06.
夕刻。帰り際。マリンワールドを出て、建物を振り返ってみる。途中、暗い話があった気がするが、結局フェガロペトラの底なしの前向きさに引きずられて、楽しんだ。
うん、実に良かった。いつ終わるかわからないからといって、今を楽しまないのは愚かなことだ。そのことを、フェガロペトラにはいやって程教えられてきたし、それを実感できた。
だから、明日も明後日も命があって、フェガロペトラが隣にいる限り楽しむんだ。
「恒夜~、早く~。陽が痛い~」
「ああ、うん。ごめん」
まだまだ自覚が足りなそうだけど。
「イワシすごかったよね。こう、ぐわーってうねって、ぎゅんてまがって」
今日の報告をフェガロペトラが、大げさな手振りでする。学校の成績は良い方なのだけど、この手の説明をさせるとどうしても感性が先に立って、うまく説明できない。
「ああ、イルカも迫力あったな」
「うん! でも、意外だったのは、ペンギンのお散歩かな? ちょっと陽がきつかったけど、あんなに心を鷲掴みにされるとは思ってなかった!」
そういって、ペンギンの写ったポストカードを楽しそうに見つめている。良く言えば純真無垢、悪く言えば天真爛漫。でも、そういうところがまた魅力的なのだ。
それは、吸血鬼になったって変わらないフェガロペトラらしさ。そういうところがたくさんある。だから、恒夜はいまいち現実を正しく認識できていないのかも知れない。やっぱり、「吸血鬼というのは、嘘でした~」と言われた方が納得がいく。
でも、それは恒夜の認識が甘いのだと、フェガロペトラに言われた。認識を強制的に正していかないといけないかも知れない。でも、実感の湧かないことをどうやって変えていけばいいのだろう。いっそのこと、フェガロペトラに血でも吸われるか。
すっかり忘れていたが、自分の血は特殊で、一介の吸血鬼が手を出してはならない血だとか。正直どんな血だよ、と思う。
それに、フェガロペトラは、一介の吸血鬼ではない。恒夜にとっては特別で大事な吸血鬼だ。自分の血にどれほどの価値があるのかは知らないが、それにフェガロペトラが釣り合わないなんてことはあり得ない。
その血の持ち主がそう思っているのに、たぶん周りは勝手に崇めるのだろう。そんな状況は勘弁してもらいたい。
帰りの汽車の中、二人は騒ぎすぎた代償かぐったりとしてあまり口をきかなかった。でも、隠れるように手をつないで気持ちは一つになっている、はずだ。
それでも、その心地よい疲れの重みの中口を開いたのは、フェガロペトラだった。
「朝の話しておかなきゃならない話ってやつ、聞かせてもらえる?」
「今じゃなきゃダメか?」
恒夜は、正直へとへとだった。話とは七沢のことだ。だから、気持ちが疲れている今では少しきつい。
「うん、たぶん」
あまり見せない、憂いの表情。緊張した声音。なにかよくないことがあるのだろう。それぐらいは恒夜でもわかる。でも、どんなことが待っているかはわからない。ただ、認識を新たにした上で鑑みれば、碌なことではないだろう。厄介で危険なことかも知れない。
「いや、怒らないと約束してくれれば話すよ」
「なんで、わたしが怒らなきゃならないわけ?」
「そういう話だからさ」
フェガロペトラの目を見る。魅力的な蒼い目。それが少し戸惑っている。でも、恒夜に見つめられてすぐに強い意思を持って、見つめ返してきた。
フェガロペトラは、一つ頷く。恒夜それを確認して口を開いた。
「中身は至極、単純。それ故に複雑怪奇ってね」
「前置きはいいから、本題を言って」
言いづらいのは恒夜も一緒だった。
「七沢に、告白されたよ」
「…………そう。それで?」
「それでもなにも、答える前にいなくなって、そのままだよ。まあ、答えはノーのつもりだったけど」
さすがのフェガロペトラも困ったのか、すぐに答えが返ってこない。
「あんたは、なんで進んで不幸になろうとするの?」
「不幸? なんで?」
握った手の感触を確かめるように、繋いだ手を動かした。確かに、自分の手の中にフェガロペトラの手がある。温かい手だ。
「あんたは、吸血鬼と人生を歩むことの厳しさをわかっていない」
「そういうおまえは、想ってる人の喪失感をわかっていない」
「わかってるよ。実は、わかってる」
「じゃあ、どっちがきついかなんてわかりきってるだろ」
答えはない。正確には、恒夜にだって吸血鬼と生きることの辛さなんてわからない。でも、それは、一人の人間と添い遂げようと思ったときに背負う重荷と大して差があるようには思えない。
日常的な事件か、非日常的な事件かの差だろう。それくらいにしか思っていない。
恒夜は、さっきまで、フェガロペトラにしがみつくことに一生懸命だった。だから、全然考えていなかったが、このままはずっと続かない。どこかで、人と人生を共にする覚悟を決めなくてはならない。
それを含めて考えたって、やっぱり人間か吸血鬼かの差は些細だと思うのだ。肉体的負担や悲惨さという意味では段違いに違ってくるのだろうけど、愛する人に責任を持つということには違いなどあってはいけないと思う。
「オレは、覚悟できる。おまえという存在を背負う人生くらい」
「くらいって、そんなに軽いもんじゃないよ?」
「いや、できる。だって、オレはそのことばかり考えて生きてきたんだから」
「ふう。わたしって、罪作りなのかな?」
恒夜の人生を狂わせたっていう意味では罪なのかも知れない。でも。本人はまったく被害だと思っていない上に、感謝すらしている。
「おまえは、びっくりするくらい、いい女だよ」
耳元で囁いてやる。フェガロペトラは身をびくつかせた。お互いこの方法はまだまだ通用しそうだ。
でも、その後すぐに恒夜に向かって笑いかけてくる。それを見た恒夜も笑い返した。これだけで、こんなに満ち足りた気持ちになれるのだ。なにがあったって、二人で乗り越えていける気がする。
「絶対。これは、絶対。ななちゃんか、たがやんを選んだ方が幸せになれるよ。今からでも遅くないから、どっちかにしときなよ」
「怒るぞ?」
「怒られても、引けない言葉があるし、気持ちだってあるよ」
なんでこんなことを言い合わなくちゃならないんだ。しかも、自分じゃない方が幸せとか、あまりに恒夜の気持ちをないがしろにし過ぎだ。でも、それが恒夜を想っての断腸の思いであることはなんとなく察せられる。自分で思うのも恥ずかしいが。
「オレは死んだって後悔しない。これも絶対だ」
「恒夜は、死ぬことの意味が分かってないよ」
「悲しいことだ。おまえと分かれなくちゃいけないんだからな」
「そんな軽いものじゃないよ。もっといろんなものを失うんだから」
「オレにとっては一番大事なことだ」
お互い、お互いの目を見て、それが本気であることをわかっている。むしろ、目を見なくてもわかっていることだ。
「恒夜は、みんなと離れるのが辛くない?」
「辛いだろうけど、人間なんでもかんでも持てないようにできてるんだ。オレの両手は、おまえとの関係を保つだけでいっぱいだよ」
「それでいいの?」とは返ってこなかった。それぐらい重いものだっていう自覚はあるし、それが一番大事なんだって思っているのはもう伝わっているだろうし。
「あんたは、愚か者よ」
「滑稽な人生を演じてみせるのが道化の役目かと」
「馬鹿」
短い旅を終えて、忠別市についたときには午後九時を過ぎ、夜の帳が完全にその空を支配していた。かなり涼しく、いや寒くなっているが、フェガロペトラはむしろ元気になっている。
見上げれば、鮮やかな月。ずいぶんと明るく大きく見える。その影響だろうか。
二人は歩きながら地元を目指した。疲れていたが、二人で歩いていれば全然苦ではない。言葉も交わしていないが、手を繋いでいる。その温もりがあれば、他にはなんにもいらなかった。
幸せに浸っている。自分が置かれてる立場などきれいに忘れて。ただ、いつまでもこうしていたかった。
堤防の上を歩いているときだ。突然、影から腕が伸びてきて、その手に持ったナイフが恒夜を襲う。いきなりの襲撃。恒夜は突き飛ばされ、大きな怪我はなかった。そのナイフは、また夜の闇に溶けていく。ナイフは恒夜を傷つけなかったが、ささやかな平穏を斬り裂いた。
間違いない、人飼だ。くそ、もうこの日々が終わるのか。叫び出したい気分だった。でも、緊迫した状況、空気がそれを許さない。
フェガロペトラは、胸に下げたペンダントトップにまた血をつけて、大きな戦斧に戻し、周囲を警戒する。相手は暗殺者だ。油断する訳にはいかない。
「朝霧!」
土手の上から聞こえてきたのは、多賀谷の声だった。そっちの方に意識が一瞬向いた隙に、ナイフがまた恒夜を襲う。
「しまった!」
フェガロペトラが叫ぶ。だけど、やられ放しじゃない。恒夜は、腕の方に身を転がして躱す。格好は悪いけど選んでいる場合ではない。すぐに立つと、さらに襲ってくる刃の前に敢然と立ち向かった。
「恒夜!」
フェガロペトラは、叫ぶように名前を呼んだ。でも、向かう足は怯まない。もしも、歩みが緩まったなら、殺される。その事実は重いものだが、恒夜にはナイフに対する耐性があった。ただ、今までは素人の馬鹿が振り回している物だ。プロの殺し屋の物ではない。
それでも、恒夜にはある仮定があった。だが、試すのは非常に勇気がいる。失敗すれば死ぬ羽目になるからだ。でも、今はそれしか生き延びられそうにないと判断した。
ナイフが閃く。がしかし、驚いたように攻撃をやめ、姿を一度消した。フェガロペトラが寄ってくる。
「大丈夫!?」
「ああ、なんとか」
同時に多賀谷も寄ってくる。
「ロペ公……?」
多賀谷は、信じられないといったふうだ。それはそうだろう。葬式に参列した相手が生きているのだから。それに、恋敵でもある。
「なんで、おまえは生きてるの? 死んだはずじゃあ?」
多賀谷は、髪色は黒いままだが、髪をまっすぐに戻していた。でも、その長さ、色からフェガロペトラはいろいろ感じ取っているようだ。
「たがやん、再会を喜びたいところだけど、今は危ないから来ないで!」
「いやいやいや。僕が呼んだんだ。勝手に帰してもらっちゃ困るよ?」
人飼が、多賀谷の隣に浮かび出てきた。
「いやー、参った。あそこで前に出られるとはね。侮ってたよ。殺せないのがこんなにも面倒だなんて知らなかったよ」
「誰、おまえ?」
多賀谷が怪訝そうな声で聞いた。
「え~、ここに朝霧少年がいることを教えて上げた仲じゃない。冷たいなぁ」
どこまでも、ふざけた調子の人飼。
「でも、あいつロペ公と一緒じゃん! 一人で会いたそうにしてるって言うから!」
「どこまでもふざけた野郎だ。何回死にたいか、それだけ言え」
フェガロペトラの怒りが頂点に達したらしい。戦斧を、地面に突き立てて、指の関節を鳴らしている。ものすごい迫力の怒気だ。
「君は昼間随分陽の光を浴びて衰弱しているようだね?」
「ハンデにはちょうどいいだろ」
え? そうなのか。ちょっと待てと言いたかったけど、言える雰囲気ではない。言ったら、恒夜もまとめて殴られそうだ。
「僕は人間のクォーターなんだ。つまり、四分の三は吸血鬼なんだよね。だから、中途半端な
人飼がサングラスを外してポケットにしまった。人の良さそうな柔らかい印象の細目だ。フェガロペトラの戦意に反応してか、狐目がさらに、細められた気がした。
「だから、どうした? こっちは純血種だっつーの」
「そうだね。純血種と正面からやり合うのは馬鹿なことだよね」
「?」
なにを考えてやがる。恒夜も一挙手一投足を見逃さないようにした。人飼は懐に手を入れ、一枚の薬のシートを取りだす。それを、多賀谷に渡した。碌な薬じゃないに決まっている。だけど、茫然自失状態の多賀谷はそれを受け取った。
「多賀谷さん、だっけ? その薬は、飲めば強くなれる薬だ。君ほどの素質があれば、そこの女吸血鬼にも勝てるかも知れない。そしたら、朝霧少年は、晴れて君の物だ」
「吸血鬼……?」
「多賀谷! そいつの言葉に耳を貸すな!」
多賀谷は、薬と恒夜を何度も見比べる。
「ロペ公は吸血鬼? そうか、だから死んだのに生きてるんだな?」
そんな世迷い言を信じるなと言いたいが、今目の前で繰り広げられている現実をどうやっても説明できない。
「ロペ公がいなきゃ、おまえはあたしの物だった。そうだろ?」
「違う! 生きてても死んでても、オレはロペのことを忘れられなかった。だから、そんな薬に頼るのはよせ!」
「どんなトリックを使ったか知らないが、ロペ公が生きてるのは本当だろ?」
もう思考が狂っている。
「だから、あたしがあの世に送り返してやる。おまえさえいなければ、朝霧はあたしのもんだ!」
「そうじゃない!」
「でも、実際はそうじゃないか!」
く。言い返せない。この場でフェガロペトラが生きていることが、恒夜の言葉から説得力をことごとく奪っている。
恒夜は、フェガロペトラの顔を見た。視間侵攻を使えないか、尋ねる意味を込めて。しかし、フェガロペトラは静かに首を振る。今、恒夜の隣にいるのがフェガロペトラじゃなくても恐らく、多賀谷の混乱は収まらないだろう。むしろ知らない女に取られるくらいならとさらに気勢が上がるかも知れない。
「ねえ、朝霧少年。君が一言愛してると言ってあげれば、丸く収まるんじゃない? あ、ちなみにその薬、副作用がひどいから」
どこまでも、底意地の悪いやつだ。
「ごめん、多賀谷。オレにはおまえを選べない。だけど、おまえは大切な友達だ。また、一緒に遊ぼう。な?」
「おまえが、ロペ公を選ぶなら、もう、あたしは、おまえとは楽しく遊べないよ」
「そんなことない! オレはおまえと一緒に遊びたいんだ。だから待ってくれ。頼むよ」
葛藤激しい多賀谷を必死の思いで止めようとする恒夜に、人飼は状況を悪くしかしない。
「さあ、一緒にあの邪魔な女を片付けよう」
人飼は甘く囁きかけた。恒夜は、強く奥歯を噛みしめる。打開策が見つからない。フェガロペトラも黙ったままだ。確かに、ここで口を開いても逆効果にしかならないだろう。
それでも。フェガロペトラがいるんだからなんとかなると思っている恒夜がいた。
「ふーん、ここまでされても君からは余裕を感じる。なにか、悟ったの?」
「別に悟ってなんていないさ。なにごとも悲観しないって決めただけだ。ロペがいる限りオレは、状況を悲観しないってな!」
「馬鹿だなぁ。そういう希望があると絶望に陥ったとき辛いよ?」
本当に人飼のやつは虫が好かない。
「終わりを気にして、始めないのはやめたんだ」
「ふう、君は本当に馬鹿なんだね。そういう言葉が、彼女を傷つけるんだよ」
多賀谷は、もう俯いてどんな顔をしているのかもわからない。
「朝霧。もう一度だけ聞く。あたしと共に人生を歩んでくれないか?」
上げた顔には、涙が光っていた。だけど、それも強い意思のこもった瞳からはこぼれていない。ただまっすぐ、恒夜を見つめている。
「……」
答えようがない。友達としてなら歓迎するが、今の彼女の言葉にその意図はない。一人のパートナーとしての話。恒夜が、フェガロペトラに対して誓ったのと同じこと。
その沈黙は答えとしては充分だった。多賀谷は、ただ、黙ってその薬を一つ取り出し、飲み下す。
「あ、おいっ」
だがなにごとも遅く。
「く、あああぁぁぁ!」
多賀谷が、苦しそうに胸を掻きむしる。
「人飼! 彼女になにを飲ませた?」
「何度もいうけど僕はお金のためなら、なんでもするよ? その薬も高かったけど、一つの先行投資だね」
「質問に答えろ!」
「いわゆる、吸血鬼化薬だよ。これで、彼女はフェ……なんとかくんと戦う力を手に入れた訳だ」
どこまでも挑発の巧みなやつだ。もうさっきから一言も口をきいていないフェガロペトラ。こんな彼女を見るのは初めてだ。殺意って言うのはこういうことを言うのだと思う。
「うあああぁぁぁ、はあ! はあはあ」
「大丈夫か? 多賀谷!」
「うふ、うふふふ。はははっ! 力が漲る。これなら負ける気がしない!」
「ち」
フェガロペトラは、珍しく舌打ちした。
「ロペ公、おまえをぶち殺す!」
不味い。あれは、普段使っている「ぶち殺す」じゃない。本当に、命を奪うつもりの「ぶち殺す」だ。
多賀谷は、体から力が溢れ出て、止められないかのようだった。張り詰めた弓の弦から、放たれた矢のように飛び出す。
フェガロペトラは、戦斧を地面に突き立てて、素手で応じた。恒夜には、捉えるのもやっとの速度で、多賀谷は蹴りを繰り出す。恒夜は、そこに生じる力同士の衝撃波で、見てるのがやっとだった。フェガロペトラの方は、それを巧みに受け、逸らしてやり過ごし、間を縫って、投げを打つ。だが、体力の塊のような吸血鬼に投げの一つや二つでは効果がない。
多賀谷も、素早く起き上がると、また横から上から正面からと変幻自在の蹴りを繰り出す。まるで、生きた双頭の蛇が絡みつくようにフェガロペトラを襲った。
「く、こっちが攻撃できないのをいいことに……!」
「喉が、喉が渇く。おまえの血を寄こせ、ロペ公!」
吼える多賀谷の瞳から、徐々に正気が失われていくのがわかった。
助けに入りたいが、入ったところでこの超高速の戦闘に入ってなにができるとも思えない。だが、次の瞬間考えを改めらさせられた。
人飼が、フェガロペトラを狙うために動き始めたのだ。また、影に溶ける。
「ロペ!」
恒夜の呼びかけで、フェガロペトラは状況を理解したようだ。多賀谷に蹴りを見舞うと、戦斧まで飛び退いた。だが、それが狙いだったのかそこにナイフが月光を受けて閃く。
恒夜は、その瞬間フェガロペトラに飛びかかって、かばった。ナイフは恒夜の腕を斬り裂く。今までのフェガロペトラなら避けられていてもおかしくないはずの一撃だった。
「く」
緊張感のせいか痛みはない。だが、血は着ているシャツを朱に染めていく。せっかくフェガロペトラとのデートのために引っ張り出してきたお気に入りなのに。
「恒夜! 大丈夫?」
「全然へっちゃらだ」
傷口が熱くなっているが、動く。たぶん、恒夜の仮説は正しいのだろう。だが、そう何度も身を挺するのはきつい。それに、例えそうだったとしても相手がミスれば為す術もなく死ぬ。
いくらフェガロペトラが、弱っているとは言え、多賀谷との戦いに手こずりすぎだ。傷つけられないというのもあるだろうが、もっとなにか手はありそうに思える。
「ロペ、ここはいったん退こう」
「……それしかないか」
こういうところは、即断だ。
「逃がさないよ? 逃げたらこの子は、僕がもらう」
人飼が姿を現して、告げた。
逃げることも許されないというのか。不味いな。状況は極めて不利。持ち直すには、奇手が必要だ。そのためには、打ち合わせと体制の立て直しが必須である。
「しょうがないなぁ」
フェガロペトラは、子供が当たり前の失敗をしたのを達観して眺めているような口振りだった。
「なにをしても、怒らないでね、恒夜?」
「な、なにをするつもりだ? まあ、怒らないけどさ」
「人飼だっけ? そちらがその子になにかするつもりなら、わたしは、恒夜を血族とする」
そんなことを宣った。
「そんなことしたら、奇跡の血の意味がなくなっちゃうじゃないか」
「でも、恒夜は吸血鬼として生き残るし、わたしは全然困らない。さてどうする?」
「やれやれ、とんだじゃじゃ馬さんだ。フェガ、ロ……なんとか」
人飼は、わざとか芝居なのかわからない口調で、言った。
「フェガロペトラ・アスィミコラキ。名前ぐらい覚えろ」
「ごめんごめん。覚えてもすぐに意味なくなる人は覚える気ないんだ。しかも、カタカナ苦手なんだよ、僕」
多賀谷も、少し離れたところから恒夜を見ている。
「朝霧……。置いていかないでくれ」
「ごめん、たがやん」
フェガロペトラが、そう謝る。次の瞬間には恒夜の脇の下に腕を回して、空高く飛び上がった。浮遊感が、恒夜の体を包む。不思議な感覚だ。眼下には街の明かりが拡がっている。空を飛んでいる、間違いなく。恐怖もあったが、それ以上にフェガロペトラを信じていた。少し距離を飛んだ後、フェガロペトラは近くの路地に降りる。
舞い降りると同時に、フェガロペトラは崩れ落ちた。息も絶え絶えになっている。
「ロペ? ロペ!」
「ごめんね、恒夜。本当は家まで送ってあげたかったけど、無理だった」
「そんなことはどうでもいい!」
恒夜は、フェガロペトラを抱え上げると、周りを見回す。見覚えがある場所だ。近くに確かビジネスホテルかラブホテルかがあったはず。
フェガロペトラを抱えてその建物を目指した。抱えたフェガロペトラは驚く程軽く、本当にあんなに強い存在と同じ存在なのか疑わしくなる。
恒夜は、記憶の建物がラブホテルであることに軽く目眩を覚えた。でも、仕方がないので、中に進む。
「ちょっ、恒夜! なに考えてんの?」
軽く暴れる、フェガロペトラ。
「つ」
切られた腕に痛みが走った。思わず、顔を歪めてしまう。
「あ、ごめん」
「なにも考えるな。無我の境地だ」
しおらしくなったフェガロペトラをそのまま連行する。部屋に種類があるが、じっくり見てもいられないので一番安い部屋に向かった。驚く程に人とすれ違うこともなく、部屋まで辿り着く。
「人気がなさ過ぎだろ」
恒夜は、フェガロペトラを無駄に立派なベッドの上にそっと降ろした。
フェガロペトラは虚ろな瞳で豊かな胸が忙しなく上下している。かなり苦しそうだ。それでも、強引に上半身を起こそうとするので、恒夜は力尽くでベッドに押しつける。
「確か、吸血鬼って棺おけで寝ないと力を回復できないっていう話なかったっけか?」
ふと、そんな図書館での一節を思い出す。だけど、フェガロペトラの家や恒夜の家はまずマークされていると思って間違いないだろう。棺おけなんて用意している余裕はない。
「そうだけど、大丈夫。わたしは特別なの。
「能力?」
「そう。吸血鬼はなにか一つ、特殊な能力を持っているの」
「寝てれば、良くなるとか、そんな感じか?」
良くわからないが、棺おけに寝なくてもいいのはわかった。
「うん。眠る時間が必要だけど、眠れれば回復は早いんだ」
「じゃあ、寝ろ。側にいてやるから」
「ごめん。……おにゃすみぃ」
恒夜は最初、フェガロペトラの眠る姿を見て、一人幸せを噛みしめていた。顔にかかる髪をそっとよけて、頬に軽く触れたりなんかもして。
だが、さすがに時間が経ってくると、自分を取り戻した。初めは、腕の痛み。良く見たら血がまだにじんできていた。どうして良いかわからなかったが、とりあえずホテルのタオルできつく縛る。痛い。でも、このまま放置する訳にもいかない。
一度、腕に意識が行くとそこがずっと痛み続ける。熱も持ち、それが体幹にも伝播し、気分も優れない。額に脂汗が浮かぶが、フェガロペトラの寝顔を見ていればそれすらも耐えられる。
恒夜にとっての幸せの具現。幸せそのもなのだ。だから、穏やかに眠るフェガロペトラの寝顔はなににも増して、恒夜の心を癒す。
だが、フェガロペトラの寝顔から視線をずらせば、そこには間違いなくラブホテルで、あらゆる物が恒夜の脳内のピンク色を刺激した。よくまあ、こんなところに入れたものだ。自分でも呆れかえる。いったいなにが無我の境地なのか。
というか、どこを見てもピンク色の想像がかき立てられ、そうじゃないのは、フェガロペトラの寝顔だけなのだが、周りを見てからだと、具体的なピンク色の妄想がかき立てられてしまう。
「あー。オレって最低すぎだろ。死にてえ」
ベッドに腰掛けて、うなだれながらそう思うのだった。南無大師遍照金剛南無大師遍照金剛南無大師遍……無理! 好きな子とラブホテルに入ってピンク色の妄想しないやつはおかしい! 異常! 自分は正常! ……そんな自己肯定なんか、虚しくなるだけだった。
それにしても、なんていい顔してるんだろう。見飽きてもいいくらい見てきたのに、未だに惹かれてしまう美貌。雪も恥じらうその白い肌。触れたら溶けて消えてしまいそうだ。
でも、もしフェガロペトラがここまできれいじゃなかったらどうだっただろう。愚問だった。眠りについてるその安らかな顔を見れば、顔の造形などただの付加要素でしかない。それは、誰よりも恒夜本人がわかっていることだ。
朝霧恒夜は、フェガロペトラ・アスィミコラキという人間に惚れている。顔とか性格とか一部分ではない。全体の、無二の存在として好きなのだ。
広いダブルのベッドはフェガロペトラにゆったりと使ってもらって、自分はソファにでも寝よう。さすがに、横に寝る勇気はない。きっと、横に寝ていてもフェガロペトラはなんの不満も不審も表さないだろう。でも、自分たちにはまだまだ早い。
恒夜は、携帯電話の目覚ましをセットして眠りにつく。腕も痛むが、今日一日の疲労がそれすらも飲み込んでくれた。
恒夜を起こしたのは、携帯電話の奏でる音楽ではなかった。フェガロペトラは寝ぼすけで、よく恒夜が起こしにいったものだ。だから、フェガロペトラに起こしてもらう。それはまさしく夢のような話だった。それが今現実のものとなる。恒夜を起こしたのは、間違いなく幼なじみのかけ声だった。
「……きて。起きて、恒夜ぁ」
肩を揺さぶられる。意識が上ると同時に気持ち悪くなった。肩がひどく痛む。
「う、今起きるよ」
起きてみると、フェガロペトラは今にも泣きそうな顔で恒夜を覗き込んでいた。その様子に残った眠気は一瞬で霧散する。
「ど、どうしたんだ、ロペ?」
「大丈夫?」
「ああ、大丈夫だけど?」
「起きてみたら、恒夜がうなされてて、汗もめっちゃくちゃかいてて、でも、どうしていいかわからなくて。よかったよ~」
フェガロペトラが安堵の表情を浮かべる。
確かに、夢見はよくなかったかも知れない。でも、よく覚えていない。たぶん大したことじゃないんだろう。それよりも、彼女の悲しそうな顔の方がよほど記憶に焼き付いた。
「いや、オレは全然大丈夫だよ。それより、おまえの方は大丈夫なのか?」
「わたし? わたしは、単なる魔力切れだから。寝てれば解決する問題だもん」
「そうか。よかった」
心底安堵した。
「ぷ」
その恒夜の顔を見て、フェガロペトラが吹き出した。
「どうした?」
「わたしたち、自分のことよりもお互いのことを心配しあって、なんか変なの。悪い気分じゃないけど」
悪い気分じゃないどころではない。最高に嬉しい。思い合えるという行為自体が喜ばしい。ちょっと前には、永遠に失われてしまったと思っていたことだから。
「さて、いくつか、準備しないとね」
「準備? なんの?」
時計を確認するがまだ夜明け前だ。
「たがやんを取り戻して、黒幕と決着をつける準備」
「そ、そうだ! 多賀谷! いつっ」
腕に鈍い痛みが走る。
「大丈夫!?」
「あ、大したことないさ。多賀谷が置かれている状態に比べれば」
「そうね」
そういったまま黙ってしまうフェガロペトラ。恒夜は少し考えて、口を開く。
「なあ」「ねえ」
二人同時だった。
「な、なに?」
フェガロペトラは、なにか言いづらそうだ。
「いや、昨日のことで、一つわかったことがある。人飼の野郎は、一流の人殺しかも知れないが、あいつにはオレを殺せない。だから、突っ込んだら狼狽してた」
「うん」
「だから、結論だけを端的に言うならば、オレも戦う」
真剣な面持ちで、フェガロペトラは、恒夜の顔を見つめている。
「なんだよ?」
「いいの、ちょっとした嫉妬だから」
「よくわからないが、おまえの心配してるようなことはなにもないぞ?」
「だから、ほっといて」
わずかばかり、照れながら言うのがまたかわいらしい。
「ああ」
少し声がうわずった。恥ずかしい。
「で、本題だけど。わたしもそれをお願いしたかったの。人飼の人でなしはわたしがなんとかするから、たがやんを足止めして」
「ああ。だけど、このままじゃ戦いにならないから、魔法でなんとかして欲しいんだけど……」
「わかってる。でも、わたしは前にも言ったけど基本的に自分にしか魔法がかけられないの」
俯く、フェガロペトラ。だが、落ち込んでいるというより、なにか言い出しにくいといった雰囲気だ。もじもじしている気がする。激しくかわいい。
「あ! あのね……」
「うん?」
「わたしが他人に魔法をかける方法が二つあるの」
「なんだよ。なんでもやるよ、オレ」
また、一拍開く。
「わたしの血を飲んで欲しいの」
「え?」
「わたしは、わたしの血を媒介に魔法をかけることができるの。だから、わたしの血を飲めば魔法を一定時間かけることができる」
「じゃあ、それで行こう」
だけど、フェガロペトラは歯切れが悪い。
「……吸血鬼って、どうやって増えるか知ってる?」
「え、血を吸われたら吸血鬼になるんじゃないのか?」
「そんなんだったら、世界中が吸血鬼だけになっちゃうでしょ」
「まあ、言われてみれば。じゃあ、実際はどうなんだ?」
「わたしたちは、血を与えることで仲間を増やすの」
「与える? ってことは、飲ませてってことか?」
黙ったまま、フェガロペトラは頷いた。ということはだ。
「さっきの作戦で行くと、オレは吸血鬼になっちゃうってことか?」
「その可能生もあるということ」
可能性? 人間に未練はある。でも、それは今この状況を放って置いても縋り付くことだろうか。
「そういえば、多賀谷って人間に戻れるのか?」
「わからない。なにを飲んだかも知らないの」
「そうか」
また、沈黙が二人を包む。
「いいよ。それで行こう」
恒夜は、努めて気楽に言ったつもりだ。
「そんな簡単に……」
「簡単に、か。そうかもな。オレは、おまえがいてくれればそれでいい。だから、おまえの血族になることになんの躊躇いも覚えない。それに、オレが吸血鬼になれば奇跡の血とやらを狙われずに済むようになるんだろ?」
実際は、人間でいることに未練がある。それは、学校の友人たち。彼らと別れるのは少し残念だ。でも、フェガロペトラがいることには、勝てない。でも、揺らぐくらいには、友達は大事だった。
「そうかもしれないけど……」
「友達が苦しんでいるのに、ほっとけない」
「でも、たがやんは、どうやったって救われないよ?」
「いや、あいつなら強く生きてくれる。オレが好きだった多賀谷はそんな女の子だ」
フェガロペトラが、あからさまにむっとした顔をした。
「ああ、いや。飽くまで友達としてだぞ?」
「わかってるけど、なんかいや。馬鹿」
「わりい」
ちょっとの間、フェガロペトラにじと目で睨まれた。
「で、本題だけど」
「お、おう」
「血飲ませ方で、一番楽なのが、あの、その。あれなのよ」
フェガロペトラがしどろもどろになっている。竹を割ったような性格なのに、上手く割れないこともあるんだな。
「あれってなんだよ。夫婦じゃないんだから、あれとそれでじゃわかんないって」
「う、うるさい! わたしにだって恥じらいというものぐらいあるんだから!」
フェガロペトラは、その先を言おうとして、口をぱくぱくさせていた。でも、口を閉じて目に覚悟を決めた色が灯る。
ずいっと寄ってきて、恒夜の顔を両手で挟み込んだ。そして、上へ向ける。
「痛い痛い、首がもげる!」
「黙ってて!」
フェガロペトラが顔を近づけてくる。おいおいおい。まさか。
このまま顔が近づいたら、どこかとどこかがぶつかる。フェガロペトラが首を少し斜めに向けた。恒夜の頭も少し傾けられる。
近づく顔と顔。かかる吐息。恒夜はどうして良いかわからず、息を止める。
まさに、そのまさかだった。
二人の唇がそっと静かに、重なり合う。
柔らかい。ぽーっとしてしまってそれ以上の感想なんてなかった。唇が、顔が離れていく。頭の中は真っ白だった。
一つだけ思ったのは、惜しい。もっともっと味わっていたかった。
「ふふん」
目に映るのは、なぜかしてやったりという顔のフェガロペトラ。ものすごくやり遂げた人の顔をしている。
「あー……」
いつかはこうなりたいと願っていたが、あまりに唐突にそのときが訪れて茫然自失の体の恒夜。
「ちょっと、いつまで呆気にとられてんのよ?」
小突かれて、はっと、我に返る。
フェガロペトラは、ものすごく余裕があるように見えた。初めてじゃないのか? いや、これは完全に彼女だからの余裕だ。それくらいはわかる。
勝ち気で、リーダーシップ取りたがりの彼女のことだ、自分からやらねば気が済まなかったのだろう。
「お、オレの初めてが……」
わざと、悲愴な声を出した。
「え、まさか、いやだった? ごめん……」
慌てるフェガロペトラの肩を掴み、もう一度引き寄せると、もう一回キスをした。
「なんてな。いやな訳あるか」
「うぅぅ。この馬鹿!」
思いっきりのいい、平手打ちをお見舞いされた。
「で、このキスがなんの意味があって?」
叩かれた頬をさすりながら、恒夜は聞いた。
「意味がなくちゃ、ダメだったとでも言うの?」
ぎろりと睨まれる。
「すいません。全然そんなことありません」
恒夜は、ソファの上で正座をする。その背筋をぴしっと伸ばした。
「これを経由して、血を飲んでもらうの。その、初めては、気持ちのこもった感じでしたかったから……」
あーもう、かわいいなぁ。でも、もうちょっと、やり方は考えて欲しかった。首がもげそうになるシチュエーションでとは。
「うん、じゃあ。それでいいよ」
キスできるなら、何度でもこいや! という感じだった。
時間的にはまだ夜明け前なので、今ならフェガロペトラも安全に移動できると思う。
「早い内にここを出よう」
恒夜は、精一杯フェガロペトラのことを気遣っているつもりだ。
「ねえ、恒夜? せっかくだから、ここ使ってみる?」
なのに、当の本人は、くすくすと底意地の悪い笑みを浮かべている。
「あんまりからかわないでくれ」
割と本気の声でいった。好きな人の衣擦れの音で一つ妄想できる人種だぞ。
「からかってないよ?」
ぼそりといった。それって。
「まあ、順番というものがるよね」
順番? 恋愛における順番なんてよくわからないが、フェガロペトラが今はそういうときでないと言っているのはわかったので、おとなしく従うことにした。
作戦を立てる。その一環で、最終手段として、フェガロペトラに魔術を施された。
ホテルからびくつきながら出ていくとそこには日常があった。今日は、月が遠くに見える。涼やかというよりかは、冷たい風が二人を撫でていった。
「うー、さみい」
恒夜の肩の傷は、まだ痛むが、どうしようもないので、痛み止めを飲むことで誤魔化していた。そこに少し寒さが響く。
「みぃつけた♪」
人飼が楽しそうに、ホテルの裏の路地で待ち構えていた。日常終了の瞬間。
「人生最初で最後のお楽しみはどうだった? いや、逃げてやってることがにゃんにゃんとは。最近の若者なんだね」
思いっきり、茶化された。次の瞬間、人飼は姿を闇に溶かす。
後ろから、フェガロペトラの首を狙ったナイフが走った。それを、フェガロペトラは、バックステップで回避すると、その腕を握って、振り回す。
「おおおいぃぃ?」
恒夜は、狭い路地での突然の暴風に焦った。その場にしゃがみ込んで、それから逃れる。ナイフを持った腕から人飼の体が引っ張り出された。
「ふん、発想が陰湿な上に、安直なんだよ」
「く」
人飼は、いいだけ振り回された後、ホテルの壁に投げつけられた。だが、きちんと受け身を取っている。
「おい、たがやんはどうした?」
「ふふふ、どうしたと思う?」
まさか、この男、多賀谷になにかしたのか。いやな、汗が恒夜の背中を伝う。
「いいから、たがやんを出せ」
フェガロペトラはなにかを看破している様子だ。
「そうか、僕の能力はもうばれているんだね」
「
「ばれちゃってるか。まあ、向こうの世界に大事にしまってあるから大丈夫だよ」
人飼は、空間に腕を突っ込むと多賀谷を引っ張り出した。
「多賀谷!」
だが、多賀谷は、ぐったりとして動かない。でも、胸は上下している。生きてはいるようだ。
人飼は、地面に彼女を座らせると、背中から気を入れてやった。
「う……」
多賀谷は、目を覚ます。
「いや、あの後、非常に暴れたんで向こう側に閉じ込めてたんだ。さあ、怪物は目覚めのときが来たよ! 君の欲しいものは目の前だ!」
「う、あ、朝霧?」
「ああ、朝霧だ。オレがわかるか?」
「トモギリ? ダレ? わからないぃ!」
彼女は、苦しそうに胸を掻きむしる。
「多賀谷ぁ! 人飼、貴様ぁ!」
「あ、かなりまずいね。この薬は未完成だから、早くしないと、不味いかもね」
どこか状況を楽しむかのような言葉。それが、恒夜の最後の堪忍袋の緒を断ち切った。
「ロペ! オレに力をくれ」
「吸血鬼にでもなろうというのかい? おいおい、それは困るよ」
どこか嘲笑の籠もった声。知ったことか。
「まあ、今の貴様をぶち殺せるなら、それも悪くない」
殺意を込めて、睨みつける。
「転身したてに、殺られるほど甘い世界に生きてきてなどいないさ」
きりっと引き締められた表情には迫力がある。
「関係無い。貴様は、オレがぶち殺す!」
「結局こうなるのね」
フェガロペトラは、横で嘆息している。人飼はフェガロペトラの担当だったはずだ。でも、こうなることは予測済みだったのだと思う。その証に、いろいろ対策を施してもらっていた。
その怒りを受け止めた上で、恒夜に近づき、口移しで血を飲ませる。柔らかい唇。鉄さびの味の他に、心なしか甘い味がする気もする。その後、フェガロペトラは口の中でなにかを呟く。呪文かなんかだろう。
「よ、お熱いねご両人!」
人飼の揶揄など無視。
力が、腹の底から湧いてくる。自分が自分ではないような感覚。握る拳がいつもより力強い。軽く跳ねてみるが、普段よりも体が軽い。いける気がする。
フェガロペトラは横でもう一度ため息を吐いた。もうこなった恒夜を止めることはできはしない。戦斧は出さずに、多賀谷を見据えている。
恒夜は、怒りの勢いで爆ぜるように、人飼に飛びかかった。人飼は、ナイフを逆手に持ち直して迎撃する。
だが、そんなもの怖くなかった。なぜなら、怒りで頭が真っ白になってたからだ。
「人飼ぃ!」
恒夜の攻撃は鋭く、早く、正確なのだが、いかんせん相手も
それでも、合間を縫って脅しでかけてくる牽制的な攻撃。そんなものはことごとく無視。それらが、恒夜の薄皮を斬り裂くが、致命打にはほど遠い。動きにも支障はない。
目に近いところをナイフが通った。さすがの恒夜も反射的に避ける。
「く、ここまでやるとはね」
距離を取った人飼が余裕があるのかないのかわからないことを口にした。
「人間てさ、手足なくても血は作れるよね?」
かけていた、サングラスを取り去り、丁寧に胸ポケットにしまう。気持ち悪いくらいに人の良さげな糸目が露わになった。
「ちょっと、本気だしてもいいかな?」
「く」
これ以上の力を隠し持っているというのか。それは正直きつい。だが、やらねばならない。人飼から滲み出る殺意を、気迫で押し返す。全気力とフェガロペトラの力、それと友達を思う力、それらを束ねても少し足りないくらい。だが、この前みたく圧倒的に負けている訳ではない。戦える許容範囲内だ。
恒夜は、左手で右手首を握った。当たれば勝てる。フェガロペトラを信じていた。
人飼の踏み込みは早く、追い切れない。そこから繰り出されるナイフも鋭く、捌ききれるものではない。だが、直撃は逸らし、なんとか持ちこたえる。
人飼は、そう大きくもないナイフを斬るように使っていた。それを、急に突くように振るう。その変化に驚きながらもなんとか避ける恒夜。線から点になったことで、見づらくなった。
容赦なく手足の自由を奪いに来ている。その代わり、狙いがわかりやすくなった。恒夜は、左腕への突きに対し、防御を捨てて、渾身の右アッパーを放つ。
両者の一撃は差し違える形で、お互いに食い込んだ。
「でも、僕は人間じゃないからね。そんな攻撃、当たったところで……ごふ! なんだ、この攻撃力……」
人飼が膝をつき、吐血した。内臓をやった、鮮やかな赤が吐き出される。
恒夜は、腕をまくり、そこに描いてある紋様を見せた。魔法を物に刻む術を魔術という。フェガロペトラはその知識を持っていた。キス以外にも魔法を貸す手段の一つだ。
「し、白木の刻印、だと? そうか、ストリゴイカは、魔女が多いんだったね」
腕には吸血鬼退治に使われる白木の杭をイメージした対吸血鬼用の攻撃力増強の魔法の紋様が刻まれている。四分の三吸血鬼なのが仇となった形だ。
人飼は、なんとか立とうとするが、膝ががくがくと震え、上手く立てなくなっている。まるで生まれたばかりの子鹿のよう。でも、同じ原理だ。立てなきゃ死ぬ。
「まあね」
フェガロペトラの自信に満ちた返事。
「もういいか? 死ねよ」
右腕を振りかぶる。
「あ、待って!」
フェガロペトラが止めに入った。
「なんだよ?」
「ちょっと、そいつにはまだ働いてもらわないといけないの。それより、たがやんをどうにかしないと」
多賀谷は、近くの石塀に突っ込んで、動きを止めている。だが、きっと大したダメージじゃないんだろうと思う。戦いにおいて鮮血の戦乙女が後れを取る訳もないだろうし。
「じゃあ、ビジネスの話は、おまえに任せた」
恒夜は、多賀谷の元に歩み寄る。砕けた石塀から多賀谷が身を起こした。
「うぁぁあぁ……あぁ!」
多賀谷は、苦悶を吐き出している。もう自分がなにをしているのかも判然しない状況なんだろう。目は虚ろで、どこを見ているのかもはっきりしない。
恒夜は、飛びかかってきた多賀谷になにもせずに受け入れた。多賀谷は、血の流れた左肩に噛みついてくる。恒夜はそれさえも受け止めた。
「恒夜!」
フェガロペトラが叫んで、駆け寄ろうとした。だけど、それを手で制する。
「ごめんなぁ、多賀谷。おまえを受け入れることはできないけど、せめて血ぐらいは分けてやるよ」
恒夜は、短くカットされた頭を包み込んでやる。
恒夜の血を受けて、多賀谷は不死身の力を得るのかと思った。だが、そんなことにはならず、多賀谷は、動きを止める。
「と、朝霧? あたしは、なにを?」
多賀谷は、正気を取り戻した。噛みついていたのを、驚いている。
「多賀谷! オレがわかるのか?」
「ワカル? なにを? おまえは朝霧で……。あああ!」
「落ち着け。多賀谷! なにもない。ちょっと、悪い夢を見ていただけなんだ」
多賀谷は、恒夜との距離が近いのを気にしてか、一歩、二歩下がり、足を絡ませ、尻餅をつく。
「うああぁぁ!」
頭を抱えて、身を反らすとそのまま地面に倒れ込んだ。恒夜は、手を貸そうとしたが、多賀谷は気を失っていた。気絶した多賀谷を抱き起こして、別の場所に移す。
「さて、そのクソ野郎にはどんな仕事をさせるんだ?」
「黒幕を呼び出させる」
「ふふん、依頼人を僕が裏切るとでも?」
「三百用意する」
「なんでもやろうじゃないか」
目の色を変えてやる気を出した人飼を、恒夜は思いっきり蹴り飛ばしたくなった。
「一応おまえのメンツは立てさせてやるよ」
今後の細かい打ち合わせをして、人飼だけを解放した。
夜に静寂が戻ってくる。本当に静かな夜だ。寒々しい空気に包まれ、そっちからも静謐を感じる。
「あー、オレ吸血鬼にはなってない?」
「なる訳ないでしょ。恒夜は人間として生きて、人間として逝くの。それは絶対」
「じゃあ、あのときの脅しはなんだったんだよ?」
「覚悟を聞いただけ」
あっけらかんと言い放つフェガロペトラ。そういうことか。でも、もしかしたら可能性はあったのかも知れないけど。
「ねえ、あんたはこんな目にあっても、まだわたしを選ぶ? ななちゃんやたがやんを選んだ方が幸せだよ?」
「それは、誰基準の幸せだよ。オレの幸せは、おまえと共にある」
フェガロペトラがさすがに目を潤ませた。
「ごめんね、ごめんね」
左肩の傷をさすってきた。まだ血の流れる腕にフェガロペトラは、自分の唾液を手に取り、撫でてくる。
「なにしてるんだ?」
「吸血鬼の唾液には、強力な止血効果があるのよ。でも、これは傷として残るかも」
「なに、男の勲章さ」
次に、フェガロペトラは、倒れた多賀谷の元にしゃがみ込み、体を触った。
「うん、筋肉痛には悩まされるかも知れないけど、大丈夫そう。恒夜の血ってこういう効果もあるんだね」
「友達の役に立ってなによりだ」
帰り道。多賀谷を背負った恒夜とフェガロペトラがのんびり歩いていく。
「いいのかな、人間じゃないのにこんな幸せになって」
しみじみとそんなことを口にした。
「なんで、吸血鬼が不幸じゃないといけない訳? そっちの方がおかしいだろ」
「うん、あんたが恒夜で本当、良かったよ」
意味はわからなかったけど、とりあえず、良かったらしいので良かった。
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