01.

 昏く静かで死人のような夜。真綿で首を締め付けられるような空気。恒夜も引きずっていかれそうな暮夜だった。

 幼なじみが、死んだ。正確には殺された、だ。それも家族ごと。

 「誰に」かはわかっていない。昨日の夜、赤色灯の集まる路地で、最期に彼女に会ったという事実以外なにも分かっていない。

 サイレンが集まってくるので、嫌な予感がして、近くに住む幼なじみの家まで全力で走った。そしたら、彼女が血まみれで運ばれていくところに出くわしたのだ。最期の言葉は聞き取れたと思う。

「七年後に生き返るから」

 でも、意味がわからない。

 正直、恒夜こうやは彼女が好きだった。幼い頃に、戯れに結婚の約束もしていたのも今でも覚えている。半ば本気だった。恒夜にとって彼女は唯一無二の存在だった。

 恒夜は、ベッドの上に寝転がりながら虚ろな瞳で天井を見ている。焦点は合っていない。

 先日恒夜は十六歳の誕生日を迎えたばかり。高校に入ってからの初めての誕生日。馬鹿騒ぎで祝ってもらったのだ。今度はフェガロペトラの誕生日を祝う番だった。でも、彼女はもういない。

「くっそ……!」

 泣きそうになるが、堪える。涙は流さない。フェガロペトラならきっと「笑ってお別れ。またすぐに会えるよ」とかなんとかいうだろう。だから、恒夜は泣く訳にはいかなかった。

 朝霧恒夜ともぎりこうやは、フェガロペトラ・アスィミコラキが好きである。この事実は不動のものだ。これまでもそうだったし、これからもそうなのだろうという実感。彼女が死んだくらいでは、振り切れないだろう想い。一生抱えていかねばならない気持ち。例え、別の女性と結婚して子供が生まれ、孫に囲まれて死ぬことになっても決して揺るがないだろう感情。

 苦しい。気持ちを伝えておけば良かった。ただひたすらに思い浮かぶのは慚愧の念。恒夜にとって、フェガロペトラとの距離感はあまりに居心地が良すぎた。仲間との関係も含めるともう手放せないし、壊せるようなものではない。でも、それもある意味壊れた。

「みんな、なくなればいいのに……」

 まるで死が染み込んできそうだった。だけど、それを押しとどめているのはフェガロペトラのような気がしている。すぐ側に、彼女がいるような感覚。それだけで、やっぱり泣きそうになるのだった。でも、その感情を綱に生きていける気もする。

 ごちゃごちゃと考えるのが面倒くさくなって、思考を手放した。それと同時に睡魔が疲れた恒夜を眠りの淵へと誘う。もうそれ以上の纏わり付くような想念は浮かび上がってこなかった。



 忠別市ちゅうべつし、人口三十六万人前後。恒夜が生まれたときからずっとこの数字を維持してきている街。川の街であり、橋の街でもある。都会と呼ぶには閑散としていて、田舎と呼ぶには雑然としていた。

 そこの朝は、カラスの野太い鳴き声で始まる。早いときには三時にはもう鳴いていることもあった。今日も朝早いカラスの鳴き声で目を覚ます。

 枕元には、写真立てと数冊のアルバム。寝ぼけまなこに写真立てに手を伸ばした。

 写真立てに写っているのは、一人の少年と少女。日本人の母親譲りの青みがかった黒い髪。だけど、すごいくせっ毛で、長くすることが出来ないとグチっていたのは記憶に新しい。それと東欧出身の父親譲りの日に焼けても染み一つ付かない白い堅牢な肌。

 写真では満面に笑顔の華を咲かせているのでわかりにくいが、黒曜石みたいな瞳をしていて、どんな無茶でも通す強い意思でいつもまぶしく光っていた。

 次にアルバムの一冊に手を伸ばす。そのアルバムには、長いこと友人である高山、藍浦、七沢、そしてフェガロペトラの写真が収まっている。馬鹿なことも真面目なこともいろいろやらかした。共通してるのは、全部真剣だったということだ。馬鹿なことを大真面目でできる貴重な仲間たちだった。

 手に取ったのは、一番新しいアルバム。夏休みにやった遊びが詰め込まれている。それを見ていると、昨日のことのようにそれらのことを思い出せた。

 夏休みの始めに、皆で海へ行ったときの写真から始まっている。そこには、体力馬鹿のラガーマン、藍浦がタコを捕ってきて、それからフェガロペトラと七沢の女性陣二人が真剣に逃げていたのを恒夜が笑いながら見ている画。その光景を高山が写真に納めたものが写っていた。

 この後、逃げてる最中に転んだ七沢にタコを押しつけようとした藍浦が、フェガロペトラの美しく引き締まった足で蹴られて、制裁を受けたのも覚えている。

 そのときの暑さ、潮の匂い、砂の感触。そして、フェガロペトラの眩しさ。それらがあまりに鮮明の思い出せたので、くすりと頬が緩んだ。思わず、涙がこぼれそうになったが悲しみは飲み込む。

「泣いてもいいんだよ?」

 昔、飼っていた犬が死んだときに、フェガロペトラが恒夜に言った言葉だ。恒夜は、我慢していた。なぜなら、自分よりフェガロペトラに懐いていた犬が死んだのに、彼女は顔をくしゃくしゃにして我慢していたから。

「仕方ないじゃないか、寿命だったんだよ」

 強がる恒夜。フェガロペトラは、もうほとんど泣いていたのに、涙だけは絶対見せようとしなかった。そういえば、涙だけは恒夜も見たことがないかも知れない。

「悲しいときには、泣いていいんだよ? 恥ずかしいことじゃない」

 じゃあ、なんでフェガロペトラは我慢しているのか。それを問い返す必要はなかった。天寿を全うしたんだから、笑顔で見送るべきだ、と言うに決まっている。その後、しゃにむに笑ったのを見れば、子供心ながらにも理解せざるを得なかった。

 今、天国から同じことを言われている気がする。でも、フェガロペトラは、天寿なんて全然全うしていない。笑える理由など微塵もなかった。

 そんな思い出が大なり小なり恒夜の頭をかすめていく。どれも、大事な思い出だ。そのどれもが、今では輝いている。朝の時間は夢と思い出にまみれあっという間に通学時間になった。

 秋の通学路を歩く。落葉が始まり、道ばたは黄色い銀杏の落ち葉でうずたかくなっていた。制服は、もうすでに冬服である。ベージュのブレザーに濃い色の同系色のチェックのズボン。女子も似たようなもので、市内ではかなり目立つ部類に入る。

 校舎が近づくにつれて、同じ格好の人間が増えてきた。自分は、こんなに辛い気持ちなのに、周りは明るい挨拶で満ちあふれている。

「よ」

 恒夜も誰かに肩を叩かれたので、そちらを見やるとお世辞にも明るい顔とは言えない高山がいた。メガネが似合う知的な雰囲気の持ち主である。苦笑いのような、無理に明るさを作り出しているという顔だ。まだ恒夜よりもショックが少ないのか、それとも単純に大人なのだろうか。

「おう」

 沈んだままの恒夜。それを見て、高山も言葉を繋げないでいた。二人そろって、口をつぐんだまま校舎に入っていく。教室に入ってもその暗さは纏わり付いたままだった。

「おはよう」

 さすがにいつも明るい藍浦すらも落ち込んでいる。大柄で、引き締まった筋肉が威圧的なぐらいに感じる男だ。通夜のような雰囲気という表現があるが、まだ通夜も終わってない。でも、藍浦は急に笑顔になって言った。

「ロペは、絶対俺らのこんな姿、望んでないって。笑って送って欲しいってそういうと思うぜ」

「ああ。そうだな。きっとあいつならそう言うだろうな。だけどよ、藍浦。また暗い顔してるぜ?」

 恒夜の指摘に、藍浦は「だよなぁ」と漏らすだけにとどまった。ため息こそ出ないものの、三人は落ち込んでいる。心なしか、教室もその色に染まっているかのようだ。確かに、フェガロペトラは、ムードメーカーだった。その彼女が殺されたと聞いて、皆も多かれ少なかれ心を痛めているのだろう。

 今日は、その件について全校集会がある。普通に考えてもわかることだ。殺人が起き、その犯人がまだ捕まっていないとなれば、いろいろと自粛せねばならないことがあるだろう。しかも狙われたのが、女子生徒となれば、余計神経を尖らせるところだ。

 その後、三人は頭を付き合わせて、ひたすらダークな空間を作り上げていた。教室にはいつもある笑い声どころか、明るい口調すらない。

 そこに一縷の光を灯したのは、七沢だった。肩口くらいの長さの髪を二房に分けて縛っている女の子で、目元は優しく、フェガロペトラとは対照的な印象だ。大人しい感じを画に描いたような、とはフェガロペトラが彼女を評して言った言葉だった。

 そんな七沢が、手前の高山と藍浦の頭に、いきなりチョップをかましてきたのだ。普段、そんなことをする性格の子ではない。

「朝霧くんにも、えい」

 位置的に届かないため、恒夜にはエアチョップだった。

 いつもは大人しく、フェガロペトラや恒夜の後ろに隠れているような子なので、男三人は驚きを隠せなかった。それにやった本人も緊張で軽く震えている。こういうことはフェガロペトラの役割だ。それを制止させるのが七沢の役所だったはず。男たちが無理をしているのと同じように彼女もまた必死なのだろう。

「く、暗いのは、ロペちゃんも望んでないと思うよ?」

 結局、恒夜もそう思ったし、高山も引きつった笑顔だったし、藍浦も七沢もそのことを口にした。フェガロペトラは、そういう存在だったのだ。

「……七沢」

 そんなつぶやくように名前を呼んだのと同時に、全校集会のための招集が校内放送によってかけられた。七沢は、俯いている。

「さて、行くか」

 恒夜が席から立つ。

「サンキュー」

 高山が七沢に礼を言った。

「ありがとさん」

 藍浦も。

「ありがとうな」

 恒夜も、礼を言って、七沢の頭にぽんと手を置いた。七沢は、びくっと身を竦めて顔を一瞬跳ね上げて、また俯く。瞬間に見えた顔は、赤かった気がした。

 廊下で、多賀谷と鉢合わせる。髪の毛を茶色に染めて、きれいなストレートの髪を背中の半ばでのばしていた。目つきはフェガロペトラより、凶暴な雰囲気。口も悪く、フェガロペトラとは悪友みたいなもので、事あるごとに両雄並び立っていた。

 中学の捨ててしまいたい過去のせいで、多賀谷に恒夜は個人的に睨まれている。「友斬り」とも呼ばれた恥ずかしい過去の出来事が原因だ。

 そんな多賀谷でもさすがに、神妙な顔をしている。それもそうだろう。ライバルみたいに競い合っていた相手がいきなり殺されたのだ。無理もない。昨日だって学校を休んだし。

 だが、多賀谷は恒夜の顔を見た後、一つ鼻を鳴らした。

「ふん。もっと情けない顔をしているかと思ってた。そしたら、あたしの回し蹴りを頭に落としてやろうと思ってたのに。残念」

「あいにく、うちの女性陣は力技だけじゃないんでね」

「ち、七沢か。まあ、いいや。少しはマシな顔で通夜に行きな」

「ああ、おまえもな」

 フェガロペトラに黙祷するところから集会は始まる。その後、事件の解決までなるべく集団で登下校すること、部活は禁止であることが告げられた。

 帰りに、久しぶりに全員がそろう。いつもなら、藍浦と七沢が部活でいないことが多いのだが、部活が禁止なのでそろって帰れることになった。平時集まらない人間たちが集まったなら素直に帰る訳もなく。みんなで、いつものワクドナルドにたむろった。

「はー、落ち着かないな。仕方がないけど」

 恒夜が大げさにため息をついてみせる。

「うん、そうだな。みんな、俺らを腫れ物を触るように扱ってくれるからなぁ」

 藍浦が頷き。

「七沢は大丈夫?」

「うん、大丈夫だと思う」

 高山は、七沢を気遣った。七沢は口では大丈夫と言っているが、結構へたり気味である。特に仲の良かった女子同士だ、恒夜にはわからない悲しみやしがらみがあるのだろう。

 高山は、昔から七沢が好きだった。それは、男子の中では共通の認識である。藍浦は、そういう感情をフェガロペトラや七沢には持っておらず、恒夜はフェガロペトラ一筋であるのもそう。

「決めた。オレ、明日学校休むわ」

「はあ? いきなりなに言いだしてんの?」

 藍浦が怪訝な声で、恒夜の発言を咎める。

「いや、案外ありかもな。どうせ、明後日には通夜だ。こんな状況にいたら気が変になるよ」

 どちらかといえば、真面目な意見を言う高山が賛同した。いつも面白いことをするときは結局高山に頼ることが多い。フェガロペトラや藍浦などは放っておけば勝手にどんどん常識をうち捨てて面白至上主義に走る。それを修正し、実現可能なアイディアにするのは、高山の役割だ。

 そこで、ある程度文句たらたらになるフェガロペトラをなだめるのが、恒夜の仕事。七沢は振り回されるのが仕事のようなものだ。

「七沢はどうする?」

「え? 高山くんたちも休むことにしたの?」

「そうだな。部活のない学校行っても面白くないしなー」

 藍浦は、ドリンクのストローをくわえながら、そんなことを言った。不真面目なことを言うのは、もう藍浦だけだ。

「私は、学校行こうかな」

「なんで?」

 別に深い意図もなく恒夜は聞いた。

「だって誰もいないと、みんな困るかなって……」

「困る?」

「連絡事項やノートとか」

 一同、その健気さに息を飲む。ここまできたら、逆に怖いくらいの献身。

「オーケー。明日も学校には行くよ」

 恒夜がそう訂正した。

「ちぇ、いいアイディアだと思ったのに。言い出しっぺが手の平返したら行かざるを得ないだろう」

 藍浦がぶーたれる。

「高山は?」

 七沢が行くなら聞くまでもないことだが、一応確認しておく。

「行くよ」

 ため息混じりにそう言った。

「あの、そのごめんなさぃ」

「違うって、七沢のせいじゃないから」

「そうだ。元はといえば朝霧が変なことを言い出すからだ」

 高山は、いつものポジションをしっかり確保。恒夜と藍浦は目配せし合って、仕方ないと諦めた。



 次の日、学校に着くなり、多賀谷が目の前に立ちはだかった。用件はなんだろうか。恒夜は心当たりがある。と言うかそれしか思いつかない。

「ちょっと、顔貸しな」

 そういって、学校の裏を首で示す。もう、やる気満々だ。まだ、あいつが死んで二日しか経ってないのに、この様とは。やっぱり、今日は休むが、正解だったんだ。

 フェガロペトラが死んだことでいろんな問題が噴出してくるだろう。これもその一つだ。

 鞄を置く暇もなく、校舎の死角に連れて行かれた。普段なら悪いことをしている連中がたむろっている場所であるが、朝早いせいか誰もいない。

「なんだよ?」

 恒夜が、ぶっきらぼうに用件を質す。

「もうあいつもいないことだし、心おきなく戦ろうぜ」

「やだね。もうオレは、ケンカしないって決めたんだ」

「なに? あいつと約束でもしたの?」

「いや、してない。でも、オレがケンカするとまた仲間に迷惑がかかっちまう」

 残った大事な仲間に。

「じゃあ、いいじゃんかよ。ちょっとぐらいあたしにだって味わわせろよ!」

 多賀谷は、右足を大きく振り上げると、いきなりそれを恒夜の頭上に振り下ろした。短いスカートの中はばっちり丸見えだ。

「ち」

 だけど、鑑賞してたら頭を割られる。恒夜は、左腕で滑らせるように受けて流した。

「パンツ丸見えだぜ?」

「おまえが勝ったら、中身ごと好きにしな!」

 多賀谷は、軽やかに足技をつないでいく。きれいなコンビネーションキックだ。たぶん、なにか格闘技の心得があるんだと思う。それを、紙一重で捌いていく恒夜。結構しんどい。腕にも大きく負担がかかっている。だけど、顔は涼しく余裕を見せていた。

「残念だが、おまえには興味ないんだ」

 わずかに、蹴りの速度が上がった気がした。

「知ってるさ。ロペ公一筋だもんな!」

「じゃあ、もういいだろう? こんなことしたってあいつは生き返らない」

「なんだよ、その口ぶり。あたしは、あたしのためにケンカ売ってるんだ。あいつは関係無い!」

 段々、腕が痺れてきたが、逆に頭はすっきりしてきた。体はついていかないけど、頭は昔の興奮を思い出し始めている。

 呼吸が苦しくなってきた。肩で息をし始める。だけど、防御は甘くならないどころかカウンターを思いとどまったくらいだ。

 やばい。

 昔取った杵柄になりそうだ。

「自分に正直なり、な!」

 ここに来て始めて、多賀谷の蹴りが恒夜の頭を擦って、揺さぶった。慌てて距離を置く恒夜。

「ふう、仕方ないよな」

 きっ、と多賀谷を睨みつける。

「お、おお! ついに見せてくれんのかい、『友斬り』恒夜を」

 少し怯んだ多賀谷だったが、ぶるっと体を震わせた後、突っ込んできた。

「いや、マジで勘弁してください」

 多賀谷の放った足の一撃を、恒夜は深々と頭を下げて躱した。

「な……っ!」

「オレ本当に、戦りたくないんだ」

 多賀谷はその光景を見て、肩を震わせた。腕もぶるぶると震えている。かなりご立腹なのはわかった。

「どうしたら、あたしに『友斬り』を見せてくれるんだよ?」

「もう、友達を斬るような真似はしたくない」

 真摯な目で多賀谷を見る。

「く」

 そう呻いた後、多賀谷は走り去った。

「なんとか、なったかな?」

 危なかった。もう少し続けられていたら、ぷっつんしてたかもしれない。攻撃が最大の防御が持論である。

「それにしても、今日、ノート取れるかな?」

 腕がいい感じに痺れていた。



「朝いないと思ったら、そんなことになってたとはね」

 高山たちには、昼食の時点で話をした。感想がこれ。

「なんだかんだで、もてるよな、朝霧は」

 藍浦は、至極羨ましそうに言う。

「大丈夫だったの? その、腕とか」

「ああ、なんとかぎりぎりで」

 七沢の心遣いが沁みる。

「多賀谷のやつは、結局教室に着てないのか?」

「ああ、着てないみたいだ」

「そうか」

 なにを考えていたんだろう。フェガロペトラがいなくなった瞬間、ケンカを挑んでくるなんて。通夜だって明日に控えているというのに。

 この日も帰りに、ワクドナルドで駄弁って帰るという道筋を辿る。少し遅くなってしまった。殺人事件が起きてから、まだ三日。町内には人気がまるでない。失敗したかなと思ったが、後の祭り。特になにも起きませんようにと願って、帰り道を足早に歩いていく。

 そのときだった。細いプラスチック製の棒で地面を叩く音が聞こえてくる。音は正面から聞こえてきていた。街灯の下に、見るからにオーダーメイドの茶のスーツ。立派な体躯で、華がある高貴な雰囲気の壮年の男が立っていた。ここにいること自体が非常に不釣り合いな存在に思える。

 それよりも、すっと後ろから一人の女性が前に出た方が驚いた。赤い髪をしていて、手には大きな斧が握られている。その剣呑な雰囲気はものすごく心地悪かった。

「マレフィクス殿。ここはお引きくだされ。これ以上は戦争に発展してしまいます」

 位置的には敵対しているように見えるが、女の言葉は慇懃としていた。

「ほう、同胞か。名を聞いても?」

「マレフィクス殿に名乗れるほど勇猛ではありませぬ故、ご容赦を。恥ずかしながら、第六十九代鮮血の戦乙女ブラッドヴァルキリーの称号を得ています」

「ふむふむ。なるほど。我が前に立つは汝らか、ストリゴイカ族よ」

 ストリゴイカ族? なんかの部族なのだろうか。確かに、この鮮血の戦乙女? の容貌は、日本人離れしている。いい意味で外国人だ。

「はい」

 しばし沈黙が両者の間に横たわった。ものすごく緊張感のある空気を感じる。もしかして、ここで戦いでも起こす気なのであろうか。恒夜は、固唾を呑んだ。

「よかろう。今回は汝らの顔を立てて退こう」

 マレフィクスという老紳士は、来た道を同じようにポールで叩きながら帰っていった。

「ふう」

 鮮血の戦乙女は、どっと汗を吹き出し、そのどでかい戦斧をどこかにしまう。

 「おい」と気勢良く声をかけたかったが、なぜかそうできなかった。なにか触れてはいけない存在のような気がしたからだ。

 女は、鋭い視線を恒夜に向けてきた。その目と目が合った瞬間気が遠くなる。

 次に目を覚ましたのは、自分のベッドの上だった。なにかを忘れているような気がしたが、なんだったかはっきりと覚えていない。夢、でもみたのだろうか。

 それよりも、今日はフェガロペトラの通夜だ。気が重い。心のどこかでは、まだ彼女が生きているような気がしているくらいだ。現実を信じられないでいた。

 学校の制服を着て、両親や町内会の人たちと一緒になって通夜に参列した。恒夜以外にも学校の関係者は多く姿を見せていた。隠れた人望というやつだろうか。

「いや、隠れていないか」

 フェガロペトラに関して言えば、好き嫌いがはっきり二分される人物だった。だから、好きだと思った人物たちは、こうして通夜にも足を運ぶのだろう。多賀谷の姿を探したが、結局見つけられなかった。

 通夜の後、フェガロペトラの顔を一目見ようと皆が前に集まる。恒夜とその仲間たちも合流してその列に加わった。

 順番が回ってきたとき、仲間たちは誰も泣かなかった。恒夜は、顔を見たが、どこも汚れていないきれいな顔だ。血飛沫もきれいにしてくれていた。それにしても、まるで生きているようだと生者の多くは死者を見たとき言うが、本当にそうだと思った。

 また、明日の朝になれば明るい笑顔で恒夜たちを楽しませてくれる。そんなふうにさえ感じられた。

 だけど、次の日。骨壺に収められた彼女を見たとき、否応なしに死を認めさせられた。通夜の後、いつもの五人から四人になってしまったけど、いつものメンバーで集まって、「なんかまたロペの悪戯かもな」なんて夢みたいなことを言っていたのが、現実を突きつけられ狼狽している。三つの骨壺を見せられて、皆、唖然呆然としていた。

 悪夢のようだ。ようやく現実に感情や感覚が追いついて、一番最初に思ったことは皮肉にも現実からの逃避。一様に言葉を失い、周りに合わせて祈る言葉も送る言葉も見つけられずに恒夜たちは手を合わせただけだった。

 悲しみや怒りや憎しみといった感情がなにも浮かんでこない。ただ、心が真っ白になって立ち尽くしているだけ。その後のことは良く覚えていないが、どうにか無事に家に帰って来られたらしい。気がつけば、制服のままベッドに横たわっていた。ベージュの上着だけはハンガーに掛けられている。

 まだ、魂は帰ってきている感覚がない。意識がまだ茫然としていて、机の椅子に腰掛けたまでは良かったが、そのまま虚空の一点を見つめている。

「あんな……。あんなことって……」

 自由奔放で自由闊達なフェガロペトラがあんな小さな骨壺に納められるなんて。なんという不幸だろう。死ぬってそういうことなんだろうか。小さな怒りが湧いてきた。彼女をあんな目にあわせた犯人に。

 恒夜は、顔を両の手で覆った。悲しくて悔しくて涙が出そうになったのを押しとどめるために。怒り心頭に発するのを周囲から隠すために。また「友斬り」の顔が浮かんで来ているのをはっきりと自覚する。

 「仕方ない」では、済まされない出来事だ。

 それから、恒夜の深夜徘徊が始まった。フェガロペトラの家を中心に、遅くまで近所を歩き回る。殺人犯と戦って勝てるかなんてわからなかったが、そんな理性的な判断は、どす黒い怒りによって塗りつぶされていた。

 だが、殺人犯になどそう簡単に巡り会えるはずもない。ただ、夜中中散歩しているようなものだった。結果は得られず、怒りと焦りだけが募っていく。

 そんなある日のこと。堤防の上を歩いていたときだった。堤防の上は、街灯もなく闇に覆われている。そのせいもあり、河川敷に設けられた公園の明かりに照らし出される光景がよく見えた。

 赤い髪をした、恐らく女性と男たちが戦っている。女の方は手に大きな戦斧を持っていた。戦斧の先には槍状の突起も付けられていて、かなり凶悪なシルエットをしている。だが、本当に凶悪なのは、そんなことではなく、本当に斬りつけたことだった。

「お、おい。殺傷事件じゃねーのか?」

 誰にでもなく呟いた。普通、刃物で切られた人間は、血を出す。だけど、その男は血をほとんど出さず、塵になっていった。寒風に乗って、なにもなかったように消えていく。

 その存在自体が異様だと思った。仲間の男たちも、仲間の死に様を見て驚いたりたじろいだりしていない。なにかがおかしい。そう思った。

 そして、一番の違和感は、女の後ろ姿が異常なほどフェガロペトラに似ていることだ。背格好もそうだが、彼女の特徴であるくせっ毛もそのまんま移植したようだった。でも、彼女は確かに死んで、骨になったはずだ。それは、自分の目で確かに見ている。

「やれやれ、こうも簡単に状況を作り出せていいんだろうか」

 その呑気とも取れる声は、恒夜の後ろから聞こえてきた。前に意識が集中しすぎて、気配の類は一切感じ取れていなかった。声だけが、後ろから聞こえてきているような感覚。

 恒夜は、一歩思い切って前へ出て、振り返る。

 全身黒尽くめ。コートやスーツは真っ黒。喪服のように光を吸う黒だ。それと、真夜中なのに黒いサングラス。髪も真っ黒な髪をきれいに撫でつけてある。ただ、ネクタイだけは某アメリカのアニメのキャラクタがプリントされているものだった。

「いいだろ? このネクタイ。僕はね、このガチョウがお気に入りなのさ」

 声に険はない。むしろ気弱さを感じるくらいに優しい口調と声音だ。

「だけどさ、あそこって版権うるさすぎだよね? そう思わない?」

「……」

 恒夜は、唖然としてしまった。なにものだろうか。

「そうだよねー。いきなり現れて、ネクタイを褒めて欲しいと思っても無理だよねー」

 なにかとんちんかんなことを言っている。

「でもさ、君の愛しの彼女の家族を殺したのに関わってます、といったら変わる?」

 ざわりとした。心が波打つ。穏やかではいられない。こいつが殺人犯なのか。恒夜は、身体を低くして戦闘態勢を取る。

 先手必勝。素早く踏み込んだ。ケンカ慣れした連中さえのしてきた、恒夜の思いきりのいい踏み込み。そこから放たれる、右ストレート。

 だが、男はその一撃を腕も使わず、体捌きだけで避ける。そこから続けざまに放たれる攻撃も軽やかに躱された。左ストレートを放つが、その手首と肘とに柔らかく手を当てられる。その気があったら、いつでも折れるという意思表示。

 しかし、恒夜は、折れるなら折ってみろと続けざまに拳を振るう。何度も繰り返される関節折りのモーション。歯がみしながら、それを甘受して、ひたすらに攻撃を仕掛ける。掠りもしない。次元そのものが違う。

 最後に、腕をとられて投げられた。投げられて地面に転がったところに、黒衣の男は足を振り上げて頭の横に踏み落とす。その威力は、人の頭を砕くのに充分だ。

 恒夜は完全に諦めて全身脱力をした。これで、フェガロペトラの元にいけるなら悪くない。そう思ったくらいだ。

「なんにでも噛みつく気概は買うけど、見境ないと死ぬよ? まがりなりにも一応人を殺してご飯食べてる身だからね。ちょっとケンカが強いくらいの高校生には負けないよ?」

 サングラス越しなのに、睨まれて恒夜は竦み上がる。こうなったら、「仕方がない」状況だ。是非もなしとはこのことだろう。

「そう堅くならなくて良いよ。殺し屋ってさ、対象の前にのこのこと出ていく職業じゃない訳? 理解してもらえる?」

 つまりは、姿を見せたということは、殺す気はないということか。

「ええ、なんとか。でも、オレを捕まえる気ですよね?」

「うん? まあ、いずれね」

「いずれ?」

「そう。今はおっかない人たちが君を見ているから迂闊に手も出せないんだ」

 大仰に肩を竦めて見せた。まるで、外国人のようなリアクションだ。

「だから、もっと賞金額が跳ね上がってから、いただくとするよ。だから、僕以外の人に捕まっちゃダメだからね」

 雰囲気は完全に向こう側の存在なのに、言葉や口調はまだこちら側のように感じる。なんというか、境界に立っている人といったらいいのだろうか。

「これから、もっと強い人や、やばいモノが君を狙うだろう。せいぜい生き残ってくれることを期待するよ。おっとおっかない人が来た。僕の名前は人飼ひとかい。覚えといてね」

 そういって、黒衣の男は闇に溶けていった。全身からどっと汗が噴き出す。間違いなく、朝霧恒夜は、今一度死んでいた。

「ちょっと、あんた。大丈夫?」

 さっきの物騒な赤髪の女がこちらに駆けよって来ていた。

「あ? ああ、大丈夫だけど……」

 その様を見て、大げさに安堵した表情を見せる。目元には、仮面舞踏会に付けていくような仮面。そのせいで目の表情や、顔がはっきりわからない。

 仮面の影響かはわからないが、目元に意識が集中してしまう。その目を見ようとした瞬間、意識が揺らぐ。でも、軽い目眩のようですぐに収まった。

「あんまり無茶しないことね」

「いきなりなんだよ。あんたは誰なんだ?」

「わたし? わたしは、第七〇代鮮血の戦乙女ブラッドヴァルキリー

「以前どっかで、会ったことないか?」

「なにそれ? ナンパ?」

 鮮血の戦乙女は、軽やかな笑みを浮かべて茶化した。恒夜にとっては、大事な話だった気がする。でも、良く覚えていない。

「いや、違うんだ。あんたは、オレの大事な人に似てる気がするんだ」

「なにそれ、やっぱりナンパじゃない」

 腰に手を当てて、呆れたという仕草をする。

「だから、違うんだって。なんていうか口では上手く言えないんだけど、同じ雰囲気がするんだ。においでもいいかも」

「女の子に向かって、においとか言わない方がいいと思うよ」

 仮面の内側、こめかみの部分に青筋が立っているのがなんとなく想像できる口調。

「ああ、すまん! いや、そういう意味じゃなくて。同類のような気がするんだ」

「同類? どういう感じで?」

「そうだなぁ。喜怒哀楽がはっきりしてて、笑ったら豪快そうとか」

「あっはっはっは!」

 口を大きく開けて、身体中で笑う感じ。

「そう、そんな感じ」

「女の子を褒める言葉じゃないね」

 厳しく突っ込まれる恒夜。でも、恒夜の中では、その言葉が端的にフェガロペトラを表していた。それが、まわりに一番伝えやすいフェガロペトラの魅力だとも思っている。

「褒めてない訳じゃないけど、どっちかというと表現してるだけだからな」

「ふーん。まあ、いいわ。これからはケンカを売るときは相手を見なさい」

「あ、ああ」

「じゃあね」

 そう言って鮮血の戦乙女は、宙に浮いた。恒夜はぎょっとする。

「ああ、後。いくら似てるからって、惚れんなよ?」

 にっと、笑って夜空に吸い込まれていく。見とれるなと言う方が難しい笑顔だと思った。

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