03.
でも、難しいことなどなにもなく。夜外に出れば、彼女は必ずいてくれる。最近は、襲われることもなくなったし、監視の目も感じなくなった。小康状態のような日々だ。
この日々は、鮮血の戦乙女という抑止力がもたらしているのは火を見るより明らかだった。この前までの恒夜なら、下級でも吸血鬼が出張ればすぐにでも解決しただろう。
相変わらず、鮮血の戦乙女は、気さくだし、話しやすい。だから、仲良くなるのが楽しく感じられた。でも、同時に後ろめたさを感じるときもある。楽しく話をしているとき、ときどきだがフェガロペトラのことが意識から消えているときがあるのだ。
恒夜は、コンビニで買った、ホットの缶コーヒーを投げて鮮血の戦乙女に渡した。
「ありがと」
「いや、こんなものしかなくて悪いな」
学校では、彼女のことは言っていない。敵がやばすぎるからだ。官憲が役に立つとは思えなかったし、高山たちの身のことを考えたら危なくてとてもじゃないがこれ以上、この話題に触れるわけにはいかない。
学校では、多賀谷が学校に来ていない以外に、特に変化はない。なくなったと言うべきか。高山、藍浦、七沢ら、いつのメンツが今まで通りに接してくれるおかげで、クラスで浮きかけていた恒夜も落ち着くようになった。
「ところでよ」
コンビニエンスストアの駐車場で、缶コーヒーを啜りながら、恒夜は切り出した。
「ん~? なーに?」
「おまえがオレを襲わないのはなんでだ? オレの血ってすごいんだろう? そんなすごい血なら飲んでみたくならないか?」
アスィミコラキ家が皆殺しになるようなもの。それがすごくないわけがない。むしろ価値をもたせることで、彼女らの死に意味を見いだしてるかのようにも思える。
「あんたは、既知から託された重要人物だし、一介の吸血鬼がおいそれと口にしていい血じゃないんだよ」
「ふーん?」
「それより、あんまり自分を追い込まない方がいいと思うけど?」
心中を読まれた気がして、どきりとした。
「な、なんのことだよ?」
「自覚がないのか、わざとか。わたしは、後者だと思うからなにも言わないけどね、あはは」
楽しそうに大口を開けて笑う。その向日葵のような笑い方すら、フェガロペトラにそっくりだ。恒夜が愛して止まなかった笑い方である。
「おまえさ、質が悪いって言われたことないか?」
「ないよ」
「あ、そうか。言ってくれる友達自体いなかったのか」
ちょっとした意趣返しのつもりだった。でも、そういうことってツボの入り方が悪いと非常によろしくない。質の悪さで言ったら、こっちの方がよっぽど悪い。
明るかった、大輪の花は一気に色を失った。つられて笑っていた恒夜も、不味いことを言ったなと顔を曇らせる。
「あ、いや、その悪かったよ。気に触ったんなら謝るよ」
だけど、花は散らなかった。缶コーヒーの最後を啜り上げる。ちょっと、小振りだけど、小さく咲いた。上品に。
「いたんだよ。わたしにも。大事な友達が。でも、ある日奪われちゃった。任務もこなせなかった上に、友達も失ったの」
「そうか。すまなかった。軽々しく茶化して」
「ううん、いいの。だって、そんなこと言われてみないとわからないことだもんね」
か弱く、しかし芯は通った笑顔をした。
「好きな人ってさ、生きててくれるだけでも良いと思う派? それとも、やっぱり一緒じゃなきゃ嫌な派?」
はー、と息で手を温めるような仕草を見せる。
「オレは、好きになった人が幸せならどっちでも良い派だな」
「そう、なんだ」
「だから、今の現状は、この上なく不本意だよ」
「あんまり引きずるな、って言っても無理だよね」
空になった缶を弄ぶ鮮血の戦乙女。
「まあな。でも、オレは、生きてるし、友達も他にもいる。忘れる訳じゃないぞ? ただ、生きてる人間として、生きたまま向き合えるようになりたいとは思ってはいるんだ」
恒夜は、大きく息を吐いた。白く棚引く吐息。
「うん、あんたは偉いね」
「そうか? 楽な方へ向かったらそういう結論になっただけだよ」
「向き合えるあんたは、すごいと思うよ」
「ありがとさん。まあ、人生の何割をそれに捧げるかわからないけどな」
苦笑した。
「わたしなら、一生捧げても良いかな。死ぬときにちゃんと、そのことを受け止められていたならいいな」
「それこそ、吸血鬼なんだ。時間はたっぷりあるだろう」
「わかんない。明日には死んじゃうかも知れない立場だから」
すっかり忘れていたが、そうだった。彼女は、自分の護衛である。
でも、死んじゃうかも知れないという割には、死ぬ気はなさそうだ。そこについては安心できる。
「死なないでくれよ」
ぽつりと本音が漏れた。
「惚れんなって言ったでしょ」
「ああ、わかってる。でも、友達だって失いたくないんだ」
「友達? わたしが?」
心底、不思議なことに巡り会ったという素っ頓狂な声だった。
「あれ? もしかして思ってるのオレだけ? めちゃくちゃかっこわるくね?」
「そ、そうね、あんたなら友達の端に加えてやっても良いかもね」
「なんで、急に高飛車になるんだよ?」
「え、いや。なんでだろ?」
二人は、顔を合わせて、自然と笑い合った。
「わたしの友達なら、絶対わたしより先に死なないで。それが条件」
「おいおい、吸血鬼より長生きしろって? 無茶な戦乙女さまだ」
だけど。
「オーケー。やってやるよ」
それ以外に答えはない気がした。
それから何度も逢瀬を繰り返した。毎晩毎晩。目的もなくただ会って、なんの実りもない会話に花を咲かせた。寒風が一段と本格的になってきたが、それは二人を阻む理由にはまったくならない。
遊びにも行かず、ただ話をするだけ。今日、学校であったこと、家での出来事。なんでも話した。もちろん、過去の話も、フェガロペトラの話も。鮮血の戦乙女に彼女のことを話すのは不思議と後ろめたさを感じなかった。
二人で、時間を共有できている。その事実がなによりも恒夜を救っていた。少しずつだが思い出の共有も叶ってきている。正確には共有ではないが、なぜか鮮血の戦乙女とは分かち合えている気がするのだった。
「ああ、楽しいなぁ。おまえといるとホント楽しい」
コンビニの前で、缶コーヒーで身体を温めている。そんなとき、恒夜は呟くように言った。
「ふーん。ロペちゃんといるよりも?」
「それはない」
恒夜は、真顔で即答した。
「そっか。残念」
わずかに肩を落とす鮮血の戦乙女。
「それとこれとは、別次元の話だ。おまえは、ロペじゃないし、ロペもまたおまえじゃない。比べることに意味はない」
鮮血の戦乙女は、すごく微妙そうな顔をした。
「思ったよりも欲張り?」
「なんでそうなるんだ?」
「だって、別の女の子と一緒にいても、本命とは違う楽しさを感じているなんて、節操なさ過ぎじゃない?」
「そうかぁ? むしろ本命じゃないからって、一緒にいて楽しくない方が損してる気がするけどな。おまえはおまえ。ロペとはロペとの楽しさがある」
コーヒーの最後を一啜りすると、鮮血の戦乙女は艶然とした笑みを浮かべた。なにか、彼女にとって面白いことを思いついたときの顔だ。大抵、恒夜が恥ずかしい思いをする前兆。
「じゃあ、わたしをどう思ってるの?」
「友達」
とりつく島もなく、言い切った。こういうことは、はっきりさせておかないと後々面倒なことになる。
「好きな子とかはいないの?」
「いない。オレは、ロペ一筋だったから、周りを見ている余裕がなかった。まあ、そんな余裕はいらなかったわけだけどな、ぐへっ」
鮮血の戦乙女は、顔を赤くしながら、恒夜の腹にパンチを入れていた。
「なんで、殴るんだよ?」
「あ、あんたが恥ずかしいことを言うからでしょ!?」
「さらに、逆ギレかよ」
恒夜は、ため息を吐きながらも、この傍若無人な態度にフェガロペトラを思い出していた。それは、どんなに鮮血の戦乙女に失礼かをわかりながら。
「ふ、ふん。こんなにもわたしがあんたと一緒にいてやっているのに、あんたはロペちゃんのことをまったく忘れないのね」
「惚れんなよって言ったのはおまえの方だと思ったが?」
「た、確かに惚れるのはダメだけど、もっと周りを見てご覧なさいよ。きっと、別の相手がいると思うよ」
「別に、彼女が欲しい訳じゃないからなぁ。オレはどっちかというと、おまえとこうして楽しい時間を過ごしている方が好きだ、うぼっ」
また殴られた。手加減はされてるのだろうけど、痛い。
「なんで、あんたはそんなことを臆面もなく言えるわけ?」
鮮血の戦乙女の頬が赤く染まる。
「いや、なんでだろうな? おまえには、正直に言えるし、言った方が良さそうな気がするんだ」
自分でも正味なところわかってはいない。彼女とフェガロペトラには多くの共通点があるが、これもその一つだ。なぜか、口が軽くなってしまう。一番大事なことは言えないのだが。
「ふ~ん。恒夜って結構女たらしだよね。わたしは、引っかからないけど多くの人に迷惑かける未来が簡単に想像出来て怖い」
「オレは、無節操に人を口説いたりしない」
「無自覚なのは、余計に怖いわよ?」
「むう」
自覚がないから、気をつけようも、反省もしようがない。ただ、唸るだけに留まる。
そんな話でも、楽しいのだった。
この数日、鮮血の戦乙女と会っている間、いろいろ進めていたものがある。その一つに、吸血鬼とは、ヴァンパイアとはなんぞや、というもの。
もう一つは、ストリゴイカとはなんだというのも並行して調べていた。だが、家の本を漁ってもヴァンパイアのことが、なんとなくわかった程度だ。ストリゴイカなんて、それに該当する項目さえ見つけられなかった。
「吸血鬼、ね。にんにくや十字架が苦手で、棺おけで眠るか。太陽がダメだっていうイメージがあったけど、ドラキュラ伯爵は平気みたいだな。後は、招かれないと家には入れなかったり、銀が苦手に、水に弱い? なんか弱点の塊だな」
それでも、吸血鬼は超越種の中でも上位に来る種族らしいことを鮮血の戦乙女が言っていた。まあ、それもヴァンパイア族のことらしいけど。
「ストリ、ゴイカだったよな……? 何者なんだ?」
恒夜は、頭を悩ませても解決しないことなので、図書館に赴くことにする。ちなみに学校の図書館はあまりにしょぼすぎて、役に立たなかった。
謎めく正体に、少し心躍らせつつ、少し恐怖を感じながら、図書館へと足を向ける。だけど、ストリゴイカという吸血鬼がどうであれ、フェガロペトラに対する思い入れは変わらないし、鮮血の戦乙女に対する思いも変わらない。どのみち吸血鬼であることは受け入れているからだ。
それは恒夜の口癖である、「仕方ないじゃないか」の精神に基づいている。吸血鬼というものがいて、実際目の前に現れて襲われた。そこを助けてくれた人物も自身は吸血鬼であるという。彼女は、人間には到底できないであろう行動を易々と取ってみせたのだ。
「仕方ないじゃないか、いるんだから」
現実なんだから、仕方ないんだ。と諦めるのは、恒夜の優れた順応性であり、質の悪い悟りの一種だった。
さすがと言えばいいのか、この程度と嘆くべきかわからないが、大量の資料の中から一冊だけストリゴイカに関する話の載った本が見つかった。しかも、話と言っても吸血鬼というのは恒夜の知っているいわゆるヴァンパイア以外にも結構たくさんいるらしい。
ストリゴイカはその一種に過ぎず、割かれてるページも一ページとなかった。他にもヴァルコラキとか、ヴリコラカスとか、ノスフェラトゥとか、いろんな種族がいるようだ。
この本によれば、キョンシーも吸血鬼の一員という解釈らしい。
肝心のストリゴイカには、魔女とか夜の鳥なんて言う意味があるらしい。外見的特徴は、赤い髪と青い目。あのうねるようなくせっ毛は、ストリゴイカの特徴かと思っていたら違うようだ。
ストリゴイカは女のことを指すらしく、男の方はストリゴイイというらしい。出身はルーマニア。吸血鬼伝承の多い地域である。
それよりも気になったのは、内面的特徴だ。にんにくが苦手とかそんなことはどうでもいい。
ストリゴイカは、死んで吸血鬼になって七年活動するとまた人間として活動するらしい。それにストリゴイカになるための条件の内、親がストリゴイイかストリゴイカである場合、ヴァンパイアに殺されたものというのが、当てはまっていた。
その箇所の文を何度も読み返し、心の中でも反芻する。
彼女の生い立ちを見ていたら、いやでも気がつくだろう。あまりに、事実と符合する場面が多すぎる。
それに、その事実の方が説得力に溢れていた。いやに納得できるし、そっちの方が恒夜にとっては希望も夢も持てる内容なのだ。
ただ。その反面、気付かずいろいろと語ったのは赤面ものである。今思えば、本人にはまだ当分聞かせるつもりのない言葉が過分に含まれていた。
そう、鮮血の戦乙女がフェガロペトラである可能性が出てきたのだ。彼女は、あまりにフェガロペトラに似すぎている。今まで、疑わなかったのが不思議なくらいだった。たぶん、死に顔を見て、お骨を見たせいだと思う。きっと、知らず知らずのうちに割り切っていたのかも知れない。
でも、新たに浮かび上がった可能性、フェガロペトラが生きているかも知れない。思い返せば、かなりこっ恥ずかしい思いをしてしまった。だが、フェガロペトラの存生に勝る事実はなど存在しない。小躍りをしたくなった。できるならば、快哉を叫びたいくらいだ。
確かに彼女は、恒夜の言葉をフェガロペトラに届けてくれたんだろう。勝手に届いたとも言えるが。
足取りも軽く、恒夜は図書館を後にした。こうなったら、夜が待ち遠しい。きっと、彼女のことだから素直には認めないだろう。そうなったときに、正体を暴くための事実を用意しなくてはならない。
部屋に帰ると、短い夕方は終わりを告げ、暗い世界に包まれていた。ただ、月がきれいだ。差し込む光で、部屋が薄く浮かび上がっていた。それは、なぜか恒夜のことを夜の世界が歓迎しているように感じられる。
だが、その日の夜は、外に出ても誰にも会わなかった。鮮血の戦乙女もたむろする若者たちも、街の人間にも、誰も。人はいる。車は、通っているし、コンビニエンスストアだってやっていた。街が死んでいる雰囲気はない。でも、恒夜は人とは結局一度もすれ違わなかった。
それは、はっきりと夜から、拒絶を突きつけられた気がして非常に虚しさを覚える。目眩すら感じた。家の前で、塀に体を預けるようにして寄りかかる。そのときだった。目の前が一瞬ぼやけたかと思って、瞬きをする。そこにはいつの間にか鮮血の戦乙女が立っていた。
「よう」
脂汗をかきながら、恒夜は声を絞り出した。
「……うん」
「しおらしいじゃねえか」
「そんなつもりはないんだけどね。やっぱり緊張しちゃうって言うか。あはは、わたしらしくないよね」
鮮血の戦乙女は、仮面越しに恒夜を見つめてくる。
「わたしが、誰だかわかった?」
「ああ」
胃がぐるんぐるんする。気持ちが悪い。嫌な汗が噴出している。
鮮血の戦乙女は、その仮面に手をかけ、外した。そこには、フェガロペトラの美しかった黒曜石のような黒い瞳はなく、ストリゴイカの証拠である青い目。でも、もっとすかっとした視界一杯に広がる蒼い空を連想させる目だ。黒曜石の輝きも捨てがたいが、この果てしない空色も捨てがたい。どちらも、彼女らしさを表していると思う。
だが、その目を見ていたら、目がそこから離れなくなって、なにかが目を通して恒夜の中に浸入してきた。
「ぐ、なんだ、これ」
「
目を逸らそうとするが、逸らせない。
「さあ、答えて。わたしは誰?」
「おまえ、は……。鮮血の戦乙女」
「そう。名前は?」
「……知らない。わからない」
頭の中を強引にかき回されているみたいだ。自分がなにを言ってるのかもわからない。なにかとてつもなく大事なことをぽっかり忘れている。そんな気がした。だけど、頭痛が激しくて、思考がまともさを保てない。なにを、忘れているんだ?
「いいえ、なにも忘れてなどいない。わたしは、鮮血の戦乙女。それ以上でもそれ以下でもないわ」
そういうと、再び仮面をつけた。そのとたん、吐き気と頭痛が嘘のように引いていく。頭は少しずつ、平静を取り戻すが、なにかがなくなった気がした。
それからのことは、記憶が曖昧だ。気がつけば、気怠い朝を迎えていた。今朝は一段と気怠く感じる。たまってきた疲労というのもあるのだろうが、逆に昨日は空回ったせいで、今までのことが徒事のような気がしてきた。
空回った? ああ、そうだ。なにかを誰かに言わなくちゃいけないんだった。そう。鮮血の戦乙女に、フェガロペトラじゃないかと言うつもりだったのだ。あいつが生きているかも知れない。なんで、こんな重要なことを忘れてしまうのだろうか。
いつも通りに、朝ご飯を摂り、学校へ行く。相変わらず、多賀谷のやつは学校を休んだままだ。もう二週間になるだろうか。恒夜が、「友斬り」を見せたあの日から、来ていない。まさに、「友斬り」の真骨頂。
時間もいつも通りに過ぎて、昼休みになった。それでも、多賀谷は姿を見せない。
「あいつのこと、嫌いじゃなかったんだけどな」
「ん? なんのことだ?」
高山が、恒夜の呟きを拾う。
「い、いや、なんでもない」
「そうか? 変な朝霧」
「そうか? いつもこんな感じだろ」
藍浦が、弁当にがっつきながら言った。
「うん、いつも通りだと思うけど……」
七沢までがそういってくれる。恒夜は、たははと笑うだけだった。
そんな感じで、すっかりクラスに居所を取り戻した恒夜。
昼休みも残りわずかとなって、次の時間の準備を始めたときだった。乱暴に、教室の後ろのドアが開け放たれる。
まっすぐの茶髪が自慢だった多賀谷が、短く黒く、そしてパーマをかけた状態で立っていた。教室の中を見回して、恒夜を見つけるとまっすぐ向かってくる。
多賀谷は、恒夜のところに来て、挨拶もせずに腕を掴んだ。そのまま勢いのままに連れて行かれる。周りも呆気にとられて、恒夜も唖然としてしまって、誰も止めるものもなく恒夜は連行された。
人気のない校舎裏。今、ここで刺されたりしたら誰にも気付かれないまま死ぬだろう。そんなネガティブな思考が浮かんでくる場所だった。
「おいおい、ちょっと」
恒夜が、少し困ったふうに声をかける。だが、多賀谷は止まる気はないようだ。
「ちょっと、待てよ! どこまで行くつもりだよ!」
それを見て、強引に掴まれた腕を振りほどいた。
多賀谷は、周りを見て人がいないことを確認する。
「よく、学校に来たな。待ってたんだぞ?」
恒夜は、嬉しかったので明るく話しかけた。
「それどういう意味?」
「どういうって、前にも言ったろ? オレ、おまえのこと嫌いじゃないんだ」
「じゃあ、好きってこと?」
少し俯いたまま呟くように言う多賀谷。
「いや、好きか嫌いかでいけば嫌いじゃないって言う意味で……」
その真剣な雰囲気に、しどろもどろになる恒夜。それもこれも、雰囲気の変わった多賀谷に戸惑っているせいだ。なんだって、急にフェガロペトラみたいな髪型にしてきたんだろうか。
「あたしも言ったよな? あたしに勝ったら中身ごと好きにしろって」
「ああ、確か……」
ただの挑発だと思っていた。
「あたしを好きにしろ。いや、好きになれ。なんでもする。おまえにならなにをされてもいい」
恒夜が、これを告白と取るのに数秒かかった。その間に、多賀谷はどんどん赤くなっていってさらに俯いていく。
多賀谷は、耐えられなくなったのか。恒夜に身を寄せる。
「女が好きにして良いって言ってんだ。恥かかす気か?」
「ええ~、ってそんな無茶があるか!」
「無茶なものか。あたしは、ロペ公と違って生きてんだ。次はあたしを見てくれよ!」
激しい告白。涙を溜めた目で見つめられた。
「おまえ……」
その黒く染め直したショートヘアに手を入れて、梳く。
「馬鹿だな。そのためだけに。オレは、おまえのストレート、気に入ってたのに」
「じゃあ、また伸ばす。伸ばすから待っててくれよ!」
恒夜は、静かに首を振った。
「なんで? なんでだよ? もうロペ公はいないだろ! いつまでも縛られんなよ。あたしなら、死なないからさ。ケンカももうしない。危ない連中とも手を切ってきた。だから、あたしを見てくれよ」
哀切で、一途な気持ち。たぶん、これが人を愛するってことなんだと思う。でも、その気持ちなら恒夜だって負けてはいない。フェガロペトラはまだ生きている。
「オレは、おまえのことが嫌いじゃないんだ。だから、中途半端な真似はできない」
「いいよ、そのうちに本気になるだろ!」
縋る多賀谷。
「でも、ダメだ。ロペは生きているから」
「なんで? なんでだよ? あいつは死んだんだよ! 認めろよ!」
子どものように泣きじゃくる多賀谷。攻撃力皆無の駄々っ子パンチ。その様を見て、恒夜は思わず、多賀谷を抱き寄せる。頭を抱えるように強く抱きしめた。そして、そっと離す。
「すまない」
そういうと、恒夜はその場を去った。後ろを振り返られる訳もなく。ただ、すすり泣きが聞こえてくるだけだった。
教室に帰ると、あれこれ聞かれたが、適当に誤魔化しておく。元々、気性が荒いやつだとは思っていたが、ここまで情が深いやつだとは思ってもいなかった。なんか悪いことをしてしまった気分だ。だけど、恒夜にも引けない一歩というものがある。
多賀谷は、午後からの授業にも姿を見せずに一日が終わった。
「モテル男は辛いね」
ずずっと、缶コーヒーを啜りながら、開口一番鮮血の戦乙女に向かってこぼした。過分に、自重の籠もった自己嫌悪の塊である。
「誰が?」
「オレが」
「あはは、マジ言ってるの、それ! あはは! マジ受けるんですけど!」
抱腹絶倒とは、絵に描いたらこんな感じなのだろう。まさに腹を抱えて笑い転げている。
「いや、今日なクラスの女子に告白されたんだけどな」
多賀谷のやりとりをぼかしながら、説明した。
「あんた、馬鹿?」
爆笑の余韻などまったくなく、ものすごく真面目くさった顔で言った。
「すっげー、グレーな発言だぞそれ」
それに気圧されて、恒夜は苦笑する、しかなかった。
「女の子がそこまでしてくるなんて、よっぽどのことなのに。それを無碍にしちゃうなんて!」
なぜか、怒っているのは鮮血の戦乙女。なんで、見も知らぬ女のためにここまで怒れるのか。女の思考は理解できない。
「しかも、もっと馬鹿なのは、それを自慢げに他の女に話すところよ! 自覚しろ、馬鹿!」
「自慢げになんて言っていない。重すぎたからちょっと聞いてもらいたかっただけだ」
顔を若干赤らめつつ、ぶっきらぼうに断言する。
「悪かったわよ。言い過ぎた。でも、その子とくっつけばよかったのに」
「ロペが、好きな子が生きてるかも知れないんでな」
フェガロペトラが生きている。それはこの前行き着いた結論。だが、どこでどうやって? その結論をどうやって導き出したのか、まったく覚えていない。
「なにそれ。あの子は、残念ながら死んだっ……」
恒夜は、反射的に鮮血の戦乙女の襟を掴む。
「生きてる! どこでどう、そういう結論に至ったかはわからないけど、あいつは生きている! たぶん、ストリゴイカとして……」
「恒夜……」
すっと力が抜けて、襟を離す。
「悪い。あいつのことになると歯止めが効かなくなっちまう」
「あんた本当にあの子のことが好きなのね」
呆れたような口調だった。
「ああ、理由はわからないが好きなんだ。呆れるほどに人を好きになったことってないか?」
「あるよ。今、その真っ最中」
「だったら、早く気持ちを伝えた方がいい。想いを伝えるのが遅れると後悔してもしきれない。失ってから気付いても遅いんだ」
「どこがそんなにいいんだか。……死んだとはいえ、吸血鬼よ吸血鬼。わたしが言っても説得力に欠けるのは自覚してる」
「人間とか吸血鬼とかっていうことがそんなに大事なことか? それよりも一緒に過ごしてきた時間の方が万倍も大事だ」
これが、恒夜にとっての真実。今までだって吸血鬼だったのだから、これからだってやっていける気がするのだ。だから、彼女を、フェガロペトラを見つけたい。
「人間には人間のルールがあるように、吸血鬼には吸血鬼のルールがあってさ。大変よ?」
「それは、好きな相手と一緒にいられなくなる状態になるくらいにか?」
「あんた、相手が幸せならそれでいいって言ったじゃない」
「言った。でも、前言撤回するわ。ロペに関しては一緒じゃなきゃ嫌だ」
「はいはい、ごちそうさま」
ため息混じりに言われた。
「オレは、人間ままでいることで一緒になれないなら、人間辞めたって構わないと思ってる」
「馬鹿言うのも大概にしなさいよ? 生半可な覚悟で生きていける世界じゃない。なんで、ロペちゃんが死ぬまで、そのことをあんたにすら秘密にしていたか考えてご覧なさい!」
かなり厳しい口調。言いたいことはわかる。だけど。
「怒られたって、この気持ちは変わらない! つぅっ!」
頭に、鋭い痛みが走る。鮮血の戦乙女に大事な用があった気がするのだが、顔を見ると忘れてしまう。忘れるくらいだから大したことはないのだろうけども。
「どうしたの? 大丈夫?」
「大丈夫だと思う。一瞬、頭に痛みが走っただけだ。疲れてんだろ」
「じゃあ、今日は、もう帰りなさいな」
「ああ、そうさせてもらうわ」
恒夜は、暗澹たる思いを抱えながら、家に帰った。
学校では、多賀谷が学校に来ていない以外、すでに日常に戻っていた。いや、多賀谷の欠席もすでに、日常の一部になりつつある。昨日あった、多賀谷のこともあまり話題に上らず、淡々と日課がこなされていく。
感想を言えば、非常に気持ち悪い。なにかがおかしい。それは、自分なのかも知れないし、鮮血の戦乙女なのかも知れないし、この世界かも知れない。ただ、何事もなかったように回る日常が気持ち悪かった。
フェガロペドラが生きているのに、いない。多賀谷に想いを寄せられている。鮮血の戦乙女と会うとなんか違和感が纏わり付く。なんだろう、この割り切れなさ。なんか、ごちゃっといっぺんにいろんなことが起こりすぎて脳の処理能力をオーバーしているとでも言えばいいのだろうか。
わからない。
今日という日もまた、何事もなく回る。なにも変化のないままに。悩んでいるのかどうかもわからない状態も維持されたままで。
大事なことを欠損したまま、夜の河原で鮮血の戦乙女との逢瀬とも言える時間を重ねる。厳密には逢瀬ではない。逢瀬と言えない理由は、愛し合ってないからだ。でも、会いたくて焦がれて会うという意味では、恒夜にとっては逢瀬なのだった。
「なあ、おまえさ」
恒夜は、鮮血の戦乙女にその気持ち悪さについて聞いてみようと思った。こういうオカルト系は、彼女の範疇だろう。なにせ、吸血鬼という、ある意味生きた怪奇現象なのだから。
「なに?」
「いや、なんか言いたかったんだけど会うと忘れちまうんだよな」
「ふーん、呆けた? 若年性アルツハイマーって怖いよね」
「そういうんじゃなくて。なんか、気持ちが悪いんだよ。落ち着かないというかさ」
そうして言葉を探している間も、なにか忘れている気がする。大事なことだったはず。そうだ。フェガロペトラのことを忘れていた。なんでこんな大事なことを毎日毎日忘れられるのか。
「そうだ。ロペが生きてるかも知れな……い?」
「どうしたの? それは前にも聞いたよ?」
言っていて自分でもすごい違和感を感じる。ここのどこかに、本当に知りたいことが眠っているような感覚。勘だけど、たぶん、ここになにかある。そう思った瞬間、また頭痛が恒夜を襲う。
「うぐ、何度でも言う。言わせてくれ。ロペは、彼女は、生きてるはずなんだ」
「……」
痛みに合わせて、視界が明滅する。鮮血の戦乙女は、押し黙ってしまった。
なにか、事実のピースが一つ足りない。いや、箱を開けたばかりのパズルはばらばらだけど、全部そろっている。でも、絵の形を為していない。そんな感じ。
なにが、おかしい? 平和な日常? 吸血鬼? フェガロペトラが生きているという認識? もう答えは目の前にあるはずなんだ。
「く、そ……」
目の前にいるのは誰だ? 鮮血の戦乙女だ。彼女は、なにものだ? 鮮血の戦乙女以上でも以下でもないと、自分では言っていた。だけど、彼女にだって名前ぐらいあったはずだ。それを知りたい。段々思考が滅裂としてきた。
「はいはい。そこまでにしなよ~」
暗闇から聞こえてきたのは、呑気な声だった。黒いコートに黒いスーツ。黒のサングラスに、撫でつけられた黒髪。特徴的な、キャラクターもののネクタイ。
「人飼……」
「おお、少年。名前を覚えていてくれたんだね。感激だよ! うん、最近は名前を軽んじるやつが多くてよくないと思うんだ」
「なんの用だ?」
自分でも驚くくらいのドスの効いた声が出た。
「いや、ずっと見てたんだけど、それ以上苦しめたら、君、廃人になるよ?」
「廃、人? なんでだよ?」
「え? いやなんでと言われても。秩序あるものを意図的に乱していると、どっかに脆い部分ができて、そこから決壊するからさ」
「なんのことだ?」
この頭痛のことか、気持ち悪い日常のことか、フェガロペトラの生存のことか。
「うーん、たぶん、全部? たった一つの事実で君の日常は帰ってくるよ」
「な、に?」
ずっと押し黙ったままの鮮血の戦乙女に、人飼は視線を移した。口元は、緩く笑っているのに鮮血の戦乙女は、身を堅くする。
「えーっと。君の名前は、っと」
人飼は、スーツの内ポケットに手を突っ込みなにやら引っ張り出す。よく見れば、今日は黒い手袋をはめていた。素材は皮のように見えるが、光を吸い込む素材でできているようだ。
「お、あった」
手帳のようなものを開き該当項目を読み上げる。
「フェ……」
「黙れ!」
鮮血の戦乙女が大きな声を出して、遮った。
「黙れって、君の名前でしょ?」
「それは、わたしの名前ではない! 恒夜との時間を、世界を壊す、破滅の呪文に過ぎない!」
「ふーん、そうなった方が面白いから、読んじゃおうっと」
鮮血の戦乙女は、気色ばむ。
鋭い殺気。この寸前まで、談笑していた存在とは思えないぐらい恐ろしい気配を発している。恒夜の膝が、震えだした。
「君の名は、フェガロペトラ、フェガロペトラ・アスィミコラキ。うん、実に覚えにくい名前だね」
恒夜は、頭の中でパズルがそれぞれ所定の位置に着き、一枚の絵になる感覚を味わった。鮮血の戦乙女がフェガロペトラ。この数日、ずっと言いたかったことだ。
「黙れ黙れ黙れ!」
今までになく、鮮血の戦乙女が荒れている。こんな彼女見たことなかった。
「わたしは、第七〇代鮮血の戦乙女! それ以上でもそれ以下でもない!」
その怒りを静めたのは、人飼が八つ裂きにされることではなく、恒夜の手だった。恒夜が、静かにフェガロペトラの腕に触れている。それだけ。でも、それでフェガロペトラは、自分を取り戻した。
フェガロペトラは、上顎に生えた大きな牙で、自分の右手の指を切り、首から下げていた斧の形をしたペンダントトップに触れた。するとそれは、瞬時に大きな戦斧となり、地面に重量感溢れる音を立てながら、先端の槍状の部分が突き刺さる。
「おお、それは!」
人飼が嬉しそうな声を上げた。
「歴代の鮮血の戦乙女だけが持つことが許された伝統ある戦斧。それって、高値で売れそうなんだよね。ね。譲ってくれない?」
あまりにも馬鹿馬鹿しいことを言ってるのが恒夜にですらわかった。フェガロペトラは、前を見たまんま揺るがない。
「なんだい、黙りかい? 怒ったり黙ったり、神経疾患には気をつけてね?」
そうおどけている人飼に向かって、フェガロペトラは一歩踏み出した。戦斧を手にしながら。
フェガロペトラの姿が消える。目でまったく追えなかった。フェガロペトラは、人飼の死角に回り込み、重量感を感じさせない動きで戦斧を振るう。
「怒りは頂点越えたら、言葉がなくなるもんだ」
人飼は、少しだけ体をずらして、刃ではなく根本の柄の部分を受けた。かなりの重みがあるのか、片手ではなく両手で防ぎに回る。
「まあ、そうだよ、ね!」
その後も、次々と繰り出される攻撃を見て、息をするのを忘れるくらい美しい舞踏を見ているような気分だった。
人飼も、それに合わせて踊っているかのように見える。涼しい顔で、飄々と避けていなしてを繰り返していた。反撃しないのかできないのか。その表情からは読み取ることができなかった。
「くぅー! 聞きに勝る怪力。こっちが保たないよ」
感動しているかのような、人飼の言葉。
「さすが。選ばれしスリゴイカ族は違うね」
「褒められてる気がしないけど?」
やんわりとした人飼のしゃべりに対して、フェガロペトラは険を丸出しにしている。
「素直になれば良いだけなのに。今日だって、ちょっと正直になれば少年は辛い思いをせずに済んだわけだし」
「作戦の一環のクセに、良いことした気になってるな!」
大上段から振り下ろされた一撃は、地面を爆ぜさせた。大きなクレーターになっている。
「作戦?」
恒夜が、疑問を口にする。
「後で答えて上げるから、今は離れていて」
恒夜は黙って首肯して距離を取った。
「ねえ、別に少年を殺そうという訳じゃないんだ。ここは譲ってくれないかな?」
とんでもないことを緩い表情で言い出す人だ。
「あんたたちは、恒夜を飼い殺しにするつもりでしょ? わたしはそれすらも気にくわないの。だから、ぶっ潰す。そういうあんたこそ、端金で命を危険に晒すのは止めたら?」
「やれやれなにが、戦乙女だ。どこも乙女チックじゃないじゃない」
突っ込むところはそこなのか、と恒夜は激しく疑問に思う。
そのやりとりの間にも、激しい攻防が続いていた。大きく振るわれる斧。それを、人飼は最初素手だったが、身近なもので防御し始めた。今持っているのは、ベンチ。鉄製の枠の付いた木のベンチだ。それを、片手で両手でと使い慣れた道具のように振り回して、フェガロペトラと拮抗している。
もう現実感などなかった。派手なB級アクション映画を見ているかのようだと思う。それにしても人飼の膂力。これも明らかに人間のものとは思えない。
「こんのっ……!」
攻撃が通らないフェガロペトラが苛立ちを露わにしていた。そもそも、彼女には戦いの駆け引きは無理だと思う。あまりに、どんぶり勘定で、大雑把な性格だからだ。大振りの一撃で、相手を戦闘不能に追い詰めるスタイルが一番適していると思う。すなわち、座右の銘は「一撃必殺」となるだろうか。
ベンチがうざいと思ったのか、武器破壊に走るフェガロペトラ。両手で斧を回転させて、そこからベンチに向かって斧を繰り出す。
「あ、馬鹿」
そんな致命打にならない一撃なんて、ベンチで受けてもらえるわけがない。人飼はベンチを避けさせて、その隙に蹴りをフェガロペトラの腹に叩き込んだ。ものすごく重い一撃なのは、見てるだけでわかった。恐らく、肋骨の何本かは逝っただろう。
その好機を見逃さず、人飼はベンチを高々と振り上げての追い打ち。だが、それがフェガロペトラの脳天を割ることはなかった。ベンチを下段からの振り上げが弾き飛ばす。人飼もその一撃で浮き、二人は距離を取った。
「がふっ」
フェガロペトラが、膝をつき吐血した。
「ロペ!」
「大丈夫!」
恒夜の心配をよそに、フェガロペトラはなんでもないように立ち上がって、口元の血を無造作に拭った。
「さあ、わかっただろう? ここは引いてくれないか? お金にならないことは、あんまり続けたくないんだ」
「それはそっちの都合。だけど、こっちにも都合があるんだから!」
戦斧を片手で持って、猪突猛進。でも、動きはまるで踊っているような、流れるような動き。今までの不利が嘘のように、人飼を追い詰めていく。
「わお。それが、噂に聞く『
舞踏戦斧をしている間のフェガロペトラは、催眠にかかったように、虚ろな目をしていた。でも、敵は見誤っていないし、戦う意思も減じているようには見えない。
踊りの最後を締める動きとともに、ベンチは破壊された。周りには、武器になるようなめぼしいものはもうない。河原は、まるで竜巻が発生したような有様だった。
「悔しいけど、今日のところは引かせてもらおうかな?」
別段悔しくもなさそうに、人飼は言った。
「じゃーねー」
軽薄に別れを告げて、夜の闇に溶けていった。いなくなったのではなく、本当に闇に溶けてしまったのだ。
「ふー」
戦斧を地面に突き立てて、フェガロペトラ・アスィミコラキは、夜空を仰いだ。少しの間夜空を見ていた。恒夜もつられて空を仰ぐ。だけど、街の明かりのせいであまり星は見えなかった。
フェガロペトラは、恒夜の方を見る。仮面越しに。その仮面に手をかけて、剥がしてポケットにしまい込んだ。
「あー、清々した!」
満面の笑みで、恒夜に向かい合う。
「ただいま!」
「おかえり……。ほんとうにロペなんだな?」
「もうばれちゃったから、隠す必要もない。わたしは、フェガロペトラ・アスィミコラキだよ」
恒夜は、今までの会話を思い出し、穴があったら入りたい気分だった。本人向かって、なにを延々と気持ちを語ってきたのか。恥ずかしすぎる。
「なに? 照れてんの? 柄じゃないしょ」
「う、うるさい。柄とかで照れんじゃねえから!」
「なぁに? 昨日まであんなに熱く愛を語ってくれた人とは思えないなぁ」
にやにやとしながら、フェガロペトラは、いじってくる。弱みを握られてしまった。これは、完全に惚れた弱みだ。
フェガロペトラは、堤防に腰掛けた。隣の草をぽんぽんと叩いて示す。恒夜は、気恥ずかしさを覚えながら、隣に腰掛けた。
フェガロペトラは、そんな恒夜の肩にこてんと頭を預けてくる。恒夜は少し驚いたが、すぐに力を抜いて自然体に戻った。
そのまま、二人は河原の対岸を見ている。なにも話さず、ただ、じっと暗闇に浮かび上がる街の灯を眺めていた。
「ねえ?」
「なんだ?」
どれくらい時間が経ったかわからなかったが、フェガロペトラが先に口を開いた。そもそも、黙っているということが難しい性格なのだ。それなのに、こんなに甘い時間を共有できるとは思ってもみなかった。
「怒ってない?」
「なんか、怒られることしたのかよ?」
「うん。いっぱいした」
「例えば?」
「わたしなのに、正体を隠した。身を守るために魔法をかけた。わたしのことで、恒夜がすっごく悩んでいたのに、それを友達の振りをして聞いてた」
「…………。おまえが生きててくれた。それ以上はないよ」
心からのセリフだった。
「ねえ、恒夜?」
「なんだよ、まだなんかあるのか?」
「とびきりの秘密教えて上げようか?」
「ああ、是非聞きたいね」
「わたしね、小学校のときから、気持ち変わってないんだ」
「知ってるよ」
そういって、フェガロペトラの体に手を回した。
「オレもそうだから」
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