02.
恒夜は、多賀谷の問題で頭を悩ませていた。ここ数日、多賀谷は学校へ来ていない。仲間内に恒夜のことを聞いて回っていたようだし、できれば同じ学校のやつに手は出したくはない。それ以外にも、フェガロペトラと切磋琢磨していたのを思うと、情が湧いてくる。
しかし、それをも潰すから、「友斬り」と呼ばれたのだけれども。
夜中徘徊は、まだ続いていた。理由は、殺人犯を倒すことが半分弱、鮮血の戦乙女に出会うのが半分強。だけど、人飼とやらに会うのは全否定で。
正直、人飼みたいのまで自分を狙っているのかと思うと足が竦む。でも、どうしてももう一度鮮血の戦乙女に会いたかった。聞かねばならないことがある。
しかし、出会ったのは、その誰でもなく。さりとて、頭を悩ませている事項に違いはなかった。多賀谷が、橋の上で声をかけてきたのだ。
「よお、良い晩だ。今日こそ、『友斬り』を見せてくれんだろ?」
「……おまえ、学校は?」
「け。おまえに心配されるとはな。というか、その状態で学校へ行けるとか、その神経がわからない」
確かに、異常な状態ではある。日常と非日常が隣り合わせで、お互いを侵略しながら、それでも「今まで」を構築しているのだ。
「オレは、おまえのこと嫌いじゃないんだよな」
「ふん。なんだい、ロペ公から鞍替えかい?」
「いや、単にケンカしたくないだけ」
「なにを、今更。『友斬り』がよく言ったもんだ。あたしにだってあんたを捕まえれば報奨金が出るらしいんだよ」
最近学校に来ないと思ったら、そんなものを求めて動いていたのか。
「仕方がないな」
久しぶりに思ったかも知れない、「仕方ない」。
「いいよ、じゃあ。一回だけな」
ゲームをせがまれた兄貴のような感じで答えた。恒夜は多賀谷に背を向けると、堤防の上に移動する。多賀谷も、いよいよというときが来て興奮してるようだった。大人しくついてくる。
「一回だけだからな。勝っても負けてもこれが最後だ」
「ふん、言ってろ!」
また、パンツ丸見えの足技を繰り出す。左足での浴びせ蹴り。
恒夜は、拳も握らずに、間合いに入ると、多賀谷の軸足の右足を蹴って、多賀谷の顔を持って投げた。幸い堤防の上だ。草が生えているところに投げた。そのせいで、多賀谷は、堤防を転がり落ちていく。
坂の一番下で、緩慢に立ち上がった多賀谷は、信じられないという顔をしていた。これで、実力の差は伝わっただろう。
「じゃあ、明日は、学校来いよ」
そういって、恒夜は敗者を置いて去ろうとした。だが、我に返った多賀谷は追いすがる。
「まだだ、まだ終わっちゃいない!」
「今ので、実力の差がわからない訳でもないだろ?」
「でも、まだだ!」
堤防から追いすがられ、橋の歩道の端辺りで、やりとりをしていた二人だが、不穏な視線にすぐさま反応した。恒夜も多賀谷も自分の後ろをすぐに確認する。
多賀谷側に二人、恒夜側に一人男たちがいた。見た目、違和感のある連中だ。獣が人間の皮を被って歩いているといえばいいのだろうか。血に飢えた目をしている。
「朝霧?」
「ちょっと、待っててくれ。話つけてくるからよ」
「あ、おい」
一人に向かって悠然と歩を進める。なにかとんでもないことをしようとしている予感。端の中央付近で一人と接敵した。
「朝霧恒夜だな?」
ジーンズのパンツに、薄手のパーカーに、ニット帽を被った若者は、恒夜にそう尋ねてきた。
「そうだったらどうした? 道を空けてくれんのか?」
「おまえを捕まえに来た」
「知ってるよ。そこをどけ」
恒夜はどんどん歩いていき、目の前まで来てようやく足を止めた。
「いや、おまえは良くわかってないと思うぞ」
可笑しそうに笑う、若者。
「まあ、いいや。寝てろよ」
恒夜は、問答無用に拳を放った。
それは、確かに若者の顔を捉えたつもりだったが、若者はすんでで避けていたようだ。だが、焦ったふうには見えない。恒夜の拳を余裕で避けるとは、ボクシングのプロ並の反射神経と運動能力である。
続け様に反対の拳を叩き込もうとした。だが、殴ったときの腕をそのまま捕られて、橋の欄干にぶつけられる。
「ぐぅっ」
骨が逝った感触がした。だが、構わず蹴りを放つ。それも届かない。悠々と止めれてまた同じように足を持たれた。残した左足に力を入れて右足を取り戻そうとするがびくともしない。そのまま振り回されて、橋の柱に体を打ち付けられた。
「うがっ」
なんという怪力。巨体のラガーマン藍浦のそれをはるかに凌駕するものだ。
足を取り戻してからは、拳中心の組み立ててで殴りにかかるが、当たらない。当たっても掠ってる程度だ。ダメージを与えられない。まるで、人飼との戦いのようだ。
「やばいモノってこいつらのことね」
すごく得心してしまった。嫌な汗が恒夜の背中を流れる。
そう。
こんな表現が適切かどうかわからない。頭の正常を疑われるかも知れない。だけど、恒夜は人間と戦っている気がしなかった。
「そこまでだ、朝霧恒夜」
後ろから声がかかった。二人の若者の前には、倒れた多賀谷。
「それ以上、抵抗するなら、こいつの頭を砕く」
そう言って、足を振り上げた。問答無用だ。
「待て!」
恒夜にも、足を上げている若者に先ほど相対した若者の力と同等の力があったら、人間の頭を踏み割れるのは容易に察することができた。
「もう抵抗しない。そいつは、許してやってくれ」
「よし、これで導師さまもお喜びになるだろ……う?」
いきなりだった。足を上げた若者に電光石火の跳び蹴りが刺ささる。ほぼ真横からだった。橋の欄干の向こうから蹴らないとできない角度だ。
「な、なにも……の? ぐはぁ!」
そう言ってる間に、もう一人も蹴りを腹に入れられて気絶した。
最後の一人と恒夜の間に身を滑り込ませたのは、赤い髪の少女。顔には、マスカレード用の仮面を付けていて誰だかわからなかった。でも、すごく会いたかった少女だ。
服装は、この前はよく見えなかったが、襟元の大きく開いたワンピース型の戦闘服っぽいものに、ニーソックス。靴は、揃いのブーツ。スカートは短め。というか、さっきのキックのときにはっきり見えていた。胸元には、斧の形をしたペンダント。
「なにもんだ、てめえ」
若者は低く脅すように声を出した。
「第七〇代、鮮血の
「ぶ、鮮血の戦乙女、だと?」
若者の狼狽ぶりがすさまじい。
「ここまでは、戯れ。だが、この先は死地と心得よ!」
どこか、芝居がかった台詞回し。なにか引っかかる。が、若者は舌打ちを一つして逃げていった。
「すげえな、あんた。まるで、赤い稲妻みたいだった」
少女は、無言で恒夜の頬を張る。首がもげるかと思った。
「なんで、なんでもかんでも拳で解決をしようとするのよ!」
「それしか、解決方法を知らないからだよ」
恒夜は、驚くほど冷静だった。見知らぬ、正体不明の女に頬を張られても、頭に来ない。
「もっと学びなさい。友達を失う前に」
鮮血の戦乙女と名乗った女は、多賀谷のところに行ってしゃがみ込んだ。ぺたぺたと体を触っている。
「ん。気絶してるだけね」
「おまえも、オレが目当てなのか?」
鮮血の戦乙女は、今度は逆の方から頬を張った。
「これは、死んだあんたの友達の分」
「死んだ友達、だと? おまえは、ロペのことを知ってんのか?」
思わず、上着の襟首をつかんでしまったが、軽やかに投げられた。
「あんたよりは、知らない。でも、既知だった」
尻餅をついた状態から見上げた彼女は、淡い月の光に照らし出されて、とても美しかった。茫然と見上げている恒夜。
「惚れんなよ?」
この前の焼き直し。にっと笑って、それだけ言うと、鮮血の戦乙女は橋から飛び降りた。
「おい、待てよ!」
聞きたいことはたくさんあるのだ。止めようと橋から覗いたときには、もう空を飛んで遠くになっていた。
家について、彼女を思い出してみる。くせっ毛な赤いショートヘア。悪戯っ子のような笑み。演技じみた台詞回し。人の話を聞かない勢い。
なによりも圧倒的強さ。
それを思い出した瞬間、体に寒気が走った。そういえば、自分の戦っていた相手は人間ではなさそうだった。しかも、それを悠然と退けて見せた鮮血の戦乙女。
彼女の助けがなければ、恒夜は連れ去られていただろう。連中は何者なんだろうか。皆目見当もつかない。
もう一度彼女に会って、今起きていることを聞きたかった。自分がどんな状況に置かれているのか。解決方法はあるのか。彼女は誰で、なんのために自分を助けてくれたのか。
恒夜は上着を手にすると、また徘徊しに夜空の下に出ていく。でも、行く当てもないので、適当にぶらついていたら、フェガロペトラの家の前に着ていた。二階建ての普通の一軒家だ。家族ごと殺されたので今は無人。
そのはずだった。しかし、家の中に誰かがいる気配がする。警察の人間か、空き巣か、それとも殺人犯が戻ってきたのか。いずれにせよ気になった。
恒夜は、自分の好奇心に勝てず、敷地内へと踏み込んだ。きっと、いつかこの好奇心が恒夜を殺すかも知れない。でも、後悔はしないだろう。それがフェガロペトラと自分の共通の悪癖だったからだ。
家の鍵は――開いている。そこから、音もなく忍び込むと、気配のする二階へと昇っていく。しつらえのしっかりした階段は、音をまったく立てず攻略できた。気配があるのはフェガロペトラの部屋。
いろんな馬鹿な話や馬鹿なことを考えたりした思い入れのある部屋。なによりも、好きな女の子の部屋だ。泥棒はもとより、警察だとしてもあまり入って欲しくはない。今となっては警察の線は薄い。電気を一つも使っていないからだ。やましい証拠に他ならない。
恒夜は、拳を固めて、部屋のドアを勢いよく開けた。
「誰だ、てめえ!」
そこに立っていたのは、凛然と佇む、鮮血の戦乙女。柔らかい月の光を受けて燐光を発しているような白い肌。血で濡れたような生々しい赤い髪。肌?
ちょうど、鮮血の戦乙女は、着替えをしていたのか、ショーツにマスク姿という非常にマニアックな格好をしていた。
恒夜は、言い訳できずに見とれてしまう。
「なに、見入ってんだよ、このエロ左右衛門!」
強烈な、蹴りが恒夜の腹を捉える。中身が全部出てくるかと思った。そのまま恒夜は、廊下に転がっていって後頭部を壁にぶつけて止まる。頭がくらくらした。いろんな意味で。
着替えが終わって、出てきた姿は服装は、襟元の大きく開いたシャツに、ショートパンツにニーソックス。フェガロペトラが気に入っていた組み合わせだ。
首には、先ほどもしていた斧の形をしたペンダントがぶら下がっていた。女性がつけるには少し無骨ではないだろうか。
恒夜は、頭をぶつけたまんまの姿勢だった。それを踏みつけにする形で、鮮血の戦乙女は、恒夜の前に立った。
気のせいか怒りを感じる。しかも、強い。表情はまるで読めなくても、全身からこれでもかと発してくれれば、恒夜でも気づける。
「ま、待て。その溢れる殺意をしまおう、な? オレたちは知的生命体だ、わかりあえる」
「誰にも、見せたことなかったのに!」
その瞬間、怒気が何倍にも膨れたように感じたが、そのまま周囲に発散してしまったようだ。
「あんたはここでなにをしてるの?」
彼女は、努めて冷静な声で会話を始めてくれた。
「おまえこそなにをしてる?」
さっきの短いスカートなら、きっと中が見えてただろう角度。実に惜しい。
そんなことより。やはり、もう一度鮮血の戦乙女に会っておいて正解だ。彼女は、ものすごくフェガロペトラに雰囲気が似ている。顔のラインや、表情の作り方、自慢のバストを含めたプロポーション。なによりも、その天然パーマのうねり方。
まるで、フェガロペトラの生き写しみたいな存在だ。
「わたしは、あれだ。知り合いの家で、着替えを借りていた」
「こんな夜に? 無断で?」
「許可は、もらっている」
自信たっぷりに言う彼女を、恒夜は不愉快そうに眉を顰めて見た。
「な、なによ?」
「ここの家主はちょっと前に殺されているんだ。おまえは誰から許可をもらったんだ?」
「そんなこと、あんたには関係無いことでしょ? 合い鍵だって借りている。それが証拠よ」
そういって、鍵をポケットから取りだして見せてくる。
「なにが目的だ?」
「あんた、頭おかしいんじゃない?」
「ああ、もしかしたら自分でもそうじゃないかって思ってる」
鮮血の戦乙女は、ぎゅっと、恒夜を踏みつけてる足の指を曲げた。
「目的とか、敵とか、そんなものばっかり気にしてさ。窮屈じゃない?」
「すごい窮屈だ。でも、仕方ないじゃないか」
「なにが?」
鮮血の戦乙女の声に険が籠もる。そんなところまでフェガロペトラと一緒だ。
「なにが、仕方ないって言うのよ」
足に力が込められた。
「オレは、こういうふうにしか生きられないから。それに、自然に生きてきたらこうなった」
「じゃあ、生き方変える努力をしなさいよ!」
「なんで、おまえが怒ってるんだよ?」
「生きたくても生きられなかった人を知ってるから。命を粗末にするやつは許せないの!」
フェガロペトラのことだろうか。すごく心が痛い。
「ごめん」
「笑って死なない、そういこうよ」
「ああ、そうだといいな」
「なんで、諦めたふうな口調なのよ」
「手遅れかも知れないな、と思って」
「大丈夫。あんたはわたしが守る」
「なんで?」
「それがわたしの意思だからよ」
恒夜はきょとんとしてしまう。意味がわからない。初対面の女の子に守ってもらうような善行を積んだ覚えはない。
「ええ、意味がわからないでしょうね。でもね、わたしはやらされてるんじゃない、自分からするの。そこを間違えないでね」
そういって、足をどける。
だけど許してくれる気はないようで、今度は馬乗りになって、恒夜の襟首をつかむと顔をゼロ距離まで近づけて、おでこを付き合わせた。
「んじゃ、いろいろ話してもらおうかな」
とても楽しそうなしそうな口調だ。それよりも、彼女からは甘い、女の子特有のにおいがした。
「なにを話せばいい?」
「とりあえず、そのわたしに似ている女の子のことでも聞こうかしら」
「ロペのことか? いいけど、おまえらのことも聞かせろよ」
「わたしらのこと?」
鮮血の戦乙女は、なんのことか思い当たらないという表情だった。
「そうだ、それを聞きたいためにずっと捜してた。おまえら人間か?」
当てずっぽうな問い。鼻で笑われても仕方ない内容だ。この科学万能の時代になにを世迷い言言っているのだろうか。自分でも頭のおかしさを疑いたくなる。
「そうね。後で、教えて上げる。ロペ……ちゃんのことを聞きましょうか」
「……おまえにそっくりなんだよ。背格好から、雰囲気、仕草、声、そのくせっ毛まで。だけど、オレの中のなにかが、おまえらを別人と判断してるんだよ」
「好きだった?」
「ああ」
「どれくらい?」
恒夜は一瞬考え込んだ。なんで、そこまで話してやらねばならないのか。でも、鮮血の戦乙女になら話してもいいと思えた。なぜだろう。わからない。
「ねえ、どれくらい?」
甘えるような声と興味津々という声が混じった不思議な声。
「そうだな。子供の頃、結婚の約束とかしたことないか? 戯れにさ。でも、オレはそれを本気で思っていたくらい好きだった」
「ふーん」
口元に人差し指を当てて、軽く口を尖らせた。ものすごくぞわぞわする仕草だ。
「なんだよ」
「いやあ、熱いなぁと思って」
軽く紅潮している頬。色っぽい。
「ロペちゃんってさ、どんな子だったの? あんたの目にはどう写っていた?」
「おまえの目にはどう写っていたんだよ?」
「質問に質問で返すか、無礼者め。まあ、いいや。なんていうか、破天荒なことばかり言ってて、ついていくのが大変だったかな」
「ふーん。ロペは、大雑把で、適当で、不器用だったけど、侠気溢れる女の子だった」
なぜかむすっとした顔をする鮮血の戦乙女。
「なんで、おまえの機嫌が斜めになるんだよ?」
「女の子の褒め方というのをあんたは知らなすぎじゃない?」
「しょうがないだろ、実際そうだったんだから」
事実無根ではないし、そういうところに惹かれていたのだから「仕方がない」。
「傑作だったのは、宿題の件を忘れていたときだったな。先生とロペが『宿題を忘れました』『見ればわかるぞ、アスィミコラキ。なぜかと聞いているんだ』『記憶からすっぽり抜けていたからです』先生は唖然としてたよ。それを忘れるっていうんだからな」
「それで、どうなったの?」
「『昨日、朝霧くんたちとアスレチックに行ってきました。それが楽しくて、忘れました』って、軍隊調に言うんだよ。そんで、どうにもこうにも潔すぎて、先生も明日までにやってくるように言うしかなかったんだよ。本当に向日葵みたいなやつだった」
感慨深く語る恒夜。
「向日葵は好き?」
「ああ、花とか良くわからないけど、あの大きな元気の塊みたいなのところは好きだな」
「そう」
仮面のせいで表情は、良くわからないが、なんとなしに優しい雰囲気のような気がする。
「あいつは、夏みたいなやつだった。からっとしてて付き合いやすいやつだったんだよ。でも」
「でも?」
「でも、八方に気を配って、みんな仲良くして欲しいみたいなところがあったんだ。だけど、現実みんなから好かれるなんてことはないだろう? それでも、一方からでも嫌われるとへこむんだよ。こう見事に。そのへこむ姿を見る度に、オレは彼女を抱きしめたくなってな。世界にはおまえ一人じゃない。オレがいるってな」
仮面から下を真っ赤にする鮮血の戦乙女。
「ん? どうした?」
「あんたの表現の仕方が恥ずかしいのよ、馬鹿!」
「照れてるあいつは、可愛かったなぁ」
「聞いてない!?」
「おまえが聞きたいって言ったんだろう?」
やれやれといった感じの恒夜。ひそかに、反応も楽しんでいる。
「それにしても、そんなにわたしとロペちゃんって似てる?」
挑発的なポーズを取る鮮血の戦乙女。否応なしにフェガロペトラのことを思い出してしまう。なにかが、恒夜の頭のねじを飛ばした。
「似てるとかのレベルじゃねえんだ。押し倒すぞ、この!」
鮮血の戦乙女の挑発に耐えられなくなって、掴みかかる。簡単に投げることができた。ベッドの上に転がして馬乗りになる。
「あん」
わざとらしい、艶っぽい声。
「で、どうするの? わたしの仮面を取って確かめてみる?」
なにを確かめるというのだ? 彼女がいくらフェガロペトラに似ているかわかったところで仕方ないのだ。
「く」
投げた後のことなんて考えていなかった。むしろ、彼女がフェガロペトラであることを隠すことになんのメリットがあるというのか。
似ている。確かに似ている。だけど、仮に彼女が本物のフェガロペトラだとしたら、あの火葬で骨になったのは誰か。悲しくて胸が張り裂けそうになった日々は、なんだったのか。そして、彼女は人間ではなかったのか。
そのことを確かめる勇気は、今の恒夜にはなかった。情けなさと幼い怒りがない交ぜになって、恒夜を混乱におとしめる。
結果、恒夜は仮面に触れる仕草も見せないまま、彼女の上から降りた。
「意気地なしなのね」
「うるさい!」
顔が紅潮していくのがわかった。完全に羞恥だ。
「でも、わかったわ。あんたを少しは理解できた、と思う。あんたを守ろうって思って正解だったとは、言い過ぎだけど、守ってもいいかなって思った。正直、こっちも不安だった訳よ。人間のクズだったらどうしようとか、ただのエロイやつだったらどうしようとか、拳でしか語り合えないやつだったらどうしようとか」
「ふ、ふん」
おどけた感じで言う彼女に、わざとらしく鼻を鳴らしてみせた。
「で、あんたはなにをしにこの家に来た訳?」
「おまえに会えないかとぶらついて、気がついたらここに来ていた」
「あっきれた。早く、その子のこと振り切りなさいよ」
かっと、頭に血が上るのがわかった。
「オレのなにが、わかったんだ!」
思わず掴みかかった。
「あんたのために言ってるんじゃない。その子のために言ってるの」
「どういう……?」
「現世で想いが強いと、成仏できないのよ」
「成仏? そんな成りして仏教なのか?」
く、と思わず笑いが漏れた。
「な、なによ? 変なことは言ってないわよ」
「そうだな。そうかも知れない……。でも、忘れられねえんだ」
遠い目をする。その遙か向こう側には、確かにフェガロペトラがいるのだ。
「で、わたしを捜してたって言ったけど、えっとなんでだっけ?」
「ああ……」
「どうしたのよ、今更恥ずかしがることなんてないでしょうよ」
「おまえらは、なにものだ?」
ちょっと、意地の悪い笑みを浮かべていた鮮血の戦乙女は、口元を引き締めた。仮面でよくわからないが真面目な顔つきになったのだと思う。
「あんた、魔法使いって信じる?」
「オレの頭がおかしくなっているかも知れないというのは、そのことについてだ」
「あんたのは、元からよ」
ばっさりと切り捨てられた。この短時間で自分のなにがわかったというのだろう。
「魔法使いね。空飛んだり、バケモンみたいな連中と互角以上に渡り合ってのを見たら信じざるを得ないな」
「後、あんた、吸血鬼って信じる?」
「吸血鬼ぃ? あの映画やマンガで大活躍のヴァンパイアってやつか?」
「そう。あんたが今日、手を出したのは吸血鬼。中でも、もっとも有名なヴァンパイア族」
申し訳なさそうに顔を伏せた。仮面越しでわからないけど、目も伏せてる気がする。
「……」
言葉がない。あれは、本物の化け物だった。
「そして、このわたしも……」
「はは、まさか。おまえも、吸血鬼なのか?」
思わず、後ずさっていた、廊下の壁に背中をぶつける。
「そう、だといったら?」
鮮血の戦乙女は、にじり寄ってきて、恐怖で固まった恒夜の首に顔を近づける。
や、やめろ! 声にならない。これが吸血鬼に睨まれた人間か。なにもできない。
生暖かい吐息が、首筋にかかって、緊張と恐怖が最高潮になる。恒夜は、身を竦めた。覚悟を決めきれないまま、怯えた恒夜の首筋を軽く、舌が這った。それだけで、今度は身が震え上がる。
「冗談だよ。そんなはことしない。だから、そこまで怯えないでくれるとありがたい」
とても悲しそうな雰囲気が、仮面越しにも伝わってくる。だが、そんな悲哀もすぐに消えて、引き締まった表情になった。
「改めて名乗っておこう」
二人の間に流れる空気がおかしくなったのを力技で戻そうとしている感じだ。流れにそぐわず、明るい口調。
「わたしは吸血鬼、ストリゴイカ族、第七〇代鮮血の戦乙女。名は……ない」
だが、一方で恒夜は、恐怖と驚きで喉がからからに渇いていて、張り付いてるのがわかる。声がうまく出せない。でも、ここは、引くべきところではない。名乗りに対して名乗るのがこの場の最上の礼儀のような気がした。声を絞り出す。
「お、オレは……。オレは! 朝霧恒夜。人間からちょっとずれてるかもだけど、人間だ」
「知ってるよ、恒夜。良い名前だよね。よく聞いた響き」
勇気を振り絞って、名乗った。一度は命を助けられたのだ、これくらいはすべきだと思う。それにしても、恒夜の名前を懐かしむような感じ。なぜだろう。
「も、もう一つ、おまえに聞きたいことがある」
その違和感よりもまだ聞かねばならないことがあった。
「なに?」
「オレが、どうして、その、吸血鬼に狙われるんだ? そして、吸血鬼に守られるんだ?」
「恒夜、あんたの血は特別な血なの。吸血鬼の体を癒し、どんな欠損も補い、弱点を一時的に消すような強力な血なんだよ」
「オレの血が? 普通のB型だぞ?」
「それは人間の尺度でしょ。吸血鬼から見たら、奇跡のような血なの」
にわかには信じがたい話だった。
「でも、ならば今になってどうして急に?」
「血を守るものが死んだから」
「血を守るもの?」
「そう。アスィミコラキ家の吸血鬼たち。彼らは、昔からあんたを見張っていた。それだけで、周りも手を出さないで来た。リスクが大きいし、十六歳にならなければ、その血は覚醒しないから」
十六歳? ついこの前、迎えたばかり。
「まさか、ここの家族が殺されたのって、オレを守るための戦いに負けたからなのか?」
絶望的観測。もっとも愛した少女は、自分が原因で死んだ。さらに。
「じゃ、あ。彼女は、ロペは、吸血鬼の一族だったのか?」
鮮血の戦乙女は、静かに首肯した。
「でも、あいつは太陽をものともしてなかったし、別に血を吸われたりしなかったぞ!」
「それは、わたしたち、ストリゴイカ族がそういう種族だからとしか説明できない」
廊下の壁につけた背中がずるずると滑り落ちて、尻餅をついた。
「はは、そうか。あいつは吸血鬼だったんだ」
「軽蔑する? 化け物って罵る?」
「なんでだよ? オレは、フェガロペトラ・アスィミコラキ個人が好きだったんだ。少なくとも人間かどうかなんて気にならないくらいには」
「彼女は幸せだったし、これからも幸せだよ」
優しく微笑んだ口元は、まるでフェガロペトラの快活な笑いからはほど遠かったが、懐かしい感じがした。
「あんたは、わたしが守ろう。で、あんたは、なにと戦うの? いや、戦っているの? わたしには、現実逃避にしか思えない」
「そうだよ。現実逃避だ。良い表現だ」
恒夜は、フェガロペトラの死が認められず、現実逃避しながら八つ当たっているのだ。この世の多くの理不尽と戦っているといえばかっこいいかも知れないが、ただのわがまま。認めがたきを認められず、消化不良を起こしているだけ。
「今日からも、まだそれを続けるの?」
「ああ。まだ、ロペを殺した犯人が捕まっていないからな」
「犯人は、吸血鬼だよ? あんたじゃ逆立ちしても勝てやしない」
「それでも、正体を掴むことぐらいはしたいと思うんだ」
「……」
今度は、鮮血の戦乙女が口ごもる番だった。
「悪いな。あいにく、正しいか間違ってるかでやっていなんだ」
「ふう。あんたって馬鹿よね。この短時間ででもはっきりわかった。命は一人一つ。なんでそれを投げ捨てるような真似をするのか理解に苦しむわ」
「そんなん、かんた……」
鮮血の戦乙女は、手で制した。
「皆まで言わなくてもわかってる。人間て、そういうところに命賭ける生き物だよね」
「ああ。だから、おまえもついてこなくていいぞ。死地には一人で充分だ」
「はっ、そんな訳に行く訳ないでしょ。へそで茶が沸くわ。わたしは、与えられた仕事を途中で投げ出したくない。だから、あんたを守ってみせる」
ここら辺もフェガロペトラとすごく似ている。フェガロペトラの場合は、「決めたことを覆すのは嫌いなの」ぐらい言うだろうけど。
「…………なあ」
しばしの沈黙の後、切り出す。
「吸血鬼って、あんな簡単に死ぬ生き物なのか?」
「死ぬわよ。弱点っていうのがあってね。そこをつかれると、あんたでも吸血鬼を倒せるわよ」
「そうか。オレでも殺せるのか」
拳を強く握って、ゆっくりと開いた。
「馬鹿に馬鹿って何度も言って申し訳無いけど、馬鹿なことは考えないことね。吸血鬼はわたしに任せておいて」
「馬鹿は、死ななきゃ治らないんだぜ」
「自分で言ってて悲しくない?」
「馬鹿は、馬鹿で馬鹿なのではない。馬鹿なのを知らずして馬鹿なのだ」
「開き直らないでくれる? 苦労はわたしがするんだから」
「ああ。大概にしておくよ」
鮮血の戦乙女は、恒夜に指を立てて忠告する。
「あんたは狙われてる」
「誰に?」
「導師、マレフィクス。強力なヴァンパイア族で、位も高い」
マレフィクス。どこかで聞いた覚えのある響きだ。
「言霊を操り、名を知られたものは、絶望する以外にないといわれている」
名を知られると困るのか。それも聞き覚えがある気がした。
「そんなやばそうなやつに、なんで狙われてるんだ?」
「やつは目が見えない。恒夜の血にはそれを快復させる可能性がある」
心の中では、たまったものじゃないと思った。
「おまえは勝てるのか?」
「勝てるか勝てないかじゃない。勝つの! それ以外の方法ではあんたの人生は守れない」
「お、おう。じゃあ、任せた」
勢いに気圧されて、頷いてしまった。
「あいよ! 任された!」
気っ風のいいところまでそっくりだと思った。
フェガロペドラの家を出たとき、外では静かに雪が舞っていた。
「くぅ~、寒いはずだぜ」
小刻みに体を震わせた。でも、内心、冬の到来に心躍らずにはいられない。理由は単純明快、フェガロペトラが好きだったからだ。今でも、犬のように雪の中をはしゃぎ回るフェガロペトラが忘れられない。
こうした季節の変化、節目の出来事、些細な日常からきっと、彼女を思い出すのだろう。それは苦痛でもあるが、彼女との最後の繋がりだ。大切にしなくてはいけない。
それに人間は嫌でも忘れていく生き物。意思の力を持って忘却と戦う。それもまた、恒夜の戦いの一つだと思った。
「寒いのがわからない」
唐突に、送ってくれる目的で隣を歩く、鮮血の戦乙女は、そう呟いた。
「こんなに冷えるのに?」
「うん。吸血鬼というか、
素手を空気中に晒して、そのさまは寒さを掴もうとしているようで、でも空を切る訳で。
「
「ああ、非人間の総称よ。妖怪だとか、悪魔だとか、吸血鬼とかのね」
「なんか、その口ぶりだと、この前まで人間だったみたいだな、はは」
鮮血の戦乙女が、軽く体を動揺したかのように震わせた。
「そ、そんなことある訳ないでしょ? 暑い国から来たからちょっと戸惑っているだけよ、うん」
「そうか? ならいいんだけど」
しばらく黙って並んで歩いた。隣にいる鮮血の戦乙女は、今日会ったばかりとは思えない馴染み具合を見せている。黙って隣にいながらまったく居心地が悪いとか、空気が微妙とかにならない。昔からの知り合いのようだった。
「ねえ、恒夜は、冬は好き?」
名前で呼ばれても違和感がないし、嫌な気分にもならない。むしろ、もっと呼んで欲しいとさえ、心の端では願っていた。
「なんだよ、唐突に。そうだな、冬を喜ぶ姿は好きだった。けど、冬は嫌なことを思い出すから好きじゃない、かな。体が凍える度に、心が凍てつきそうだったのを思い出しちまうからな」
「なにかあったの?」
「いや、第三者には大したことじゃないんだけど、オレらには大事なことがあったんだよ」
鮮血の戦乙女は、黙りこんでしまった。
「どうしたよ?」
「大事なことってなんだったの?」
「あー、いや、大したことじゃないんだ。ただ、一つ謝り損ねた問題があっただけだよ」
また、黙り込む鮮血の戦乙女。
「あんたの言葉、彼女に届けてやろうか?」
「はあ? なんだよ、そんなこともできるのか?」
「
大真面目な顔で、格好のつかないことを言う鮮血の戦乙女。
「はずって、他人事だなぁ」
思わず苦笑してしまう恒夜。
「でも、頼むかな。おまえは、なんだか話しやすいんだ。だから、もし届けられるなら届けて欲しい。彼女に、『おまえの告白を茶化したのはオレがガキだったから。本当は死ぬほど嬉しかったのに、照れ隠ししちまった。それを謝りたい』と」
「ふーん、彼女からも告白されたんだ?」
戯れに、結婚の約束をしたくらいの仲ではある。
「まあな、小学生のときな。今でも悪いことしたなって思ってるんだ」
目の前で、勝ち気な彼女が大粒の涙を流しながら、泣きじゃくる姿を未だに夢に見る。人生というやつをやり直せるなら、そこをやり直したい。もう少し、言い方もあっただろうに。
「よし、この第七〇代鮮血の戦乙女、しかと伝言託された!」
「お、おう。じゃあ、頼んだ」
そんなこんなで、恒夜の家の前に到着していた。
「もう、着いちまったな」
「そうだね。寒いんでしょ? 早く上がって温まりなさいよ」
「ああ。なあ、次は、いつ会える?」
「なあに? 惚れんなって言ったでしょ」
「ちげえよ」
違わないかも知れない。
「伝言の答えを聞きたいなと思ってよ」
頬を赤らめながら言った。我ながら苦しい理由だ。鮮血の戦乙女も呆気にとられた顔をしている。
「それは……、あんた次第だね」
「……そうか。オレは、徘徊を続けようと思う」
「そっか。じゃあ、またどこかで会えるかも知れない」
「期待していいのかな?」
「ダメだっつってるでしょ」
「……おやすみ」
名残惜しいが、鮮血の戦乙女に別れを告げた。
「良い夢を」
そうだ。もう、悪夢はこりごりだ。
また、フェガロペトラとの思い出を後生大事に抱えて眠るのだ。見るもの全てが美しく、手の加えようのない完成された美術品のような夢を。
それが全て、手を加えられないが故に悪夢であるのだが、それすらも、今では大事な品々だ。ないがしろにはできない。悪夢を大事に大事に抱えて眠る。それが、恒夜の選択であり、唯一できることなのだから。
「ありがとう。だけど、オレには良い夢は見れそうにないよ」
「じゃあ、せめてとろけるような、甘い悪夢を」
確かに。恒夜の見る悪夢には、棘と同時に飴も仕込まれているのものだから。
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