15.

 相葉は、その日の夜にあったいちさん係の会議を欠席する。非番だったが、昨日の晩のこともあり、報告の必要があったので出るように言われていた。それを無視したのだ。多分後日、お咎めがあるだろう。わかっていても、あの中に入っていくのにはまだ勇気が足りなかった。

 太陽はすっかり沈んだというのに、まだ暑い部屋の中でぐったりとベッドに横たわっている。汗が流れた。完全に無気力になっている。

「僕ぁ、最低だな」

 暑さもあるし、起きた時間の遅さというのもあり、まったく寝付けなかった。それに今、まさに会議のまっただ中というのも落ち着きが悪い。

「明日からの仕事どうしよう」

 そうごちて、寝返りを打った。

 最近は問題がいきなり噴出しすぎだ。千香のこと、流羽のこと、いちさん係のこと、吸血鬼のこと、正義と信念の問題。どれも一筋縄では行かない問題であり、対処には時間がいる。だが、相葉は無限に時間を与えられても解決できる自信がなかった。

 そのまま、悶々とした思いを抱えながら深夜までベッドの上を彷徨うように姿勢を変える。

 次に気がついたのは、携帯電話の呼び出し音に因ってだった。

「んぅ?」

 着信番号を見ると知らない番号からの着信だった。

「はい」

『おい、少年! なにを考えている?』

 いきなり怒られた。少年という呼び方からして沙織であることは一瞬でわかった。

「なにをといわれましても、特になにも……」

『じゃあ、考えるんだね。とにかく、時間を確認しなさいな』

 相葉は、寝室にある時計を見た。時間は午前十時過ぎ。完全なる寝坊だ。血の気が引くのがわかった。

『目は覚めた?』

「はい、ばっちり」

『じゃあ、とっとと出てきて始末書を書きな』

「了解です」

 相葉は、携帯電話を切るとすぐにベッドから飛び起きて、すぐにシャワーを浴びに行く。とにかく急いで身体だけ洗うと、洗面所で歯磨き。朝食なんて摂ってるヒマはない。よれたスーツに身を包み、大慌てで部屋から転がるように出て、バス乗り場を目指した。

 だが、無情にもバスは目の前で行ってしまう。次を待っていられない。仕方なく、タクシーを捕まえて、署に向かった。

 なにも考えずに、タクシーに乗りこんだが、ここで一息つくといろんなことが思い起こされる。多分、加賀係長に叱られるだろう。沙織には確実に釘を刺される。流羽にも怒られるか、イヤミをいわれるだろう。

 そうだ、流羽の問題。なにも解決しないまま昨日を終えてしまった。どうやって顔を合わせればいいのだろう。そればかりを考えていたらタクシーは無情にも署に着いた。なにも考えはまとまっていない。だが、今はそれで逡巡しているヒマはない。一分一秒でも早く出勤せねばならないのだ。

 署の前に立ってる守衛に敬礼すると、中に飛び込む。急いで、鑑識係のある三階を目指した。

「おはようございます」

 弱々しい調子で、加賀係長に挨拶する。

「おう、おはよう。始末書は出せよ」

「はい」

 そして、続きの言葉を待っているが、加賀係長は書類を書いていて目を上げない。

「あのー?」

「なんだ?」

「それだけですか?」

「それだけとは?」

「いえ。なんでも」

 短いお叱りで済んだのだから良しとしよう。問題は、繰り返さないことだ。振り返って、鑑識係の部屋の中に沙織を見つけた。

「早乙女さん。ありがとうございました、起こしていただいて」

「ホントさね。だけど、ミネルバちゃんの言ってることが本当になるとは。情けない」

「え、峰さんがなにを?」

「今日、少年が仕事を休むかもしれないから、出勤させろとね」

 余計なことを。と思いつつも顔は笑顔で。

「当の本人からは、連絡ないんですけど、早乙女さん、なにか心当たりありませんか?」

「ないさね。直接聞いてみたら?」

 そう言われて、鑑識係の隅っこに設置された特別ブースの中を見てみるが流羽はいない。

「あの、いないようなんですが、臨場ですか?」

「いんや。今日は朝からいない」

 じゃあ、どうやって聞けってんですかと思ったが。飲み込む。

「そうですか、ありがとうございました」

 相葉は、ブースに入り中で一人席に着いた。コーヒーメーカーが動いた形跡もない。流羽の机も人がいたという感じではない。

「流羽のやつ、人には出てこいと言っておきながら自分は欠勤かよ」

 小さく呟いた。

 でも、ありがたい。そう思っている自分もいた。昨日の別れ方の後、なにも解決していないというのにどういう顔で向き合えばいいかわからない。今日だって、沙織の呼び出しがなければ休んでいたに違いない。

 だけど、なにか動きがあるものと読んでいた相葉の推測は外れ、ただ始末書を書きに来たも同然で一日の労働を終えた。

 夜の会議には今日こそ出なくてはまずいだろう。考えてみれば相手は超法規的団体だ。下手に休んだりしては、なにをされるかもわからない。そう考えると、昨日の欠席はまさに命を捨てる行為に等しかったかもしれない。

 五時になっても流羽は現れずじまいだった。相葉は、どうして良いかわからないし、署内で八時まで時間を潰すのも憚られたので帰宅することを選ぶ。

 署の外に出ると、さすがに日は傾き夕方に突入していた。それでも、暑いことには変わりない。ハンカチで額を拭うと、マンションに向かって足早に歩き出した。

 マンションまではバスに乗って二十分ちょっと。三日月署より美作市の中心に近い。最寄りの停留所で降りた後、いつもの道をいつもの通り歩く。

 斜陽に炙り出されたマンションは、普段より幻想的に見えた。頼もしく、がっちりとしたマンションは今日に限って存在があやふやになっているような気がする。そのせいで一瞬足が止まった。嫌な予感がする。

 部屋に帰って、まずは窓を開けた。昼間に溜まった熱気を開放してやる。次に、冷蔵庫に入ってる野菜の残りで野菜炒めを作った。ご飯は炊いてる時間がないので、レンジで温めたらすぐ食べられるやつを用意。一応、茶碗を使う。一人暮らしの食事にしては立派だと思っている。でも、千香が作ってくれた彼女と一緒の食事に比べれば貧相きわまりない。

「いただきます」

 そう手を合わせて、濃いめに調理した野菜炒めをおかずに白米を口に運ぼうとするが、暑い。気温が高い中で炒め物を作っただけで、へたってしまった。食欲が暑さに溶けている。

 これからあの会議に行かなきゃかならない。流羽のこともある。気が重い。食欲が湧かない理由には困らない。

 ふと無理矢理に食事をねじ込むのをやめて、時計を見た。時間は七時を回り、太陽も最後の明かりを雲に映すのみとなっている。夏至をとうに回り、後はひたすらに陽は短くなっていくだけなのに、未だその勢いは衰えない。

 だが、美作市は年の半分が雪と共に在った街である。今では、降雪の時期は減ってきているがそれでも夏は涼しい方だと思う。ニュースを見ていてときどき関東より暑くなっていたりしてうんざりすることもなくはないが。徐々にその回数は増えてきているような気もする。

 相葉は、部屋のカーテンを閉め、電灯のスイッチを押した。無機質な人工灯がぼんやりと白い食卓を浮かび上がらせる。そこに付随される感情は寂寥感。それに乗っている食事は、あまりに悲しいものに見えた。

 そんな心の間隙を埋めるように、もしくはすり抜けるように、携帯電話が鳴り始める。サブディスプレイに表示された名前は「流羽」。相葉は、一瞬戸惑ったが、相手を求める欲求に勝てず電話に出る。

「もしもし」

「相葉か」

 ずいぶん弱々しい声で、呟くように呼ばれた。まるで、そう言うのがやっとのような口振り。

「どうしたのさ?」

「頼みがある。うちへ寄ってくれないか」

 若干、逡巡して。

「いいよ。今からで良い?」

「ああ。待ってる」

 ずいぶんと疲れたような声だ。なにがあったのだろうか。心配になる。相葉は、食べかけの野菜炒めにラップをかけて、部屋を後にした。

 相葉はマンションを出ると、タクシーを捕まえる。いつものコースだ。でも、ここ何日かはなかったコース。やけに長い間しなかったことのように思える。

 不思議とタクシーの中では考え事をしなかった。余計な不安も恐怖も増やさずに済んだ。ただ、前を見つめて流羽のマンションに着くのを眺めていた。

 マンションの前で、鍵を取り出し、しかしポケットにしまう。これは公務なのかはっきりわからない。なにか私用のような気もするし、でも公用の気もしなくもない。まあ、来いと呼ばれたのだから、普通に客として入ることにした。

 チャイムを押す。だけども、反応がない。不審に思った相葉は、結局鍵を使うことにする。いつもの手順を踏んで部屋へ。

 部屋の中は静かで、生き物の気配というものがまるでない。なにかあったのかと、乱暴に靴を脱いで中へと押し入る。部屋には前と同じ厳重なカーテン。もう沈みきったので部屋の中は真っ暗だ。辛うじて電灯のスイッチが自分で光を発するタイプのものだったので、明かりをつけることには成功する。

 それに反応したのか、リヴィングの隣の和室におかれた棺おけが音を立てた。

「相葉か?」

 棺おけから聞こえるくぐもった声に応える。

「そうだよ」

 相葉は、取りあえず、安堵した。

 流羽は、ゆっくりと、周りを確認するように棺おけの中から出てくる。

「どうしたのさ。なにに怯えてるの?」

「いや、陽が完全に沈んだかなと思ってな」

「大丈夫だよ。どこに出しても恥ずかしくない夜だよ」

「そうか」

 その言葉に安心したのか、失われ気味だった流羽の態度に自信が戻った。

「どうしたのさ、改まっちゃって」

「おまえに、頼みたいことがある。他には頼めないことだ」

 なにか、こう黙示録級の発言が飛び出しそうだと思ったが、取りあえず続きを促す。

「なに? 出来ることなら」

「あたしと街を、守ってくれ」

「え?」

 相葉は戸惑った。守らなくても流羽の方がなににおいても強いだろう。わざわざ役立たずが前に立つ必要はない。

「だから、あたしを守って欲しい。後、この街を守って欲しい」

「ご、ごめん。日本語はわかるんだけど、意味が通じないっていうか」

「あたしがこないだ、やつの血を口にしたのを覚えているか」

「うん……」

「あたしは、そのおかげであいつの居場所や行動がなんとなく読める状態にある」

「え、じゃあ、事件は解決じゃないの?」

「だけど、あたしは吸血鬼としてかなり弱点が多い状態になっている。陽の光も、流水も、なにもかもが弱点になっている」

「普段は大丈夫なのに、なんで?」

「それが、あたしの能力追跡捕縛ハウンテッドハンターの能力だ」

 流羽が、弱点を告げた。そして、自分を頼ってきてくれている。正直嬉しかった。

「だけど、今のあたしには戦う力がない。だから、次の満月まであたしを守ってくれ」

「いや、ちょっと待ってよ。そんなことしなくても居場所をいちさん係に言って捕まえれば良いんじゃないの?」

「いちさん係は、あいつを生かすつもりだ。あたしは、殺さねばならない」

「どうして? 流羽は吸血鬼だよね? なんで、あいつとの戦いにこだわってるの。なんか警察官としての領分を超えている気がする」

「この能力を解除する要件が、もう一度相手の血を飲むことなんだ」

「……」

 息を呑む相葉。どうしたらいいかわからない。ただ、流羽にとってあいつの血は必要不可欠なものになってしまったらしい。

 そういうわけで、流羽はいちさん係の方針には反対なのが再確認できた。

「今日の会議はどうするの?」

「もちろん行く」

「どうしても、本部には逆らうの?」

「ああ、逆らう」

 流羽の目を真っ直ぐ見つめるが、まったく揺らぎがない。相葉は、小さく嘆息した。

「しょうがないな、まったく。いいよ、君の護衛は任されよう。でも、街を守るって?」

「あいつの場所を教えるから、被害者が出る前に撃ち殺してくれ」

「それは、なんというか無茶だよ」

 超越種相手に相葉一人で敵うわけない。

「もちろん、あたしも一緒に回る。牽制でも良い。とにかく、あいつが殺人を起こすのを止めてくれ、頼む」

 流羽が頭を下げる。

「う。保証は出来ないけど、やれるだけやってみるよ」

 相葉は渋々頷いてしまった。

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