、これくらい大した事無いよ」

「そんな、いけません! 大切なお体なのですよ!?」


 キリカちゃんは、私の元に駆け寄るとレッグポーチからロッドを引く抜く。

 地面に跪いたままの私に向かってロッドを構えると、


「イラキホニサィ【癒しの光り】」


 と静かに詠唱した。

 ロッドの先の魔石が淡く光り、その光が消えると全身の痛みも嘘みたいになくなった。

 これが回復魔法……本当に一瞬で傷が治るんだ。

 ローウェルが小声で、「怪我に気づかないとは……」とブツブツ呟いていたのは聞かなかった事にしよう。


「勇者様、お加減は如何でしょうか?」

「全身の痛みが引いちゃった。回復魔法って凄いね、ありがとう」

「そんなお礼なんて……これくらいは、魔術師としてできて当然ですので」


 お礼を言われて、はにかむキリカ。

 すると向かい合って座っている私達のそばに、ローウェルが歩み寄って来た。


「巫女よ、こうして勇者も無事帰還したのだ。勿体ぶらずに、さっさと『命名の儀』を執り行ったらどうだ?」

「はッ!? 私ったら、忘れるところでした。勇者様、これより『命名の儀』を執り行いたいと思います」


 ふんふんと鼻を鳴らして、ローウェルがキリカに助言する。

 流石、勇者の武器。巫女へのフォローも慣れたものだ。


「それって、7歳の勇者が試練を突破すると名前を貰えるって言う儀式だよね?」

「その通りです。勇者様が試練の迷宮を攻略し、地上に戻られた時――、巫女は勇者様に『この世界で生きるための』名を授けるんです。それが命名の儀です」


 今の私は『名無しの権兵衛』勇者だ。

 前世の名前は忘れちゃったし、早くこっちでの名前が欲しい。

 キリカは、どんな名前を私に付けるつもりなんだろう。

 ちょっと……本当にほんのちょっとだけ、不安だ。


「両親に巫女になる定めだと告げられた幼い頃から、ずっと、ずーっと考えていた名前なんです」

「そんなに長い期間、考えてたの!?」

「はい、重要な事ですので! ではでは、早速ですが発表させて頂きますね」

「あ、待って! 心の準備が……」

「その名も……シャリオン・ガングラン様ですッ! い、如何でしょうかッ!?」


 キリカ、渾身の大発表だ。

 顔を真っ赤にして、プルプル小刻みに震えているのが意地らしくて大変可愛らしい。

 ファーストネームのシャリオンは、おいて置いてだ。

『ガングラン』って、アーサー王伝説に出て来る『円卓の騎士』の一員、確か「無名の美男子」だったよな?

 私にそんなイケメンの名前付けちゃって、名前負けじゃない?

 でも、キリカちゃんがちっちゃい頃から考えてくれた名前だしなぁ。

 返事は、もはや一択しかないよ。


「シャリオン・ガングラン……勇者にピッタリな素敵な名前だね。本当にありがとう、キリカちゃん」

「本当ですか!? 良かったぁ、気に入って頂けなかったらどうしようと、ずっと不安だったんです」

「名が決まって良かったな、シャリオン」

「早速、名前で呼んでくれる師匠の順応力の高さには感服するわ……」




 

 『シャリオン・ガングラン』――、声には出さずに復唱する。

 異世界で勇者となった私の名前。これからはシャリオンとして生きていく。

 なんだか、不思議な気分だ。

 ホッと胸を撫で下ろしているキリカ、背筋を伸ばしてすまし顔をするローウェル。

 2人を見ていると、表情が自然に緩んだ。

 本当の家族と一緒に居た時より、満ち足りた気分になるのは何故だろう。

 2人が『仲間』であり、私の新しい『家族』なのだ。

 心の底からそう実感した。


「キリカちゃん、師匠」

「はい、どうされました? シャリオン様」

「どうした、シャリオン?」

「至らない事の多い勇者ですが……今後とも、何卒よろしくお願い致します」


 地面に三つ指を付いて、頭を下げる。

 お世話になる事を体現するには、やっぱりこれが一番だと思うんだよ。

 そんな私の頭頂部を見つめて、2人は目を瞬かせて顔を見合わせた。

 あれ? オリゾン・アストルには、土下座の文化が無いのかな?

 

「シャリオンよ。お前はつくづく、風変わりな勇者だな」

「はわわ、頭を上げてくださいシャリオン様ッ! 勇者様に頭を下げさせたなんて、先の巫女様達に顔向けできなくなってしまいます!」


 やれやれと溜息をつくローウェル。

 その隣では、キリカが両手を振りながらオロオロしている。

 私は顔を上げると、プッと噴出してしまった。私の行動に一喜一憂する二人の表情が面白かった。終いには、お腹を抱えて爆笑してしまった。

 こんなに笑ったのは久しぶりだ。


「と、とにかく! 今日はもう遅いので、隠れ家に向かいましょう」

「では、小生が先導しよう。森で迷うような巫女に道案内はさせられん」

「ろ、ローウェル様! ひ、酷いですぅ……」

「師匠、もうちょっとオブラートに包んだ言い方しなよ。キリカちゃんが可哀想だよ」

「うう、シャリオン様まで……どうせ、私は方向音痴の駄目巫女ですよぅ」

「待って、師匠も私もそこまで言って無い」


 キリカの一声で、私達は『勇者の隠れ家』に向かう事になった。

 『勇者の隠れ家』とは、ダンジョン・ウエノエキから南へ数キロ離れた、ソルシエール家が所有する山中に建つ一軒家らしい。

 あの遺跡も、今歩いてる森も、星空をバックに見えてる山々も全部ソルシエール家の所有地……キリカちゃん家って、やっぱり凄いお金持ちだ。

 王宮勤めの魔術師をしているって言うお父様の年収って、一体いくらなんだ?

 帰路の途中、不貞腐れてしまったキリカのご機嫌取りが大変だった。

 それにしても、今日はいろんな事が起き過ぎて、心身ともにどっと疲れた。

 隠れ家に着いたら、一にも二にもまず寝たい。

 布団でもベッドでも……この際、床でも良い。疲れたから爆睡したい。 

 勇者業は……明日から頑張れば良いよね? ……ね?




   ―◆◆◆―


 窓の外から聞こえてくる小鳥の愛らしい囀り――。

 キリカは、うーんと唸ってから『隠れ家』に宛がわれた自室のベッドで目を覚ました。

 寝ぼけ眼を擦って起き上がるが、ボーッとした表情のまま硬直する。

 昔からキリカは、朝寝坊の常習犯だった。

 使用人や乳母に、注意されての起床は朝の恒例行事だった。

 はて? 何か、大切な事を忘れているような……。

 意識が段々とハッキリしていく内に、自分がとんでもない失態を犯している事に気が付いた。


「いけない! 私ったら、また寝坊を……た、大変ッ!」


 ベッドから飛び起きて、寝巻きから巫女装束に急いで着替える。

 鏡台の丸い鏡を覗き込んで、ブラシで寝癖だらけの髪を梳かして適当に結わえる。

 どうしてこんな大切な日に寝坊してしまったのだろうと、自分の行いを呪った。

 ドアを行きよい良く開けて、すぐ目の前のダイニングへ駆け込む。

 すると、奥で人影が動いたのが見えた。

 まさか侵入者? と思わず立ち止まり、身構えた。

 窓から差し込む朝日が逆光となって、相手の顔が見えない。

 影がキリカに気が付いたのか、動きを止めた。

 そして、


「あ! おはよう、キリカちゃん。朝ごはんが出来たから、起こしに行こうと思ってたんだ。勝手にキッチン使っちゃって、ごめんね?」

「……ふぇ?」


 キッチンには、一人の男性が立っていた。

 振り返った男は、キリカにふっと柔和に微笑むと挨拶をする。

 キリカに話し掛けながらも、手際よく手を動かして、手に持っていた2枚の丸皿をテーブルに置く。

 出来上がったばかりらしい料理からは湯気が立ち昇り、良い香りがキリカの鼻腔を擽る。

 鳴りそうにお腹の虫を、腹に力を入れる事で抑えた自分を褒めた。

 口を半開きにしたまま、その場に立ち尽くしているキリカを不審に思ったのか、テーブルから顔を上げて、「ん?」と首を傾げて見せる。




 瞳の色は、紅玉石の赤。髪は、クレマチスの薄紫。

 スラッと均整のとれた長身に、端正な顔付きの青年。

 歳の頃は、キリカよりもいくぶんか年上だ。

 薄紫の髪は、肩より少し長く、サイドテールの一部を三つ編みにして、耳元より少し下で結ったお洒落な髪型にしている。

 その髪を結う紺の布地に金糸を織り込んだリボンに、キリカは見覚えがあった。

 あのリボンは一昨日、自分がお世話をする事になっている46人目の勇者に頼まれ、キリカ自身が手渡した私物だ。

 ならば、この見目麗しい素敵な男性は……もしかして、否、もしかしなくても。


「シ、……シャリオン様?」

「キリカちゃん? もしかして……寝ぼけてる?」

「そうですね。私、夢を見ているのかもしれません」

「マジで? えーっと……じゃあ、朝ご飯の前に顔を洗っておいで」

「はい、そうさせていただきますぅ……」


 ふわふわとした足取りで、回れ右をすると、キリカは洗面所へと向かった。

 キッチンでキリカの代わりに朝ごはんの支度をしていたのは、何故か成人済みの姿で現れた46人目の勇者。

『シャリオン・ガングラン』、その人だった――。

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