05.

 かくしてXデーはやってきた。本日は、快晴。晴れてても若干肌寒いが、恒夜が我慢すれば良いだけのことなので、気にならない。まさに、デート日和と言えるだろう。

 そう思っていたときが恒夜にもありました。フェガロペトラを見た瞬間、それが人間的に見てというのを痛感する。

 いつもの胸元の開いた黒のシャツに、茶のゴシックのスカートを合わせ、黒のニーソックスを履いている。足下は、茶のブーツ。それらを、赤のダッフルコートで纏め上げている。ここまではいつもと違って、スカートに新鮮味を感じたりした。

 でも、台無しという言葉は不適切かも知れないが、いかにも太陽がダメですというのが表情に出てしまっている。顔面蒼白で、目の下には隈すら浮いていた。コートのフードを目深に被っていてなおその白さは目立つ。

「やっほー」

「お、おう」

 こんなに元気のないやっほーを聞いたのは生まれて初めてだろう。いつものフェガロペトラからは考えられないくらい覇気がない。でも、根性からくる熱気だけは窺える。

「おまえ、そんなんで大丈夫なのか?」

「エ? ナニガ?」

 セリフが、超棒読みになっている。演技なんてできない性格なのだ。明らかに無理をしてることを強調しかしていない。

 昔は、宿題を忘れても言い訳せずに、笑い飛ばしていたのに。それが漢らしくて、憧れた時期もあった。でも、結局真似できずに、フェガロペトラはすごいという結論にいつも至る。

 そのフェガロペトラが、まったくと言っていい程、無理を通せていない。道理が引っ込んでいないのだ。

「陽が落ちるまで待つか?」

 今は、朝の六時。陽はまだ昇りたてだ。沈むのを待っていられる時間ではない。だけど、フェガロペトラの辛さは見ているこちらも苦い。

「いいの。わたしは、どこだろうと行く」

 そう言いだしたら、聞かないのがフェガロペトラという女の子だ。こうなったらサハラ砂漠の真ん中でも行くというだろうし、即行動を開始、実行する。パワフルに牽引するところは、貨物列車の先頭車みたいだった。決めた線路の上を融通も利かずに直進する辺りも含めて。

「で、どこいくの?」

 心なしか、挑戦されている気がする。なんで、挑まれなくちゃいけないのか。さすがに朝早すぎたかも知れない。

「まず、汽車に乗って移動する」

「どこに?」

「行ってからの秘密」

「乗車券買えないんだけど?」

 ぴっと、二枚の乗車券を差し出す恒夜。こんな日のためにこつこつ貯めたお小遣いがある。結構な金額になったが、気にするものか。夢に投資するのは男の浪漫。

「えっと、美作経由で、登川?」

 恒夜から、切符を受け取ったフェガロペトラは、さっそく行き先を確認する。そういう卒のないところも、また魅力的だ。あまり、好評ではない反応。気合い入れすぎたかな?

 ちなみに、美作市は北の大地の中心地で、人口二百五十万を抱える大都市である。恒夜たちの住んでる忠別市とは雲泥の差だ。汽車で、一時間半かかる。

「まあ、そういう訳だから、三時間ちょっとかかる。ゆっくり話でもしよう」

「ん。恒夜が望むなら、それでいいよ」

 フェガロペトラが、新しくなったばかりの忠別駅の中に若干ふらつきながら入っていった。大丈夫なのか、本当に。まるで、幽鬼を見ているみたいだった。

 汽車には、あまり乗客がいない。始発の列車だから、朝一番で仕事ある人たちがいるのかと思えば、そうでもないらしい。考えてみれば休日の始発だからかも知れない。

 車両に乗り込み、まず席を確保。陽の当たらない側の廊下側をフェガロペトラに勧める。一応、陽の入ってくる方のブラインドは下ろさせてもらった。

 もうこの段階ですでにぐったりとしてるフェガロペトラ。本当に大丈夫なんだろうか? ものすごく心配になる。

 元気のないフェガロペトラなど以前なら想像もできなかった。彼女は風邪を引いた状態で球技大会に出場し、クラスを優勝に導いたという武勇伝を持つくらいだ。なになら、彼女を大人しくさせれるか、高山たちと真剣に議論したことさえある。

「で、なんで六時集合だった訳? ふわーぁ」

「ずいぶん、大きなあくびだな」

「うにゅ。すまんこってす」

 うにゅってなんだよ、うにゅって。普段とギャップありすぎだろ! 眠いからか隙だらけだし! かわいすぎるだろ! なんだこの生き物。恒夜の興奮のボルテージは早くも上がり始めていた。

 良く考えれば、夜起きて昼寝てる生活が基本にありそうだから、仮眠程度しか取れないのかも知れない。かくいう恒夜も昨夜は興奮気味で、寝付きが悪かった。

「いや、六時にしたのは、早くから出れば一日中、一緒にいられるかなと思った訳で」

「む。そういうことでしか。恒夜のそういう健気なところは評価したいと思いまし」

 なんか、言葉おかしくなってるし。こんなキャラクターだっただろうか。珍しいものを見ているのは確かなんだけど。

「昨日、遅かったのか?」

「ん~? 遅くも早くもないけど」

「ちょうどいい時間に寝たってこと?」

 相変わらず豪気な性格ですこと。

「んーん。一睡もしてないでし」

「なぬ?」

「だって、いつも寝るのは陽が昇る直前でし。そこで寝たら遅刻確定だったから~」

「じゃあ、集合時間に文句言ってくれよ」

 声には呆れが混じった。

「いーのー。わたしだって、恒夜と一緒にいたかったんだもん」

「そっか」

 嬉しいことを。一度気持ちを交換しておいたのは、正解だったかも知れない。それが、例え、一度死んで吸血鬼になろうとも。不誠実な考えなのはわかっている。でも、こうやって喜びを感じると捉え方も肯定的になってしまう。

「じゃあ、短いけど、美作に着くまで寝てろよ」

 このとき、汽車がのんびりと動き出した。

「んー。でもぉ、寝たらお話しができないでしよ?」

 段々、酔っぱらってきたみたいになっている。

「いいよ、今日は時間がたっぷりとあるんだから」

「うー、恒夜が言うなら寝るー」

 どうしたんだろう? 本当に素直でかわいいぞ。これは対処に困る。にやけ顔が止まらない。

 フェガロペトラは、大きなあくびをもう一つして、恒夜の肩にもたれて眠ってしまった。本当に眠かったようだ。

 恒夜は、その無防備な表情を見て、悦に浸っていた。改めて見ても、フェガロペトラは、掛け値なしの美人だ。こんな美人と両想いで良いんだろうか。幸せすぎて、不安すら覚える。

 見た目だけではなく中身に惹かれているというのも重要だ。勝ち気で、大雑把で、言い出すことは破天荒だけど、仲間思いで、義侠心に溢れた女の子。多少、苦労させられることもあったけど、楽しい日々だった。

 巡り巡ってフェガロペトラ自身が吸血鬼となって日常の輪廻から外れてしまったけど、それすらも彼女の人生を見ていると、結局は行き着く結論だったようにすら感じる。人間という規格では収まらないという意味で。

 大きな人格には大きな器が必要なんだと思う。フェガロペトラの場合、ご両親も吸血鬼だったようなので、こうなることは、生まれたときから決まっていたのかも知れない。だけど、それを知らなかった恒夜から見ても当然だったと感じるくらいだ。

 確かに、吸血鬼は恐ろしい。最近は、襲われてもいないので実感が薄まりつつあるが、恐怖である。いわゆる化け物なのだ。でも、この寝顔を見てる限り人間とわかり合えるとさえ思うのだ。

 そんなことを考えつつ、一時間半はあっという間に過ぎてった。名残惜しいと思いつつ、フェガロペトラを起こす。これから乗り継ぎをしなくてはならない。肩を揺さぶって起こすと、とても気怠げにフェガロペトラは目を覚ました。その所作があまりに色っぽくてまた、心臓が高鳴る。体を伸ばしている様など豹のようなしなやかで獰猛な動物を彷彿とさせた。

「うーっ……と。おはよう、恒夜」

 ぱぁっと咲く大輪の花。まさしく向日葵。冬の向日葵だ。

「ああ、おはよう。随分顔色良くなったな。まだ白いけど」

「そりゃ、雪を欺く、鬼も十八ですから」

「良く意味はわからないけど、自画自賛なのはわかった」

「一応、自虐ネタんだけどね」

 苦笑する、フェガロペトラ。なんだろ、今日始まってから何度心ときめかせているんだろう。十年以上の付き合いで、今更だと思ったけど、でも一層光り輝いて見える。

「そうなのか。珍しい」

「なんだか四六時中、自画自賛してるみたいに聞こえるんだけど?」

 ちょっと、拗ねたような声音だった。

「いや、自分については、あまり言わない方だから、自虐にしても自画自賛でも珍しいなと思っただけだよ。だから、拗ねんな」

「こーや。喉渇いた」

 半命令的な呟き。完全に拗ねてしまう前に手を打てということだ。

「はいはい」

 こういうときのフェガロペトラには、逆らえるやつはいない。

 朝の七時半の弱い日差しに晒されて、それを目を眇めながら、憎々しそうに見ているフェガロペトラは艶色あふれるいい女だ。恒夜は、思わず心奪われてしまった。

「どーしたの?」

 そう笑いかけてくるフェガロペトラの笑顔は、間違いなく恒夜だけに向けられたもので、なにか邪な考えが頭をもたげた。独占欲といわれる感情だと思う。

「いや、我ながら朝早くから計画立てちまったなと思って」

 でも、この美作の地においては完全に恒夜だけのものだ。それは間違いない。

「本当、まだ眠いよ。あふあふ」

「はい、ミルクティー」

「ありがとー」

 まだ乗り継ぎまで少し時間がある。話していたいとも思ったが、今は眺めていようと思い直した。缶ジュースを飲むフェガロペトラ。特別なシーンではない。でも、なぜか、心には変な焦りが芽生えていた。焼き付けておかねばならない気がしたのだ。

 白い吐息を棚引かせながら、ホットの缶ジュースを飲むフェガロペトラ。その何気ない中にある健気さに心惹かれている。くさすぎて言葉にはできないけど。

「なぁに?」

「なにが?」

「じっと見つめて。まさか、今更になってわたしの魅力に気付いたとか? 節穴にも程があるでしょ。でも、そっかー、いや、まいったなー」

 艶然とした笑みではなくて、からかうような無邪気な笑み。早く突っ込めと表情が急かしているように思えた。

「そうなんだ。もう、おまえから目が離せなくて。どうしたらいい?」

 だから、わざと持ち上げてやる。

「ふーん」

 目を細めて、恒夜を見つめてくる。今度は艶のある顔だ。

「じゃあ、恒夜はわたしだけをずっと見てればいいよ」

 全然持ち上げた効果がなかった。吸血鬼に転身する前なら、照れて二の句が継げなくなるところなのだ。

「あ、汽車が着いたよ」

「あ、ああ……」

 こっちの二の句が刈り取られてしまっていた。

 こちらも汽車があまり混んでいなかったので、陽の当たりにくい方を選び座った。あれだけの睡眠時間でなんとかなったのだろうか、フェガロペトラはものすごく元気になっている。

 これなら、話をしても差し支えはなさそうだ。

「なあ、大事な話がある」

「え~、今しなくちゃいけない話?」

「いや……。でもいずれしなくちゃいけない話だ」

 フェガロペトラは、少し視線を下げて悩んだ後、顔を上げた。

「じゃあ、後回しにしよう。今は、少しでも楽しんでいたいから」

 なんだろう、一種の必死さを感じる。こんな日、望めば望むだけ繰り返せばいいのに。

「わかった。じゃあ、なにが見たいか決めといて」

「どこに行くのか聞いてないんだけど? わたし、時代村とかは嫌だからね。陽の当たるところは勘弁して欲しいな」

「ほい」

 一冊の本を渡す。もちろん、フェガロペトラが嫌がるようなところを選ぶはずがない。朝のうなだれようを見ていたら、太陽の下に出るところじゃなくて本当に良かったと思う。ファインプレーだ、自分。

「おおー、マリンワールドカストロだ!」

 そこのガイドブックを見て、目の色を変えて本に見入るフェガロペトラ。喜んでくれてるよな? 良かった。とりあえずは、成功かな。

「うーん、水族館だから、イルカとペンギンは抑えておこう。後は……イワシかな」

「ほうほう、マニアックなところに目を付けますな」

「うん。ってなにその口調、変!」

 フェガロペトラは、声を殺して笑っている。

「良しっ」

 もうなんでもいいよ。フェガロペトラが楽しそうにしてるなら。

「はー、おかしいー」

 すっかり脱力している。目尻に涙まで溜めて。うん、いいんだ。いいんだよ。

「でも、イワシ一万匹は見てみたいよね。迫力ありそう」

「そうだな。あと、オレ的にはシーラカンスの展示も覗いておきたいかなぁ」

「あー、なんか気が合いそうだよね」

「なんだそれ! 好きそうとかならわかるけど、気が合いそうっていう相づちは初めて聞いた」

「うん、初めて言ったかも」

 また、そういって笑い始める。もう、自家生産かよ。いや、楽しそうでいいんだけどね。

「なに? すごい達観した顔してる。もう、子供を見守るおばちゃんみたい。恒夜がおばちゃんとか、超うける!」

「あー、悪いごはいねえか。悪いごは、おばちゃんのケツ叩きが火を噴くでえ」

「えー、なにそれ? おもしろくないー」

 とか言いつつ、笑っている。もう、あれだ。きっと、箸が転んでもおかしい年頃なんだろう。一挙手一投足笑われているのはさすがに、きつい。

「ほら、ちゃんと漫才続けなよー」

「してねえ。オレは、最初からびた一文漫才なんて披露してない。しかも、相方不在とか、どんな漫才だよ!」

「うーん、あんたはお笑い向いてないかもねえ」

 誰のかもわからない物真似調に評論家ぶって、笑っている。あー、もうどうにでもなれ。

「そうですか、オレお笑いに向いてませんか。いや良かった、これで、ネタまみれの人生から抜け出せるっちゅうことですな。いや、ネタまみれなのは、あんたの勘違いやで。だって、現におもろくないないんですもの。それは、ネタじゃないでしょ」

「まったくだ」

 真顔で、頷くフェガロペトラ。どうしよう、本格的にお笑いのセンスがないみたいだぞ。あんなに笑っていたのに、笑わそうとし始めたら真顔とか。どんなプレーだよ、それ。泣きたい気持ちとはまさに、このことだ。

「この心の汗は、売れない芸人たちに捧ぐ」

「なになに、心の汗って? 冷や汗? そうだよね、舞台の真ん中で失笑すら買えないなんて悲惨だよねえ」

「心の汗は、涙だよ! しかも舞台に立ってんじゃない、立たされてんの。ド素人が!」

「たぶんだけどね。日常で面白いといわれてる人の方が、恒夜の芸より面白いと思う」

 その真顔で人を切るのは止めて欲しい。なんだか、本当に自分が悪い気がしてくるから。

「だ・か・ら。オレはいつ芸人なったんだよ。におわせたことすらねえぞ」

「昔の恒夜は、もっと芸人魂にあふれていたのになぁ」

「あふれてないから! いつも、人生送ることで精一杯だったから!」

 生きた暴風に振り回されていたんだ、生き残ることで必死だった。でも、楽しい日々だったのは間違いない。

「そっか、追い込むと面白いことをするのか、恒夜は」

 そっと、耳元に口を寄せてきて囁いてくる。吐息が耳にかかり、体中に電撃が走った気がした。

「いっぱいいっぱいの恒夜。かわいいぞ」

 戦慄を感じたときと同じ、鳥肌が立ちすくみ上がるような感覚。でも、こちらは余韻が甘ったるくて気持ちがよい。

 耳たぶを甘噛みされた。思わず飛び上がりそうになったがとどまる。だけど、驚いてびくついたのは誤魔化せそうにない。

 魔性の女よろしく、くすくすと、オレの珍態を見て笑っている。うん、このフェガロペトラは知ってるフェガロペトラだ。こういう悪戯を彼女は好む。こう言うときは、女の子だなと思うし、自分も彼女を女性としてみてるんだと強く感じられた。

「あ、まさか。おまえさ、今までもこういう悪戯してきたの、わざとか?」

「ナンノコトカナ?」

 目を逸らしながら、下手な芝居を打った。やっぱりか。

 なんのことはない。これがフェガロペトラ流のアプローチだったのだ。自分を異性として意識してもらえるように、わざと女性の部分をアピールするようなことをしてきたという訳。意識というか、忘れられないようにといった方がいいのかも。

 恒夜は、馬鹿やってるときでも、彼女が女性であることを忘れたことなどない。

 そうなると、二人はずっと、お互いを意識し続けてきたことになる。それをお互い言わずに来たから、気付かずにフェガロペトラが死ぬという一大事になるまで明かせなかった。なんという鈍重さ。もっと、恒夜がそういうのに聡ければ良かったのだ。

 失ってからでは遅いというのが今回の一番大きな収穫だろう。幸運にも失った彼女をもう一度、取り戻すチャンスにも恵まれた。こんなリテイク世の中に存在しないだろう。

 大事にしよう。心の底から、思った。

「なに、悟った顔してるのよ?」

 今度は、恒夜が耳元で囁く番だ。

「おまえって、かわいいよ」

 フェガロペトラの顔が赤くなるのがわかった。この囁き作戦は、結構強いかも知れない。

「ば、馬鹿じゃないの! そんなの自明の理ってやつよ! まるで道化ね!」

 あのフェガロペトラが、余裕もなく逆ギレしている。そんな彼女も新鮮だ。

「でも、あんたはそうやって、一生、道化でいて欲しい」

 急に、声のトーンが落ちた。前を向いたまま少し視線が下がっている。

「ど、道化? ピエロのことか?」

 いくらなんでも、ひどくないだろうか。

「道化師はね、外国ではクラウンと呼ばれて、古くは王様にすら意見を許されたという、すごい職業なんだよ。わたしが、吸血鬼だってばれて、周りから浮いても、恒夜だけはわたしに刃向かって」

 そういうことか。

「面白くない人間に道化師が務まるとは思えないけどなぁ」

「いいの、あんたの面白さは、わたしにだけわかれば。わたしだけの道化師でいて」

「ロペ……」

「ごめんね! なんか暗くなっちゃったね!」

 急に明るい雰囲気を作ろうとするフェガロペトラ。恒夜もそれに乗っかった。

「あー、イワシ楽しみだなぁ!」

「そ、そうね!」

「……」

「……」

 でも、しゃにむにな雰囲気作りは上手くいかず、二人は黙ってしまう。

「オレは、どんなことがあっても、おまえを特別扱いするけど、奉ったりはしない。もちろん、意味もなく畏れたりもしない。ロペはロペだって信じ続ける」

「うん、ありがとう」

 フェガロペトラが、恒夜の手を取った。恒夜の心臓は左手に集まり、爆発しそうになる。なんてすべすべしてて、柔らかいんだろう。その手がきゅっと、握りしめられた。

「あうあうあ」

 顔に熱が集まってくるのが、わかった。

「ちょっと、照れすぎ。こっちまで恥ずかしくなるじゃない!」

「ごめん」

「まあ、わからなくもないけど」

 そう言ったフェガロペトラの顔も若干赤く見えたのは気のせいだろうか。

 二人とも、ちょっとうつむき加減で、目的地まで揺られていった。恒夜は、手の平の感触を心に刻んだ。



 一時間ちょっと汽車に揺られて、到着したのは登川駅。時刻は九時前。開館は、九時なので、歩いていけばちょうど良いだろう。ガイドには、歩いて五分と書いてある。

 一大観光地だからか、標識も親切だ。これなら、迷うことなくいけるだろう。すなわち、かっこ悪いところも見せずに済みそうだ。

 鼻歌交じりのロペだったが、駅を出て、燦々と降り注ぐ冬の陽にやられ、一分と持たずに鼻歌は苦悶に変わった。

「あ、あー。溶ける。夏の陽を浴びたアイスのごとく融解する」

 もはや、冗談に聞こえないのが困りものだ。

「が、頑張れ、気合いでなんとかするんだろ? 見せ所は今だぞ!」

 そう叱咤してみるが、できないことはできない訳で、無理なことはやはり無理なのである。目に見えて弱っていくフェガロペトラ。

「あんた、水の中で呼吸してみてと言われてできる?」

「いや、無理だけど」

「あんたの言ってることはそういうことなの」

 えー。自分で言ったんじゃないか。言おうとしたが、彼女の蒼い視線があまりに迫力があったので二の句が継げなくなってしまった。そんな目で恒夜を見ると言うことはかなり切羽詰まっているのだろう。

 恒夜は、駅前のタクシー乗り場におもむき、一台拾ってフェガロペトラを押し込んだ。タクシーは高級品だが、そんなことを言ってる場合でもなさそうなので使うことにした。緊急特例というやつだ。一応、一泊するようなことになっても大丈夫なように、財布の中は詰め込んできている。

 フェガロペトラと一泊……。いかん、桃色の妄想が。フェガロペトラのいけない姿を思い描いてしまう。彼女は今、隣で太陽の光によって喘いでいるというのに。

 ごめん。男ってそういう生き物なんだ。そっと、つないだ手に力を入れてみる。無言の応援。それを感じたフェガロペトラもちょっと力を入れて答えてくれた。

「はいよ」

 タクシーの運転手は、なんの感慨にも更けさせてくれる前に、目的への到着を告げてきた。ちょっと、邪魔されたことに苛つきを覚える。だけど、あまりに、乗っている時間は短く、タクシーを使ったことが申し訳無くなるような距離だ。なんせ、ワンメーターも上がってない。

 嫌な顔一つしないで乗せてくれた運転手には、感謝こそすれ、恨みがましい視線を向けるのは間違いだと思った。例え、それが不況が理由でも。恒夜は、愛想のいいつもりの顔を向けてお金を払い、心を込めたつもりの言葉でお礼を言った。

「ほら、ロペ。着いたよ?」

「う……、見ればなんとかわかる」

 なんとかなのか。

 フェガロペトラは、よたつきながら車を降り、入場ゲートに向かった。恒夜は、その手を取り、彼女に寄り添いながら歩く。うん、なかなかそれっぽいじゃん、と満足気味に思った。

「潮のにおいがするね」

「え? そうね」

 淡白な会話。これは早く入場して暗所にいかねばならない。不埒な意味はなく。想像くらいはするけど。

 フェガロペトラを日影において、チケットの販売所に駆け寄る。二人分のチケットを買って入場。レストランとか、お土産屋が集まっている広場を抜けメインであるカストロ城に向かった。北欧に実在する城をモデルに造ったらしく、迫力がある。

 でも、今はそんなことどうでも良くて。陽が当たらない屋内へ退避したい、その想いだけで足を動かしていた。フェガロペトラは、恒夜に引っ張られるままにふらつく足取りで後を着いてきている。

 荘厳な、というよりは、実用的な造りの門をくぐると、正面入り口にすでになにかが展示されていたが、パス。薄暗い廊下を抜ければ、そこには大水槽があり、その合間を縫ってエスカレーターで二階から四階へ。目指すは、休憩所。

 いろんなすごいところを縫ってきた気がするが、小さな休憩スペースに辿り着いた。周りは四方壁。空気は、暖房で暖められた人工の空気。とりあえず太陽は、入ってこないところにいる。人は、開場間もなくを突っ切ってきたので誰もいなかった。

「ふう、大丈夫かい、ロペ?」

 設置されたベンチに腰掛けて一息つく恒夜。フェガロペトラも、弱々しく手を上げるだけにとどまった。でも、顔色はさっきより随分良くなったと思う。

 恒夜は、休憩所に設置された自動販売機で、冷えたスポーツドリンクを購入した。それをフェガロペトラの首筋に当ててやる。

「~~~~!」

 フェガロペトラは、飛び上がるように驚いたが、すぐに大人しくなった。恨み顔で見上げてくるが、涙目になっているフェガロペトラの顔は非常に魅力的だ。誰もいないし抱きついてしまおうかと思ったが、調子が悪いのに、不謹慎かと思って自重する。

 時間にして、五分。

「よおーし、恒夜! 頭から見直すよ!」

 もう元気になっていた。買ったスポーツドリンクも全部飲み干して、万全の体だ。人もちらほらやってきていていちゃつくこともできなくなったので、恒夜は水族館を楽しむことに今更ながらにする。

「おし、いくか。でもどうやって戻るんだ? 道順覚えてないぞ」

「なんも、迷路じゃあるまいし。来た道戻ればいいんじゃないの?」

 悠々と先導していくフェガロペトラ。そう、本来ならばこの立ち位置が正しい。フェガロペトラが前に出て、恒夜が半ば引きずられるように後を追う。ここに来るまでに、手を引かれていたのは、非常にフェガロペトラらしくない。

 でも、新しい一面を垣間見られた感じがして、恒夜は嫌いじゃなかった。それに、ときには自分も前に立って歩く。それぐらいの男らしさを見せたっていいじゃないかと思う訳で。

「で、ここはどこだ?」

 半球状のチューブの中程で恒夜は、フェガロペトラに尋ねた。

「わかんない。でも、すごいよねー」

 自分が、この建物のどこにいるかはさして重要ではない。なにを見落としてきたかもだ。大事なのは、目の前の光景を素直に楽しむこと。それを彼女は体いっぱいで表現している。

「ああ、すげーな。スクーバダイビングとかしたら、こんなふうに見えるのか?」

「わかんない。でも、すごいよ。あ、あそこ!」

「ん? おおー」

 大きなシロワニと呼ばれるサメの仲間が我が物顔で、悠然と半球状の通路の上を泳いでいった。眼下にいる恒夜たちには目もくれずに。

「すごいねー」

 ただ感嘆が口から漏れている。

 恒夜は、口を半開きにして上をずっと注視しているフェガロペトラの手を自然に取ってしまった。とっさに嫌がられるかも知れないとも思ったが、構うものか。拒否はされなかった。安心感が染み込んできて、嬉しさが込み上げてくる。

 絡む指。通じる心。吸血鬼だからとか、人間だからとか、悩むにも値しない。

 二人は、青色に染め上げられた通路の真ん中で、世界の広大さを感じていた。それも、たぶん同じ感覚を共有しながら。同じものを見て、同じ感動を味わい、同じであることに喜びを感じ。これ以上のことってないんじゃないかと思う。

 茫然と見上げていた二人の耳に家族連れの無邪気な声が聞こえてきた。我に返った恒夜は、急に気恥ずかしくなって、フェガロペトラとつないだ手を離してしまう。

 だけど、それをフェガロペトラは逃がさなかった。恒夜の腕を取り、もっとくっつくようなかっこうになる。恒夜は目を見張った。そう、良く街中で見かける恋人つなぎの発展形の方だ。腕に絡みつくフェガロペトラは、どこも気持ち良く、恒夜の神経は左腕に集中していた。特に二の腕の辺りは、意識せずともものすごく柔らかい。

 だけど、結構歩きにくいのなこれ。慣れたらきっと大丈夫なのだろうけど。それにしても、フェガロペトラは大胆だと思う。陽の光から逃げてからは、ずっと主導権を握られているのは気のせいではないだろう。

 でも、それが、フェガロペトラなのだ。恒夜が憧れ求めた彼女らしさである。淑やかにしている彼女もまた意外に魅力的だったが、ぐいぐいと引っ張ってくれるこっちのフェガロペトラの方がより魅力的だ。

「オレって、案外犬系なのか?」

「ん、なに、犬系って?」

「ああ、いや。なんでもない」

「そう?」

 そこで、時計を見た。

「おい、ロペ。イワシのパフォーマンスの時間だ。急ごうぜ」

「え、でも、どこにいるのかわかんないよ?」

 恒夜は、ちょっと考えて。

「こっちだと思う」

 順路を示す案内板に従って、歩き出す。

「え、本当に?」

 今まで、逆に回ってきて見つからなかったのだから、順路に進めば行き着くだろうという単純思考。ときには、それは短慮となり恒夜に災いをもたらすが、フェガロペトラが絡めば大抵うまくいく。そうやって、恒夜はフェガロペトラと比肩してきたのだから。

 自信を持った足取りで向かった先には、巨大な円筒型の水槽のある場所に出た。その水槽の中で、イワシが一万匹回遊しながら係員に給餌をしてもらっている。その群れがなす大きなうねりは、一万という個ではなく、一匹の巨大な生物のように思えた。

 同時にサメも泳いでいるのだが、そのうねりに比べてあまりに小さい生き物の様に思える。でも、そのサメだって実際は三メートルとかあるらしい。個は群をなすことでとてつもない迫力で、単純な一万匹という括りを越えているように思えた。

「イワシ、すごかったな」

「うん、すごかったー」

「さて、腹減ってない?」

「うーん、どっちでもないかな」

 フェガロペトラは、自分のお腹に気を配ってさすっているが、どうにも空いてないみたいだ。恒夜は、もう限界に近いぐらいに減っていた。半日、気を張っていたせいかもしれない。そう思えば、心地の良い空き具合だった。

「じゃあ、どうする? イルカショーでも見に行くか?」

「それなんだけどさ、また太陽の下に出ないといけないよね?」

「あー、でも、ショー自体は屋内みたいだぞ」

「でも、この写真を見る限り明るいよね……」

 くそ、なんで今日は曇らなかったんだ。快晴が心地よいのは恒夜だけで、なにがデート日和だ。

「よし、ロペは、ここで待っててくれ。ちょっと、昼飯買いがてら、プールを見てくる」

「え、あ、うん」

 と頷きながら、フェガロペトラの手は恒夜の上着の裾を掴んでいた。

「あ、いや、なんでもないの!」

 はっとしたように、慌てて手を離す。顔が軽く赤い。恒夜はその仕草にしてやられてしまった。こんなかわいいやつをここに一人おいていけない。

「じゃあ、日が暮れるまで待つか? 夕方から始まるやつもあるからな」

「でも、それまで三時間以上あるけど、大丈夫?」

「うーん、一度なにか食べたくはある」

「よし、根性と気合いの見せ所かな」

 フェガロペトラの目尻がきゅっと引き締められた。

「いや、そこで無理しなくていいから」

「じゃあ、どこで無理すんのよ?」

 そんなに無理したいのか? 目的と手段が入れ替わっている気がする。

「基本的に、無理はしなくていい」

「でも、わたしもイルカを見たいよ」

 アホか。誰が、フェガロペトラを置いてイルカを一人で見に行くものか。

「だから、今からプールの造りを見て来るから」

「うん、わかった」

 しゅんとうなだれてしまった。でも、ここで、残ることを選択したら堂々巡りになるのは火を見るより明らかだ。心を鬼にして? なんか違うが、一度状況を打開する作戦をとらねばなるまい。

「じゃあ、ちょっと行ってくる」

「うん」

 さっさと行ってさくっと帰ってこよう。



「おかえり!」

 遠くからは、すごく不安そうにしているのが見えたが、恒夜が近づいていくと一瞬にして暗い雰囲気はなくなった。

「ほい、ただいま」

 今、心臓は、フル回転状態。館内は歩いたが、外はダッシュで行動した。危うく子供を突き飛ばしそうにもなったが、なんとか接触事故はなし。食べ物も、ピタを売ってる店があったので、そこで、四つ購入して戻ってきた。

「で、肝心のプールは?」

 なんて、いい顔をするんだ。まるで、夏休みを楽しみにしている子供のように無邪気な笑顔。それを見て、別の意味で心臓が高鳴る。おかしくなるかと思った。

「うん、あそこは陽の光はほとんど入らないみたいだ。明るいのは照明のおかげだ」

「ホントに! よっしゃ!」

「じゃあ、これ食べたら行くか」

 そういって、ピタを二つ差し出した。フェガロペトラは、申し訳なさそうに受け取る。

「なんで、わたしがお腹空くってわかったの?」

「いや、人が食べてるの見てたらお腹が空いてくるかなって」

「そうじゃなくて。わたしが普通の食事をするってどうしてわかったの?」

 あー、完全に失念してた。そういえば、こう見えて吸血鬼だった。陽の光問題に意識が行きすぎて、根本の理由を忘れていた。

「……」

 なんと言い訳していいかわからず、答えに窮してしまった。

「まあ、そんなことだと思った。恒夜は一生懸命なのはいいけど、抜けてるよね」

「うぐ、言い返せない……」

「そんなところも嫌いじゃないけど」

 そういってはにかむ。反則だろう。恒夜は、顔に血が集まるのがわかった。

 辛辣なことは言うが、その後のフォローが段々上手くなってきている。言い方を変えれば、手玉に取られていると言えた。

 でも、そんなのも悪くない。どんな形にせよ、関係を持っているのだから。死なれるより罵倒されていることの方が辛いこともあると思うが、自分たちならそっからでもやり直せる自信がある。

 だから、恒夜は断言できすることができるのだ。フェガロペトラが、自分が、生きているに越したことはない、と。

「それに、あんたは自分が食料であるという可能性をまったく考えなかった。このわたしと、多くの時間を過ごしながら」

 逆だ。人間フェガロペトラとの時間の方が多いために、吸血鬼フェガロペトラを認識できていない。つまり、自分はまだ過去を生きている。

「で、あんたは逆だと考えてるよね。当然」

「な、なんのことだよ」

 あまりに図星だったので、思わず強がってしまった。

「そういうところはかわいくない」

「オレが、かわいい必要はない」

「本当、誰に育ててもらったつもりなのかしら」

「親だよ」

 フェガロペトラに、じっと見つめられる。ため息を一つ吐かれた。なんかいらっとくる。

「まあいいわ」

「よくないけどな」

「で、あんたは、わたしという存在の在り方を見せつけてなお、以前のままだと思っている。だけど、じゃあ、今日この施設を選んだのはなぜ? わたしは、別に魚がみたいなんて言ってない。あ、勘違いしないでね? いやじゃないから。むしろ、来て良かったと思ってる」

「つまり、オレは、おまえが人間ではないと心のどっかでは理解しているのに、危機感なさ過ぎってことか?」

「惜しい、かな。わたしが、どういう存在かわかっていない。ひいては――」

 すっと、近づいてきて、耳元で囁く。

「――吸血鬼っていうのが――」

 また離れて。

「――わかってない。わたし自身については良く理解してくれてると思うよ。それは、幸せなことだと思う。大事にしていきたい。できることなら、ね」

「それも、オレ次第ってことか」

「そう」

「なんで、今その話をしたんだ?」

「たまたま、きっかけがあったのと、事態が動きそうだからよ」

 そういって、ピタにかぶりつく。

「事態が動く?」

「そう、あんたの賞金額が上がったの」

「今日、出かけたかったのって……」

「最後にならないことを、切に祈るだけね」

 そんな……。この日々に終わりが来るなんてこと考えても見なかった。とにかく幸せで今を続けたい。その一念だった。

「さあ、今は、イルカを見て楽しもう」

 フェガロペトラは、恒夜の腕に絡みついて、楽しそうに引きずって行く。さすがの恒夜も状況を楽しめそうにない。このタイミングでする話でもなかった気がする。でも、いずれしなくちゃいけない話だとも思った。

「恒夜」

「うん?」

「終わりを考えていたら、なにも始められないよ? 何事にも終わりは必ず用意されているんだから」

 そうか。そうだな。フェガロペトラはそのことをずっと言っていた。よし、今日をもう一度、空元気からでも始めてみよう。

 恒夜は、一つ顔を叩いて、気分を入れ替えた。

「よし、今日はめっちゃ楽しむぞ!」

「おー! その意気だ」

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