07.

 恒夜は、ベッドの上で竦んでいた。女の子にフェガロペトラに迫られて腰が引けている。壁に背中を預けているおかげで体を起こしていられた。壁がなければ押し倒されていただろう。

 人飼たちの一件で、疲労困憊の状態になっていたので早々にベッドに潜り込んだ。そうしたら、二階の窓を叩く音がして、見てみればフェガロペトラがいたのだ。

 まず、フェガロペトラは久しぶりに訪れた恒夜の部屋に入ると、懐かしそうに見回した。

「いつまで、こんな写真飾ってるんだか。今のわたしはもっとおしとやかで清楚で理知的でなにより美人だよ?」

 幼い頃の二人きりの写真だ。写真は多くあれどツーショットなのは、これだけ。

「ぷ」

 思わず吹き出してしまった。

「なによ?」

「こりゃ失敬。どこを見たらそう反対の言葉ばかり出るのかと思ったら、つい」

 美人というのは、認める。大人の女性と幼年の少女、その中間にいるフェガロペトラは、背徳感溢れる美人であることには間違いない。

「鬼も十八ってね、どんな醜い鬼も十八歳になれば美しいって意味なの。まだ十五だけど」

 そう苦笑するフェガロペトラ。彼女の誕生日は、もうちょっと先だ。

 鬼も十八を言っていたのは、登川の帰りだったか。もう随分と昔に感じる。そんなやりとりをして、ベッドに腰掛けた恒夜にフェガロペトラが迫ってきて、現状だった。

 目の前にはフェガロペトラの顔。互いに息がかかる距離。覗き込むその目は、どんな宝石よりも綺麗で、透き通った空のような蒼色をしている。

 フェガロペトラは、恒夜の手に手を重ねてきた。ひんやりとした感触。二人分の重みでベッドが軋みを上げた。フェガロペトラからは甘いにおいがする。女の子特有の。

「ロペ?」

「なぁに?」

 気怠げな吐息は甘ったるく、その言葉はそれに溶けているようだった。

 フェガロペトラは、恒夜の両脚の間を縫うように上半身を上半身に重ねてくる。恒夜の心臓は爆発寸前だった。フェガロペトラは、完全に恒夜に体を預けてきている。心臓の爆音がフェガロペトラに伝わっているだろうことが非常に恥ずかしかった。

 それでも。その重みは心地いい。彼女がここにいる証だからだ。ただ、心臓の数がおかしい。恒夜が一個。フェガロペトラが一個のはずなのだが、三個あるように感じる。ささやかな違和感だが、なぜか非常に気になった。でも、この状態から見れば些事だ。

 恒夜の手は、フェガロペトラの背中上空で空をわきわきとつかんでいる。抱きしめる場面なのだろうが、緊張して上手く動かせない。

「ねえ? 覚えてる?」

「なにを?」

「あら、ショック。わたしは、覚えていてくれたものだと」

「おまえとの思い出は多く覚えているよ。それに一番なんてない。みんな大事になったんだ」

 フェガロペトラは、恒夜の胸に顔を埋める。

「そうだね。ごめん」

「おまえが死んだのが理由と言えば理由だけど。おまえのせいじゃないじゃないか」

 そっと静かに、ようやく恒夜の腕がフェガロペトラの背中を抱こうとした瞬間、彼女は体を跳ね上げて、恒夜と見つめ合った。腕が素早く避けて、伸ばした状態で硬直する。

 フェガロペトラは、恒夜の髪の間に指を滑らせて、髪を優しく揉んだ。頬を優しく撫でて、そのままその頭を抱いた。ふくよかな胸は心地よく、すごく安心できる。

 だが、どう考えても心臓が二つあった。確か、図書館で調べた本にもそんな記述があったような気がする。鼓動が左右の胸から少しずれて聞こえてきていた。フェガロペトラが自分とは違う生き物であるということを告げられているようだ。

 恒夜は思う。確かに、自分たちはキスはした。だけど、致命的な言葉を交わしていない。それを、フェガロペトラに伝えたいと強く思った。でも、このまま言葉なく抱かれていたいとも思う。

「さあ、おやすみ。泣く子は、わたしが慰めてやらなくもなくもないから」

 どっちだろう? 苦笑しながら、フェガロペトラの体に腕を回して優しく甘えさせてもらった。

「おやすみ、ロペ」

「明日の世界が少しでもあんたに優しい世界であることを願わん」

「……オレだけに優しくてもなぁ。おまえにとっても優しい世界であることも願うよ」

「わたしは、吸血鬼。人に忌み嫌われようと、自然には愛される。だから大丈夫」

 それは、一番フェガロペトラが望んでいないことじゃないのだろうか。フェガロペトラは、人が好きで人の中心にいるのが好きでみんなが好きで。だから、自然に嫌われても人間に好かれたいというのが本音だと思う。

「おまえのことは、オレが愛してる」

 恒夜は、今まで散々過激なことも言ってきたが、一番肝心の言葉は口にしないできた。それを今口にする。

 フェガロペトラの心臓が二つとも、高鳴ったのがわかった。

 少し間があって。

「やっと、言葉にしてくれた。まあ、当然ね。わたしも、愛してる。恒夜」

 顔を埋めているのでわからないがきっと、驚いた顔をしていたに違いない。なにせ、記憶にある限り、ストレートに愛しているといったのは、これが初めてだ。好きとすら言ってきていない。今までの関係が大事すぎて、先に進めなくなっていたのだ。

 でも、もう恐れるものはなにもない。自分に正直に進んでいいのだ。だから、告げた。愛していると。

「でも、お願い。二度は言わないで」

 意図は読めないが、彼女がそういうのだから、言わないでおこう。



 次の日の朝、目を覚ますとそこにフェガロペトラの姿はなかった。昨日のことは夢だったんだろうか。そんなふうにさえ思ってしまう。のろのろと着替えて、学校に行く準備をし始めた。この二日間の密度が高すぎて、久しぶりとさえ思う。

 体は、昨日の反動か、全身筋肉痛だった。それと左肩の傷が軽くうずく。この痛みが、確かにフェガロペトラとの繋がりを示す絆だった。

 朝起きて、親と顔を合わせて。いろいろあったけど、日常の歯車を回し始める。非日常は数日お預けだ。もしかしたら、もう二度とここには戻って来れないかも知れない。

 朝ご飯を、しっかり味わって、「いってきます」と、いつものように家を出た。元気に歩いて、登校する。

 クラスに着くと、七沢がもうすでに学校に来ていた。気まずいなあ。どう声をかけていいかわからないが、でもあいさつはしないといけないと思った。鞄を置いた後、七沢の席まで行く。

「おはよう、七沢」

「あ、朝霧くん……」

 ちょっと、間を置いて。

「うん、おはよう」

 恒夜は、内心ほっとした。いつもの七沢のような気がしたからだ。

「金曜日はごめんね」

「いや、いいんだよ」

 恒夜は謝りそうになったが、踏みとどまる。謝るということは非を認めること、つまり相手を受け入れると言うこと。だから、フェガロペトラのことが大事なら謝っちゃいけない。そう考えていた。

「高山くんに言われたけど、時期尚早だったと思う。それに、卑怯だったよね。だから、ごめんなさい。でも、私。諦めないから」

「そっか。なんていうか、ありがとう?」

「なんで、お礼を言われるのかわからないけど、朝霧くんらしいね」

 そう言って、その柔らかいイメージのまま笑う。ついつい可愛がりたくなるというか、小動物に癒されるというか、そんなオーラをまいてくれる魅力的な笑顔だ。

 そこに、高山と藍浦も加わって、またこっちも日常が再び回り始める。この環境を一日でも長く過ごしたい。大事に大事に、でも、のんびりとだらだらしていきたいと思う。

 決戦は、次の新月の夜。つまりは、一週間後の深夜ということになる。それまでは、日常を大事にして、万が一なんてある訳ないと思うけど、それでも笑ってさよならできるくらいにはしておきたい。

 その後も、ワクドナルドに行ってたわいもない話で盛り上がった。まだまだ、フェガロペトラのいない空気には馴染んでいないがだいぶなれてきたと思う。

 人間は、変化に強い生き物だと思った。確かに、見方によれば薄情なのかも知れない。でも、日常は否応なしに過ぎていくし、自分たちは生きているのだ。それに順応していくのは悪いことではないと思う。囚われる方が悪いとは言えないが、悲惨だ。

「ところで、大事な話しても良いか?」

 高山が切り出した。

「なんだ?」

 恒夜は察しが付いていた。

「わかってるだろう? 多賀谷の件だよ」

「ああ、あいつ? もう二、三日したら学校に来ると思うよ」

「なにがあったのか教えてくれよ」

「わかるやつだけがわかればいいんだよ。なあ、そう思うだろ、七沢?」

「え? あ、うん。そうだね」

 飲み物のストローに口をつけて一生懸命吸ってる姿は非常に愛嬌に溢れていた。

「なんだ、それ?」

 藍浦は、全然わかりませんという顔をした。高山は、七沢に振ったことで理解したようだ。

 この日常を守りたい。フェガロペトラが欠けているけど、この時間、空間、関係は続けていきたいと思う。フェガロペトラと過ごす、非日常もものすごく大事だけど、こっちも大事なのだ。

 見方を変えれば、不人情なのかも知れない。本来なら、フェガロペトラがいる世界がすべてと言わなくちゃいけないんだろう。でも、フェガロペトラがかつて生きて、生きた証が残るこっちも同じく愛おしい。

 きっと、この言い方はずるいといとフェガロペトラには、非難されるだろう。いや、彼女なら笑って大事にしなさいと強がるか。もういっそのこと、この場にフェガロペトラを呼んで、生きてましたーと、報告できると楽なのだが。

 恒夜は、七年後に思いを馳せる。七年後、人間にもう一度なったときには、みんなに報告できるだろうか。実は生きてましたと。無理だ。七年後になったって、記憶が新しくなるわけでもない。死んだ人間は死んだままなのだ。七回忌とかやるかも知れない。

 そんな中、本人は帰ってくる。帰ってきてくれるはずだ。少なくともみんなの元には無理でも、自分の元には帰ってきてくれると信じている。でも、それは帰ってきたことになるんだろうか。

 今までとは違う日常の中に新たにやってくると言う方が正確かも知れない。もう元には戻れない。だけど、万が一、彼らが吸血鬼を知れば、その可能性はなくもない。

 その場合、喜んで迎えてくれるだろうか。もし、彼らがフェガロペトラを化け物扱いし、恐れたなら、彼女は深く傷つき、自分の存在を憂うかもわからない。

 どっちに転ぶか想像がつかない。恒夜は、そんなことはないと信じたい。でも、それは確かなものではない。だから、当分は二重生活を送るることになりそうだ。フェガロペトラには悪いが、どっちも大事なのだ。

 それに、高山たちが吸血鬼を知るということは、なんらかの事件に巻き込まれてという可能性が高そうだ。そうなると、吸血鬼の心象は悪くなるだろうし、恐れられもするだろう。彼らとフェガロペトラの仲を疑う訳ではないが、そうなっても、恒夜のように手放しで喜べるほどの時間を共有してきたかは、疑わしい。

「なにを難しい顔してるんだ?」

 高山が、いろんな可能性について考えていた恒夜に呆れ顔を向ける。

「最近、多いよね」

 七沢にも言われてしまう。

「いいんじゃねえの、悩めよ少年って感じで」

 藍浦は、気楽そうでいいな。

「なんだよそれ?」

 高山が、恒夜の代わりに突っ込んでくれた。

「なんとなく、浮かんできた」

 藍浦は、笑って誤魔化した。

「わりい。でも、そんなに最近難しい顔してるかな?」

「ああ、気がついたら難しくなってるぞ」

 恒夜は、自分の顔を触って、眉間のしわを確認する。確かに、寄ってるような気もしなくもない。答えの出ない難しい問題を考えてる反動なんだろう。いかんいかん。

「私たちといても、楽しくない?」

「んな訳ないだろう」

「ならいいんだけどな」

「って、オレのポテト!」

 恒夜が考えごとをしている間に、恒夜のポテトがなくなっていた。

「おう、うまかった」

 藍浦が全部平らげてしまっていた。

「隙だらけだぞ。大丈夫か?」

「く、おまえらの前なら、隙を見せてもいいと思ったオレが甘かったか……」

「うん、藍浦くんが悪いね」

 七沢が珍しく、人の行動の正悪を咎める。

「ああ、そうだな」

 高山はいつも通り、容赦しない。

「なんだよ、おれは悪者かよぉ」

「実際、人様のものに手をつけたんだ。充分悪いだろ」

「なんだよ、朝霧。おれたちゃ、友達だろ? 人様じゃないだろ?」

「食い物の恨みは怖いっていうのを知らんのか?」

「悪かったよ。買い直してくる」

 藍浦が、普段からは考えられないほどしょげた声だった。

「いいよ。オレたちは友達だからな。恨みもしないさ」

「朝霧ぃ。やっぱおれはいいダチを持ったよ」

 うん、やっぱりこの日常は大事だ。なんとしてでも帰って来たいものだ。



 馬鹿なことをいいながら、日常の中を過ごした。意味のない、軽口のやりとり。粛々と消費されていく日々。そこに決定的に足りないものが存在した。

 フェガロペトラである。この前の夜の後、彼女は恒夜の前に姿を現さなくなった。街中ではもちろん、家でも確認できない。家に行っても、確かにまだ生活はしているようだが、姿を確認することは叶わなかった。

 一抹の不安が胸をよぎる。だけど、それを昼間に出せず、なにごともなかったように過ごした。見つからない日が一日、二日と募る。その日々に不安が煽られた。寂しさもある。だが、それとは違った、焦燥感が恒夜を攻め立てた。

「ロペのやつ……、どこに?」

 深夜の逢瀬が、ずっと続くと思っていた。少し考えれば、わかることなのに。失われる可能性など微塵も顧みなかった。

 ただ歯がみしながら、日々が過ぎていくことに耐えていかねばならなくなっている。その状況が悔しいのではない。フェガロペトラがいない理由の一つも知らない自分が情けなかった。

 結局、一度も会えずに新月の日が来てしまう。眠れない日が続いた。確かに傷はうずくのに、絆は感じられない。どこへいってしまったのだろう? 失ったのはフェガロペトラの存在だけではなく、共にあった喜怒哀楽、安心感、平穏などがことごとく失われていた。

 夜更けに、恒夜は家の玄関で靴を履く。ひもをきつめに締め、なにがあっても動けるように。吸血鬼相手にできることの高は知れているが。

「いってきます」

 誰に告げるでもなく、毎日呟いてきた。

「恒夜」

 それに、母親が答える。いつの間にか、母親が背後に立っていた。

「帰ってくるのよね?」

「当たり前じゃないか。なにを言ってるんだよ、母さん」

「最近怪我も多いし、また昔に戻ってるんじゃないかと、心配なの」

「ははは、心配性だな。もうオレは昔のオレとは違うよ。危険なことはないって。ただの散歩だって」

 せめてもの嘘。精一杯の演技。恒夜にとっての人生最大の大演技。

「そう。いってらっしゃい」

 だけど、母親には全てを見透かされているようだ。その上で気丈に振る舞っているのがわかった。纏う雰囲気から悲しみを感じる。

 自殺に行くのではない。生きるために行くのだ。命を保つという意味でもそうだが、人生を歩むという意味においても生きるために行く。

 玄関の扉を開け、悠然と外に出た。夜気が冷たい。ジャンパーの襟をあわせる。雪が降らないのが不思議な夜だ。

 外は昏い。月がないだけで、見慣れた景色すら寒々しく映る。街灯が照らし出す世界はあまりに無機質で、触れれば凍えそうだ。

 恒夜は、人飼との約束の場所に向かう。人飼は信じられないが、フェガロペトラが言うんだから信じる他ない。白い息を後に引きながら、ぶっきらぼうに歩を進めた。

 約束の場所は、なんども戦場になった河原。そこは、堤防を登れば広く見渡せる。恒夜は、堤防を登っている最中に、声を聞いた。叫ぶような、悲痛な声。誰かがあげた断末魔。誰かが、非業の死を迎えた証。

 声の方向が約束の場所の方であることに不安をかき立てられて、足早に進む。そこでは、三人の人間の形をしたものに、一人の人間の形をしたものが囲まれていた。一人の方は、手に大きな戦斧を持っているのが辛うじてわかる。

 心臓が早鐘を打つ。あれは、フェガロペトラが授けられていた武器。ならば、あそこの赤髪の少女は、フェガロペトラであるはずだ。だけど、そうなると三人の人型は吸血鬼の可能性が高い。恒夜が、駆け寄ったところでなにができる訳でもなく。

 非常に不本意ながら、堤防の上から無事を祈っている他なかった。本当は、フェガロペトラに会いたい。顔を合わせ、言葉を交わしたい。内容は何でもいい。今日の晩ご飯の話でも良い。とにかく、フェガロペトラを感じていたかった。

 赤髪の少女が振るう戦斧は、橋に設けられた街灯を受けて煌めく。その一撃で、吸血鬼が一人灰になった。残り二人もきっと、時間の問題だろう。金属同士がぶつかる音がときおり響く。

 恒夜は、食い入るようにその戦いを見つめていた。万が一にでも、少女がピンチに陥れば、自分は駆けていこうと決める。なにができるかではなく、ただ無力にフェガロペトラを失う訳にはいかないからだ。

 もう、人間フェガロペトラが死んだときのような思いはたくさんだ。またそんな気持ちを味わわされるくらいなら、一緒に死んだ方がマシだ。

 数分後か十数分後か。時間の流れがわからなくなっていたが、戦闘が終わった。恒夜は、急いで堤防を駆け下りて、フェガロペトラの元に急ぐ。

 その途中だった。体がふわりと浮いて、背中から落とされる。それが、投げられたと気付くまでに一拍あって。人飼が、恒夜を投げたのだと気付くまでさらに、もう一拍。

「な、なにしやがる?」

「しー」

 人飼は、口元に人差し指を当てた。

「?」

 なにもわからないまま、恒夜はヒモで拘束された。といっても、ゆるゆるでその気があればいつでも逃げられる。これは飽くまで作戦なのだと思い出させられた。

 フェガロペトラは、寄ってこない。遠くで俯いている。

「ロペ!」

 恒夜は、その名を呼んだが、人影はぴくりともしなかった。

 なぜ? そんな言葉しか浮かんでこない。なにか、嫌われることをしただろうか。

「しー」

 もう一回、人飼が静かにするよう促した。

 恒夜は訳もわからず、地面に座り込んだ。捕まった演技と、心を刺す絶望感。どちらに由来するかは一目瞭然。

 恒夜の呼びかけは届かなかった。理由は不明。ただ、返事がなかったという事実が恒夜を打ちのめす。

 恒夜がうちひしがれている中、場の空気が一変した。堤防の上に一人の男が立っているのがわかる。その男の気配は人のものではなく、恒夜を必要としている吸血鬼。背筋に寒気が走る。

「その方が、奇跡の血を持ちたるものか?」

 厳かに、男が口を開く。冷めた声。

「で、吸血人。何故ここに、ストリゴイカがおるのだ?」

「それは、ここにいてはいけないと言われなかったものですから」

 軽薄な口調で、物怖じもせず人飼は答えた。

「しかり」

 男が、街灯の下で照らし出される。きれいな白髪に、壮年の顔。歳経た人間と同じ、老いた顔。着ているものは、茶をベースにした、スーツ姿。高貴な人間が持つ独特の雰囲気を持っている。

 頭に鋭い痛みが走って、ある記憶が甦った。確か、この吸血鬼は第六十九代鮮血の戦乙女が対峙した相手だ。マレフィクスと言ったか。なんでか、名前を言っちゃいけなかったような気がする。今になって急に思い出したのはなぜだろうか?

「ストリゴイカよ。汝が望み述べてみよ」

「彼は渡さない。退く、というなら見逃すけど?」

「安ずるが良い、娘。手荒には扱わぬ」

「あんたは彼を飼い殺しにするのが目的でしょ? わたしは、それが気にくわないから抵抗する」

 マレフィクスは、黙って、フェガロペトラの方を見ている。

「我が名は、マレフィクス。周りからは、導師と称されている」

「ふん、ご高名はかねがね窺っておりますよっと。あたしは、第七〇代鮮血の戦乙女。名は捨てた」

 え? 名を捨て……た? どういう意味だろう。名を言わないのならわかるのだが。

「では、鮮血の戦乙女よ。気に食わねば、どう致す?」

「知れたこと。わたしには、力尽く以外の道はない!」

「理解した。では、参るが良い」

 フェガロペトラは、戦斧を構えてまっすぐ突っ込んだ。マレフィクスは、構えもせずに黙っている。フェガロペトラの間合いになった瞬間、彼女の体が爆ぜるように吹き飛んだ。

 なにが起きたか恒夜には、理解できなかった。この場において、恒夜は名を捨てたというフェガロペトラに向かって呼びかける権利もない。ただ、信じて見守るだけ。

 フェガロペトラは、すぐさま体勢を立て直すと、今度は回り込むようにして、仕掛けた。マレフィクスは、明後日の方向を向いている。だが、その見えない壁はフェガロペトラを再び拒んだ。

「なるほど」

 念動力サイコキネシスみたいなものなのだろうか。

「名を捨てた意味はなかったってことか」

「くくく、それは如何なるものか。フェガロペトラ・アスィミコラキ。なにを持って、名を捨てたかという問題だ」

「詰まるところ、わたしは名前を捨てられていないと?」

「それを証明したばかりだ。フェガロペトラ・アスィミコラキ、地に伏せたまえ」

 そうマレフィクスが口にしただけで、フェガロペトラは、見えない力で引っ張られたように地べたに体前面を強打した。

「ぐ」

「やめろ。なんで、おまえらは殺し合う必要がある? オレの血を飲めば終わることだろう! 彼女を離せ!」

「わかり合うのは、幻想だよ、朝霧恒夜」

 ここ最近で得た、教訓を全て破砕する一言だ。怒りが沸点に達するのがわかった。

「そんなことはない。できないとしたら、当人同士の努力が決定的に足りないだけだ」

「人間だって、宗教が違えば、殺し合う。我々は種が違うのだ。殺し合って当然だ」

 確かに。人間はそうだ。恒夜は言い返すことができなかった。だが、わかり合えるのは、幻想ではない。今までの日々がそれを証明してる。恒夜は、今までの日々を思い出した。楽しい日々。あれらは妄想の類ではない。

「ストリゴイカの娘よ。そこで、汝が希望を絶望で塗りつぶす様、熟々見るが良い。せっかく両の目が開いておるのだからな」

 人飼が恒夜の隣に立ってマレフィクスに渡す。

「大儀だった」

「いえいえ。約束の金の残りよろしくお願いします」

「浅ましいやつめ。介意無用」

「では、僕はこれで失礼します」

 人飼は、闇に溶けていった。

「ぐぬぬっ!」

 後ろで、フェガロペトラが必死で立とうして唸っている。

「無駄だ」

 マレフィクスは、一笑に付した。

「ストリゴイカとは、つくづく愚かな種よな。愛だの恋だのにその命を賭ける。だから、名を捨てても捨て切れていない」

「なんだと?」

「朝霧恒夜よ。汝がいたからこそ、あの娘は名を捨てきれなかった。不幸なことよな」

 不幸……だと? 人を想うことが不幸だと? そんなことなどない!

 怒りに満ちた目でマレフィクスを睨むが、やつには見えていない。怒気も発しているが、涼しい顔で流されている。

「さて、朝霧恒夜、その血を我に捧げよ」

 「断る」と言おうとしたが、声にならない。それどころか自分の意に反して、首を横に傾け、首筋を露わにする。まるで自主的に血を捧げているかのようだった。

「こう、や……」

 フェガロペトラの絞り出した声。体中の力を持って逆らおうとするが、まったく歯が立たない。血は、沸点に達したかのようになり、怒り心頭に発しているのに、思い通りになるところが微塵もない。

「さて、ではいただこう」

 マレフィクスが、恒夜の首に牙を突き立てた。血を啜られている。奇妙な脱力感。だが、すぐに止まった。

「お、おおお!」

 マレフィクスが、体を屈めて胸を掻きむしるような仕草。次に目に手を当てて空を仰ぐ。

 ついにその目が開かれた。狂気の目。見たことのない世界に狂喜乱舞するマレフィクス。

「確か、ストリゴイカは赤髪と碧眼だったな」

 マレフィクスは、フェガロペトラを見下ろす。このとき、恒夜の体に意思が戻っていた。

「フェガロペトラ・アスィミコラキ、立て」

 フェガロペトラは、それに従って立ち上がる。顔は憎々しさで満ちていた。

「ほほう。それが、赤か。それが、青か。素晴らしい!」

 この世にあるものを初めて目にしたその興奮は計り知れない。周りを興味深げに見回す。

 だが、恒夜はあることに気がついた。視界の隅に必ずフェガロペトラを置いている。もしかするともしかするかも知れない。だが、命がけだ。違っても死ぬだけではなく、予想があっていても死ぬかも知れない。

 だが、人生賭けるって決めたじゃないか。今がそのときだ。

 恒夜は、腕の拘束を解くと、立ち上がり、大きく吼えた。

「このクソ野郎。ロペを好きにして良いのはオレだけだ!」

 だが、その程度で、フェガロペトラを視線から外さない。もうこのとき、予想は確信に変わっていた。

 恒夜は、駆け出し、背を向けていたマレフィクスに飛びかかる。この能力は、視界に納めているものの名を唱えることで自由にするというものだろう。だから、視界からフェガロペトラを外せないのだ。今までは盲目だったので、全てが見えない代わりに全てを視界に納めていたと言える。だけど、今は視界が制限されたと言えるだろう。

 殴りかかるのではなく、腰にまとわりついた。こっちの方がうざさでは上だろうからだ。だが、マレフィクスは冷静だった。

「恒夜、なにを?」

 フェガロペトラに視線を送る。視線である、と。

「フェガロペトラ・アスィミコラキ、心臓を突き抜け」

 そう命令した。聞き間違いだと願ったが、フェガロペトラは自分の胸に戦斧の先端に付いた槍状の刃を当てる。そして、胸を突き刺した。その光景がはっきりとゆっくりと目に焼き付けられる。その瞬間の表情は悔しさに満ちていた。蒼い目は最期まで恒夜を見つめ続ける。見つめながら、鮮やかな血飛沫を上げて、フェガロペトラが崩れ落ちた。

「心臓をやられて生き残る吸血鬼は数少ない。諦めがついたであろう」

 楽しい日々の終焉。頭を過ぎた思い出たちが、恒夜の頭の中だけのものとなろうとしている。それは、悲しいことだ。

「ロペ、ロペェェェ!」

「さて、朝霧恒夜。汝には共に来てもらう」

「ふ、ふざけんなぁ!」

 今度は、腰から離れて、マレフィクスを殴った。確かに頬を捉えたそれは打ち抜けない。

「満足か、朝霧恒夜?」

 開いたばかりの目で、見下ろしてくる。どこまでも冷たい瞳。感情というものが一切浮かんでいない。浮かべることを知らないのか、そういう存在なのか。後者であるような気がしている。冷や汗が背中を流れた。隙を見つけられない。

「満足する訳ねえだろ!」

 もう一撃入れようとして、それを入れる前に頬を裏手で払いのけられた。口の中が切れる。首が折れるかと思った。血の味が口いっぱいに広がる。これが悔しさの味か。

「視力、とは存外不便なのだな」

「知ったことかぁ!」

「朝霧恒夜、再び地に座せよ」

 強制的に地面に座らさせられた。

 そのとき、恒夜も貫く、殺気。その鋭さにマレフィクスも恒夜から視線を外し、振り返る。そこには、血に染まったフェガロペトラが立っていた。足下が覚束かなくなっている。

「な、んだと?」

「ストリゴイカは、二つの心臓を持つのよ」

 フェガロペトラは、吐血しながらそういった。先日の心音は本当に二つあったようだ。

 彼女とマレフィクスの視線が交錯する。しばらく、睨み合った。恒夜のしようとしたことに気がついてくれたのだろうか。

「……? 汝は誰だ?」

 マレフィクスが、信じられない言葉を口にした。視間侵攻インヴァジエが成功したのだろう。つまり、認識をずらせたということで、マレフィクスの能力を封じこめたのだ。

「確か、先ほどまで分かっていた気がするのだが……」

「片想いで死んだストリゴイカを舐めないことね。しつこいから」

 目に見えて狼狽しているマレフィクス。フェガロペトラから距離を取った。恒夜を人質にするということなども忘れて一人で飛び退く。

「誰だかはわからないが、その出血。魔力の大部は、流出。恐るるに足らず」

 マレフィクスの顔から、恐れが引いた。

 だが、その一瞬の間に恒夜はフェガロペトラの元に辿り着いている。

「くう。視間侵攻は、魔力を食うのよね。でも、目が見えることで墓穴を掘ってくれた」

「朝霧恒夜、地に臥せよ」

 恒夜は地面に叩き臥せられる。これでは、フェガロペトラに血を飲ませられない。

 出血多量で色を失っている顔。だが、良くわからないが、力強い波動を感じた。目には力強さが宿っている。満身創痍でなにをしようというのか。

 戦斧を携えて、マレフィクスへと猪突猛進する。一方的な勢いでマレフィクスを圧倒した。マレフィクスも、手にしたポールで激しい戦斧の攻撃をいなしている。戦斧の大きな一撃と一撃の間に反撃を挟むが、とどめには至らない。だが、フェガロペトラの呼吸の乱れが大きい。

「うおりゃあぁあぁ!」

 フェガロペトラは、豪快に戦斧を回転させ、そこからの変幻自在な斬撃が放たれる。大雑把な彼女らしい清々しいまでの力技。

「忌々しき力よな」

 マレフィクスが、感嘆したように言った。そこには、侮蔑の意味は感じられず、自分に匹敵する吸血鬼に感心している。

 なればこそ。なればこその選択があるはずだ。人飼がやった戦法。人質戦術。殺すとまでは行かずとも、盾にするくらいはやってもおかしくはない。勝てないと冷静に受け止めているもので、でも負けられないものなら選択するべきだと思う。

 だが、マレフィクスは、その気配を微塵も見せない。気配を断つのがうまいのか、やる気がないのか。

 恐らく後者だろう。マレフィクスの顔には、歓喜による笑みが浮かんでいるからだ。それが、吸血鬼の本懐と言わんばかりに強者との戦闘に興じている。

「く、くははは!」

 とうとうマレフィクスは、品もなく大声で笑った。足はじりじりと後退しているのにも関わらず。一度大きく斧を弾いた。

「見事なり、ストリゴイカの娘!」

 高々と賛辞を送った。そう言った勢いで、マレフィクスは己が目に爪を当てて、斬り裂く。自ら闇の世界へと堕ちていく行為。それには、恒夜もフェガロペトラも目を見張った。わずかに、怯んだ。

「視力など慣れぬものがあるから後れを取る。我が力は闇でこそ映えるのだ!」

「く」

 フェガロペトラが短く呻いた。これで、視間侵攻の再掛けは出来ない。しかも、相手の世界はこれで文字通り世界そのものになった。

 それに加え、フェガロペトラは、片方の心臓を潰していて、魔力も大幅に消費している。どのみち、視間侵攻などの大きな魔法は使えない。フェガロペトラには鮮血の戦乙女伝統の舞踏戦斧が残っているくらいか。

 フェガロペトラは、戦斧を持って間合いに入ると、大きく振り回した戦斧の一撃からすかさず、舞踏戦斧に繋ぐ。マレフィクスは、それを防戦一方で受けるだが、受けきった。

「さすが音に聞こえた鮮血の戦乙女よ」

 さらに、そう褒めた。だけど、これでフェガロペトラは打つ手がない。しかし、諦めの色はその美貌のどこにも浮かんでいない。ただ、眼前の敵に据えられている。

「汝は強い。だが、この猛り、この滾り、我が身すでに獣よ」

 どこか興奮したような口調だった。

「マレフィクス・バーデンバリ。獣と化し、あのストリゴイカの娘を喰い殺せ!」

「!」

 恒夜もフェガロペトラも息を飲んだ。目を潰したのはこれも考えてか。つまりは、自己催眠。マレフィクスは、その身を大きな四足獣に変えた。

 そのシルエットは狼に近いかも知れない。巨大な狼。三メートルはあろうかという巨体。その頭には、仰々しい角がついていて、まさに魔獣。目は潰れたままだが、鼻と耳、肌があればその必要性を感じられなかった。

「―――――――!!」

 つんざくような、地響きと聞き違えるような雄叫び。物腰が雅やかだったマレフィクスはどこにもいなくなっていた。

「恒夜、下がって」

 フェガロペトラは、恒夜を下がらせる。一筋縄ではいかない相手だ。フェガロペトラも気を引き締めている。真剣な面持ち。でも、どこか、死を孕んだ憂いの表情。

「ロペ!」

「大丈夫。なんとかならなかったことはないでしょ?」

 そんな根拠のないことをいわれても、安心などできやしない。でも、今は信じるより他ないのだ。

 魔獣の突進。その角での刺突。それをなんとか、戦斧で受け止める。大きくたわむ柄。地面をえぐりながら後ろに押されていく足。

「こっの、おぉぉぉ!」

 それを弾き飛ばす。だが、魔獣は意気軒昂。フェガロペトラは、見るからにへばっていた。大きく肩で息をしながら、対峙している。

 ぼそぼそと、フェガロペトラはなにかを呟いた。魔法の詠唱だろうか。魔獣の突進に対し、素早く回り込む。だが、魔獣はぴったりとその動きについてきている。

 においか音か、気配か。なにかを感じ取って、正確にフェガロペトラのことを追尾している。それがわかれば、撹乱もできるかも知れない。だが、恒夜にそれを確かめる術はない。

 ぴたりと動きを止め、にらみ合う両者。魔獣の獣のにおいが濃い。魔獣は、口から密度の高い白い息を吐いている。フェガロペトラの呼吸は荒い。

 もう、そう長くは戦えないだろう。短期決戦に持ち込まねば。状況を客観視している恒夜は、打開策をなんとか捻り出そうとしてみる。地上にいる限り、魔獣は追い続けるだろう。ならば、違うところだったとしたら? 例えば、河の中。水が苦手な吸血鬼もいるようだし、においでの追跡は振り切れるかも知れない。

 ダメだ。もし、水が苦手じゃなかったら効果は薄い。足場が悪くなる分、不利だ。

 自分が囮にでもなればいいのだろうが、向こうは魔獣になってからというものフェガロペトラから、一度も鼻先を外そうとしない。

 後は。そう考えて、天を仰ぐ。もう手がないのか。このまま、フェガロペトラが喰い殺される様を見ていなければならないのか。

「そうか!」

 自動追尾機能が絶対だとしたなら。追えないものも追ってしまうだろう。

「ロペ! 空だ!」

 恒夜が、叫ぶ。

「なるほど」

 フェガロペトラは、ぺろりと舌を出して唇を舐めた。

「とう!」

 フェガロペトラは、戦斧を地面に残して、空高く、飛び上がった。

 魔獣は、それに追いすがろうとする。しかし、フェガロペトラが飛んだ真下で、うなり声を上げると、背中を変化させ、大きな蝙蝠のような翼を露わにした。その翼をはためかせると、魔獣は空へも追いかけていく。

 フェガロペトラが、なにをする気なのかはわからない。だが、決着がつきそうなのはわかる。フェガロペトラの姿が夜空に吸い込まれて視認できなくなった。

 超高々度から一筋のいかずちが、魔獣に向かって落ちてくる。

「恋する、乙女を、甘く見るなぁぁぁぁ!」

 それは、雷鳴のごとき爆音と、落雷のごとき威力を携えた一撃だった。魔獣は、その一撃すら迎え撃とうとする。拮抗したのは一瞬。技の威力が違いすぎる。魔獣はその一撃をいなすことも避けることも出来ずにもろに浴びた。

 魔獣の体が小さくしぼんでいく。再びマレフィクスの姿を取り戻した。

「ぐ、は。まさか、開眼したことでやられるとは……。儚い夢であった……。見事なり、ストリゴイカの娘!」

 最期だけ、恒夜は同情してしまった。やり方さえ間違えていなければ、もっと夢を見られたかも知れないのに。

 マレフィクスは、灰になって、寒風に乗って世界の中に散っていった。

 大きな、クレーターの中心で、焦げた煙をその戦闘服からあげてうずくまっているフェガロペトラ。恒夜は慌てて駆け寄る。体中から出血していた。

「これだから、『全てを灰燼に帰す、怒りのいかずち』は、いやなのよ」

「大丈夫なのか!」

「大丈夫、と言いたいけど今回はダメかも」

 寂しく笑って、彼女は地面に倒れ込んだ。

「ロペ!」

「恒夜、お願いがあるの」

「血、飲むのか?」

「ううん、やめとくって言ったでしょ。一介の吸血鬼が口にしていい血じゃないのよ」

「じゃあ、なんだよ? なにをして欲しいんだ?」

 今なら、世界を滅ぼすことだってやりそうな意気込みである。

「キスを頂戴。できるだけ早く」

 フェガロペトラの体が徐々に灰になり始めていた。焦る恒夜。彼女は、目を閉じた。

 恒夜は、涙を堪えながら、唇を重ねる。お互いを求めるキスだった。だけど、キスの味は血の味だ。戦場に相応しいキスだと思った。お互いの口の中は恒夜の血だらけになる。

 フェガロペトラは、徐々に活気を失い、最期の一つが弱々しく鳴ってもう一つの心臓も止まった。

「ろ、ロペ! 嘘だろ。嘘だよな?」

 でも、答えはない。絶望という感覚。腕の中で二度彼女を失う。心が張り裂けそうだ。

 場を支配するのは、静寂。聞こえるのは自分の心音だけ。こんな悲しいことがあろうか。

 しかし、フェガロペトラは灰になりきらなかった。鼓動を失った心臓が再び心音を刻み始める。血の気のなかった顔に紅みが戻り、その目を同じように静かに開けた。

「あ、れ? なんで?」

 フェガロペトラは、不思議そうな顔をしていた。そしてはっとして、恒夜を見る。恒夜の血が奇跡を起こしたのだ。恒夜は顔をくしゃくしゃにして言う。

「不可抗力だよ。仕方ないじゃないか」

 久しぶりに使ったような気がする口癖。フェガロペトラも二の句が継げないでいた。ため息を吐くフェガロペトラ。

「そんな子供みたいに喜んじゃって。……でも、嬉しい」

「オレもだよ」

 もう一度キスをしようとする恒夜の唇を、フェガロペトラは手で遮った。

「さて、生きてるなら行かなくちゃ」

 ふらつきながら、立ち上がるフェガロペトラ。

「どこに行くんだよ?」

「わたしは、マレフィクスを倒したからお役ご免。しばらくは、会えないよ」

「そ、そんな馬鹿な!」

 冷たい現実。マレフィクスの眼差しにも負けない厳しさ。

「お、オレは、おまえをあ――」

 恒夜の唇に、フェガロペトラの人差し指が当てられた。

「願わくば、七年後にもう一度聞きたいな」

 優しく、しかし寂しそうにフェガロペトラは微笑んだ。その寂しさが恒夜を少し慰めた。

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